朱の鬼神 1.白神九十九 その1 十夜さん |
青く澄み渡る空。 どこまでも抜けて行けるようにさえ思えてくるほどの青い空が、視界一杯に広がっている。 そんな、残暑の残り香が漂う夏の瞬き。 「ごろごろごろ……」 「………」 「ごろごろ…」 「ごろごろ…ごろごろ」 「……というわけで、キミ達。お兄さんとしては汗ばむほどに暑いんだけどな〜」 天を仰いでいた視線を下へと、頭を起こす事で向ける。 そこには二十匹を超える数の猫達が自分の上で寝転がっていた。 ―――それはほんの少し前の話。 「よいしょっと。……はぁ、これでようやく半分か」 部屋にほとんど無造作に置かれている、大小合わせて五つのダンボール箱。 その一つ一つに『洋服』や『仕事道具』等のラベルが貼ってある。 もう既に三つの封は切っていて、中身の片付けは済んでいた。 「昼前に着いてからずっと働き詰めだと、さすがに疲れる」 ここ、海鳴に越してきたのが今日の昼前。 昨日、仕事の都合で慌ただしくもその日の内に荷物を纏めるとすぐに飛行機に乗り込み、着いたのが二十一時ごろ。 上司の計らいで用意されたホテルで一泊したのち、夜が明けてから入居の手続きを済ませてこの部屋に来たわけだが、どういった手続きをしたのか教員として の勤務が明日と迫っていたため、休む間もなく荷物整理に追われた。 あまりに慌しい展開に愚痴の一つも出るところだが、立地条件は自分の好みにあっているし、潮風が時折カーテンを揺らし、部屋中に海の香りを運んでくれて いたりと、あながち悪いことばかりでもなかったりする。 「ふぅ…。海が近いのはせめてもの慰めか。……そういえばあの近くに臨海公園があるんだっけ」 少し手を休め、それを体中に感じるようにして大きく深呼吸しながら体を伸ばす。 そしてなんとなく時計を見れば、すでに二時を回っていた。 ああ、もうお昼時も過ぎたのか。 そうなるとお腹が鳴ってしまうのはお約束というもの。 「どこかにコンビニはあるだろうし、ちょっと行ってみようかな」 残りはその後。と楽観的な結論を下して、早速身支度を整えると散歩に出る事にした。 海に面したこの公園、お昼時もあってか結構人通りが多い。 だが不思議と喧騒といったものは無く、潮騒(しおさい)に耳を傾けるにはよい場所だった。 「涼しい潮の香り……やっぱいいねぇ、海は」 部屋でもそうしたように、肺いっぱいに息を吸い込む。 それがどうしたと聞かれてしまえばそれまでなんだけど、やっぱり人間、海を見るとこういう事をしてみたくなるものなのだ。 「ただまあ、慣れない土地とはいえ、コンビニすら見つけられないとはねぇ」 歩く道の先に見える海に向かって真っ直ぐ来てみたが、どことなくついていないのか、途中でコンビニの看板を目にすることがなかった。 「ま、次は公園で屋台探しと行こうか」 さすがに今度は一つくらい見つかるだろうと動いてみれば、ほどなくしてそれは見つかった。 レッドスペイン……いや、つづりが違うな。『レッドスパイン』か。 「いらっしゃいませー。海鳴名物の『レッドスパイン』のホットドックはいかがですかー♪」 「アメリカンサンドイッチもありまーすっ♪」 んー。どっちも美味しそうだな。 そうだな、両方頂くとするか。 「すいません、ホットドックとサンドイッチ、一つずつ頂けますか?」 「はい。ありがとうございます!!」 「バイトの方ですが?暑い中ご苦労様です」 「いえ、だいぶ慣れていますから」 「でも御剣先輩ってば、結構無茶を平気でやっていそうで、後輩としてはとても心配ですよ」 「その先輩としてはバイトに励むあまり、彼氏が愛想尽かさないかどうか心配だが」 「か、彼氏って!! 私と大輔先輩は別にそういう仲じゃあ……」 などと言いつつも、ホットプレートで調理を続けるその顔は傍目から見ても十分に赤い。 「照れるな。照れぬな。あたしらの中じゃあ全員公認なんだしさ」 「え〜っと…… そのぉ〜〜 そうそう、あまりお客さんを前におしゃべりしたら駄目じゃないですか」 「話を振ったのは井上が先だろ」 「あうぅぅ〜〜」 ―――なんともまあ、微笑ましい限りで。 そのまま放置していては可哀相なので、話題を戻しておこう。 というか、そろそろ焼いている奴が焦げだしてきてるし。 「でもまあ、お二人とも体を壊さないように気をつけてくださいね」 「十分気をつけます」 「はい。ホットドックとアメリカンサンドイッチ、お待たせしましたぁ」 「ではお代をっと」 品物を受け取ると、財布を取り出して小銭数枚を手渡す。 「ちょうどですね。ありがとうございましたー」 「また来てくださいねー」 そんな呼び声に手を振りながらその場を後にした。 「―――にゃーん」 「ん、欲しいの?」 どこで食べようかと歩いていると、袋から伝う匂いに釣られてやってきたのか、一匹の虎柄の猫がとてとてとやってくる。 しゃがんで頭を撫でてみると、猫はゴロゴロと喉を鳴らして気持ちよさそうに身をよじらせる。 首輪もあるし、だいぶ人に慣れている様子だから、どこかの飼い猫だろうか。 「にゃぁ〜」 「そっか。でもここじゃなんだし、芝生に移動しような」 猫が後ろについてくるのを確認しながら手近な場所へ移動すると、そこに腰をおろす。 「ちょっと待ってて。すぐ用意するから」 「にゃ」 餌をねだりに来た――おそらくは散歩でもしていた風の小猫は、そう言われると座っておとなしく待ってくれている。 ただ、せわしなく尻尾が右へ左へと動いているのはご愛嬌といったところか。 「本当、猫って可愛いなぁ〜」 本当なら抱きしめの一つでもしたいけど、人目があるから自重しておかないと。 そんな事を思いつつ、さっき買ったアメリカンサンドイッチを取り出す。 ホットドックの方はマスタードとかで辛味が利いてそうなので、これは除外視だ。 そしてポケットに入れていたナイフを手にすると、サンドイッチの中身の肉とかを食べやすいように小さく切り分けた。 「―――あ」 やってから、一つ後悔した。 猫は光るものや水が嫌いと聞いたことがあったので、これを見て逃げ出したりしていないかと。 だが幸と言うか何と言うか、猫には餌以外には目に付いていなかった様子で、ただひたすら期待の眼差しを向けてくれている。 「熱いから気をつけるんだよ」 「にゃー」 左手に乗せたサンドイッチの中身を差し出すと、猫は返事代わりの一鳴きをして食べ始める。 折り畳み式のナイフを片手で器用に刃をしまうとポケットに収め、自分もその状態のまま残ったパンの部分を口に運んだ。 「にゃー」 「はいはい、っと」 よほどお腹でも空いていたのか、こっちが数口も食べない内に早くも猫は食べ終え、次の催促をされてしてくる。 できればのんびりと食べていたいのだが、したがなくまたナイフで三個組だったサンドイッチの二つ目の中身をサクサクと切り分けて差し出すことにした。 ―――まあ、いいか。餌をあげる以上はちゃんと面倒見てあげないとな。 「にゃー、にゃー」 「にゃー」 う、どこからともなく二匹目、三匹目。 だがここで引っ込めては餌を巡って喧嘩をしないとも限らない。 「しょうがないなぁ」 諦め半分。嬉しさ半分といった具合でさらにもう一個同じように切り分けて差し出す。 職場の人たちから人並み以上だとよく言われ、自分でもそれは自覚しているほどに動物は好きだったりする。 だからこれも役得。と最初に朝を与えた虎柄の一匹を、あぐらを掻いている足の上に乗せて食事を再開。 「にゃー」 「にゃー」 「にゃー、にゃー」 ―――しかしそう楽しい事は続く事も無く、なんの前振りも無くわらわらと茂みの中から猫の大群。 結果は……言うまでも無いか。 ともかくもおかげでサンドイッチは一つも食べることができず、それどころか泣く泣くホットドックのソーセージを、ソースとかをパンで拭き取ってから差し 出す羽目になって腹をロクに満たせることなく食事は終了。 見渡せば、猫も今はざっと20匹を数えている。 しかし買っていたのはサンドイッチ三個組とホットドック一つだけ。 だから物欲しそうな目で見つめられていてもすでに袋の中は空っぽだったりする。 「……ごめん、もう空なんだ」 『にゃー、にゃー!!』 うう、二十有る抗議の声が耳を突いてきて辛い。 こういう時ばかりは、自分の動物好きを呪いたくなった。 『にゃー!!』 「うわぁっ!!」 ドサッ!! あたかも津波のように大量の猫に飛びかかれるとそのまま押し倒され、芝生の上に仰向けに寝かされた。 その上に猫が次々と乗りかかるので、これではまるで重石のようで身動きが取れなくなる。 いや、重さ云々よりもまず、これを押しのけて立ち上がるなんて酷い事が出切る筈がなかった。 ―――はい、回想終了っと。 暦の上では夏が過ぎたとはいえ、まだ暑さを残す中でこんな毛皮布団まがいのものを被っていると、正直ものの数分で汗を掻き始めてくる。 どいてくれるように頼んでは全員がハモって断りの一鳴きあげ、その後も時間を置きながら頼むことの繰り返し。 今も数度目の試みをしてみたものの、ここが自分の居場所と言いたげに喉を鳴らしては体を摺り付け、どうしても皆聞き入れてはくれない様子だから困った。 「―――はぁ」 目を閉じ、軽く溜息をついた。 『ちょっとした』一休みのはずが、二休みにも三つ休みにもなってしまうなんて… ああ。しかも現在進行形で猫と共に休ませられる時間は増えて行く。 「―――」 「………」 のんびりとしてはいてもそれはそれ。 聴覚が近づいてくるかすかな足音を捉え、人が近づいてくる気配を察した。 そこから敵意というものを感じないが、息を潜めて静かに近づいてくる辺り、何か意図があっての事のようだ。 しばらくは寝たふりをして、警戒をされないように様子を見てみよう。 ―――気取られぬよう、静かにポケットにしまったナイフへと手を触れて。 「はぁ〜 やっぱりや」 その言葉にてっきり相手は知り合いだったかとも思ったが、こっちにいたのはほんの僅かなんだし、それにこの声には聞き覚えがない。 声の主も、完全にこちらが眠っていると思ったか、別に起こそうとするわけでもなく、ただ気配だけはそこに留まったままだった。 「―――こ」 「………?」 「にゃんこ……」 ―――にゃん、こ? 「にゃんこ、ベッドやぁ〜」 ニュアンスに引っかかるものがあったけど、どうやら視線はこの動く毛皮布団に向けられているように思えた。 どうも一般市民が興味本位で近づいてきただけのようだが…… 「はぁ〜…ええなぁ、にゃんこベッド。誰もがでけへんやったあの伝説の生きたにゃんこベッド……お目にかかれるなんて、ウチは幸せもんや」 いや、だからなんですか。その『にゃんこベッド』の伝説って。 そうツッコミを入れてみたい衝動に駆り立てられたが、さすがに初対面の人相手にそれをするのは気が引ける。 何はともあれ、寝たふりを止めて声をかけてみるとしよう。 目的だの相手だのが何であれ、もしかすればこちらにとって救いの主になるかもしれない。 「あ―――」 あの。と声をかけ掛けてそのまま息を飲んでしまった。 今、すぐ横にしゃがみこんで猫を撫でている人はすごく美人で…… 「はぁあ〜……♪」 掛け布団と化している猫達の中の一匹を撫でながら、見事なくらいに別の世界に飛んでいた。 それこそ、声をかけるのを躊躇わせるほどに。 「にゃんこ、にゃんこ〜♪」 歳としては二十歳くらいだろうか。 その半ばから軽くウェーブのかかった長い髪をした女性を前に、正直どうしていいものか困ってしまう。 なのにその昂然とした表情を見ているとなんとなく気持ちが和み、見ていて飽きないものがあった。 「にゃー」 「おお、小虎。ここにおったんかー」 「にゃぁ」 と、最初に餌をねだってきたあの小猫はそう一鳴きをして答える。 飼い主、なんだろうか? 「そっかそっか。お友達とお昼寝のまっ最中やったんかー」 「にゃ、ぁ〜」 彼女が触っている猫とは別の、ちょうど腰辺りで寝ていた猫は傍で立てられる声に目を覚ましたのか、うつらうつらと――― 「っと、危なっ!!」 ぽすっ。 「にゃ」 「ふー、危ないだろ」 危うく転げ落ちかけたその猫を再び同じ場所に戻す。 怒るというよりは窘める口調だったと自覚しつつも、軽くポンポンとその背中を二度叩く。 別に落ちたところで怪我をするほどの高さであるはずが無いのだが、呆けていたからつい手が出てしまった。 と、視線を感じてそちらへと顔を向けてみれば――― 「あ〜 え〜っと……」 「えっと……その…」 …………き、気まずい。 狸寝入りしていた事を知られ、それを謝ろうにもきっかけが掴めない。 そして彼女のほうも時間が過ぎるに連れて恥ずかしがるというか、なんとも言えぬ複雑なものへと彼女の表情は変わってゆく。 「……ずっと、見てたん?」 「ごめんなさい。なんとなく寝たフリでやり過ごそうと思っていたんですが……つい」 「そ、そうなんか……」 動ける状態じゃなかった。とか言っても言い訳にしかならないんだろうなぁ… それはさておき、彼女はそう気分を害した風でもなく、照れつつも話し掛けてくる。 「か、堪忍な。ウチ、にゃんこのことが絡むと、ど〜もそっちに気を取られてしまうみたいなんよ。それにお兄さんも寝取るようやったから、本当にこっそり見 るだけのつもりやったんやで」 「いえ、それは別にかまいませんけど……」 「ん? どうかしたん?」 少し言いよどむと、首を傾げられて訊ねてくる。 したがない。たった今会ったばかりの人にこういう頼み事は申し訳ないけど、状況的に言って背に腹は変えられないか。 「何か、食べ物とか持っていませんか? この子達、餌をくれないとどいてくれないって言うものですから」 「あー、ごめんな。ウチ今持ってないんよ」 それはちょっと難儀。 ―――まあ、それならそれで別の手を講じよう。 「でしたら後でお代を渡しますので、ちょっとお肉系の物を買ってきてもらえませんか?」 「そんなんええよ。それくらいなら、ウチがお腹ちょこちょこ〜っと切って何とかするさかい」 「猫の?」 「そうそう。ハサミで切ってな、中に石を……って、ちゃうわ!! ウチの懐にきまっとる!!」 ビシッ!! ツッコミチョップが綺麗に額へと振り下ろされた。 だがこちらが眼鏡を掛けていることを配慮してか、それを避けるようにして打ち込んでくれたのが察せられて、動けない状況にあってもさほど怒る気が湧いて こない。 「さすが、伊達に関西弁を駆使しているわけではありませんね」 「おう!! 生まれも育ちも大阪なんよ」 「そして、今は漫才師?」 関西と漫才師を直結しては地元の人達に怒られそうな気がするけど、このノリと出身でだと納得できてしまう。 その安直な連鎖的発想に彼女も異を唱えるわけでもなく、ちょっと悩むような仕草をしてみせた。 「うーん…さすがにそれは捨てがたったんやけどな〜 でもウチ、こう見えても音大に通ってるんよ」 「なるほど、どうりで」 「……?」 「活舌がいいし、なにより声が透き通っていて、ソプラノ家としての才能が有るように思えていたものでして」 その言葉に照れる様子を見せつつ、女性はそさくさと立ち上がる。 「そんな恥ずかしいこと言うて、ウチ、ちょっと行ってくるな」 「はい、待ってます」 「―――っ!!」 再び固まるものの、すぐに我に返ったかのように猛ダッシュで走り去っていった。 素直な感想を言っただけなんだけど、なんだかとてつもなく恥ずかしがれてしまったなぁ。 「しかし……賑やかな人だなぁ。お前のご主人様も」 胸元で体を摺り付けつづける小猫―――確か小虎だったか―――にそうぼやき、再び空を見上げる。 そこにはただただ、青く澄み渡った世界が広がっていた。 その2へ |
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あとがき HGSの二人が物語の中心になるはずが、ここではゆうひと猫程度で終わってたり(爆) でもゆうひに関しては2において、私的には薫と同率一位なくらいに好きなキャラですから、密かに満足していたりしています。 基本的にロング系が好きなんですが、そこに帽子が付いていればなおよしの帽子っ娘萌えで、剣客少女萌えでもある んです(笑) だからどこかで薫メインの話を描くつもりですが、でもキャラ的に雪は出せそうにないかも……(泣) プロローグ 一話その2 目次 |