朱の鬼神
0.プロローグ 十夜さん


「海鳴…ですか?」

 約半年ぶりに聞くその名に、少し口元が締まる。
 ほんの二、三日程度の間だったとはいえ、あまりいい思い出のある土地ではない。
 できれば他の者を任に就かせたかったんだが。と副長もその辺の事情を踏まえた上で話を続ける。

「どうもそこに住んでいるHGS患者。その中でも高機能性タイプである人物二名を狙う動きがあるらしい―――その動きの中に、同じく能力者の影も見受けら れている」
「HGSですか?」
「報告によれば一番の特徴であるピアスはあった」

 だが、まだ特定には至ってないと断りを入れ、副長は続ける。

「他ならともかく、HGS相手の白兵戦となると身体能力がよほどの人外の域にあるか、同じく異能の才がある者ぐらいしかいないのは確かだ」

 確かにどんなに強力な火器でも、引き金を引かずしてサイコキネシスの前に容易く屈することだってある。
 それを思えば、そういった火器に頼らざるを得ない一般隊員をあてがうのは無謀だと言える。

「正直、能力者相手だとお前以外には、な」
「確かにその状況ならば私が適任ですね。……了解しました」
「そう言ってもらえるとこちらとしても助かる。なら、知りたい事があるならば、こちらでわかっている情報は全て提示しよう。何か質問は?」

 ほう。とその言葉に心の中で唸った。
 軍隊というものに限らず、組織化された物の中では下の者が全ての情報を知りえることはない。
 いくらここが多国籍軍なところがあろうとも、その多くがオープンな付き合いをしていようとも、完全な無法地帯足り得ないのだから。

「それなら聞きますが、なぜその連中の目的地が日本なんです?確かに大勢いるわけではないにせよ、他にもHGS患者は世界中に存在するでしょうに…」

 この地―――香港から海を挟んだ先にある島国。日本へと渡る手段は船か飛行機かに限られている。
 港か空港か。いずれにしても上陸するには日本の施設と税関はそう無視できない。
 だから一度窓口を見張ってしまえば、連中もある程度身動きが取りづらくなってしまうのは確実。
 しかもまがりなりにも治安国家である地で大規模な行動など、そうそう行えるはずがない。
 もちろん、少しでも容易に捕まえる事が出来ればそれに越した事は無いが。

「先日の脱獄の件は知っているだろ?その辺が一枚を噛んでいる」
「なるほど、あの一件の延長線ですか。―――ということは」
「ああ。今回のも『龍』絡みだと見ていい。手引きした連中の特徴に関する証言で、刑務所の所員の一人が龍の刺青を確認したそうだ」
「『龍』……懲りない連中だな」
「しかも脱獄の報告がこっちに回ってきたのはその日から数ヶ月も経ったつい最近になってからだ。……まったく、自分のところの不祥事を隠していたせいで、 こっちはこうも出足に遅れをとる羽目になってしまった」

 書類の一つをこちら側に放ると、はぁ。と天井を仰いで大きく溜息をつく副長。
 その中で手にした書類にざっと眼を通させてもらう。
 だが全てが悪い方向に進んだわけではない。
 少なくともHGSがらみなだけに報道管制―――むしろ事実の隠蔽と黙認で一般に知らせていなかったのは幸いだった。
 テレビで報じられていない分、今回標的にされている人物とその周辺もまた、その事は知らされていないはず。
 書類を読む限り、まだ事態は表面化していない。

「劉と佐波田……HGSを己の手で作ることを、まだ諦めないのか」

 何枚目かのページをめくって姿を見せた二人の脱獄犯のプロフィールを見た途端、自然と書類を掴む手に力を込められていた。

「知らせを聞いてすぐに調査させたものの、結局は脱走の日から今日までの数ヶ月。潜伏している間に一体何をしていたかはまるで分からずじまいだ」
「ですが『龍』が日本の海鳴へと出向くのは確か。と」
「そうだ。半年もの間潜伏させていたことに理由があるとすれば確実に言える。目的に間違いがなければLC事件の再発だ」
「しかも今度は、より完璧に近い人工HGSを送り込むでしょうね」
「それ以外であの二人を脱獄の手引きをしたとは思えないからな。十中八九でそう考えていい」
「それで副長。具体的にはどう動けと?」
「……なあ、日本での教員免許は今でも有効か?」

 書類の文面から正面へと視線を移すと、真剣な―――表情を装いつつ、口元が確かなほどに釣り上げてこちらを見る上司が約一名。
 意図の読めない質問に対してすぐには答えず、再びその書類に目を落とし、記載されている二人のプロフィールにある通学している学校名欄を数度読み返す。

「教員免許が有効か否かということは……つまり。そういうことですか?」

 何をさせたいのか。
 そしてどこに行かせたいのかが悲しくも理解できてしまった。

「影のように張り付くとしても、よほどの偶然を装って近づこうものなら、怪しまれてすぐに頭の中を読み取られかねない。特にそのHGSの片方はその傾向が 特に強い」
「だから割と警戒心の弱いと思われるもう一人に仕事を利用して近づけ。と?」
「嫌そうな顔をするな。別にただの嫌がらせとかで言っているわけじゃないんだ」
「―――の割には、実に楽しそうな表情ですね」
「まあ待て。本当に冗談や酔狂でそんなことをするわけがないだろ?」
「ええ、分かってますよ。前に英国の女学校で生徒に振り回されていた話をした時、嬉々として聞いてましたものね」

 部下と上司の立場を無視した睨み付けを止め、手にしていた書類を再びデスクの上へと戻した。
 ―――教師を装い、そこの生徒である人物を護衛せよ。
 今回の任務を要約すれば、とどのつまりそういうことである。

「接触方法についても了解です。……はぁ、これもお仕事お仕事」
「立場というものを無視してそういう風な事を平然と、しかも上司の前で口に出来るのはお前くらいなものだよ」
「誰かに会って警防隊に入って以来。気苦労が絶えなくって」

 あからさまな態度に呆れてか、副長は頭を振って溜息をつく。
 この人とももう数年の付き合いになるが、こんなやり取りは毎度の事。
 それなら険悪な仲にもなりそうなものなのに、実際には友人。いやむしろ悪友と言った方が適切という関係が今でも続いている。

「……今度のも単独行動に近い形だから、状況によってどう動いてもらっても構わない」
「とかく、一般人の護衛は気を使ってしょうがないですね」
「だが私にとって見ず知らずの相手ではなくてな。放っておくわけにもいかない」
「了解です。それじゃ早速行ってきます」

 二人のプロフィールはさっきので全て頭の中に入れた。
 瞬間記憶力というやつがある為、たとえ膨大な資料でも忘れずに記憶に留めておく事ができるので、一度読んでしまえば事は足りる。
 だからその書類を二度も手に取ることもなく部屋を出ようと踵(きびす)を返した。

「ああ待て。任務の期間がどの程度になるか分からないとしても、荷物は最低限必要な物に留めておいてくれ。用意が出来次第すぐにうちの者を使って運ばせ る。それともう一つ言っておく―――足は飛行機で、だからな」
「一体何の忠告だかさっぱりですね」

 考えを見透かされた事をおくびにも出さず、ドアノブを握ったまま微笑を絶やすことなく振り返ってそう答える。

「どうせ『飛んで』行くつもりだったんだろ?」
「まさか。治安のいい日本に不法入国なんて事はしませんよ」
「…まあいいさ。荷物を纏め次第、日本行きのチケットを持って飛行機に乗ってくれ。今からならば夜の内に着けるだろうが、こちらもむこうでの住まいの手続 きといった用意もある。一晩はそのままホテルに泊まってもらい、表向きの仕事は明後日から始められるよう手筈を整えておく」
「急な呼び出しで何かと思えばそれですか…。引っ越すだけでも疲れるのに、人使いの荒い職場ですね」

 言葉だけの嫌味を言い、部屋を出た。
 そしてその一歩を踏み出して部屋を出てしまえば、そこら中で色んな言語が飛び交う職場。
 その数だけ人種があり、国籍がある。
 心の中で応援の声を上げておくと、今度の任務の情報収集にやっきになっている空気を抜け、そこに比べたらいくらかマシな環境な廊下へと抜け出た。

「あ、紅(こう)♪」
「アーフィー…」

 自分をその名で呼ぶ数少ない人間の声に振り返れば、もう半月ぶりに見る顔。
 ほとんどため息に近い言葉を漏らし、やや呆れ気味に嗜める。

「―――その名は止めなさいって、いつも言っているでしょう?」
「だって、発音しやすいんだもん♪」

 黒に少し青みがかった色合いを持つポニーテールを揺らし、アーフィーは反省の色全く無しに子供のように抱きついてくる。
 本名『アルフィス=エルブラン』
 実際まだ十七なのでまだ子供の部類に入れようもあるが、中身と違って西洋生まれの体が作るプロポーションはかなりみごと『らしい』。
 疑問的になるのはこういうあどけなさ過ぎるのと、こいつが本当に小さかった頃から連れ添ってきたという慣れがあった。
 ちなみに紅というのは、コードネームである『クリムゾン』をもじって、特に関係の深い人からはそう呼ばれている。
 コードネームならまだしも、勝手に呼び方を増やされるのは好きではないので、常時、呼び名訂正を申請中である。
 どうしても、ってわけじゃないから、ほとんど聞き入れてもらえないけど。

「分かった、分かったから降りなさい」
「え〜、せっかく半月ぶりに会えたのに〜」

 ぷうっ。と頬を膨らませるのはまぎれもなく小学生レベル。
 これが仕事となれば、副長とやりあったとしても五分以上の戦いができるだけの戦闘力があるなど、それを目の当たりにした者以外に誰が予想できようか。
 こんな、掘削機を与えようものなら遊びに興じてここを勢いのままに破壊しかねない奴が。
 ―――とはいえ、自分の教育が至らなかったのだからどうしようもない。

「紅。ひと段落ついたら遊んでくれるって言ったのにぃ〜!」
「ごめん、これから仕事だから。しかも行き先は日本」
「じゃあしばらく帰って…こないの?」

 急に泣き出しそうになるアーフィーを見て、思わず視線をそらしてしまう。
 こういう顔をされると、どうしても勝てないんだよなぁ。

「まあ、ここで急に仕事というのは珍しい事じゃないし…ね?」
「私もついていく!」
「無理言わない。そっちだって今は任務の休憩の合間なんでしょ?」
「う〜…」

 アーフィーは今、香港のとある麻薬組織の倒滅作戦に参加している。
 小さな小競り合いならともかく、割と規模の大きい作戦だという話なので、例え一人でもここで勝手に抜けられては大変な事になりかねない。
 ―――なんだけど、そう上目遣いで睨まれるとどうも心が揺さぶられる。
 でもここは意地でも堪え、ちゃんと大人の対応をするのが保護者というもの。
 
「いい子にして、ちゃんと仕事は終わらせないと遊んであげられないからさ」
「もし早く私の仕事が終わったら、日本を案内してくれる?」
「だから、日本に行くのは観光じゃないんだから…」
「もし約束してくれたら、私も仕事頑張るから〜」

 ―――まあ、理由が何であれ、仕事に精を出してくれる事に口を挟んでは大人げないか。
 こっちの仕事は相手の出方任せとはいえ、アーフィーが長期に渡るであろう倒滅作戦を終える頃には帰って来れる筈。
 そうなれば長期休暇でも取れない限り日本に連れて行けないだろうが、その時はその時。
 今度の休日にでも一日中構ってあげて宥めるとしよう。

「分かった。約束する」
「えっ。本当に!」
「嘘はつかないよ」

 近い内に。ではないけど。
 でもいつか必ず連れて行くとは思うから。

「じゃあ紅。また後でねぇぇぇぇ〜!」

 なんとも奇妙な挨拶をして、語尾にドップラー効果を残すほどの速度で走り去ってゆく。
 しかも廊下で、器用に顔をこっちに向けたままで。

「だからそういうところが子供なんだってば……」

 毒づいてみせても、当の本人は全力疾走で既に豆粒ほどの彼方まで行ってしまっている。

「こう立っていてもしょうがない。行こうっと」

 なんとなく、とてもすごく不安な気がするけど、精神衛生のためにも考えないでおこう。

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 あとがき
 6月くらいに避難所にて電波が漏れてしまったことに端を発したこの企画。
 月姫SSも完結していない状態でやっちゃってますけど、どうかお見逃しを(笑)
 アーフィーも、しばらくしてから再登場予定。
 キャラ設定に関しては何かモチーフにしたのがいたわけではないのですが、自分の執筆能力不足でただの暴走娘にならないようにしたいなぁ(汗)。

 そしてお詫び
 この後のストーリーの流れといった都合で、この改訂版では第一話の実質的な日付を一日ずらしたものへと書き換えています。
 急な変更で読者の皆様には多大なご迷惑をおかけしますが、少しでもよりよい作品作りの為、ご理解を頂けたらと思います。

一話その1

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