九の章
バスタオルの裾から伸びるすらりとした足を組み替え、美冬は両手に余る大きな岩に水を掛ける。
滴った水滴は岩の表面で玉を作ると、ころころと転げ落ち蒸発して消えた。
脱衣所の脇に作られたサウナの中。
十人ばかりが入れる楕円形の個室に耕一と美冬は、向かい合って腰を下ろしていた。
水蒸気となった靄の向こうでは、挑発するように素足を組み替える美冬を見ながら耕一が微かに息を吐いていた。
「安心した? 巫結花が異常ないって言うんだから、間違いはないわ」
何か思案するように軽く眉を寄せている耕一をチラリと見た美冬は、壁一つ隔てた脱衣所に続く扉に視線を移した。
扉の向こうでは、千鶴が梓に付き添っている筈だ。
「ああ、一安心はしたけどな……」
耕一も一応安心はしたのだが、そうなると今度は梓のイライラした態度の理由が気になっていた。
「彼女、かなりストレスが溜まってる見たいね。そのせいじゃないかな」
「ストレス。か?」
上目遣いに睨みながら含みを持たせて耕一が繰り返すと、美冬はばつが悪そうに頭に巻いたタオルからはみだした前髪を指で弄り始めた。
「悪かったわよ、余計なお節介が過ぎた見たい。でも、耕一も説明不足が過ぎるわ」
「先入観を植え付けたくなかったんだ」
「先入観?」
前髪を弄る指を止め、美冬は細めた瞳を耕一に向ける。
「ああ、出来れば判断は自分でつけさせたくてさ」
「言い訳」
ふっと指先で摘んだ前髪に吹き掛けた息と一緒に一言で片付けられた耕一は、睨むように険しくなった視線で美冬を見上げる。
「彼女の性格だと、あなた達が頼めば断らないでしょうね。それが梓に良いのか悪いのか、自信がないだけでしょ? 責任逃れよ」
睨む耕一に視線を据えたまま、美冬は違う。と、挑むように眼差しに力を込めた。
魅力的と言って良い女性と裸同然の格好で二人だと言うのに、何とも色気のない話をしている物だ。
出会った当初から、耕一は不思議と美冬に女性を感じなかった。
精神的なゆとりが無かったせいもあるが、美冬のこう言った攻撃的な物言いが耕一の中にある母性的な女性を求める潜在意識と合わないのかも知れなかった。
その為か美冬が美しく魅力に富んだ女性である事を認めながら、耕一の美冬への態度は異性に対する物ではなく同性の友人に対する物に近い。
「…相変わらず…厳しいな」
苦笑しつつ耕一は頭を振る。
計画に千鶴や梓だけでなく従姉達の誰も巻き込まないで済めばと思っていても、現実には巻き込む事になるのは耕一にも判っていた筈だった。
梓自身に選ばせる事で、責任を逃れようとしていると言われても反論は出来ない。
「彼女、期待されて実力以上の力を発揮するタイプじゃない?」
美冬の問いに、耕一は小さく頷いた。
「何を期待されているか判らなくて、迷ってる見たいね」
「俺のせいだな」
微かな自嘲を口元に浮かべた耕一に追い打ちを掛けるように、美冬はしっかりと頷き口調を改めた。
「選べと言うなら必要な情報は全部提示して、きちんと話し合うべきね」
「その情報がな……」
溜息を吐きつつ耕一は、手で頭をがしがしと掻き回した。
今まで耕一は、梓と鶴来屋に関しての話はしてこなかった。
役員の話が舞い込むまでは、大学を卒業するまでに梓が決めればいいと考え、ゆっくり話を進めるつもりでいた。
だが振って湧いた話に十分な知識も与えられない間に、梓は千鶴が教えた情報から酷く偏った見方をしてしまったようで、千鶴ときちんと話し合わなかった耕一にも落ち度はあるものの頭の痛い所だ。
ここの所、初音の方が気になって梓に充分な注意を払っていなかったのも後手になった原因だったが。
「私にも責任はあるのかな?」
渋い表情で頭を掻く耕一から逸らした視線を宙に泳がせた美冬は、再び柄杓で水を岩に垂らした。
「おい美冬、あんまり湿度上げるなよ」
サウナの中のスチームはボイラー室から制御されている。
部屋の中央、升組に納められた岩はディスプレイを兼ねて置かれた物だ。
面白がって水を掛けると湿度は一時的にだが高くなる。
「うん。ごめん」
「別に謝らなくてもいいけどさ」
耕一がぼんやり謝る美冬に怪訝そうに言うと、美冬は唇を舌先でぺろりと湿らせ肩をすくめた。
「余計なこと、随分教えちゃったかな?」
「多分な」
「口止めされた事は教えてないわよ。状況分析と現状説明」
「どういう説明か、聞くのが恐い」
耕一に嫌みったらしく言われ、美冬は眉を顰めて苦く笑った。
「どうも彼女、貴方達の役に立てるのか自信がないみたいね。貴方達を過大に評価してるみたいよ」
「俺は兎も角。梓の奴、千鶴さんにはコンプレックス持ってるかもな」
「品行方正、礼節をわきまえた理想的なお姉さんだものね。出来過ぎた姉を持った妹の悩みね」
「梓に言わせると、穴だらけだそうだ」
くるくる瞳を動かして面白そうに言う美冬の態度にムッとした耕一は、片手を振って眉を顰めた。
だが美冬は非難めいた耕一の態度に構わず、呆れたように軽く溜息混じりに言った。
「適当に穴もあると。完璧より質が悪い、非の打ち所がないわ」
「おい」
「違う? 完璧なら初めから諦めもつく。でも努力すれば追いつけそうで追いつけない相手ほど、嫌な相手はないわよ」
「諦めてどうすんだ。追いつこうって努力するから向上するんだろ」
「追いつけた人は良いけど。途中でへばったら、自信喪失よね」
美冬は嫌みったらしく細めた瞳で、あなたは追いつけたから良い。と言いたげな笑みを唇に浮かべた。
「だから、土俵の違う鶴来屋の中ん事は、あんまり教えてないんだよ」
「そうか。梓って家事には自信ありそうだったわね」
誰がいらん事を教えたんだ。と、ばかり攻撃に出られた美冬は冷笑を浮かべた唇に握り拳を当て、申し訳程度のお愛想笑いを添えた。
「どうせお前の事だから、最悪のシナリオを組み立てて見せたんじゃないのか?」
「最悪かな?」
「最善か?」
「それはない」
「断言すなっ!!」
怒鳴り付けられても涼しい顔で、美冬はちょんと突き出した人差し指で扉を指差す。
防音はされているだろうが、外に大声が聞こえない保証はない。
美冬の言いたい事を理解した耕一は、落ち着こうと首を振って大きく息を吸った。
「八つ当たりだな。悪い」
「私も悪かったわ。でも…梓だけかな?」
耕一は汗が伝う顔を手で拭い、ふっと口元を弛めた美冬の意味深な呟きを聞き咎め、僅かに眉を顰めた。
「耕一、少し彼女達と距離を置いた方が良いんじゃない」
「距離を置く?」
「一か二年、私の所に来ない?」
「お前の?」
千鶴との関係を知りながら、おかしな事を言い出したと思った耕一は首を傾げた。
「卒業しても、すぐ鶴来屋の会長に就くつもり無いわね」
「そりゃ、無理だろ?」
「なれてもならない。でしょ?」
「どうしてそう思う?」
薄く微笑む美冬を見詰めた耕一は、肯定も否定もしない。
「百合さんに面白い話を聞かせて貰ったわ」
「秘書の緋崎さんか?」
ちっと舌打ちした耕一に、美冬は軽く頷き口元を引き締めた。
「初めは、梓を役員への牽制に使うつもりかと思った。でも違うわね」
「そんな事するかよ。結果的にはそうなるかも知れないけどな…で、どこまで掴んでる?」
「隆山再開発プロジェクト?」
小さく頷く耕一を見詰め、美冬は軽い溜息を吐いた。
「構想は凄いわ。駅を中心としたショピングセンター、多目的ドームの建設。長期滞在型宿泊施設と組み合わせた大型遊戯施設。施設の充実度は海外のリゾート施設に近いわ。さすが佐久間ね、スケールが違う。不況でどこもが静観を決め込んでる間に大規模な投資を行い、手薄だった本国で着実に顧客層を広げるつもりね。佐久間リゾートと提携した施設は日本から世界へ、世界から日本へと佐久間関係施設に顧客を送り込む。そして今後の世界経済の動きによっては、もっとも経済成長が望めるアジアと世界を繋ぐ中継地としても使える。既に今の不況の後を見越した動きね。でも」
いったん言葉を切った美冬は、腕を組んで見詰める耕一を睨む様に見詰め返した。
「隆山の温泉宿の多くはその恩恵を受けられる? 資本力の無い所は淘汰され、小さな温泉宿は廃業に追い込まれる」
美冬を見詰めたまま、耕一は感情を押し殺したように呟く。
「そうだな。今でも不況で客足が減ってる、施設が完成するまで持つ所がどれだけあるか…しかし、温泉だけでいつまでも客が呼べる筈もないしな」
「だからと言って、あなたが憎まれ役を引き受ける事はない」
「佐久間なら、鶴来屋を無視しても計画は推進出来る。あっちの良いように開発されるよりマシだ。それに地元との軋轢は出来るだけ避ける」
「どんなに上手くやっても、反対する人間はいるわよ」
美冬の溜息混じりの台詞に頷き、耕一は言葉を継いだ。
「そうだろうな。でも鶴来屋が地元を説得するのと、佐久間が勝手に開発するのでは反発の度合いも違ってくるだろ?」
「それが千鶴のお見合いの背景にあるのは理解してる」
勝手に調べた上、嫌な話を持ち出しやがると思った耕一は額を押さえた。
「資本力が違い過ぎるんだ。佐久間と迎合して成長するか、他と手を組まれるのを黙って見ているかどっちかだ。なら主導権はこっちが握った方が良いさ」
「嘘吐き」
眉を顰めた美冬は微かに首を傾げ、耕一の台詞を片手を振って打ち消した。
「嘘じゃない」
「ええ。でも貴方が心配してるのは開発方法じゃない、千鶴達でしょ? 地元の反対を抑えに回った鶴来屋は、反対派の攻撃の的になるわ。計画をあなたが推進することで、非難の矛先を自分に向けるつもりね。違う?」
「俺は余所で育った人間だからな。攻撃もし易いだろう」
「だからってね。わざわざ計画を推進しているのが貴方のように見せる必要は無いでしょ? どちらにしろ反対派には、千鶴達だって非難の対象になるわよ。その為に梓を役員に据えるのね」
美冬の台詞に小さく眼を開き、耕一は驚きを表した。
「誤魔化しは効かないわよ。再開発が失敗したら、あなたが責任を取るつもりね?」
初めから誤魔化せるとは思ってなかった耕一だが、眉の一つぐらい動かせばまだ可愛げもあるのにな。と場違いな事を考えつつも問い返した。
「なんで、そう思う?」
「あなたが言ったのよ。どこまで大きくすれば良いのか判らない。ってね。地方で佐久間と迎合して得られる利益なんて知れてるわ」
大袈裟に両手を開いた美冬は、滴り落ちる汗を片手で拭い片方の眉を跳ね上げる。
「何をするつもり? あなたが佐久間の傀儡で終わる筈がない。再開発を踏み台にして、何かを考えている筈」
「のんびり楽隠居でもするか。食うには困らないしな」
ジワジワと浮き出る汗を拭う様に頬に当てた指を動かし、軽い苦笑を交えて耕一が言うと。睨む美冬の目元が更に険しさを増し興奮を表すようにサッと頬に朱が差した。
「お父さんや千鶴の苦労を無にして? 梓まで巻き込んで楽隠居ですって? あなたに出来る筈が無いわ。現在の鶴来屋でも地方としては大きな力を持っている。これ以上、どれほどの力が必要だって言うの? 何を求めているの?!」
赤い頬で荒くなった息を吐き出し捲し立てる美冬を、耕一は驚きを持って見返した。
余裕の笑みを浮かべながら、どこか人をからかう含みを持たせた口調で話すのが常だった美冬が、これほど感情的になったのを見るのは、耕一も初めてだった
耕一の視線に気付いた美冬は、視線を逸らして小さく舌打ちすると感情を抑え平静を装う。
「それに楽隠居するなら、百合さん達を雇う理由がないわ」
「雇用計画」
「人の所の方法使っといて、よく言うわね。何年も先の結果に繋がっても短期で効果が出る方法じゃ無い」
仏頂面の耕一を薄く笑い、美冬は決めつける。
美冬達華僑には、相互援助のシステムがある。
元々は、同じ中華系移民が移民先で資金を借りられない事に端を発し。裕福な移民が才能がありながら貧困に喘ぐ同胞に無担保、無償で資金を援助した事が始まりだった。
それが今ではより組織化され、有能な同胞に資金を供与し。財を築いた者が、また同じように援助する事を繰り返す事で、いまや全世界に華僑は広がり、一国にも勝る情報ネットワークと経済力を築き上げていた。
その根底にあるのは、貧困に喘ぐ移民に手を差し伸べてくれた同胞への忘れがたい恩と、終生掛かっても返し切れぬ感謝の念。
彼らが恩人を裏切る事はない。もし裏切れば、同胞から恩義を忘れた者と蔑まれ、誰からも相手にされなくなる。
そして、その汚名は親類縁者一族にまで及ぶ。
耕一が特別枠で入社させた新規採用者に期待したのも、鶴来屋と言うより、役員会の反対を押し切って採用した千鶴への社員らの恩と感謝に他ならない。
特別枠の入社には、内定取り消しや二次面接に通りながら不採用になった者が多い。
一流会社に充分就職出来る成績優秀者でありながら、外因に寄って就職を断れた者達だ。
その理由は表向き雇用削減が多い。
しかし、それは表向きの理由でしかない。
法で規制されたとは言え、未だ身上調査は完全に無くなった訳ではなかった。
成績優秀で幹部候補になりそうなら尚の事、家庭環境、親兄弟、親戚に至るまで問題がないかを調べ上げ。問題になりそうな外因を持つ者を排除する。
足立をして老獪と表させ、わざと就職浪人間際で彼らを雇い入れた耕一の狙いはそこにあった。
就職難に喘ぎ、己とは無関係な事柄による世間の冷たさを厭と言うほど実感した百合達は、チャンスを与えられた恩を千鶴に感じている。
全員でなくとも、一人でも二人でも、千鶴に恩を感じ、忠誠を尽くしてくれる人物を求めての方法である。
だが、これは危険でもあった。
彼らが雇われた理由を知れば反発を覚えるだろう。
また彼らが問題を起こせば、その責任は役員を押し切った千鶴への攻撃材料にもなる。
美冬は百合と言葉を交わした時に、美冬から見ても優秀な百合が就職浪人寸前で鶴来屋に拾い上げられた経緯を聞き、耕一の考えを看破していた。
耕一に華僑の成り立ちを教えた美冬ならば、それも当然の事だった。
しかし耕一が人の心を操るような方法を取った事が、確信を持っている今でも美冬には信じられなかった。
「もしもの時の後任の会長。それが梓を役員にする理由ね。違う?」
再開発の完成には早く見積もっても五年から六年は掛る。
新入社員が力を付けるにも同程度の年数が必要だ。
学生とはいえ、役員を五年から六年も経験すれば社内に人脈も出来る。いや、それ以上に梓の明朗快活で竹を割ったような性格ならば、役員は兎も角、社員達は梓を会長として受け入れるだろう。
上手くすれば、梓を中心とした特別枠入社者は、将来鶴来屋の中核を成す存在となる。
万が一にも再開発の失敗、社内の反発と言った事態に陥っても。千鶴と耕一が責任を取って辞めれば、鶴来屋の後任会長には梓が就くだろう。
その為に、これ程早く梓を役員にしようとしている。
それが美冬の出した結論だった。
美冬に睨み付けられた耕一は、サウナの湿度の為だけではない汗を滴らせながら、頭をぼりぼり掻くと首を傾げた。
「美冬、どうして聞くんだ?」
「どうしてって?」
「お前らしくもない、公私混同じゃないのか?」
うっと詰まった美冬は、唇を噛んで視線を逸らした。
耕一の言う通りだ。
鶴来屋と佐久間の社運を掛けた一大プロジェクトである隆山再開発。
その手の内、まして鶴来屋上層部の動向をも左右しかねない情報を耕一に尋ねても、仕事となれば敵になりかねない美冬に話す筈がない。
以前の美冬なら、耕一に確認するなどと馬鹿げた真似はしなかった、素知らぬ顔で得られた情報の使い道を真っ先に考えていただろう。
「それにな。そう思ってんなら、なんで俺を雇おうなんて考えたんだ?」
自分でも気付かない内に耕一の事情に深入りしていた美冬は、こめかみに細い指を押し当てながら吐き出すように言った。
「帰る時も考えたわ。耕一は巫結花と同じ道を進むと思って話さなかったの」
帰国する際、実冬は耕一の才覚と知識欲を買って一緒に来ないか誘うつもりだった。しかし深く悩み一心に巫結花と行を続ける耕一を、求道を心指す者だと考えて諦めたのだ。
「気持ちは嬉しいけど、もう無理だな」
「いいわよ。そう言うと思ってた」
「悪いな」
ふっと息を吐いた美冬は、手を顔の前に上げて見せる耕一を横目で見ながらミネラルウォーターのボトルを口に運び、無念に感じて騒ぐ心を落ち着けた。
「にぶちん」
「はっ?」
もう無理。と言う事は、半年前なら耕一は来たのかも知れない。
少なくとも美冬には、そう聞こえた。
「にぶちんの唐変木。あなたの評価、梓のだけど」
優しいのか鈍いのか、単に気付かなかっただけか。心を騒がせた台詞のお返しを梓のせいにして、美冬は小さく舌を出して見せる。
耕一は眉間に皺を寄せた渋い顔を作り、美冬の軽口に苦笑で応えた。
「ったく。お前らは、俺の悪口ばっかネタにしてるのか?」
「千鶴には敏感ね」
意味ありげに肩をすくめ、美冬は口元に運んだボトル越しに見える歪んだ耕一の姿を盗み見て反応を伺う。
軽口を織り交ぜながら、二人の間に流れる緊張した空気は弛むことがない。互いに相手の言葉の裏に隠された真意を探り合うように言葉を交わす。
微かに眼を細めた耕一は、考えを巡らしながらスッと手を差し出す。
美冬が持っていたボトルを差し出すと、ミネラルウォーターを口にした耕一は大きく息を継いだ。
「それが距離を置けって理由か?」
「過敏過ぎない? あれじゃあ、知ってるって教えてるようなものよ」
美冬も千鶴の前で秘書と上司の不倫の多さをからかいネタにしたのは不味かったと思う。しかし耕一が無視すれば只の軽口で済んだ筈だ。
「話してくれた。だから、ああいうのはな」
「悪かったわ」
耕一が鶴来屋に出入りするようになれば嫌でも噂を耳にするだろうが、醜聞を本人から恋人に話すには信頼と勇気が必要だろう。
軽い驚きを覚えつつも、美冬は何食わぬ顔で謝罪を口にして、一息置いて言葉を継いだ。
「私の所で経験を積んで人脈とノウハウを手に入れれば、あなたにもいいと思ったんだけどな。何も今から地方に引き籠もってあの子達の楯にならなくてもいいと思うけど、世界は広いわ」
「世界ねぇ、興味ないな」
「鶴来屋にもね」
ボトルを手の中で弄んでいた耕一は、美冬の言葉に頬に苦い笑いを刻んだ顔を上げた。
耕一の苦い笑いを見て、美冬は確信を深めた。
地位や名声を求めての野心、向上心や自立心など人を動かす動機は様々ある。
地位や名声に無頓着だった耕一を動かしているものを、美冬も最初は力試しや向上心が動機かと思っていた。しかし耕一は、自分を利する方向とは異なった動き方をしている。
まして耕一が使うとは、美冬には到底信じられない方法までを用いている。
恋人の千鶴や従妹達が野心家なら、美冬は彼女らの為に耕一が動いている可能性を考えただろう。
しかし千鶴や梓には財産や地位に執着している様子すらない。いや、むしろ美冬が彼女達から受けた印象では、早く耕一に譲りたがっているように思える。
そして、千鶴が無理を押してまで会長になりながら、半年あまり変化のない業務態勢。
この隆山でのみ肥大している鶴来屋の力。
警察や県議会と言った社会的な権力を動かす程の力。
「耕一、あなたの興味の対象は、従姉妹だけね? 千鶴も同じね」
耕一や千鶴は、家族以外に気に掛ける対象を持っていない。
二人とも物より心を重視し、静かに暮らせる環境だけで満足するタイプの人間だった。
それでいながら、静かな暮らしが遠退くのを承知で更なる力を求めている。
一見矛盾した行為と思える情報から、美冬は一つの答えを導いていた。
「興味なら色々あるぜ。今夜の食事とかな」
まさか美冬が自分から深入りして来るとは思っていなかった耕一は、惚けた答えを返しながら内心の焦りを隠してベンチの背に寄り掛ると天井を見上げた。
美冬は耕一の様子を伺いながら、緊張のあまりひりひりする喉で息を継いだ。
導き出した答えが正解なら、これ以上踏み込むのは耕一の信頼を裏切る結果にもなる。
「さっきの話だけど。耕一、私の予想が当たっていたとしてよ」
「うん?」
話を戻した美冬に訝しげな視線を向けた耕一は、天井に向けていた視線と一緒に上体をゆっくり起こした。
話せない事柄に踏み込んだのを指摘され、それでも事情に踏み込もうとするのは美冬らしくない態度だ。
「佐久間と鶴来屋の資本力は、あなたの言う通り比較にならない。でも、資金と情報を互角以上にする方法はあるんじゃない」
ジッと見詰める真剣な瞳に苦笑を浮かべた耕一は、玉となって落ちる額の汗を腕で拭い喉の乾きを潤そうとボトルを持ち上げた。
「資本提携を考えてたのか? それなら休暇が終わってから、正規のルートで交渉しろよ」
美冬の会社の資本と情報があれば、確実に佐久間より優位に立てる。
「千鶴と取り引きするつもりはないわ」
ボトルを持ち上げた手が止まり、耕一の眉がぴくんと跳ねる。
耕一の僅かな表情の変化も見逃さない鋭い視線を据えたまま、美冬はもう一度繰り返した。
「千鶴とは取り引きしない。いいえ、鶴来屋ともね」
「どういうつもりだ?」
険しい表情で睨む耕一を見詰めたまま、美冬は気圧されぬように気を引き締めた。
「あなたと取り引きしたい」
「俺に取り引きするような物なんかない」
「あるわ。私のコネクションと資産による全面的支援が条件」
一瞬も視線を逸らさず見詰める美冬の提案に耕一は息を飲んだ。
美冬の持つ情報網や人脈、資産。
それは将来美冬が受け継ぐ数兆に及ぶ資産と、事経済情報に掛けては一国に匹敵すると言われる華僑の情報によるバックアップ。
現在の情報化社会に置いて、華僑の情報を自由に出来るメリットは何物にも代え難い絶大な武器になる。
しかし馬鹿げた提案だった。
耕一が失敗すれば、それは即美冬の失敗にも繋がる。
「らしくもない」
先に眼を逸らしたのは耕一だった。
先程からの常と違う美冬の様子。
注がれている切迫した真剣な眼差しが、美冬の要求している物を耕一に確信させていた。
美冬自身の命とも言うべき全てを対価に求めている物。
しかしそれは、美冬には何ら価値の無い物。
友情と信頼に寄って忘れると誓った筈だった。
いや、そもそもこの話を始めた時点で、美冬は耕一の信頼を裏切っていた。
そして耕一には、断る事が双方にとってもっとも正しいと判っていた。
しかし耕一は、即座に断る事が出来なかった。
「そうね。馬鹿をやってみたくなったの」
視線による圧迫がなくなった美冬は、耕一に低く苦い声音に柔らかく微笑む。
「答えは帰るまででいいわ。それを過ぎたら……」
静かに瞼を閉じた美冬は、耕一の視線が自分に戻されたのを感じてゆっくりと瞳を開けた。
「この話は、二度と持ち出さない」
耕一は無言で美冬の笑みを見詰めるだけだった。