七の章
 

 水平線が赤く染まる。
 飛沫を上げる白い波頭を朱色に染め変える落日を、焦点の定まらぬ瞳に映した梓の頬を潮風がなぶる。
 滾々と湧き出る湯に温められ上気した頬を掠め、海を渡る切るように冷たい風がショートにした髪を擽りながら通り過ぎていった。

 足立が用意してくれた浴場は、海に面した岩肌を穿った洞窟の中にあった。
 鶴来屋の数ある浴場の中でも、日暮れには太陽が海に沈み行く姿を一番美しく眺められる場所だ。
 しかし冬季は潮風が洞内に強く吹き込む為、いつもなら後一週間ほどは、この洞窟に在る温泉は閉鎖されている。
 公開に向け整備を進めていた温泉を一足先に開けてくれたのは、耕一達への足立の粋な計らいと言えた。

 三月の下旬とはいえ、まだ海から吹き込む風は冷たく、日暮れと共に強くなった風に乗り、時折塩気を含んだ飛沫が胴の口を濡らす。
 だが、その風も深く穿たれた洞窟の奥に届く頃には、温泉に温められた頬を程良く冷やしてくれる微風に変る。
 それ程の大きさを誇る洞窟内の温泉にゆったりと浸かり、薄く掛かった筋雲を燃えるような茜に染める自然の景観を満喫すると、吹き込む風と飛沫から逃れ洞窟の奥へと移っていった。
 だが梓だけは、冷たい潮風から逃れ洞窟の奥へ移った皆とは一人離れ、海に面した洞窟の口近くで沈み行く太陽をぼんやりとした瞳に映しながら、湯船を囲む岩にかけた両腕に身を預け、景色を楽しむでもなく沈みがちに薄ぼんやりとした表情をしている。

 はふっと、物憂げに開いた梓の口から息が漏れた。
 その息の生暖かさに僅かに眉を顰めた梓は、小さく頭を振った。

 何かが違っている。
 今までと何かが変わろうとしている。

 そう思いながら、その何かが判らない苛立ちが胸を重くする。

 普段は微笑ましくさえある初音の無邪気ささえが煩わしく感じた。
 楓の静かで透明な瞳が、怖くなった。
 そして……

 なぜ?
 なぜ楓は、あれ程静かでいられる?

 美冬は耕一が怖いと言っていた。
 しかし、梓には楓の方が怖い。

 以前見せた楓の激しさが、そう思わせる。
 
 耕一と自分達。どちらかを選べと、楓は千鶴に迫った事があった。
 ずっと一緒に暮らして来た梓が知らなかった、激しさで。

 それほど耕一が好きなら。
 なぜ楓は、耕一と千鶴を静かな穏やかさで見守れる?
 そして、耕一も……
 楓の気持ちに気付いていない筈がないのに、なぜ?

 変わったのは、自分なのか?
 それとも……

 湯船に載せた腕に頬を付けた梓の身体は、湯に浮いていた。
 温かい温泉が身体の芯を温め全身を弛緩させると同時に押し寄せた酷く重い体と心の疲れを漂わせ、ぼんやりと朱に染まった海を瞳に映した梓の心は、身体と同じにたゆたう湯のように頼りなく揺れていた。
 

 一方、潮風から逃れた洞窟の奥では、耕一が初音にせがまれて組んだ両手から水鉄砲を飛ばしながら、首を捻りつつ赤く染まった洞窟の口で、ぽつんと黒いシルエットを浮かび上がらせる梓に視線を送っていた。

「梓が大人しいと、なんか調子が狂うな」
「少し疲れただけって言ってたけど。梓お姉ちゃん、寒くないのかな?」
「お湯に浸かっているから、心配はないと思うけど」

 湯船の縁に身を預けた耕一の左隣で、顔に掛かった水鉄砲の飛沫を両手で拭いつつ聞いた初音は心配そうに眉を寄せ。初音と耕一を挟んだ反対側に陣取った千鶴は、タオルで纏めた髪を直しながら梓の方に視線を送っていた。

「ごめんね。私が引っ張り回したから、きっと疲れちゃったのよ」

 湯船の縁から離れた美冬は、初音の隣から三人の前に湯に漂うように進み出ると申し訳なさそうに言う。

「それぐらいで疲れる奴かな?」

 チラリと視線を送り前屈みに初音に身を乗り出していた美冬から、耕一はさりげなく赤く照らされた洞の口に視線を戻す。
 耕一も戻したくはないのだが、美冬の付けている黒のビキニから覗く胸元が煩悩を刺激しまくってくれて、とても注視出来ない。
 出来たとしても千鶴達にバレれば、想像するだけで恐ろし過ぎる。

「ううん。美冬お姉ちゃんのせいじゃないと思うよ。多分、梓お姉ちゃん、恥ずかしがってるんじゃないのかな?」

 お湯から出した華奢な両の手指を小さく振って美冬に大丈夫と微笑み、初音は桜色に染まった頬で視線を美冬の胸元に向けるとチラリと自分の胸元に落とした。

「梓姉さん、女子校でしたし」

 初音の隣で気持ち良さそうに瞼を薄く閉じて温泉を楽しむ巫結花の影から、耕一から隠れるように恥ずかしそうに小さくなっていた楓がぽつりと呟く。

 巫結花と美冬がくつろいだ風情で水着に覆われた肢体を伸ばしているのとは対照的に、楓を始め、千鶴と初音、姉妹三人だけが胸元にタオルを巻いている。
 もちろんバスタオルの下には、初音が黄色、楓がスカイブルー、巫結花も白と色だけ違うお揃いのノーストラップのワンピースで身体は覆われていた。
 千鶴は黄色のビキニを纏っている。だが好みで着たのではなく、時期的にサイズに合う物がワンピースになく、それならとビキニの上にバスタオルを巻いていた。
 初音と楓の二人は千鶴と違い、お風呂と言う場所柄、水着を着ていても恥ずかしい意識がタオルを巻かせたのだが。湯を通して水着が見えるより、桜色に染まったつやつやした肌がタオルで覆われている分、場所が場所だけに耕一の逞しい想像力を余計に掻き立てているのには、三人とも気付いていない。

「女子校ね。立派なプロポーションしてるのに勿体ないな。恥ずかしがらなくても良いのに」
「お前は、少し恥ずかしがれ」

 天国と地獄を味わいつつ、耕一は誰の方も見ないように宙を睨み眉を顰めた。

 水着では身体を洗えないと、先に女性陣は一度入浴を済ませていた。
 湯に濡れた黒髪をタオルで巻いた千鶴や初音、楓の朱に染まった恥じらう姿は煩悩を刺激してくれるわ。隣にいる千鶴が髪を直す指先が後れ毛を弄る仕草は、桜色の項と相まって何とも言えず悩めかしいわ。
 湯に浸かる前から逆上せ気味の耕一は、既に理性の限界を越えそうだ。
 冷たい海風が頭を冷やしてくれるとはいえ、回りを彩る女性陣の誰かと二人だけなら、とっくに押し倒していないと言いきる自信はない。
 この上、胸の谷間を強調する為にブラを着けている様な美冬に目の前をうろうろされては、鬼の欲望に勝った耕一と言えど、堪ったもんではない。
 混浴で単純に喜んだ自分の浅はかさを、耕一は天国と地獄の狭間で心底後悔していた。

「あれ? 耕一ったら、照れてる?」
「だ、誰がだ。た、たかが水着じゃないか……そうだ海水浴だと思えば良いんだ。海水浴…裸じゃない…海……」

 からかう美冬を睨みつつ、耕一はぶつぶつ呟く。
 既に理性が半分飛んでいる。

 耕一のぶつぶつ呟く様子が少し心配になった千鶴は、隣から耕一の顔を覗き込むように伺う。

「耕一さん、大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですけれ、きゃ!」

 小首を傾げて覗き込む千鶴の湯を弾く桜色に染まった悩ましい項と肩が目の前にちらつき、耕一は慌てて顔に両手ですくい上げた湯を掛け、跳ねた湯を浴びた千鶴は小さな悲鳴を上げた。

「ご、ごめん、千鶴さん。ちょっと逆上せたのかな?」
「大丈夫ですか?」

 心配そうに尋ねる千鶴に平気平気と手を小さく振り、耕一が頬の辺りが引き攣ったぎこちない笑みを作って応えると。千鶴は少し考えるように唇に指を置き、どことなく楽しそうな表情で頭に巻いていたタオルを外した。

「えっ、ちょと千鶴さん?」

 タオルを外された長い髪がハラリと落ち、そっとタオルを持った手が自分の顔に近付いてくると、耕一は少しばかり焦りつつ手でタオルを受け取ろうとした。

「ジッとしてて下さい。水に浸した方がいいんでしょうけど」

 恥ずかしそうに伸ばされた手を片手で押さえ、千鶴は耕一の顔をタオルでゆっくり拭う。
 タオルからはシャンプーの香りがして、くすぐったいような恥ずかしさで余計逆上せそうな耕一も、呆れたような美冬の視線とくすくす笑って見ている初音と楓の困ったような苦笑いに、出来ればこう言う事は二人だけの時にして欲しいな。と思わずにはいられなかった。

「だらしないわね。サウナに付き合って貰おうと思ってたのにな、無理かしら?」
「サウナ?」
「脱衣所の脇にあったよね」

 含み笑いで言う美冬に耕一が渋い表情を見せると、少し困った顔をした初音が宥めるようにコクンと横に倒した首で耕一を覗き見て言葉を挟む。

「あのね。美冬お姉ちゃん、いつもお風呂でサウナに入ってるんだって、だからお風呂から上がる前に入りたいんだって」
「温泉に入って、サウナにもね」

 初音の困った顔に少し美冬への対応がおざなり過ぎたかなと思った耕一は、頬を指で掻きながら生返事で返す。

「気を付けないと太ちゃうのよ。楓も初音も幾ら食べても太らないらしいけど。良いわよね」

 耕一の生返事をどう取ったのか、美冬の方は微かに眉を顰めると楓と初音に恨みがましい視線を流す。
 肩を寄せてぎこちなく微笑む楓とアハハッと微かに引きつった笑顔を浮かべた初音の横を向いた視線は、微かにむっとした顔の千鶴を伺っていた。
 太らない体質に自分が入っていないのが不満らしい。

「美冬さんも、太っていらっしゃる様には見えませんけれど」
「体質かしら。気を抜くとすぐに体重が増えちゃって」

 僅かに棘を含んだ千鶴の物言いを意に介さず、美冬は千鶴の方を向くと困ったような溜息を吐いてゆっくり首を耕一に巡らす。

「判った。後で、後でサウナでも何でも付き合うから。今じゃなくて良いんだろ?」
「じゃあ後でね、約束」

 体重や太った太らないの話題から離れたい耕一が口を挟むと、美冬は満足そうにうんうん頷く。
 その隣で軽く吐息を吐いた初音と楓が顔を見合わせ、巫結花はそんな二人を不思議そうに見ていた。
 しかし耕一には、拗ねたような眼で見る千鶴の視線の方が痛い。

「千鶴さん達も一緒にどうかな?」
「ええ、そうですね。せっかくですから、ご一緒させて頂きます」

 耕一に誘われて拗ねた表情を崩した千鶴は、ゆるりと首を横に傾げ間近で妹二人がはらはらしている気も知らぬげに、にっこりと微笑んで頷き。
 美冬は首を傾げた。

「え? でも千鶴、さっきは……」
「あ、あの。少し冷え込んできましたね。ちょっと梓を呼んできますね」

 美冬の言葉を遮り桜色の頬を赤く染め変えた千鶴はぎこちない愛想笑いを浮かべると、慌てたように返事も待たずスッと湯の中を漂うように梓の方に行ってしまう。

「……なるほど」
「何がなるほどなんだ?」

 ふむと軽い息を吐いて千鶴の後ろ姿を見ながら頭を掻く美冬に聞きながら、耕一は口元を両手で押さえて笑っている初音と楓を横目で見ながら首を捻った。

「初音ちゃんと楓ちゃんは、どうする?」
「私はいいです」
「わたしもいいよ。サウナってむっとしちゃうし。千鶴お姉ちゃんも、さっきは入らないって言ってたんだけど」
「はっ?」

 肩をすくめて微笑む初音の言葉を聞いた耕一はチラリと楓を伺い、微苦笑を浮かべた楓がおかしそうに頷くとぼりぼりと頭を掻いた。
 狭いサウナに美冬と二人だけ。と言うのが、千鶴としては気に掛ると言う所だろうか。

「……なるほど」

 美冬と同じ台詞を呟いた耕一は、僅かに逡巡した表情の美冬が、未だに千鶴の後ろ姿を見送っているのに気付いた。

「美冬、どうした?」
「……ううん。千鶴の髪、長くて綺麗だと思ってね」

 一瞬間が空いた応えに首を捻る耕一を一瞥し、美冬は深く息を吐いた。
 誰も入らないと言うので丁度良いと思って耕一を誘ったのだが、当てが外れた落胆の息を。
 

 ふっと胸から息を吐き出した梓は、ぼんやりと瞳が映していた太陽に焼かれ微かに痛む眼を閉じるとカクンと組んだ両腕に顔を埋め、いつの間にか入っていた肩の力を抜いた。
 薄く掛かった雲を炎の様な赤に染めた落日が腕の間に埋めた両眼の奥をチリチリと焼き。梓の閉じられた眼の奥を朱に染める。眼の奥で踊る光点を見詰めながら、梓はぐいぐい腕に瞼を擦り付けた。
 そうする事で、瞼の奥で踊る光点がもたらす苛立ちを拭い去ろうとするように。

 梓も恐いと思う。
 今更ずっと秘めていた想いを耕一に知られるのも、やっと慣れてきた叔父のいない生活が壊れるのも。
 叔父の代りに、耕一がいる生活が壊れるのが。
 しかしどこかで、耕一に気付いて欲しいとも思う。
 気付かれたくないとも思う。

 でも楓は……
 初音は……
 そして千鶴は……

「梓、寒くないの? そろそろみんなの所に来ない」

 背中から掛けられた声に両腕に埋めた顔を上げ、梓はゆっくりと振り向き。

「…っ!?」

 息が詰まった。
 落日が照り返し朱に染まった穏やかな微笑みを映した瞳が真っ赤に染まり、瞳の奥で一瞬フラッシュが瞬いた様な閃光が走った刹那、梓は反射的に口を両手で押さえていた。
 一瞬の赤い閃光が起こした身体の奥が痙攣するような、締め付ける様な不快な感情に顔を背け、梓は湯船の外に顔を突き出した。
 名状しがたい感情。

 怒り、不安、後悔、そして喪失感。

 一気に押し寄せた感情の激流に胃の府が軋みを上げ、湯船の外に向けた口元から酢い焼けるようなほとばしりが喉を焼き、覆った両手を生暖かい不快な感触が濡らす。

「梓!?」

 驚きと不安の混じった声を聞きながら、胃液が焼いた喉と胸を手で押さえ苦しそうに岩に寄り掛かりながら、梓の頭の中で疑問符だけが踊っていた。

 聞き慣れた声に振り返った刹那、見えた顔。
 朱に染まった顔。
 長い髪から、顔から赤い雫を滴らせた朱に濡れた寂しそうな笑み。

 だが、それは、そこにある筈の見慣れた顔ではなかった。
 知らない筈なのに懐かしく感じる女性の顔がフラシュした瞬間、見た者を理解するより先に身体が反応していた。

「……梓? 一体?」

 苦しそうに胸を押さえ身を折る梓の背中を摩ろうと手を伸ばした千鶴は、梓の身体に触れる一瞬、小刻みに震えているのに気づくと躊躇いがちに止めた手を静かに背に置いた。
 背中に手が触れた瞬間身を強ばらせた梓は、焼けた喉と胸を手で押さえながら固く瞼を閉じていた。

 心配そうな声も背中を摩る優しい手も、よく知っている。脳裏に映った一瞬の光景だけが、梓の知覚を裏切っていた。
 朱に。髪から、顔から赤い雫を滴らせた女性の顔だけが、一瞬の内に網膜に焼き付き固く閉じた眼の裏に浮かび上がる。

 知らない筈の顔。
 寂しそうな哀しそうな表情で見詰める女性の顔。
 しかし、不思議と懐かしさと悲しみを呼び起こす。
 深い喪失感に身体の芯が震える。
 その反面、怒りの様な黒々とした感情もが身体の奥で疼く。

 理解出来ない感情に翻弄され、背中を摩る千鶴に応えられないまま、梓は鼻に付く酢い物で覆われた唇を噛み締め微かな呻きを洩らした。

「どうかしたの?」
「……梓お姉ちゃん?」

 洞の奥にも梓の様子が伝わったのか湯の跳ねる音と共に聞こえて来た声に、梓は大きく胸に息を吸い込んだ。
 また胃の府から込み上げるような不快感が胸を覆ったが、何とかそれに堪えて梓は重い腕を上げた。

「……大丈夫…ちょっと気分が悪くなって」

 上げた片手を振りながら力無い微笑みを浮かべた顔を上げた梓が振り向くと。聞こえて来た心配そうな声の通り、気遣う表情を浮かべた初音が梓を覗き込むようにしていた。
 その初音の顔を見た瞬間、梓の胸にやるせない想いが湧いた。
 強い後悔と慚愧の念。
 目頭が熱くなり涙が溢れそうになる。

「おっ!……おねえちゃん?」

 初音の驚きと困惑の混じった声音を耳にして、梓はいつの間にか初音を固く抱きしめているのに気付いた。

「あっ? わ、わるい」

 自分でも訳の判らない行動に戸惑いながら、梓はゆっくりと初音を抱き締めた腕の力を緩めた。

「どうしたの梓? どう、少しは気分が良くなった?」

 背中から聞こえた問い掛けに恐る恐る顔を向け、梓は微かに安堵の息を吐いた。
 そこには見慣れた姉の顔があった。
 心配そうに細められた眼を向ける顔と背に届く長い髪を濡らすのは只の水滴。

 間違いなく長年見慣れた顔だった。

「……湯当たりしたのかな。急に気分悪くなって…心配掛けて、ゴメン」

 ゆるゆると首を振り梓はまだ不快感が残る喉と腹部を摩りながら小さく頭を下げ、少し緊張した表情で肩に手を伸ばした耕一の手を振り払った。

「!?」
「……梓?」
「梓……お姉ちゃん?」

 手を振り払われ驚いた様に見る耕一を睨むように見返した梓は、千鶴と初音の困惑した瞳と声でハッとなった。

「あっ!? ゴ、ゴメン……」

 なぜ耕一の手を振り払ったのか、梓自身にも判らない反射的な行動だった。

「今のは耕一が悪いわよ。女の子の身体に気軽に触ろうなんてね」
「あっ? ああ、そう…だな」

 ゆっくりと歩いてきた美冬の気不味い雰囲気を和らげるようなからかい半分の言葉を、梓相手に今更と思わないでもなかった耕一だが一応納得して頷いて見せる。

「それより梓、胃がむか付くのか?」
「う、うん。少し」

 耕一が手を振り払われた事を余り気にしていないと感じてホッと気を緩めた梓は、水着に覆われた胸と腹を摩る手を耕一が心配そうに見ているのに気付いて赤くなりながら頷いた。

 美冬が選んだ水着は、ハイレグの黒。
 泳ぐという目的からは遠く離れた、少ない布地が申し訳程度に身体を覆うだけの物だ。

 それを耕一に正面から見詰められた梓は、怒るのも忘れて恥ずかしさで真っ赤になると俯いてしまう。

「いつからだ? 急にか? それとも、ここ二、三日続いてるのか?」
「な、何だよ? 大袈裟だな。もう平気だって」

 照れ隠しもあって、ふてくされた声を出しながら梓が上目遣いに睨むと。耕一は真剣な表情で美冬に眼を移した。

「梓を脱衣所に連れてってくれ、巫結花を呼んでくる」
「ええ。その方がいいわね」

 耕一に頷いた美冬に腕を掴まれ、梓は抗議の声を上げる。

「大袈裟だって、もう大丈夫……」
「梓、言われた通りにしなさい。初音、脱衣所に長椅子が在ったでしょ?」
「うん」
「その上にタオルでも引いて置いてくれないかしら?」
「えっ? う、うん。それはいいけど」

 僅かに厳しくなった眼で梓を黙らせた千鶴は、頷いたまま心配そうに梓の様子を伺う初音の頭にそっと手を置いた。

「きっと冷たい風に当たっていたから、冷え逆上せしただけだと思うの。心配しなくても、少し横になって休めば大丈夫よ」
「もうそんなに気持ち悪くないし、平気だって……」

 平気平気と笑って見せた梓は、ゆるりと顔を上げた千鶴の真剣な瞳に言葉を飲み込んだ。

「じゃあ、初音。お願いね」
「うん。判った」

 少し安心したように頷いた初音が脱衣所に向かったのを確認して、耕一は美冬に顔を戻した。

「美冬、巫結花の方を頼む」
「はいはい」

 やれやれと言った表情で梓の腕から手を離すと、美冬はスッと身体を沈め泳ぐように湯を掻き出した。

「梓、ちゃんと応えろよ? 急に気分が悪くなったのか?」
「う、うん。そうだけど…心配させて悪かったけど、大袈裟……」
「柳に掌底食らってからじゃないんだな?」

 耕一の真剣な様子に梓は口を噤んで考え込んだ。
 言われてみれば柳に腹部を強く打たれた後、訳の判らない気持ち悪さや苛立ちを覚える様になった気がする。

 黙り込んだ梓に耕一は微かに表情を曇らせ、千鶴と目配せを交わした。

「梓、お願いだから、大人しく耕一さんの言われる通りにして頂戴」
「なんだよ千鶴姉まで?」

 お願いなどと心底心配そうに言われて、重病人扱いだなと思った梓は唇をひくつかせた。

「ごめんなさい。あなた平気そうだったから、言わなかったんだけど……」

 申し訳なさそうに千鶴が言い淀むと、耕一が後を続けた。

「柳や美冬の習ってる拳法には、上手く決まると後から体調を崩させる効果が在るんだ」
「後からって? 三年経つと死ぬとか?」

 漫画で見た覚えのある台詞を口に乗せ笑おうとした梓は、真剣に頷いた耕一の表情に顔を強ばらせた。

「うっ…嘘だろ?」
「ありゃ大袈裟だけどな。鍼灸師が針打って体調良くするのと逆に、つぼに氣を打ち込んで体調を崩すんだ。心配するな、巫結花がちゃんと治せるから」

 もしかして、おかしな幻覚や気持ちの悪さはそのせいかと思った梓が呆然とした顔をすると、耕一は慰めるように説明を続けた。

 一部の漫画などで誇張されるような、氣を打ち込んだからと言ってすぐに死ぬ事はない。
 だが鍼灸師が体調を整えるつぼも、刺激する強さや場所によっては逆に体調を崩す事もある。
 事実、氣功を軽視した拳法家が、晩年過去に受けた打撃のよると思われる体調不良に悩まされ続けた例もある。

 そう聞いた途端また気分が悪くなってきた梓は、千鶴に肩を抱かれながら、促されるままゆっくり脱衣所に歩みを進めた。

六章

八章

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