十の章
 

 脱衣所とサウナを隔てるドアを静かに開けた千鶴は、扉の内側に入ると温度差に体を馴染ませるように立ち止まった。
 身体と頭に巻いたバスタオルを直しながら、僅かに首を傾げた。

 十畳程の広さのあるサウナの中では、耕一と美冬が一抱えもありそうな大きな岩を納めた升組を挟んで座っていた。
 しかし二人の間に流れる空気は、くつろいでいるとは言い難い緊張した物だった。
 ミネラルウォーターのボトルを時折口に運ぶ耕一は中央の岩を睨むように見ていて、千鶴が入って来たのにも気付いた様子がない。
 美冬の方は頬に微笑みを浮かべながら前髪を指先で弄り、まるで観察するように耕一に視線を据えている。
 しかし頬の笑みとは裏腹に毛先を弄る美冬の指先は、苛立ちを表すように絶えず落ち着きなく動いていた。

 二人の間に流れるピリピリとした緊張感に声を掛けられず、千鶴は立ち止まったまま美冬と同じように耕一に視線を向けていた。
 千鶴の視線を感じたのか、斜めに上げた視線の先に千鶴を認めた耕一は、頬に苦笑とも困惑とも取れる笑みを浮かべた。
 あまり歓迎されていないような笑みに居心地が悪くなった千鶴が口を開く前に、耕一の唇が動いた。

「千鶴さん、梓の具合はどう?」
「それじゃ重病だったみたいよ。少し体調を崩しただけだと思うな」

 席を外した方が良いのかも。と考えていた千鶴の返事が遅れた一瞬に、美冬の声が被さってきた。

「もう平気なんじゃない?」

 切り替えの早さは流石と言うべきか。
 耕一とは違い、千鶴に向けられた美冬の声音と表情からは先程までの緊迫感が抜け、軽く明るい。

「え…えぇ。ご心配をお掛けしましたけど。一時的なものだったようで、もうすっかり」

 横目で耕一を気にしながら答えた千鶴が歩み寄ると、耕一はぎこちなくなった笑みを詫びるように腰を少しずらして場所を空け、千鶴に隣に座るように促した。

「ごめんなさい。本当に悪かったわ」

 千鶴が腰を下ろすのを待って、美冬は静かに口を開いた。

「え?」
「余計なお節介で梓を混乱させたみたいね。耕一に叱られてたところ」
「お前、全然堪えてないだろ?」

 美冬に話を合わせた耕一は、渋面で美冬を睨み付ける。

「お前には悪い事ばっか強調するクセがあるからな」
「そうね。当事者にしか判らない事情って言うのもあるだろうし、軽率だったわ」

 申し訳なさそうな上目遣いで頭を下げる美冬に、千鶴はゆっくりと頭を振った。
 先程の美冬と耕一の様子では、逆に耕一の方が叱られていた様だったのだが、怒って見せる耕一とシュンと謝る美冬の間に立たされた千鶴としては、耕一の宥め役に回るしか無かった。

「妹の方から教えて頂けるようにお願いしたようですし…耕一さんも、もうそれぐらいで」

 千鶴が気にしていない事を強調するように微笑んで言うと、耕一は軽く息を吐いてぽりぽりと指先で頭を掻く。

「うん。まあ、千鶴さんがそう言うなら……」

 不承不承頷いた耕一は、またボトルを口に運び喉を潤す。

「あの、何か考え込まれていたようでしたけど…」

 ホッと息を吐いて喉の渇きを思い出したというような耕一を見ながら、千鶴は先程の様子が気になって静かに尋ねた。
 答えは、美冬の方から返ってきた。

「ああ、今の日本の状況を聞いてたんだけど…そうだ、千鶴の意見も聞いてみたいわ。いいかしら?」
「休みの時ぐらい、仕事を忘れたらどうだ」

 美冬には自分の提示した交換条件を千鶴に教える気はない。と感じ取った耕一は適当に相槌を打った。

 耕一にも、まだ千鶴に話すつもりはなかった。
 いずれは相談するが、自分自身の答えを出す方が先だった。
 美冬の持つ情報と資金は、喉から手が出るほど欲しい。
 それは確かだ。
 そして耕一は美冬を信頼していた。
 巫結花同様、秘密を打ち明けても他に漏らすことは無いだろう。
 だが秘密を打ち明ければ、美冬までを柏木の宿業に付き合わせる事になる。
 見果てぬ夢で終わる可能性の高い計画を具現化させる誘惑と自分の業に友人を巻き込む不安。
 思いも寄らない美冬の提案は、耕一を軽い二律背反に陥らせていた。

「仕事じゃないわよ。ただの雑談」

 耕一の相克も知らぬ、美冬は楽しそうに千鶴を覗き込む。

「ええ、私に判る範囲でしたら」

 千鶴は少し考えコクンと頷く。
 千鶴には美冬がどういう話をするのか興味があった。
 美冬自身より、耕一が影響を受けたと言う美冬の物の見方に対する興味が主だが、国際社会で活躍する人間の視点を知る良い機会でもあった。

「千鶴さん、適当でいいからね。真面目に受け答えすると疲れるよ」
「女同士の話に口を挟まない」

 忠告する耕一を流し目で黙らせた美冬は、舌なめずりでもしそうな顔を千鶴に向けた。

「現在日本は不況だって言われてるけど。個人消費や個人の金融借り入れ金額の増大から見る限り、不況意識が薄い気がするのよ……」

 そう切り出した実冬は、千鶴に合わせたのか旅客業の状況から話を進めた。
 千鶴も一般的な知識の範囲でそれに応え、バブル期後期の温泉ブームによる宿泊者の増大。
 急増した宿泊者を受け入れるため繰り返された増改築により増大した融資と、その後バブルが弾け金利負担による経営の悪化等を例に現在の状況を語った。

「でも、旅客量はそう減ってないようだけど?」

 興味つつの表情で首を傾げた美冬にコクンと頷き、千鶴は困ったように微笑む。

「ええ。全体的に見れば、海外に向いていたお客様が国内に目を向けて下さった結果、短期滞在のお客様は増えていると言っても良いかも知れません。でも先程のお話にもありましたけれど、カードによる支払いが増えてますね」
「日本では現金払いが一般的だったのよね?」

 千鶴が頷くのを見て、美冬は続けた。

「急にカードが浸透したとは思えないな。むしろ借りてでも、今の生活水準を維持したいって所でしょうね」
「そう見た方が正しいと思います。支払方法に関しては、そろそろ金融自由化の影響で外貨による支払いを希望される方もいらっしゃいますし、企業経営に金融機関の影響力が大きくなるのが心配ですね」
「換金手数料の設定次第では、かなりの損益が出る可能性があるわね。じゃあ旅館側の経営問題としては、やはり料金と金利が問題?」
「こう言ってはなんですけど。バブル最盛期には、八割から九割のお部屋を旅行社に割り当てていた旅館もありますから、そういったところは低料金が経営を圧迫しています」
「今は旅行社の良いように料金を下げられてるって事か」

 美冬の歯に衣を着せない感想に千鶴は苦笑いを浮かべた。
 ツアー客に頼るしかない旅館の現状は、美冬の指摘した通り旅行社の出す条件を呑むしかない状態だった。

「旅行社としても低料金でお客様を集めるには、それしかないですから。でも一番恐いのは、サービスの質が低下する事です」

 やんわりと旅行社にも理解を示した千鶴は、一番の問題点を上げた。

「合理化や経営努力で補える間はいいんですが。極端な人員削減や経費削減は従業員の不安を煽りますし、直接お客様に接する従業員の不安は、お客様への対応にも現れますから」
「一社の問題じゃなく温泉街全体のイメージの問題ね。一人の不満は三十倍の潜在的顧客を失う事にもなるし、満足してリピートしてくれないと徐々に衰退するわね」
「低価格で満足して頂けるサービス。それが理想なんですけれど」

 ふっと千鶴は息を吐いた。

 今のところ鶴来屋ではリストラを行う程、業績の低下を見ていない、だが隆山の他の旅館では経費削減による解雇が進んでいた。
 酷いところでは厨房すら閉鎖し人件費や光熱費を浮かし、料理やご飯まで外部から仕入れた出来合いで済ましている。
 更に温泉と言いながら、源泉の使用量を減らし実際には十パーセントも源泉の入っていない旅館すらある。
 これでは旅館と言うより、風呂の付いた簡易宿泊所と変わりない。
 もっとも鶴来屋グループでも経営する仕出し屋で給食サービスを始め、確実に業績を伸ばしているのだが。

「でも、合理化による低料金で成功している所もありますし」
「問題は、やっぱり金利かもね。まっとうな経営をしていれば、それ程酷い状況では無いはずだけど。不良債権で金融界にガタが来てるのが大きいわね」
「はい。経営難に陥っているところは、不動産や債券に手を出していたところが多いですし。銀行に融資をストップされるとどうしようもありませんから」

 千鶴も考え深げな美冬の呟きに頷く。

 大規模な融資を行なった銀行が融資先に役員を派遣するのは珍しくない。
 バブルの弾けた当初、銀行が自らの建て直しのため経営権を行使し、対費用のみの経費削減を第一に掲げたため顧客を失い廃業したホテルもあった。
 いくら優秀でも顧客を商品としか見ない銀行員が、宿泊者の満足度というメンタルな部分が大きい旅館経営に向くとは限らないのが判っていないのだ。
 そして不動産や債券にしても銀行サイドから融資を持ちかけ、金利だけを膨らませる結果になった事を思えば、しわ寄せを受けた形の企業家の銀行に対する不審感は、一般人より遙かに大きい。

「鶴来屋の様に高級が売りだと、安易に値下げも出来ないわね」
「やはり金融か?」

 時折ボトルを口に運びながら話を聞いていた耕一が、鶴来屋に話が及んだ所でふと口を挟んだ。
 ふっと千鶴から耕一に目を移した美冬は微かに微笑し、千鶴はそれまで口を挟まなかった耕一のどこか厳しさを漂わす横顔を伺った。
 
「ええ」

 美冬が頷くと、耕一はボトルを脇に置き微かな溜息を吐いた。

「ちょっと遅いんじゃないか?」
「そうかしら? まだ二、三年はこの不況は続くわよ」
「証券市場の出来高上位は、ここんトコ外資系が占めている。ノンバンクも次々外資系に買い取られてる」

 耕一は美冬の反応を伺い、微笑みに呟くように続けた。

「お前にしては遅くないか?」
「私としては不本意だけど、そうも言ってられないのよ。欧米にアジア経済を好きに動かされるのは面白くないって人もいるしね」

 同じ問いを重ねた耕一に、それにチャンスだし。と付け加えた美冬は静かに腰を上げた。

「私は、汗を流してから上がるわ」
「ああ、上がる前に声掛けてくれ。みんなもそろそろ上がるだろうし、出るに出られないからな」
「ええ」

 耕一に頷き掛け、美冬は千鶴に顔を向けた。

「じゃあね千鶴。邪魔者は消えるから、ゆっくりして」
「えっ! あっ、いえ…邪魔だなんて…」

 意味深な流し目を送って見せる美冬の言葉に千鶴は真っ赤になってしまう。
 千鶴の赤い顔を見ながら微笑み、美冬はくるりと背中を向けサウナを出ていった。

「千鶴さん、疲れなかった?」

 美冬が出て行くと、大きく息を吐いた耕一は頬を緩めて千鶴に笑い掛ける。

「大丈夫です。それにしても、来日前にかなり調べて来られているようですね」
「まあ、事前調査は万全だろうな」

 赤い頬で微笑み返す千鶴に答えながら、耕一は汗の滴る顔を両手で拭った。
 蒸し暑さより緊張で乾いた喉に水分を補給していた耕一は、全身から汗を滴らせている。

「耕一さんは大丈夫なんですか?」

 滴る汗を拭う耕一を見て、千鶴はタオルを持ってくれば良かったと思った。

「うん。久々だったから、ペースが戻らなくてちょっと緊張したかな」
「いつもあんなお話を?」

 少し呆れ気味に言い、千鶴は息を吐いた。

 美冬の方は楽しんでいたようだが、曖昧にぼかさずズバリと切り込む美冬の語り口は、受け答えに苦労させられる。
 どうやら梓達と一緒の時は、少しは抑えていたらしい。
 耕一が美冬と梓の会話に度々口を挟んだ気持ちが、千鶴にもやっと理解できた。

「あんなもんじゃない。本気になったら関係する統計から数値をスラスラ上げるから、こっちは数字の意味を理解するだけで苦労させられたな」
「耕一さん、これを使って下さい」

 千鶴は頭に巻いていたタオルを外すと、やっと緊張が解け肩の力が抜けた耕一に差し出した。

「いいの? 髪が痛んだりしない」
「濡れないように巻いているだけですから、後で乾かせば平気です」

 高湿から護るのに巻くのかと思っていた耕一が髪が痛まないか心配そうに聞くと、千鶴は耕一の気遣いに嬉しそうににっこり微笑んでタオルを渡した。
 片手で上げていた髪を下ろす千鶴からタオルを受け取り、耕一はありがたく顔と首筋の汗を拭う。

「アレが美冬の来日目的だな」
「アレって、金融ですか?」

 気持ちよさそうに汗を拭う耕一を伺い、耕一の口を挟んだタイミングを思い出しながら千鶴は問い返した。

「うん。千鶴さんも知ってるかも知れないけど。一口で華僑って言っても一つじゃないんだ」
「幾つもの会社が集まった経営共同体が一番近かったと思いますけれど」

 頷いて答えた千鶴に頷き返し、耕一は続けた。

「そう、だからお互いの領分を侵さないようにしてる。同じ華僑同士が潰し合うことの無いようにね」
「はい?」

 千鶴は首を傾げた。
 利益を争わないようにしているのは理にかなっているが、それが美冬の来日とどう関係するのか……。

「美冬の家は日本じゃあまり力がない方だ。けど、巫結花の所は日本での発言力が強い。まあ経済力より、張さんの人望と大勢の弟子に有力者が多いせいだけど」
「それは、つまり」

 千鶴は眉を寄せ、少し考えると顔を上げた。

「巫結花さんの家と親しい美冬さんを極東の責任者にして、軋轢を避けようということでしょうか?」
「多分ね。実力だけじゃ無いのは不本意だろうけど、向こうに居辛い美冬の取ってチャンス……」

 頷いた耕一は顔を拭いていた手をふと止めた。

「耕一さん、どうかしました?」

 千鶴が途中で言葉を切った耕一を訝しげに見ると、耕一は照れ臭そうな顔をタオルから上げた。

「いい香りがするなと思って……」

 耕一は、アハハッと照れ笑いを浮かべながら言う。
 一瞬きょっとんとした千鶴も、耕一がタオルの事を言っているのに気付くと照れ臭そうにぎこちない笑みを浮かべた。

「まあ、美冬が責任に見合う成果を上げればいいだけだけどさ」

 照れる千鶴は可愛いのだが、汗だくの手で引き寄せるのも気が引けた耕一は、手を伸ばしたい気持ちを誤魔化すように言う。

「でも、耕一さん。さっき金融って仰いましたよね? それなら日本まで来なくてもいいんじゃありません?」

 千鶴の方も照れ臭いのか話題を変えるように聞いてくる。

「当面の狙いは、1200兆に上る日本の個人金融資産だろうけど……」

 今の金融市場は電子情報が世界を繋いでいる。
 世界のどこにいても瞬時に介入することが可能だった。
 だが、それ故に組織的な大規模投資による急激な変化は、専門家でも動向を掴み切れ無くなっている。
 ノーベル経済学賞受賞者を責任者に据えた米国投資信託会社が、市場の動きを読み切れずにヘッジファンドに失敗、経営危機に陥った例がその複雑さを表していた。

 一旦言葉を切った耕一は、僅かに躊躇いながら続けた。

「次は日本を拠点にアジア経済圏、最終的には故国中国の市場を目指す気だろう」
「十億の人口を抱える中国ですか。未開拓の市場としては最大ですね」

 スケールの大き過ぎる話に戸惑いつつも、千鶴は目を細めて時折考えながら真剣に話す耕一の横顔を見詰めていた。
 美冬のいた時の張り詰めた真剣さとは違う、ゆとりを感じる耕一の横顔を見る千鶴の眼差しには、子供の成長を喜ぶ母親の様な優しさと誇らしさを感じる暖かな光が宿っていた。

「でもその為には、アジア経済の中核を担う日本経済が欧米に支配されると困るんだろう」
「欧米に支配って?」

 耕一の口から出た穏やかでない台詞に、千鶴は細めていた目を軽く見開く。

「さっきも言ったけど。証券市場とノンバンクは外資系が占めてるし、大手企業の海外投資家によるM&Aが進んでるから。景気が上向く頃には、日本の生み出した利益は海外に流れ出す構図が出来上がる公算が大きい。そう美冬達は考えてるんだろうと思う」

 バブルの弾けた当初から先見の明のある企業では社員への自社株収得を奨励し、既に外資によるM&Aに備えていた。
 土地に関してもバブルが弾けて以後、不況が長引くに連れ地価の下落が続く中で、海外投資家の土地収得は更に増えている。
 彼らが景気の回復を見越した上で動いているのは確かだった。

 しかし耕一には、今回の不況はチャンスでもあった。
 今まで枠に填り付け入る隙の無かった産業界に空いた空洞は、優れた才能と資金を持つ者に道を開いたと言える。
 安定期には不可能だった分野に進出し、多大な成功を修めるには見逃せない好機になる。
 しかしその時期は短い。
 学生という耕一の立場は自由が利く反面、経済的、社会的な力の無さを痛切させられる。
 今の好機を逃せば、一旦安定してしまった産業界に入り込むには、余程革新的な手段でもない限り長く地道な努力に頼るしかない。

 そして美冬が自分の手の内を明かすヒントを残して行ったのは、耕一の考えと自分の利益が合致するか考えろと言う事だった。
 双方の利益が折り合うのか、判断を耕一に委ねて行ったのだ。
 美冬の提案を受け入れれば、耕一は経済的にも社会的にも強大な力を手に入れることが出来る。
 その考えが美冬の提案を即座に断ることを、耕一に躊躇わせていた。

「美冬さん達の読みが正確なら、深刻ですね」

 少し不安げな千鶴の声に、いつの間にか考え込んでいた耕一ははっとなった。
 
「でも、俺達にはまだまだどうしようもない事だけどね」
「ええ。それはそうですね……」

 伏し目がちに視線を落とした千鶴は、小さな溜息を吐いた。

「千鶴さん、どうかした?」

 気落ちした様子の千鶴に耕一が尋ねると、千鶴はゆっくりと髪を揺らした。

「いえ。少しショックかなって」
「うん?」

 耕一が首を傾げると千鶴はまた溜息を吐く。

「これでも経済に少しは自信があったんです…でも、美冬さんの話から、そこまでは読み取れませんでした」
「えっと。いや、俺のはただの想像の話だしさ。間違ってるかも知れないんだし…それに千鶴さんは実際に働いてるんだから、専門の業種に目が向くのは当然だと思うよ」

 拗ねたような上目で見上げられた耕一が慌てて言うと、千鶴はクスッと小さく笑った。

「でも、想像を裏付ける情報は集めてあるような口振りでしたね?」
「まあ新聞とかインターネットで調べたけどさ。学生ってのは時間だけはあるから」

 耕一はタオル片手でぽりぽり頬を掻く。
 新聞に載る情報は結果を伝えるだけで、現在の高度情報化社会の中では、情報としての鮮度は落ち色褪せていた。
 その為、巫結花経由の情報に頼りがちな耕一としては、まだ千鶴に深く追求されると困るのだ。

「私も頑張って勉強し直さないといけませんね。仕事に追われて視野が狭くなっていたようです」

 千鶴は湿気を含んで重くなった髪を頭の後ろで両手で纏め、身体の前に持ってくるようにしながら言う。

「でも無理は禁物だよ。千鶴さんはすぐに無理するから」
「はい」

 止めても無駄だろうといった諦めを含んだ耕一の声に、千鶴は澄まし顔でコクンと頷くとちょっと眉を顰めた。

「でも私は耕一さんの方が心配です。すぐに無理をするのは耕一さんもですから」

 顰めた眉で軽く睨む千鶴に、耕一は苦笑しつつ無理はしないと誓わされた。
 約束を取り付けた千鶴は、満足げに一つ頷くと思い出したように話し始めた。

「ところで梓の事ですけれど」
「うん」
「足立さんと話すように伝えておきました」

 少し伏し目がちに付け加える千鶴の表情にふっと雲が掛り、迷った上目遣いの視線を耕一に送った。

「梓に仕事を好きかって聞かれました」
「俺も前に聞いたっけ」

 数ヶ月前に同じ質問をした耕一は、梓にはどう答えたのか先を促すような眼差しを向け。
 千鶴は小さく頭を振った。

「答えられませんでした」

 一息吐いた千鶴は、でも。と耕一を安心させる笑みを浮かべて続けた。

「嫌いな訳じゃないんですよ」
「まあ仕事だからね。みんながみんな好きな仕事に就ける訳じゃないし…仕事以外に趣味を持つのっていいんじゃないかな」

 その為の余暇は必要という含みを持たせて言う耕一の声音には、安心した色合いがあった。

 自分の気持ちを抑える傾向があった以前の千鶴からは聞けなかった正直な気持ちが聞けて、耕一は嬉しかった。
 耕一と千鶴の付き合いは、心理的には深いが時間的にはごく短い。
 耕一が小学生の頃に数日、昨年の夏に再会してからまだ半年しか経っていない。
 その半年も大学が始まればお互い気軽に会える距離ではない為、日数に置き換えれば一月程でしかない。
 耕一がまとまった休みを取れる連休は、千鶴の方が特に忙しく、二人がゆっくり過ごせる時間はごく短い。
 その上、互いに心の痕に触れ無いか心配するあまり、想い出を語り合うという事もなかった。

「楽しんで出来る仕事が一番いいけどね」
「ええ。でも、お客様が帰られるとき、楽しんで下さったんだって感じられると嬉しいんです……嬉しいというのとは、少し違うかも知れませんね」

 一度言葉を切って前言を打ち消した千鶴が伺うように見ると、耕一は黙って続きを待っていた。

「きっと羨ましいんです。特にご家族一緒のお客様を見送っていると、楽しんで頂けて良かったって思います。でも、それは心のどこかで重ねているからだと思うんです」
「重ねるって?」
「お客様の楽しそうな姿を、父や母、自分と……」

 上目遣いに覗く千鶴の頭にそっと手を伸ばした耕一は、濡れた髪に甲を触れ愛しそうに梳る様に軽く動かす。

「中学に入った頃だったな」

 そろそろお互いの想い出を語り合うのも良いだろうと思った耕一は、ゆっくりと口を開いた。

「?」
「夏休みが終わって学校に行ったら、クラスのみんなが家族で旅行に行った自慢話をしてたんだ」

 昔話を始めたのを訝り僅かに首を傾げた千鶴に、耕一は小さく笑い掛けて続けた。

「なんか俺だけどこにも行って無いのが悔しかったけど。まだ親父が帰ってくるって思ってたから、来年こそは俺も連れてって貰うんだって色々想像してたの思い出してさ」

 微かに表情を翳らせた千鶴の髪に触れながら、耕一は懐かしそうに目を細めた。

「みんなの楽しそうな様子が羨ましかったんだけど。そう言う気持ちって、お客さんには楽しんで貰おうって気持ちに繋がるんじゃないのかな?」
「あっ。ええ、そうですね」

 コクンと頷いた千鶴は軽く目を閉じるとふっと唇に笑みを浮かべ、柔らかな眼差しで耕一を見上げた。

「入社した時の訓辞で叔父様が仰ってました」

 耕一が問い掛ける目で見返しながら髪を撫でていると、千鶴は懐かしそうに目を細めた。

「接客は技術ではなく真心、お客様の気持ちを第一に考えるように心がけて貰いたいって。耕一さんの様に考えられれば、自然にそういう風に出来るのかも知れませんね」
「そうかな?」
「ええ、きっとそうですよ」

 少し照れながら首を傾げる耕一に千鶴が頷き掛けると、耕一は僅かに首を傾けて千鶴の顔を覗き込む。

「ところで千鶴さんの高校って、修学旅行どこだった?」
「急にどうしたんですか?」

 突然尋ねられた千鶴はキョトンとした顔になる。

「いや、俺の事は親父から聞いてるみたいだけど。千鶴さんが学生だった頃の話って聞いたことが無いなって思ってさ」
「学生の頃って言っても……」

 遠い昔のような過去形の表現に、千鶴は少し眉を顰める。

「興味あるんだけどな。俺んトコは北海道だった」

 千鶴の渋い表情に構わず耕一は続ける。

「私の所もそうでした」
「お土産は、木彫りの熊?」

 定番中の定番だが、千鶴なら買いそうだと思った耕一はからかい半分に訊いた。

「えっ、ええ。鮭を銜えたのを…耕一さんもお土産に買いましたよね?」

 どことなく頬を膨らませた千鶴は、上目遣いで同意を求めるように言う。
 しかし耕一は首を横に振る。

「いいや。俺は母さんに頼まれてた鮭の塩漬けとバターだったな。小遣いは、ほとんど買い食いするのに使ったっけ」
「そうなんですか? 私、頼まれてたのに鮭を買い忘れてしまって。謝ってるのに、梓ったらお姉ちゃんに頼んだのが間違いだった。なんて言ったんですよ」

 ムゥ〜と頬を膨らまし悔しそうに千鶴は言う。

「可愛い木彫りだから玄関に飾ろうと思ったのに、梓に邪魔だって片付けられちゃうし。送って貰ったアイスは、帰ったら楓が全部食べちゃってて散々でした」
「楓ちゃんが?」
「ええ、初音と楓は甘い物には目がないんです。初音が私の分は残して置いてくれたらしいんですけれど、初音がお風呂に入ってる間に楓が食べちゃって。叔父様が食べてもいいって仰ったらしいんです」
「親父が?」

 意外に思って聞き返すと、いま思い出しても悔しいのか千鶴は眉を顰めてまた頬を膨らませる。

「叔父様は御存知なかったから仕方ありませんけれど。北海道にしかなかったお店で、自由時間中ずっと並んで買ったのに。楓を叱ったら、叔父様ったらアイスぐらいで目くじらを立てなくてもいいだろう。なんて言われたんですよ。酷いと思いませんか?」

 耕一の方はそう言われても、父同様並んでまでアイスを買う気持ちの方が判らなかったのだが。
 千鶴の意外な一面を見た気がして、曖昧な笑みを浮かべ、千鶴の膨れた頬を見ながら可笑しそうに頷いていた。
 

九章

十一章

目次