十一章
 

 耕一や千鶴より先に風呂から上がった美冬達は、海側に面した窓から庭園を見下ろせる座敷の一つで浴衣に丹前を羽織り思い思いにくつろいでいた。
 美冬と巫結花は窓辺近くに腰を下ろし、開けた窓から流れ込む磯の香を楽しみ、月明かりに照らされ遠い波間に揺れる漁り火をぼんやりと眺めていた。
 空には半月より僅かに膨らみを取り戻した月に、薄い墨を流したような雲が掛り、波間で揺れる光を映したような星が小さく瞬いている。
 窓の下の方から、時折風に乗り静かな潮騒のざわめきが聞こえてくる。
 初音と楓、梓は部屋の中央で漆黒の大きなテーブルを囲み、湯上がりの火照った身体を気持ちよく冷やしてくれる風の流れを楽しみながら、気怠そうに座椅子に寄り掛り、楓が入れたお茶をふ〜ふ〜冷ましながら口に運んでいる。
 みな長風呂が過ぎて少々くたびれている様子だ。

 そんなくつろいだ雰囲気の中、部屋の片隅で影のように控えた只一人の男性――柳だけが背広を着込み、正座した足を崩そうとしない。
 柳は静かに近寄る人の気配を感じ、瞑目していた瞼を開け静かに視線を上げた。
 真っ直ぐ向けられた視線に戸惑い足を止めた楓は、ぎこちなく頬に笑みを浮かべ膝を折って茶托に載せたお茶を柳の前に差し出した。

「あの、どうぞ」
「恐れ入ります」

 柳は両手を足の付け根に置き深々と頭を下げる。
 酷く堅苦しい柳の態度に当惑しつつも、楓は軽く黙礼を返し静かに腰を上げる。
 浴衣の襟元を広げパタパタと手で扇いでいた美冬は、柳と楓のやり取りを聞くともなく耳に入れ、テーブルに戻ってきた楓に話しかける。

「楓、柳の事は気にしないでね」
「えっ?」

 下ろし掛けていた腰を止め、テーブルに手を付いたまま首を巡らした楓に微笑んで続ける。

「彼、礼儀とか因習に凝り固まっててね。気詰まりだと思うけど」
「あ、いいえ」

 ごめんね、と小さく手を合わせる美冬に楓はふるふると首を振る。
 
「美冬お姉ちゃん、因習ってどういう?」
「席次とか目上を敬うとかだけど、ちょっと極端なのよ」

 キョトンとした顔で首を傾げる初音に説明し、美冬は柳眉を寄せた。
 簡単に説明しきれる程単純な物ではないのだ。

「日本でも昔はあったと思うけど。私達の所って食事の席一つで今でももめるの。必ず一人位は、どうしてあいつより俺が下なんだって言い出すのがいるのよ」
「ああ、聞いたことはあるよ。でも、今でもそうなの?」
「ええ、馬鹿馬鹿しいでしょ? 最近は面倒だから立食形式にしたけどね」
「えっと、でもそれなら私達の方が年下だし」

 美冬の説明に、初音は柳の方を伺いながら尋ねた。

「初音達は気にしなくていいのよ。巫結花や私の友達だもの、この中で一番下になるのは柳だから」
「しっ、下って?」

 人を上とか下で考えた事のない初音は、ますます困った顔になった。
 楓や梓もよく判らない顔で首を傾げている。

「まあ、柳のことは使用人ぐらいに考えて貰えると助かるんだけど。その辺の事情は耕一が詳しく知ってるからね。面倒だと思うけど、お願い」

 どう説明しても初音達には理解出来ないだろうと思った美冬は、説明を諦めて両手を合わせて拝む。
 どだい文化的な相違が一日二日で埋まる筈もない。

「…ええ」
「…うん」

 理解したというより美冬に拝まれて仕方なく。と言った風に初音と楓は互いに顔を見合わせながら頷き。

「知ってるって? 耕一がなんで?」

 梓は一頻り首を捻った。

「色々と人間関係が複雑だから、巫結花の家で教え込んだからね。あいつもかなり失敗して苦労してたわよ」
「そんなに複雑なの?」
「まあ。その時の立場とか交友関係で上下関係が微妙に変わってくるから」
「へ〜」

 遠慮がちに聞いた梓は、何となく耕一がやたらと立場や人間関係を気にしていた理由がその辺にある気がして、考えながら気のない返事を返す。

「それにしても、耕一達は遅いわね」
「あっ、ああ。そうだな先に始めようか?」
「でも、梓お姉ちゃん」
「料理運んで貰ってる間に来るって。電話入れるよ」

 待ってようよ。と言う初音に片手を振り、梓は料理を運んで貰おうと受話器に手を伸ばした。
 

 耕一は座敷の廊下で、所在なさげにぽりぽりと頬を掻いていた。
 座敷の入り口に立つ耕一から少し離れた廊下では、千鶴が年嵩の仲居と何事か相談している。
 座敷前の廊下で、千鶴が年嵩の仲居に呼び止められた為だが。足立の話し通り、耕一は今や鶴来屋の中では話題の中心人物のようだ。
 風呂場から座敷までの道すがらでも時々ひそひそやっている従業員の視線を感じたが。座敷前の廊下を忙しく行き来する仲居達の好奇の視線が耕一を値定めするように向けられていた。
 年輩の仲居達は良く教育されているようで、時折興味本位の視線を耕一に向けた若い仲居が、先輩の仲居に睨まれ慌てて足早に立ち去って行く。
 若い仲居達は千鶴と年齢がそう違わないだけに、身近な対象に想像力を刺激され好奇心を掻き立てられるのだろう。
 その好奇心に羨望や嫉妬が加わり、より刺激的な噂を求めて憶測が乱れ飛ぶ。
 耕一も覚悟はしていたが、興味が先行した好奇の視線を身を持って味わうと鬱陶しい限りだ。
 改めて千鶴は良くも耐えていた。と、耕一は嘆息しつつ仲居と話す千鶴の横顔を静かに眺めた。

 小さく一つ頷いて仲居に指示を与えた千鶴は、仲居が立ち去るのを待って耕一の元に戻ってきた。

「何か問題?」

 トラブルでも起こったのかと心配になった耕一が尋ねると、苦笑を浮かべた千鶴は小さく頭を振る。

「問題と言うほどでは…実は私達とは別に、柳さんに簡単な物を用意するように頼まれたそうでして」
「ああ…なるほどね」

 大方の察しが付いた耕一は、苦笑いで頷く。
 
 柳の従者という立場は、周囲に取ってはかなり複雑な物だ。
 家に雇われた使用人でない柳には、自分が主と定めた巫結花以外、礼や忠誠を払う相手はいないし周囲の目を気にすることもない。
 だが周囲の者達には、柳を軽んじれば巫結花を侮辱する事にもなる一方、巫結花と従者を同等に扱う訳にもいかない。
 丁寧すぎず非礼にもならない対応に苦慮するのだ。
 もっとも耕一達は巫結花が友人として扱っているので、巫結花とは対等の立場で柳への対応に気を使う必要はない。
 しかし逆に柳には、主の友人への非礼は主をも辱める行為になる。
 その非礼に当たる部分が、少々今の日本人の感覚からズレているので、耕一もいずれ説明が必要になるだろうと思っていた。
 柳の感覚では主やその友人は自分より高い身分の人間であり、畏敬の念を払うのは当然。
 対等に膳を囲み、一つ皿から同じ物を口にするのは無礼に当たるのだろう。
 だが一方では、食事を勧められて断るのも礼を失する。

「高い身分ですか? 一応、同じ物を別のお膳に用意するように伝えましたけれど」

 耕一の説明に、千鶴は何となく不思議そうな顔で首を傾げる。

「それでいいと思うよ。巫結花が食べ終わるまで待つのが普通だから、膳を別にしても同席するなら柳にしてはかなりの譲歩だと思うし」
「じゃあ、お風呂をお断りになったのも?」

 千鶴達は柳にも温泉に入るように勧めていた。だが柳は言葉少なに断り、巫結花の入浴中は浴場の外で待機していた。

「風呂も巫結花が寝てからだったな。まあ、帰ってから風呂場を教えとくよ。でも、あいつの扱いが一番大変かも知れない」
「美冬さんや巫結花さんを見ていると、そうは思いませんでしたけれど。階級社会のしきたりが根強いんですね」
「まあね。巫結花の世話をするだけで害はないから、柳は放っておくのが一番だと思うよ」

 少し諦めの入った耕一の言い方に、千鶴は僅かに上目を上げ不満そうな視線を向ける。

「こちらからお招きして、そう言うわけにはいきません」
「う〜ん、だからさ。柳は自分が招かれたと思ってないって事なんだけどな」

 千鶴の強い口調にどう言えばいいのか困りながら、耕一は指で頭を掻き回す。

「えっと。招かれたのは美冬と巫結花で、自分は主人の世話をしに付いて来ただけ。ってのがあいつの考え方だから、千鶴さん達に気を使われると柳の方が困ると思うんだ」
「それは。おもてなししないのが、柳さんには一番いいって事ですか?」
「そうなるね」

 納得できないといった風に見上げる千鶴に、耕一は苦笑を抑えて頷き返した。

「普通でいいんだよ。友達っていうか、そう言う感じでさ。美冬や巫結花も、そう望んでるし」
「友達…ですか」

 微かに目を伏せた千鶴は、自分に聞かせるように呟く。
 千鶴は、客の扱いならば充分に心得ていた。
 しかし友達と客への対応の差、というものが判然としない。

「そう、客扱いしなけりゃ変に気を使うこともないしね…やっぱり家に泊めない方が良かったかな?」
「いいえ…でも、そういったお付き合いの仕方って、あまりした事が無かったものですから」

 心配そうに耕一が聞くと、千鶴ははにかんだ笑みで素直に言葉にした。

「まあ、食事は別にするとして。後は普通にしてればいいよ」
「そうですね。厚意の押し付けになっても、かえって失礼になりますし」

 軽く笑いながら耕一が言うと、千鶴はこくんと頷く。
 頷いた千鶴の頭越しに、廊下の向こうから先程話していた仲居が膳を運んでくるのを見つけた耕一は、千鶴を促して座敷に足を進めた。

「あっ、耕一お兄ちゃん。千鶴お姉ちゃん」
「……」
「随分とゆっくりだったな」

 耕一と千鶴が入っていくと、初音と楓の笑顔と梓の皮肉ッぽい笑みが二人を迎えてくれた。

「お待たせ」
「お待たせしました」
「先にやってるわよ」

 長方形のテーブルの幅の広い方に座った美冬が、対面に腰を下ろした千鶴と耕一にお猪口を軽く上げて見せる。
 テーブルの真ん中には鯛の活け作りが置かれ、和え物や山菜、天ぷらなどがずらりと並んでいる。
 美冬の隣に座った巫結花は、貝柱をスライスし木の芽を味噌で和えた物を小鉢から静かに口に運びゆっくりと租借していた。
 幅の狭い方、美冬の側では梓がお猪口を手にして微かに頬を染め。梓の正面に座った楓は、いつもながら黙々と料理を口に運んでいる。

 皆浴衣の上に丹前という、お約束の艶姿だ。
 襟元から除く風呂上がりの肌は微妙に上気し、若い肌がつやつやと桜色に輝き実に色っぽい。
 約二名だけ、酒のせいだろう首筋が桜色から赤身がかっている。

「梓、大丈夫なの?」
「平気平気、酒は百薬の長ってね。美冬さん、もう一杯」

 千鶴の心配そうな問いを笑い飛ばした梓は、徳利を掴むと美冬の猪口になみなみと酒を注ぐ。
 だが梓の笑いは、どことなくいつもの豪快さに欠けていた。

「美冬、どうだ日本酒の味は?」
「魚によく合って美味しいわ」
「耕一お兄ちゃん」
「あっ、ありがとう初音ちゃん」

 徳利を持った初音に呼ばれて、耕一も猪口を取り上げる。
 ちなみに耕一達は梓の方から見て、千鶴と耕一、初音の順でテーブルに着いている。

「ぷはっ! 湯上がりの一杯は最高っ」
「ふふっ、耕一さんって本当に美味しそうに召し上がりますよね」

 千鶴は一気にお猪口を空けた耕一に微笑みながら、手にした徳利を差し出す。
 耕一もお猪口を差し出し、千鶴のお酌でまたも一気に空ける。

「くぅ〜、幸せだなっ」
「お兄ちゃん、お刺身も美味しいよ」
「うん。料理も楽しまないとね」

 初音はかいがいしく、耕一に大皿から活け作りを取り分けてくれる。
 刺身を箸で摘みたまりに付けて口に運ぶ耕一を、初音は嬉しそうに横から覗き込んでいる。

「どう、お兄ちゃん?」
「うん、とっても美味しいよ。おっと、そうだった。ご返杯を忘れちゃいけないよね」
「えっ? わたしはいいよ。千鶴お姉ちゃんに勧めて上げて」
「そう? じゃあ、千鶴さん」
「そうですか? じゃあ一杯だけ」
「うんうん、後は食べてからゆっくりとね」     

 嬉しそうに頷いた耕一は、微妙に困った嬉しそうな顔でお猪口を取り上げた千鶴に酒を注ぐ。
 呑むのを見られているのが恥ずかしいのだろう、千鶴は頬を染め口元を手で隠しながら猪口を傾ける。
 持ち上げられた頤(おとがい)から覗く、仄かな朱色に上気した首筋がゆっくり喉を流れ落ちる酒にあわせ上下する様は、筆舌に尽くしがたいほど艶めかしい。

「……そんなに…見詰めないで下さい」

 ほっ〜と吐息を吐いた千鶴は呑む間中ジッと見惚れていた耕一を、赤い頬で微笑みながらも恥ずかしそう上目遣いに少し睨むような目で見ながら猪口を戻した。

「あっ?ははっ。美冬、まあ一杯! ほら梓もっ!」

 睨まれて急に気恥ずかしくなったのか、耕一は慌てて美冬と梓に徳利を差し出す。

「じゃあ」
「うん」

 半ば呆れ顔の二人に酒を勧め。それぞれの返杯を受けてから、気を取り直して耕一は料理を食べ始めた。
 季節柄だろう、天ぷらを始め山菜をメインの食材に使った料理は酒によく合った。
 耕一達はたらふく食い、千鶴と初音、食事を終えた楓に勧められるまま杯を重ねた耕一達のテーブルには、すぐに空の徳利が並ぶ。

「少し頼りないかと思ったけど。日本酒って料理に合うのね」
「地酒なんですけれど。お気に召して頂けてよかったですわ」

 目元をじんわり赤くしてご満悦状態の美冬に、こちらも朱の差した目元で襟元を直す千鶴が嬉しそうに答える。

「魚料理には白ワインより日本酒の方が合いそう。今度試してみようかな」
「おいおい。フランス料理かイタリヤ料理の店にでも酒持ち込む気か?」
「料理に合えばいいのよ」
「美冬さん、そりゃよした方がいいよ」
「そうだよな」

 料理を食べ終え追加を頼んだ酒の来る間、たわいのない会話に花が咲く。
 いつもより口数の少なかった梓も、酒が回ってきたのか普段の調子を取り戻してきたようだ。

「初音ちゃん、楓ちゃんにも今度は俺がお酌させてもらおっかな」

 話しの合間にも耕一はジュースの瓶を差し出し、楓と初音の手にしたコップに注いでいく。
 巫結花も食後のお茶を呑みながら、ほろ酔い気分の四人に微笑を浮かべながら雰囲気を楽しんでいた。

「冗談よ。じょ〜だん」

 今日は本当に酔っているらしい美冬がけらけら笑っていると、静かな控えめな声に続いて戸が開いた。

「楽しんで頂けているようですね」

 そう声を掛けられて見ると、追加の酒を運んで来た仲居と一緒に足立の姿があった。

「あっ、どうも」
「ご挨拶に伺っただけですから」

 慌てて居住まいを正そうとした耕一と千鶴を手でやんわり制し、入り口近くに向けられていた足立の目元が少し不思議そうに細くなる。
 しかしそれも一瞬、すぐに笑顔に戻るとテーブルの上を片付け追加の酒を置いた仲居達が退出した戸を静かに閉めると。足立はテーブルから少し離れた部屋の中央で膝を折って腰を下ろした。

「今日は土地の物を中心にしてみましたが、如何でしたでしょう? お楽しみ頂けましたでしょうか?」
「あっさりしていて、とても美味しかったですわ。それに地酒でしたね? とても口当たりが良くて美味しいですわ。久ぶりに充足した時間を過ごさせて頂いています」
「お褒めに与り、恐縮です」

 黙礼した巫結花と美冬の満足そうな笑みを添えた礼に会釈を返し、足立は問い掛けるように千鶴と耕一に目を向け、先程視線を向けていた入り口に目を移した。
 そこでは柳が一人静かに食事を進めている。
 結局、柳は巫結花が食事を終えるまで膳に箸を付けようとしなかったのだ。

 何か不手際でもあって別に膳を設えてあるのか? と、問う足立の視線に耕一は愛想笑いを返しながら困ったように頭を掻いた。

「なんて言うか。その、儒教の精神って奴でして」
「…儒教…そうでしたか?」

 足立は考える顔付きで小さく呟き、得心がいったように頷く。

「彼の事は気になさらないで下さい。本人の意思で行っていることですから」

 美冬は足立にと言うより、部屋にいた姉妹達に聞かせるように千鶴や梓、楓、初音に視線を移しながら言った。

「いえ、どうぞお気遣いなく」

 美冬の視線に気付かなかった訳では無いだろうが、足立は頭を下げて応えた。
 客側のしきたりであれば、こういった質問そのものが出過ぎた真似でしかない。
 美冬は足立の謝罪を汲み取り軽く首を振ると、猪口を取り上げ足立に差し出す。

「社長さん、受けていただけます?」
「これはどうも。では一杯だけ」

 足立が両手で受け取った猪口に酒を注ぎながら、美冬はにっこり微笑む。

「素晴らしい旅館ですわ。私なら星三つか四つを差し上げますわ」
「ありがとうございます。では頂戴いたします」
「三つか四つ? 辛くないか?」

 杯を空ける足立の隣から、耕一が不満そうに口を挟む。
 五つ星が評価の最高ランクであるから、四つと言えば評価としてはかなり高い。
 しかし王族が使う一流ホテルは、星五つが多い。

「半日で五つは上げられないわよ。もっと良く知ってからで無いとね」
「慎重だな」
「慎重なつもりだったけどね」

 耕一の強くなった視線に先程出した提案の無謀さを仄めかす色を感じ、美冬は自分でも呆れていると言うように苦く笑った。

「耕一君、まだまだ改善の余地があると言うことだよ。目指す目標が出来ていいんじゃないかな」

 足立は急に真剣みを帯びた耕一の視線を不思議がり、評価の低さに気を悪くしたのかと口を挟んだ。

「耕一君とは、留学中にお知り合いになられたそうですね」
「大学最後で有意義な留学になりました。もっとも、今でも学生ですけど」
「そういえば、ビジネススクールに在籍していらしたんですよね?」

 足立と耕一に応対を任せて聞いていた千鶴は、ふと疑問が湧いて尋ねた。
 日本でマネージャーに就任すれば、学校には通えないはずだ。
 美冬は千鶴の疑問を感じ取ったように苦く微笑む。

「在籍してた方が有利なの。肩書き的にね」
「有利?」

 学生のままの方が有利だという美冬の言葉に、千鶴は首を傾げる。

「ハーバードビジネススクール。正確には、ハーバード大学ケネディ校在籍」
「立派な学歴ですね」

 どうでも良さそうに言った美冬の学歴に、足立と千鶴、楓は驚いたように目を開き美冬を見直した。
 初音や梓は有名な大学なのは知っていても、千鶴達の驚きが今一つよく判っていないようだ。
 二人とも首を傾げている。

「お兄ちゃん、ハーバードってそんなに凄いの?」

 千鶴と足立の様子に初音が耕一の腕を引き聞いてくる。

「う〜ん。こっちでいうと東大になるね」

 ハーバードと言えば、世界でも一流中の一流大学だ。
 その中でも故ケネディ大統領の名を冠するケネディ校は、アメリカ国家の政治経済中枢を担うトップエリート育成機関として知られている。
 世界各地からの留学生をも広く受け入れ、世界の政治経済を次代に於て大きく左右する者達の学舎となっている。

 簡単に耕一が説明すると、初音も梓も目を丸くして美冬に感心した目を向ける。

「どうぞ、返杯を受けていただけますか?」
「でも、卒業したって言ってなかった?」
「あっ、どうも。うん、大学は卒業したわよ」

 足立に勧められた返杯を受けながら梓に応え、美冬は満足そうに杯を空ける。
 
「ケネディ校は大学院になるんだったな」
「ええ。学歴重視の日本では、特に有利でしょ?」
「あ? うん」

 揶揄する響きを込めて尋ねられた梓は、照れ臭くなって小さく頷く。
 学歴を聞いただけで、僅かだが梓の美冬を見る目が変わっている。
 利用できる物はなんでも利用すると言った言葉通り、学歴も取引などで美冬に有利に働くのだろう。と梓は納得した。
 照れ臭そうに頭を掻く梓を見ていた耕一が手を猪口にかけると、楓がスッと腰を上げ徳利を差し出してくれた。

「おっ、ありがと楓ちゃん」
「…いえ」

 仄かに頬を染めて酒を注ぐ楓は微かに髪を揺らす。

「楓ちゃんも一杯だけ、どう?」
「えっ?」

 美味そうに杯を空けた耕一に勧められ、楓は困った顔で唇に指を当てる。

「ワインには慣れたみたいだし、熱燗ならすぐ抜けるから。初音ちゃんも一杯だけ」
「えっ、わたしも?」
「……」
 
 顔を見合わせた初音と楓は、チラリと千鶴に視線を走らせる。
 千鶴は足立を気にしながらも、仕方ないわね。という顔でコクンと頷く。

「……はい」
「お兄ちゃん、少しだけにしてね」

 そう言いつつ、楓と初音は猪口を手にする。
 八分目ほど注がれた猪口を両手で口元に運び、初音と楓は暖められた酒精の鼻を突く匂いに僅かに眉を寄せ、クッと杯を空けた。
 暖かい酒の喉ごしに二人はふ〜っと吐息を吐き出す。
 見る見る朱に染まる頬が何とも艶っぽい。

「うんうん。じゃあもう一杯……」
「耕一君。初音ちゃん達には、まだ早いんじゃないかい?」
「あ、はい」

 調子に乗って二人に徳利を差し出そうとした耕一は、背中から足立にいさめられてハハッっと苦く笑う。
 耕一の苦笑いを見て、初音と楓もクスッと可笑しそうな笑いを洩らした。

「あのね、お兄ちゃん。柳さんにお酒勧めなくていいのかな?」

 笑っていた初音は柳に視線を走らせ、耕一に徳利を上げて見せる。

 初音はずっと一人だけ離れて座る柳の事を気に掛けていた。
 しかし美冬から柳には構わないよう言われていたので、無理に勧めるのも悪いと思い控えていたのだ。

「そうだね。食事も終わったみたいだし、勧めてみようか?」
「うん」

 初音は邪気の無い笑顔で頷くと、スッと腰を上げ柳の元にとことこと足を進める。
 耕一も初音だけだと不安なので後を追う。

「あの柳さん」

 きっちりと正座した柳の膳の前にちょこんと腰を下ろした初音は、呼びかけながら徳利を示してみせる。

「いえ。私は……」
「そう言わずに。いける口だっただろ?」

 耕一は僅かに初音に向けて上げた目を伏せ、断りかけた柳を遮り言う。

「あの。もしかして柳さん、お酒はお嫌いですか?」
「…いえ」

 迷惑でないか心配そうに尋ねる初音の声音に伏せていた視線を横にずらし、柳は許しを請うように主の横顔を伺う。
 巫結花は口に運んでいた湯飲みの動きを止め、柳の方を見ずに静かに顎を引く。

「まあ、一杯だけ」
「頂戴いたします」

 ゆっくりと猪口を取り上げた柳は、両手で捧げ持つように猪口を差し出す。
 初音が静かに酒を注ぐと、柳は顔を初音から逸らして横を向く。
 滑らかな動作で猪口を口に運び、片手で口元を隠しながらクッと一息に空け。猪口の口元を指で拭い膳に戻した柳は、初音に向き直り姿勢を正すと深々と腰を折った。

「ありがとうございます」
「あっ、えと。いえ」

 頭を下げられておろおろ見上げる初音の頭に手を置き、耕一は安心させるようにゆっくりと撫でた。

「じゃあ、後は手酌で好きにやってくれていいから」
「はい」

 耕一はそう言うと、柳の丁重すぎる態度に戸惑っている初音を促してテーブルに戻った。
 テーブルに戻ると初音はぎこちなく微笑みながら耕一を見上げた。

「耕一お兄ちゃん、お酒勧めない方が良かったのかな?」
「心配しなくても、柳は酒が好きだよ」
「そうなの?」

 初音が握った拳を胸に当て心配そうに柳を伺うと、耕一の言葉を裏付けるように柳は姿勢を正したまま静かに杯を重ねている。

「初音、ごめんね。作法で、三度勧められるまで呑んじゃいけないのよ」
「えっ?」

 柳の様子にほっと息を吐いた初音は、美冬の声にパッと顔を上げた。
 初音の頭を撫でながら、耕一は思い出しながら口を開く。

「一度目で受けるのは、がっついているようでみっともない。二度目は相手に敬意を表し断るのが礼儀。三度勧められて断るのは失礼になる。だったっけ?」
「まあ、そんなトコ。耕一は随分失敗したわよね」

 頷いて耕一をからかい、美冬は初音に笑い掛ける。
 初音は美冬の笑顔に微笑み返しながらも、柳が顔を背けたのを気を悪くしたからじゃないかと気になっていた。

「でも、柳さん横向いちゃうし……」
「ああ、あれね。相手に酒精を帯びた息を掛けるのは失礼だし、お酒を飲む口元を見せるのも礼儀に反するからよ。だから気にしないでね」

 美冬の説明と隣で頷く巫結花の静かな瞳で、初音はやっと安心した笑顔を見せて頷く。

「厳格に教えを守られているんですね」
「ええ、厳格すぎて困ってますの。もう少し融通が利くと助かるんですけど」

 感心した足立の呟きに美冬は頷いて溜息を洩らし、千鶴の溜息混じりの呟きが重なる。

「柳さんに礼儀を仕込んで貰おうかしら」
「誰に?」
「梓に」

 棘の含んだ梓の問いへ、チロッと横目で視線を流した千鶴の返答は簡潔の一言に尽きた。

「くっ、耕一だって失敗したってさ」

 あまりに簡潔に返されて歯がみした梓は、なっと美冬の方に話しを振る。

「張氏の弟子達は無礼だって殺気だってたわね。お客でなかったら闇討ちされてたわよ」
「勧められたから呑んだだけだよ」

 闇討ちと聞いて驚いた視線を向ける姉妹に向かって、耕一は大袈裟なんだよ。と苦く笑い両手を振って見せる。

「耕一さん、お酒に無節操です」
「がばがば呑むからな。困ったもんだ」
「少し控えられたら如何ですか?」

 こういう時だけ妙に鋭くなる楓の突っ込みに、腕を組んで睨む梓と眉を顰めた千鶴までが乗ってくる。

「耕一お兄ちゃん、家で呑むのはいいから」

 初音までが心配そうに、暗に外では酒を控えろと言う。

「それじゃ、俺が大酒呑みに聞こえるだろ」

 何となく情けなくなった耕一のぼやきに。

「…でも…」
「なあ」
「そうよね」

 楓は唇を指で押さえながら上目を耕一に向け、梓は千鶴と顔を見合わせて頷き合う。
 初音はぎこちない微笑みを浮かべているだけ。
 誰も違うとは言ってくれない。

「耕一君、そんなに呑むのかい?」
「足立さん、酒に飲まれるほど呑みませんよ」

 足立までが心配そうに尋ねてくると、耕一も堪らなくなって強い口調で否定した。

「それならいいけど。若い間はつい勢いに任せて飲み過ぎがちになるからね」

 ぽんぽん肩を叩いて忠告する足立の様子は、姉妹の反応から耕一の酒癖がかなり悪いと判断したようだ。

「足立さん、ホントに俺そんなに呑みませんって」
「うんうん、判るよ。私にも覚えはあるよ」

 ぶすっとした耕一を宥める足立は、完全に誤解している。

「ああ、そうだ。梓ちゃん」

 一頻り耕一に理解を示した足立は、思い出したように梓に目を向けた。

「あっ、はい」

 梓は足立に呼ばれて緊張した面持ちになる。
 千鶴から足立と話すように言われていたが。みんな一緒の今日は無理だし、梓は明日にでも鶴来屋に足立を訪ねるつもりだった。

「明後日なんだけど、時間空いてるかい?」
「…明後日? 空いてます」

 今で無いのが判って気抜けした返事をした梓は、気を引き締めてゆっくりと頷く。
 真剣な梓の気を緩める人好きのする笑顔を浮かべた足立は、ゆっくり口を開く。 

「実は明後日の昼頃、カニのいいのが入ることになっててね。よかったらどうかと思ってね」
「…カニ…ですか?」
「カニか。鍋なんかいいよな」

 気抜けして呟く梓からみんなの注意を逸らすように耕一は言う。
 変に緊張している梓の様子は、不自然きわまりない。
 わざわざ梓一人でも鶴来屋に来やすいよう、用を作ってくれた足立の配慮が台無しだ。

「お兄ちゃん、カニのお鍋が好きなの?」

 初音が聞くと、耕一は大袈裟に頷く。

「うん。ほら、身を取り出すのが面倒だけどさ。食べ終わった後に雑炊にすると美味いんだよね」
「うん。栄養もあるしね」
「あの。じゃあ、明後日の昼過ぎに取りに来ればいいですか?」

 楽しそうに話す初音と耕一を横目で苛立たしそうに見て、梓は足立に尋ねた。

「届けさせてもいいんだけど。梓ちゃんに気に入ってのを選んで貰った方がいいだろうと思ってね。帰りは送らせるから頼めるかい?」
「ええ。はい」

 力を入れて頷く梓に少し困ったような笑いで頷き、足立は美冬と巫結花に目を戻した。

「それでは、私はまだご挨拶が残っておりますので」
「ええ、残念ですけど。またごゆっくりお話ししたい物ですわ」

 美冬と儀礼的な挨拶を交わすと、足立は座敷を後にした。
 出口で膝を折り引き戸を閉める足立を見る梓の妙に力の入った様子に、耕一と千鶴はお互いの顔を伺い小さく溜息を吐いた。
 まるで決闘にでも赴くような力の入りようだ。
 この分では、足立は相当苦労させられるだろう。

 足立さんに任せて正しかったの? と、この時千鶴の中に葛藤が湧いた。
 妹を他人に任せる不安と疑惑。
 自分から妹の手を離してしまったような不安と、他人の足立が千鶴達の望んでいる方向に妹を導いてくれるのかといった疑惑。
 千鶴の揺れる心を見透かしたように、落とした視線の先に猪口が差し出された。
 千鶴が伏し目がちに落とした目を上げると、そこには心に掛った雲を払う穏やかな眼差しを向ける耕一の、微かに傾げた首で覗き込む姿があった。

「千鶴さん、もう一杯どう?」
「はい、頂きます」

 耕一が差し出した猪口をゆっくり頷いて受け取り。千鶴は取り越し苦労は止めようと心を決め、唇を静かに熱い液体で濡らした。
 

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