八の章
 

 パイプ椅子に腰を下ろした巫結花は、長椅子の上で横になった梓の腹部に伸ばした手を、触れるか触れないかの所で止めた。
 手を翳された腹部。その奥の内蔵に直接熱を帯びたような熱さを感じて、梓は顔だけを上げて巫結花の白い手を見詰めながら息を詰めていた。

 翳した手を静かに膝に戻した巫結花は、首を横に小さく振る。
 手を翳しただけで横に振られた首の意味を計りかねた梓は、不安になって手を翳されていた腹部を片手でさすりながら首を傾げるように巫結花の表情を伺った。
 しかし巫結花は、相変わらずどう取ればいいのか判らない曖昧な笑みを浮かべていた。

「あの、巫結花ちゃん?」

 心配そうに二人の顔を交互に伺っていた初音が、梓の不安を代弁するように巫結花を覗き込む。
 覗き込む瞳に視線を向けた巫結花は、初音の不安を和らげるような静かな微笑みを浮かべた。

「心配ないって」
「えっ?」

 梓と初音が背中から聞こえた声を見上げると、耕一がホッとした表情で見下ろしていた。

「気脈に乱れはないって」
「耕一さん、気脈って? あの、影響は全然ないって事ですか?」
「うん、大丈夫。単なる湯当たりか疲れが出たかだろ」

 不安そうに確認する千鶴を安心させるように耕一は力強く頷く、と。千鶴と初音は安堵の息を洩し、長椅子の反対側から不安げに見ていた楓もバスタオルで覆われた胸に手を置き頬を緩めた。

「巫結花が大丈夫だって言うなら、心配はないわよ」

 和んだ空気を更に明るくするような抑揚を付けた声音と共に、美冬は両手に持ったミネラルウォーターのボトルの片方を梓に手渡し、そうよね? と言うように小首を傾げる。
 思いがけず大騒ぎになって少々居心地が悪かった梓は、差し出されたボトルを受け取り頷きながら身体を起こすと、長椅子に座り直してボトルを口に運んだ。

「うん。もう、そんなに気持ち悪くないし」

 美冬の開けてくれた数瞬の間に少し気持ちが軽くなった梓は、落ち着いた口振りで微笑んで言った。

「お騒がせしてしまって申し訳ありませんでした。妹も心配ないようですし」

 梓の落ち着きように大きな安堵の溜息を吐きながらぼりぼり頭を掻く耕一の隣から、千鶴は申し訳なさそうに巫結花と美冬に頭を下げる。

「いいのよ。それより何ともなくて良かったわ」

 千鶴に片手を軽く振りながら、美冬は首を傾げて耕一をチラリと盗み見てクスリと笑いを漏らした。
 大袈裟な安心の仕方を笑われたような気がした耕一が顔を横向け知らん顔を決め込む横では、千鶴が少し慌てたように妹に話しかけていた。

「あなた達まで湯冷めしちゃうわね。梓には私が付いてるから、美冬さん達と温まって来るといいわ」

 ざっと水気を拭き取ったとは言え、初音や楓、巫結花もまだ雫を滴らせている。
 いくら暖房を効かせてあっても、このままでは揃って風邪を引いてしまう。
 しかし初音は心配そうな視線を梓に向けると、千鶴を上目遣いに見上げた。

「千鶴お姉ちゃん、わたしが梓お姉ちゃんに付いてるから」
「あたしなら、もう平気だからさ」

 付き添いなんて大袈裟過ぎると思った梓は、心配性の妹を安心させようと腰を上げかけ。

「もう少し休んでなさい」
 
 千鶴にやんわり肩を押さえられ、軽い溜息を吐いて諦めた。

 梓達が風邪や怪我で体調を崩した時など、昔から千鶴はいくら大丈夫だと言っても、自分が納得するまで聞きはしないのだ。

「巫結花さんや美冬さんもご一緒だし。ねっ、初音。後は姉さんに任せてくれない?」

 視線で静かに椅子に座っている巫結花を示した千鶴は、促すように初音の背をそっと押した。

「うん。でも……」
「初音、じゃあ巫結花は任せても良いかしら?」

 背中を押す手に重なるように、美冬の声が初音を呼ぶ。

 梓と千鶴の顔を見比べていた初音は声のした方を振り返り、腰を屈めて覗き込む美冬の大輪の花のような笑みを眼にした。

「巫結花の事、お願いしていい? 私、サウナに入ってくるから。頼めるかしら?」

 美冬の微笑みのアップは、姉達の誰とも違った意味で同性の初音をハッとさせるほど綺麗だった。
 千鶴の柔らかい笑みや楓の儚げで控えめな笑み、梓の明るい笑みとも違う。
 大人の女性の艶やかな色香を漂わせた笑みだった。

「初音が一緒なら私も安心だし。ねっ?」
「う、うん」

 柔らかく広がる笑顔の迫力に押されるように初音は赤くなりながら頷いていた。

「じゃあ悪いけど。楓も、お願い出来る?」
「はい」

 初音を覗き込んでいた腰を伸ばし、美冬は楓に声を掛けると耕一に視線を向ける。

「耕一、約束よね?」
「でもな……」
「あなた、ここに一緒にいる気?」

 美冬は嫌そうな顔をした耕一に釘を刺し、巫結花を促して浴場に戻ろうとしていた初音達に視線を流すと耕一に歩み寄った。

「彼女達、恥ずかしそうだし。温泉に水着って、やっぱり窮屈だわ。彼女達ワンピースだしね」

 そう言われては、俺は一緒に入りたいとも言えない耕一は、美冬の囁きに渋々頷く。

「……判った」
「耕一お兄ちゃん、美冬お姉ちゃんと一緒に入るの?」

 初音が温泉と脱衣所を隔てるガラス戸の手前で引き返してくると少し不安そうに聞いてくる。

 先程感じた美冬の色香に、裸同然の美冬と耕一を二人にするのが少し心配になったようだ。

「うん。約束したしね。俺はサウナの方にいるから、初音ちゃんも水着を脱いでゆっくり温泉で温まって来るといいよ」
「えっ! ……う、うん」

 赤く頬を染めた初音は、頬を両手で押さえると俯いてしまう。楓も赤く染まった頬を隠すように俯くと口元でキュと拳を握る。
 梓や千鶴にも聞こえていたのか、梓は軽い溜息を吐き、千鶴は何とも言えない苦笑いのような表情になる。
 表情一つ変えていないのは巫結花だけだ。

「もう、耕一。あなたストレートに言い過ぎるの」

 俯いてモジモジしている初音と楓を見ながら、美冬は呆れたように両腕を組んで耕一を睨む。

「大丈夫よ。覗けないように、私が責任を持って耕一を監視しとくから」
「お前、監視ってな。人を覗き見たいに言うなよ」
「美冬お姉ちゃん、耕一お兄ちゃんはそんな事しないよ」
 
 初音は赤い顔を上げるとぶすっと抗議する耕一を庇うように言い。耕一にねっ。と信用してるからと言うように微笑む。

「う、うん。もちろんだよ。覗きなんて、最低の奴のする事だよね」
「うん。そうだよね」
「初音ちゃんも楓ちゃんも、安心して入って来るといいよ」

 にこやかに頷く初音に返しながら、覗きではないが前科の在る耕一は、千鶴のジトッとした視線を感じて頬が引きつっていないか心配になってくる。

「じゃあ、私達入ってくるね」

 そんな耕一の心を知ってか知らずか、初音は屈託なく頷くと楓達の元に戻っていった。

「私は先に行くから、早く来てね」
「判った。すぐ行く」

 軽く首を傾げてからかうように言った美冬は、耕一が頷くとバスタオルを片手にサウナへと向う。
 
「じゃあ千鶴さん、俺サウナの方に居るけど」
「ええ。私も、もう少し梓の様子を見てから行きます」
「あたしなら、もう平気……」

 平気だから、一人で大丈夫だと言いかけた梓は、視線の先に耕一の左足を捉えハッとなった。

「梓、どうした?」
「梓、どうしたの? また気分が悪くなった?」

 途中で言葉を詰まらせた梓を心配そうに覗き込んだ千鶴と耕一は、梓の視線が耕一のふくらはぎに向けられているのに気付いて訝しげに顔を見合わせた。

「耕一」
「うん。な、なんだよ?」

 顔を上げた梓に呼ばれて視線を戻した耕一は、いつになく真剣な梓の瞳に腰が引けた。

「あんた、左足の痕」
「あっ? ……ああ、アレか?」

 首を捻り掛けた耕一は、梓が何を言っているのか気付いて苦笑を漏らした。

 耕一の左足のふくらはぎに在った痕。
 それは子供の頃、水門で溺れた梓が落とした靴を拾いに向かった耕一が、水中に在ったワイヤーロープに足を絡め取られて付けた傷の痕だった。

「いつの間にか消えてたな。多分、最初に身体が変った時だと思うけど」

 そんな事かとでも言いたげな耕一の返事で、梓は視線を下げて唇を強く噛み締めた。

 耕一には大した事ではないのかも知れない。
 だが梓には大切な、耕一と自分を繋ぐ想い出の痕だった。

「それがどうかしたのか?」

 訝しげに尋ねる耕一の声を聞きながら、失望とも怒りともつかない胸の空虚さを抱きながら、梓は俯いたままゴロンと長椅子の上に横たわり背中を向けた。

「なんでもない。美冬さん待たせてんだろ? 早く行けよ」
「あっ、ああ? じゃあ」

 背中を向けた梓の怒ったような態度に困惑していた耕一は、千鶴が取り繕ったような笑顔で頷き掛けると。何が梓を怒らせたのか判らないまま首を捻りつつサウナに向かった。

「梓……」

 耕一の背中を見送った千鶴は、梓の背中に声を掛けようとして口ごもってしまう。

 今でも梓が耕一の拾って来た靴を大切にしているのを、千鶴は知っていた。
 
 ずぶ濡れの梓を背負って帰って来た耕一は、そのまま高熱を出して寝込んでしまい。梓は耕一の側で靴を握りしめたまま離れようとしなかった。
 千鶴も母や叔母と一緒になって梓を宥め賺し、耕一から引き離すのに苦労したのを覚えている。
 三日後に熱の下がった耕一を連れ、叔父夫婦は帰って行った。
 それ以来、梓が部屋に持ち込んだ靴を履く事はなかった。

「梓、もしかして役員の話で悩んでいるんじゃない?」

 千鶴は梓が大切にしている想い出には触れないよう、もう一つの気懸かりを口にした。

 体の不調でないなら、精神的な圧迫が体調を崩させたのではないのか不安だった。

「…いいや」

 ぼそっと背中を向けたまま首を振り、ゆっくり体を起こした梓は座り直すと伏し目がちに千鶴を伺う。

「なあ、千鶴姉…どうして会長になったの?」
「どうしてって? それは叔父様が亡くなって……」
「そうじゃなくて」

 梓は頭を振って千鶴を遮る。

 叔父が死んで千鶴が会長になった位、梓も今更聞かなくても知っている。梓が聞きたかったのは、なぜ姉で無ければならないのかだった。
 以前は、梓も千鶴が会長になるのが当然だと思っていた。だが今では……。

「千鶴姉、鶴来屋好きか? あたしには会長やってていい事ってあるように思えないよ。そうだろ?」
「よく判らないわ」
「判らないって?」

 考えてもいなかった返事を返されて、梓は驚いた顔を上げ。千鶴は苦笑を浮かべながら椅子に敷かれたバスタオルを一枚手に取ると隣に腰を下ろした。

「好きだって言うと思った?」
「…うん」

 梓は本心がどうであれ千鶴がそう応えると思っていた。
 まともな返事を期待していなかった分、虚を付かれた梓は千鶴の横顔を見ながら素直に頷いていた。

「好きも嫌いも無かったもの。子供の頃からそう教えられてきたし」
「でも、イヤなら辞めればいいじゃない。外国じゃ、専門の経営コンサルタントに会社任せるのは珍しくないって」

 考えるように首を傾げた千鶴は、梓に顔を向けた。

「美冬さんに聞いたの?」

 微かに笑っているような千鶴の瞳から逃れるように眼を逸らした梓は、ゆっくり頷く。

「経営は専門家に任せて、利益だけ受け取っても充分生活は出来るって」

 梓も美冬から色々な話を聞く間に、叔父の代わりに足立を会長に立てた方が自然な気がしていた。

「前にも話したけど、今でも同じようなものよ」

 広げたバスタオルを梓の裸の肩に掛けながら、千鶴は小さく息を吐く。

「それに御爺様や御父様が大きくされて叔父様が守って来られた鶴来屋ですもの、他の人に任せる気にもなれなかったし」

 肩に掛けられたバスタオルを手探りした梓にも、叔父が守ってくれた鶴来屋を他人に任せたくない姉の気持ちは判る。
 どう話を持って行けば良いのか考えながら、梓はバスタオルを体の前を覆うように手繰り寄せながら諦めの息を吐いた。

「でも、叔父さんだって耕一なら安心だろうしさ。千鶴姉、どうして耕一が会長になっても辞めないんだ?」

 遠回しに聞くのを諦めた梓は、ストレートに尋ねた。

「本当は、あまり考えてなかったの」
「考えてなかった?」

 梓が覗き込むように伺うと、千鶴は苦い笑みを浮かべた。

「先の事なんて考えてなかった。耕一さんに会長になって貰った後なんて……」

 言葉を切った千鶴は眉を寄せて息を吐くと、チロッと舌先を覗かせ照れ臭そうに言葉を継いだ。

「さっきは勢いで秘書になるって言っちゃったけど」
「勢いってな」

 何か考えがあって秘書のなるのだろうと思っていた梓は、半ば呆れながら姉の顔を伺った。

 只の焼き餅で言ったのか? と言うような梓の視線に押された千鶴は、視線を外すと肩をすくめて頬を赤らめる。

「だって…それに考えてみれば、それが一番いい気もするし」
「なんで? 耕一が会長になるって事はさ。その、結婚してからだろ?」

 梓には、その辺が良く判らないでいた。
 
 家事が得意なせいか、結婚イコール家庭に入ると言う図式が梓の中では当然のように確立していた。
 女性の自立を唱う風潮には共感を覚えるし、仕事に就けば考えが変るのかも知れない。だが梓には、家事を仕事の片手間に出来るように考えられるのに抵抗があった。
 長年、柏木家の家事を切り盛りしてきた梓の自負と言っても良かった。

「その方が、役に立てると思うし……」
「そりゃ、まぁ…でも…」

 知ってるクセに。と、言いたげな上目遣いで睨まれた梓は、どう言えばいいのか判らなくなって頬をぽりぽりと指で掻いた。

 いつもの梓なら、ここで一頻り姉の家事の下手さ加減をからかうところだ。

 上目遣いに睨んでいた千鶴は、普段と違う梓の反応に顔を上げて訝しげに眉を顰めた。

「梓? あなた一体、美冬さんから何を聞いたの?」
「えっ! いや、その」

 どう話を振ればいいか考えていた梓は、へどもどと口ごもる。

「梓。ちゃんと答えなさい」
「いや。だからさ」
「姉さんには話せないような事なの?」

 愛想笑いを浮かべた梓は、キッときつくなった瞳で睨む姉の視線を受け、頬がぎこちなく引きつるのを感じた。

 千鶴がわざわざ自分を姉さんと言う時は、ふざけているか拗ねているか、あるいは怒るか真剣になっている時だ。
 姉がこう言う言い方を始めて、梓が隠し事を隠し通せた例は今までなかった。
 その点、元々隠し事などしない初音は別として、楓は巧みに惚け通すのだが。
 
「そうじゃないけどさ。でも」

 無駄だと知りつつも、両手の指を弄りながらもごもごと梓が口を動かすと。千鶴は目元を和らげて諭すように話しかけた。

「美冬さんなら気にしなくていいわよ。私に聞かせたくない話は、口止めされなかった?」
「えっ?!」

 パッと顔を上げた梓は、違う? と言うように見詰める姉の視線で考え込んだ。

 確かに美冬は、自分や耕一の個人的な話を持ち出す前には釘を刺すか、暗に知られたくないのを仄めかしたりしていた。

「そう言や……」
「やっぱり」

 確信した呟きが聞こえて、梓ははっとなった。

「ずっ、狡いぞ千鶴姉、引っかけたなっ!」
「そんな事してないわよ」

 子供のように頬を膨らませて睨む梓を失礼ね。とでも言いたげに上目で睨んだ千鶴は、唇に微かな笑みを浮かべて梓に向き直る。

「でもね、梓。美冬さんに相談するなとは言わないけど。できれば、姉さんにも相談して欲しかったわ」

 身内の話を美冬に相談したのを叱られているように感じた梓は、顔を俯けていじいじと両手の指を付き合わせる。

「そりゃ、勝手に色々聞いたのは悪かったけど…なんか聞き難くて……千鶴姉?」

 バスタオル越しに肩を引き寄せらた梓は、そっと隣を伺うように顔を上げた。
 上げた視線の先では、千鶴が梓の肩に顔を埋めるようにしていた。
 
「ごめんね」
「な、なんで? なんで千鶴姉が謝んだよ?」

 ぽつりと謝る千鶴の様子が弱々しく見えて、泡を食った梓は慌てて肩を掴むと千鶴の顔を覗き込んだ。
 覗き込む梓に顔を上げた千鶴は、瞼を僅かに伏せたまま唇を開いた。

「あんな話をした後ですもの、私には聞き難かったんでしょ?」
「えっと。そう言うんじゃ…ないけど」

 視線を宙に泳がせた梓は、ぽりぽりと赤くなった頬を指で引っ掻いていた。

 千鶴の察した通り、梓は姉自身から自分を卑下するような台詞を聞きたくないのもあって、美冬とばかり話していた。
 美冬より耕一に相談した方が良いのは梓にも判っていた。それをしなかったのは、耕一に聞くのに抵抗がある。と言うより癪に障るという、至極単純な理由だった。
 できれば耕一に聞く前に少しでも知識を増やして、いちいち聞き直さなくても理解出来るようにして置きたい。
 いわば、梓の意地みたいなものだ。

「梓が私を気遣ってくれるのはとても嬉しいのよ。でもね、梓。順序立てて話さなかった私が悪かったんだけれど、答えは今でなくてもいいのよ」

 ゆるゆると首を振った千鶴は、両手で梓の手を握ると梓の顔を見詰めた。

「答えって?」

 梓は自分の世界に浸り出した姉の潤みがちの瞳に問い返した。

「だから役員の話よ。大学を卒業するまで考えたっていいし。他にやりたい事があれば、卒業しても無理に鶴来屋に就職しなくたって……」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 美冬の話を鵜呑みにしていた梓は、慌てて千鶴の言葉を遮った。

「卒業してからでいいって?」
「そうよ。少し早いけど、いい機会だから梓を役員にして責任感を養わせようって」
「他の役員への牽制じゃ……?」

 慌てて聞き返した梓は、はっ? と首を傾げた千鶴のぽかんとした顔にイライラと眉間に皺を寄せた。

「だからさ、千鶴姉を会長から下ろそうって奴らに威し掛けるのに、あたしを役員にして……」

 梓は不味いと感じて言葉を切った。

 ぽかんとしていた千鶴の表情が見る見る強ばり、瞳がスッと細くなっていく。

「梓」
「えっ? ちっ、違った…のかな?」

 聞き慣れた姉の感情を押し殺した低い声に呼ばれて、梓の表情は引きつった愛想笑いになる。

「耕一さんや私が、そんな事にあなたを利用すると思っていたの?」
「だって美冬さんは、そうすりゃ千鶴姉に反対する役員はいなくなるって」
「それは間違いないわね。でもね、私達は、それだけであなたを利用したりしないわよ」

 梓の手を握っていた両手を膝に置き直した千鶴は、姿勢を正すと小さな息を吐いた。

「それで、梓はどう思ったの?」

 吐かれた溜息が情けなさそうで、悪戯を見つかった子供のような気持ちになった梓は、上目で千鶴の様子を伺いながら恐る恐る口を開いた。

「あの、耕一が役員やった方がいいんじゃないかなって、そう思って…… だって、あたしがならなきゃ、耕一の奴も引き受けるだろうし」
「耕一さんには、どちらにせよ引き受けるつもりは無いのよ」
「引き受け無いって?」

 梓がゆっくり顔を上げて上目遣いに覗くと、千鶴はコクンと頷く。

「ええ。耕一さんが考えられているのは、五年十年。いえ、もっと先の準備だわ」
「そんな先の準備って、なんだよ?」
「それより今は、あなたの事よ」
「またあたしには教えてくれないんだ」

 ぶすっとむくれ顔になった梓が上目で睨むと、片手で額を押さえた千鶴は僅かに首を横に振った。

 梓の不満は千鶴にも判るつもりだ。
 しかし耕一の計画を話すのは、まだ早かった。
 梓が鶴来屋の一翼を担う重責や、それに伴うしがらみを充分理解してから話して判断させるべき事だった。
 それ程に耕一の計画は途方もなく遠大で、千鶴も耕一から聞いたのでなければ、笑って聞き流していたかも知れない。

「そうじゃないの、教えられる事は話すつもりよ」
「だってさ」

 ジッと不満そうな梓の顔を見詰めた千鶴はふっと視線を落とした。

「梓は聞いた?」
「聞くって?」
「私に聞き難かったら耕一さんでもいい。私達はあなたから相談してくれるのを待っていたの」
「待ってたって?」

 なんの事を言っているか判らずに首を捻った梓は、オウム返しに問い返した。
 
「ええ、梓が自発的に相談してくれるのを。でも、私達には相談しにくい見たいだったから」

 千鶴は言葉を切るとゆっくり視線を上げ、梓を瞳に映した。

 自分の話の持って行き方が相談し難くさせたのは理解していたが、妹が美冬にばかり相談していたのを寂しく感じていた千鶴は微かな溜息と共に言った。  

「足立さんにお願いしたわ。梓の聞きたい事には、なんでも答えて下さるはずよ」
「でも、足立さんは……」
「鶴来屋の全てを把握しているのは、足立さんだけでしょ?」
「そりゃ、そうなんだけどさ」

 千鶴の見合いの件で足立に蟠りを覚えていた梓は、どう言ったらいいのか判らなかった。

「梓、足立さんは信用できる方よ。私達を本当の娘のように心配して下さっているの」
「でも、じゃあなんであんな事するんだ?」

 聞いていいのかと躊躇いがちに尋ねた梓に、千鶴はゆっくりと首を傾げて見せる。

「それも、足立さん御本人に伺った方がいいわね」

 梓に頷き掛けた千鶴は、静かな微笑みを浮かべていた。
 

七章

九章

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