六の章
 

「美冬さん。どうかしたの?」

 梓が美冬の耳に顔を寄せそう囁いたのは、会長秘書……緋崎百合(ひざきゆり)……を案内役に会長室の一階下、業務フロアを秘書課室に向かう途中だった。

「いいえ。なにか?」
「いや。あの」

 いつもと違う冷たい反応を返された梓は、ぽりぽりと頬を爪の先で掻きながら困惑に口ごもった

 無表情にチラッと横目を向け必要最小限の答を返した美冬は、会長室を出てから今まで梓にも口を開こうとせず、泰然と構えた態度で廊下を闊歩していた。
 緋崎が案内役を務めているので、恐らく取引先の重要人物だとでも思ったのだろう。途中で出会った社員達は、廊下の中央を歩く美冬の堂々とした態度に気圧されるように脇に避けると一様に会釈を送った。
 しかし普段のふざけてばかりいる美冬を知っている梓には、怜悧な面から冷めた眼差しで睥睨するように周囲に視線を送る女性が、本人を前にしていてさえ、とても同一人物とは思えなかった。

「こちらのフロアは、事務関係ですね」

 見冬は困ったように見る梓を一瞥しただけで廊下に面した広いウィンドウに眼を戻し尋ね。前を歩いていた緋崎は上半身を捻りながら、美冬に立ち止まる様子がないのを見て、歩調を落し美冬に斜め後ろに位置を変え微笑みを浮べる。

「はい。こちらのブロックは、一般事務等の業務フロアとなってなります」
「本館等、旅客に対してのサービス、営業体制などをお聞きしても宜しいかしら?」
「大浴場を始め、各種浴場、接客業務とそれに付随する各種サービス等は、二十四時間、三交代制で行っております。また急病の際も医務室に医師が待機し…………」

 一瞥すら与えない美冬の質問に笑みを浮かべたまま淀みなく応え、緋崎は行く手に見える扉の一つを片手の掌を上にして示した。

「秘書課室はあちらになります。私の個人ブースになりますが、宜しいのでしょうか?」

 立て板に水とスラスラ説明していた柔らかな声音を曇らせた緋崎は、梓に秘書室の扉の前から躊躇いがちの視線を向けると、浮べた笑みに微かに疑問の陰を落した。

 足立から案内しろとは言われたものの、社内でも秘匿性の高い秘書課。それも会長室に直結した端末のある自分のブースに部外者を入れて良いのか、緋崎は会長の妹に確認しようとしたのだ。

「梓」
「えっ?」

 が。梓は美冬に肘で突かれるまで、緋崎が自分に尋ねたのに気が付いていなかった。

「ええと。…いい…と思います」

 梓としても、なぜわざわざ秘書課に来たのか判らないのだから、返答に窮しても仕方がない。
 梓に判ったのは、足立と耕一が国際通話がどうの、社内LANに繋がせるのは、等と話し合い。空いている回線が秘書課しかなかったという事だ。
 何も言わず聞いていた所を見ると、千鶴も理解していたのか怪しいものだ。

「もちろん貴方の個人ブースです。無理にとは言いません」

 自信なさげに答える梓の後を引き取り、美冬は言葉の強さを打ち消すように静かに微笑み。微かに目元を引き締めると瞳に嘲笑するような光を浮かべた。

「貴社の端末は使いませんし、社内LANにも繋ぎません。こちらなら空いている回線をお貸し頂けるとお聞きしました。何でしたら会長に御確認頂いても宜しいのですが」

 言葉だけは丁寧に、美冬のここまで案内して今更何を言っているといった視線に梓と緋崎は一瞬呆気に取られ。梓より先に我に返った緋崎は居住いを正すと腰を折ってノブに手を伸ばした。

「失礼いたしました。どうぞ、ご案内いたします」
「ありがとう」

 おざなりな感謝の言葉を残し、美冬は緋崎の開けた扉からスタスタと部屋に入る。部屋に入った美冬は室内を一瞥し、軽く片方の眉を上げた。

 美冬の会社では、専属秘書に秘書課などと言う物は存在しない。秘書は各重役、社長などが信頼出来る者を雇い、それぞれに当てられた部屋に隣接した秘書室を置く。
 つまり給料を払うのは会社だが、秘書が雇用関係を結ぶのは役員や重役である。そうして雇われた秘書は、会社ではなく雇い主にのみ雇用上の責務を負う。秘書の立場を社内でフリーにすることで、それぞれ機密の保持を謀っているのだが。その一方で、雇い入れた秘書の行動には直接の上司が全ての責任を問われる。
 秘書が勝手にやった。などと言うどこぞの政治家の様な発言は許されない厳しいシステムでもある。

 秘書課室と聞いて机を並べただけの事務室を思い浮かべていた美冬の前には、視界を遮る形で上半分が半透明のアクリル製衝立が並んでいた。
 入り口から見ると三方を衝立に囲まれた簡易ブースが左右に二つずつ向き合った形で部屋の奥に続いている。
 部屋の両端と中央は通路になっており、人二人が楽にすれ違えるくらいの幅が確保されているようだった。
 つまり上から見ると、部屋は入りから見て縦七列に分けられ、両端二列と中央が通路。中央通路の左右に事務ブースが二組で一列。そして向かい合ったブースは机の4倍近い広さががあり机は各秘書が正対しないよう、対角になるように配置されている。
 これでは背後から覗き込まない限り、隣でどのような作業が行われているか知ることは出来ない。
 完全とは言わないが一応個々の情報保護には気を配っているようだ。業務時間に秘書室が空なのも、この課が形式的に機能している事を示していた。
 それからも、鶴来屋が秘書の重要性を充分認識しているのが見て取れる。

 秘書を軽視しがちな企業も知っている美冬は、内心微かに感心していた。
 しかし反面、高級を謳い文句に高額を取る接客業ならば、これ位は当然と言う意識も美冬にはあったのだが。
 梓が入るのを待って扉を締めた緋崎に案内され、二人は一番奥、入り口から見て右側最奥、対角線上に位置するブースに向かった。
 新品だと一目で判る真新しい端末が載せられた緋崎の机は、奥の窓を背に入り口に唯一正対する形で設置された室長席の左斜め前に位置していた。
 端末と電話以外には何も置かれていない机の上に、美冬は早速肩に掛けた革製のバックから、ノート型と言うには少し大きなパソコンを取り出す。
 機械には疎いらしく傍らで梓と一緒になって興味深そうに見ていた緋崎にお茶を頼むと、美冬は机上の電話に繋がるモジュラーを慣れた手つきで躊躇い無く外した。

「重い筈だ。そんなの持ち歩いてたの?」

 一礼した緋崎が出て行くのを待って、梓はパソコンにモジュラーを繋ぎ直す手元を覗き込みながら尋ね。

「うん。やっぱり使い慣れたのでないとね」

 美冬は軽い感じで応えた。
 突然いつもの調子に戻った美冬に面食らいながら、梓は真横に見える横顔を恐る恐る伺う。

「あら、梓。女同士はダメよ。私、そっちの趣味はないからね。でも、梓なら考えよっかな」
「あっ、あたしだってそんな趣味ないって」
「私に見惚れてたんじゃないの?」

 先程までの態度を一変させ、美冬はくすくす笑いながら唇に人差し指を添えて首を傾げて見せる。
 あまりの急変ぶりに美冬と言う人間がますます判らなくなって、梓は頭を両手で抱え込んだ。

「なんなんだよ? さっきまでと全然違うじゃん」
「だって、可愛い秘書さんがいたもの」
「それがどうかした? いや。それよりさ、美冬さん、さっきの良くないと思うよ。なんか感じ悪かった」

 けろっとした顔でパソコンにモジュラーを繋いだ美冬を軽く顰めた眉で睨み、梓は部屋の前での横柄な態度を注意する。

「梓が悪いんじゃない。秘書さん、あなたに確認しようとしたのに、ハッキリ答えてくれないんだもの」
「人の所為にすんなよな。ったく、お茶汲みまでやらせてさ」
「だってぇ、パスとか私信は見られたくないもの。この部屋、キッチンが離れてる見たいだから、暫く戻って来ないわね」

 梓は拗ねた様に見上げる美冬を見返し、肩で大きく息を吐き出した。

「追い払ったのか?」
「彼女なら大丈夫よ、ちゃんとこちらの意図を読み取っているならね。それぐらい出来ないと、会長秘書は失格だけど」
「あたしも出てようか?」
「梓は特別、見てもいいわよ。英語だけど」
「どうせ、読めないよ」
「でも流石ね。短期間で良く教育してあるわ」

 むくれた顔をした梓をクスクス笑い。美冬は裏面が液晶ディスプレイになったパソコンの蓋を開け、軽い電子音を響かせパソコンを立ち上げた。
 それを横目で見ながら、部屋の隅に片付けてあったパイプ椅子を持って来た梓は、椅子の背を美冬に向け背もたれに両腕を掛けて腰を下ろした。

「このブース、私物が殆ど無いから新入社員って本当らしいけど。あの娘、確りしてるわ。梓がいなかったら、席を外さなかったでしょうね」
「なんで? あっさり出て行ったけど」
「貴方が一緒だったからね。秘書室って社内秘の宝庫だもの、部外者は入れないわ。もっとも、重要書類は厳重に管理してるだろうし。端末は使わない約束だから、情報の掴みようもないけど」

 言いつつ明るさを増したディスプレイに表示されたソフトの起動を確認し、美冬はパッドを数回叩き回線を接続する。

「ん、後は自動でOK。信用ないわよね。酷いと思わない? 耕一の奴、ネットワークに繋ぐの嫌がるんだから」

 滑らかにキーの上を踊っていた指を止め満足げに頷くと、美冬はむくれた顔を梓に振り向け眉をしかめて零す。 しかし美冬の言っている意味がさっぱり掴めず、梓の方は苦笑いで首を軽く横に振る。

「ごめん。コンピューターって判んないよ」
「うん? あっ、そうか。日本の教育現場って、まだ大学以外はコンピューター使ってないんだっけ?」

 右手の人差し指を一本立てた美冬は、違ったかなと首を傾げて問いかけの意思を強調する。

「うん。だからさ、なんでここに来たのかも判んないんだけど」

 美冬の大袈裟な身振りに苦笑を浮かべ、梓は頷きつつ頬を指でぽりぽりと掻いた。
 美冬は椅子に深く腰掛けると、では。と説明を始めた。
 まず自分の使っているOSと鶴来屋で使っているOSには互換性が無い話から始め、美冬は本題に移った。
 初め美冬は、耕一に定期のメールチェクをしたいと申し出た。足立は社内のネットに繋いではどうかと提案したが、これには耕一が猛然と反対した。
 耕一曰く、美冬をネットに入れたらどんな情報を引き出されるか判ったもんじゃない。と言う事らしい。
 次に会長室の電話回線に繋ぐ案が出たが、これはトップ二人が在室中で、いつ緊急連絡が入るか判らないと言う理由で却下。一般事務、フロント事務の電話も、業務中に使うな。と耕一の茶々入れで却下。
 いっそ公衆電話を使えと言った耕一の言葉は、アメリカかカナダへの国際電話になるからイヤ。と美冬が一蹴したそうだ。
 そこで秘書課室なら、現在は秘書達が各重役達の部屋で業務をしていて無人に近く、誰にも迷惑が掛からないと言う事で秘書課室に送られたらしい。
 つまり本人に自覚はなかったが、梓は美冬が勝手に社内を探らないよう。お目付役に付けられた訳だ。
 御丁寧にも接客の実習に新人秘書まで同行させたのは、耕一だった。
 敵に回る気がないなら、丁度いいから来た次いでに新人の能力査定を聞かせろという。実に耕一らしい、呆れた言い草だった。

「はあ、なる程。あたしは美冬さんが勝手に部屋の中、物色しないか見張ってりゃいいんだ」
「そんな事しないわよ。梓まで耕一みたいな事、言わないの」

 説明を聞き終わった梓の第一声にディスプレイから顔を上げ、美冬は眉を寄せてむくれて見せる。その美冬の眼が笑っているのに気付いて、梓はへへっと笑い首を伸ばしてディスプレイを覗き込んだ。

「で、今はなにやってんの?」
「うん。私のホストに繋いでデータダウンしてるんだけど。その間にさっきダウンしたメールチェック。でも、ダイレクトメールばっかり」
「それ全部?」

 液晶ディスプレイの上を綺麗に整ったピンクの爪先で示され、梓は驚いた声を上げた。
 ずらっと並んだリストは、軽く見ても五十通以上ある。

「少し少ないかな? 放って置くと溢れちゃうし」
「これで少ない。……ねえ美冬さん、この棒ってなに?」

 人指し指で困ったように唇を弄りながら言う美冬に、梓はディスプレイ左上の隅に出ている棒を指で示した。
 眺めている間にも、淡い色の棒がジリジリ亀の歩みのように色を濃くしていく。

「ダウンしてるデータの状況。流石、電話回線は遅いわ」

 美冬の返事には、溜息が混じっていた。
 日本では、まだ認可が下りていないので持って来なかったが、美冬は普段、衛星経由でデジタルの専用回線を使っている。
 柏木の屋敷には千鶴の部屋の他、電話が一本しかないので鶴来屋で繋いだのだが、この占有時間の長さが、耕一が業務中の接続を嫌った理由だ。

「このグラフがフルになったら、終わりなんだけどね」
「鶴来屋を見て歩く時間、あるかな? 水着選ぶのに時間掛かったし」
「大体は見せて貰ったわ。他は巫結花達が来てからでもいいしね」

 ジリジリと色を変えるバーを見ていた梓は、会長室と業務フロアしか見ていない筈なのにと思い。机に頬杖を突いてメールを流し読みする美冬の横顔に眼を戻した。

「活気があっていい会社だわ。千鶴のお城だから整然と業務をこなす感じかと思ってたけど、アットホームな感じね。耕一のお父さんかな? それとも、ロマンスグレーの素敵な社長さんの影響かしら?」
「鶴来屋を案内って。もしかして?」
「うん、社内業務の方。会長の妹が一緒なら、業務フロア歩いてても文句言われないわよね」

 首を傾げてクスッと笑った美冬を一瞬見詰め、思わず肩を落とした梓は、額を片手で押さえていた。
 もう怒るより呆れていた。
 美冬にいい様に使われている気がして、なにか身体から力が抜けて、梓は椅子の背で組んだ両腕に額を押し付けた。

「ごめんね。気に触ったなら、謝るけど」

 気の抜けた様子の梓を心配そうに見て椅子を回した美冬は、胸の前で小さく手を合わせる。

「謝られてもさ。なんかこういうのヤダよ。友達ってさ、そんなんじゃないだろ?」
「そう。そうか……ごめん」

 のろのろと顔を上げた梓が首を傾げる美冬を上目遣いに見上げると、美冬は気まずそうに視線を逸らした。

 酷く怠い嫌な感じだった。
 気が付くといつの間にか知らない場所に運ばれていた。 そんな驚きと頼りない不安がない交ぜになった虚脱感に、梓は襲われていた。

「それにそれって、楓でも初音でも良かったって事だろ? あたしが千鶴姉の妹だから、誘ったって事じゃない?」
「そういう風には取らないで欲しいけど」

 少し寂びしそうに微笑んだ美冬は否定しなかった。梓が会長の妹でなかったら、秘書課室に通される事がなかったのは事実だ。

「なんかヤダよ。そう言うの、何かが違うって言うかさ。……ねぇ…美冬さん」
「うん?」

 斜めに傾げた首で美冬を見上げ、梓はそっと息を吐く。
 梓は周りの思惑で勝手に動かされ、後から知らされる不快感と。柏木梓としての個を否定されたような喪失感を味わっていた。

「あたしがさ。耕一の従妹じゃなかったら、美冬さん、色々教えてくれたのかな?」
「意味のない仮定だと思うな」
「どういう意味?」

 美冬は軽く瞼を伏せて視線を逸らし、はぐらかされた気がした梓は問い返した。

「耕一と知り合わなければ、梓と逢う事もなかったから」
「結局、耕一の従妹だから構ってくれるんだ」

 美冬も耕一の従妹の梓しか見ていない。
 耕一の従妹で千鶴の妹でない自分は、果して美冬にはどう映るのか?
 自分の疑問に梓は、ふっと口の端で笑う。
 何の価値もないのかも知れない。と。

 美冬は梓の浮べた笑みが酷く梓に似つかわしくない笑い方だと思った。
 自虐するような、自分を卑しめるような笑い方は、梓には不似合いに感じた。

「耕一と、何かあったの?」

 耕一の従妹である事に拘りを見せた梓を不審に思い、美冬は会長室に来るまでに何かあったのか尋ね。

「……別に」

 梓は美冬から眼を逸らすと低く呟く。

「話したくなければ、無理には聞かないわ。あなたを利用した形になったのは、謝るわ。ごめんなさい」

 謝罪し頭を下げた美冬は、顔を上げると言葉を継いだ。

「でもね。楓や初音に教えるかと聞かれたら、私は教えないと思う」
「どうして? 初音は判るけどさ。楓の方がずっと頭いいし、教え甲斐だってあるだろ」

 チラッと美冬の顔に目を上げた梓は、そのまままた眼を伏せてしまう。

「楓は思索タイプね。彼女は頭の中で考えて、結論を出すタイプだと思う。でも実行力はどうかしら? 学者や思想家にはいいかも知れないけど、現実的な企業家には向かないでしょうね」
「それで、あたしな訳? 残りは、あたししかいないもんな」

 クスッと笑った梓の言いように、美冬は眉を顰めて梓を見直した。
 楽天的で明るかった梓がどうしてこうも自虐的になってしまったのか、美冬には理由が思い当たらなかった。

「耕一だってそうなんだ。あいつが大事なのは千鶴姉でさ。あたししかいないから、色々言うんだ」

 梓の唇を噛み締めたようなボソボソとした言葉で、美冬には梓の様子が理解出来た気がした。

「違うと思うな。仕事を教えるなら、千鶴の妹で無くてもいいんだし。梓の気の回し過ぎよ」

 耕一に千鶴の妹としてでなく、自分自身を見て貰いたがっていると感じて美冬は言った。だが、梓は俯けた顔で唇を噛み締め黙り込んだ。

(美冬さんは知らないから、そう言えるんだ)

 梓は出掛けた言葉を噛み締めた唇で、反論していた。
 鬼の血の秘密を共有する従妹だから、耕一が姉に一番近いと思っている妹だから期待しているだけだ。と。
 今まで考えもせず、疑う事なく信じ込んでいた絆が、梓にはあやふやで脆い物だったような気がしていた。

 家族だから、四人だけの姉妹だから何でも話し合って解決するのが本当だと思う。
 なのに、千鶴は何も話してくれなかった。それが自分達の事を思ってなのは判っている。だが、一抹の寂しさがある。
 千鶴に気持ちをぶつけ、思う存分話し合えれば梓の気持ちも整理されていたのかも知れない。
 しかし、その時期はとうに過ぎていた。
 今更蒸し返すのが姉を責めるだけなのを知っている梓の鬱屈は、時折思い出したように小出しに教え諭す耕一への不満に置き換わっていた。
 それは恐らく、千鶴の為だけに自分達との絆を断とうとした耕一への不安。
 従兄と言う絆が容易に切れる事を感じさせられた為の、不安感からなのだろう。

「ごめんね、色々と言い過ぎたかな」

 美冬の作ったような明るい声音に、梓はゆっくりと顔を上げた。

「梓が付き合ってくれるから、ちょっと調子に乗ってたのかも。ごめん、悪かったわ」
「頼んだの、あたしだし。そんなんじゃないんだ」

 小さく頭を下げた美冬のぎこちない笑顔が寂しそうな泣き顔に見え、梓は何か自分が苛めたような気持ちになってボソボソと呟いた。

「ううん。あんまり色々詰め込んだから、きっと混乱してるのよ。ごめんね、梓だって帰ったばかりで疲れてるのに」

 美冬は後悔しながら前髪を掻き上げ、片手で額を軽く押えた。
 梓が見た目の威勢の良さとは裏腹に繊細な神経の持ち主なのに気付きながら、余りにも一時に人の裏側を教え過ぎた為に傷付いている。そう美冬は思っていた。

「本当にごめん。あまり人と関わった事がないから、気付かなくて」
「そんなに謝らなくても。なんか、美冬さんらしくないよ」

 梓も自分が弱気な所を見せた所為で美冬を傷付けたように感じて、気怠さの残る気持ちのまま居心地の悪さに赤くなった顔を俯かせて謝っていた。

「あたしの方こそ、ごめん。さっき、耕一とちょっとあって、落ち込んでたもんだから。それだけだから」
「そう? 耕一なら平気よ。あいつ根に持つ奴じゃない、って。梓の方が良く知ってるわよね?」
「うん。知ってる…」

 ホッとした顔で言う美冬に頷き、梓は知ってると思う。と言い掛けた言葉を切った。

「でも、私も少し言い過ぎだったな。だから好かれないのよね」

 掻き上げた髪を額を押えた手で後ろに流し、美冬はほっと溜息を吐いた。

「耕一にも、散々言われてるんだけどね」
「耕一に?」

 梓が腕の上に顎を置いたままちょっこっと首を傾げると。
「私って友達いないから、耕一は心配してくれてた見たい。本当に馬鹿、自分の方がよっぽど酷い顔してたクセに」

 どことなく嬉しそうな苦い笑いを浮かべた美冬は、両の肩を寄せて首を竦める。

「それって、家で言ってた?」
「うん。あいつ、妙に鋭いトコがあるでしょ? それに一ヶ月も一緒に暮らすと、色々と相手の事が見えちゃって」

 懐かしそうに話す美冬を見詰め、梓はごくりと唾を飲み込んだ。

「いっ、一緒に暮らす?」
「あれ? 話してなかった?」
「聞いてない!」

 今までの落ち込みも忘れ、梓はカッと赤く染まった顔を上げ握った拳を振るわせる。

「そんなに睨まないでよ。巫結花の家に居候してただけ。ちゃんと話して上げるから」

 姉妹揃って耕一の話になるとムキになるのを面白がりながら、美冬は耕一が巫結花の家に滞在した経緯を説明した。

「巫結花のお父さんが話すもんだから、耕一に色々知られちゃったのよね」
「それで耕一の奴、巫結花ちゃん家で用事を頼まれてたの?」

 ぼやき気味に話を締め括った美冬は、梓の問いにコクンと頷く。

「私も居候だからね。紹介した手前、耕一を避ける訳にも行かなかったし。まっ、いいんだけど」
「えっ? 美冬さん、耕一嫌いだったの?」
「ううん。どうして?」

 美冬の台詞に首を傾げた梓は、キョトンとした美冬の返事で更に首を捻った。

「だって、避ける訳に行かないって? 嫌いじゃないなら、避けなくてもいいじゃない?」
「一定以上は、誰とも親しくなりたくなくて、前はね。今は、少し考えを変えたけど」

 柔らかく微笑み、美冬は首を捻る梓に続けた。

「素直じゃないんでしょうね。親しくなると、裏を考えちゃうから疲れるのよ」
「裏って?」
「そうね。バスを降りる時、梓は嬉しそうだったわよね。どうして?」

 疑問に問いで返された梓は、一瞬詰まってぽりぽり赤くなった鼻の頭を掻いた。

「その、バスの運転者さん。千鶴姉に声掛けられて嬉しそうだったし」
「千鶴が嫌われてなくて安心した?」

 梓は途中で遮った美冬にコクンと頷く。

「それが素直な感想。でも、私は考えるの」
「なにを?」
「バスの運転手が会長に会う機会は滅多にない。まして送迎バスに乗る事は。だから直々に声を掛けられ、上手くいけば昇格は無理でも給料が少しぐらい上がらないか、期待しての笑顔じゃないのか。ってね」

 何か言い掛けた梓を上げた手で制し、美冬は話を続けた。

「判ってる、考えすぎなのは。でも考えるの、親しくなればなるほど酷くなる。最悪の状況を考えるようになる。だからね、親しい友達は作りたくなかった」
「あたしや耕一も?」

 梓は耕一が美冬を気にかける理由が判った気がした。
 人を信じたいのに信じられない。そんな所に、耕一は千鶴と美冬に共通点を見い出したのかも知れない。

「梓は疑うには真っ直ぐ過ぎるわ。耕一は、疑う必要がないわね。彼はハッキリ言うもの。ふふっ、さっきは心臓が止まるかと思ったな」

 かくんと首を横に倒した美冬は、儚げな微笑みを浮べ、後悔しながら小さく息を吐き出した。
 梓や耕一には、公私を隔てる事なく接してみようとした矢先から失敗続きだ。

「さっき?」
「最後通告。腹の探り合いをするつもりかって、聞いたでしょ?」
「うん。なんか耕一、真剣だったけど」
「曖昧な返事をしてたら、友人関係は終わってたかな? ハッキリしてるでしょ?」

 ぼんやり見詰める美冬の瞳を見詰め返し、梓は咄嗟に言葉が出てこなかった。
 家に美冬を招いた千鶴と耕一が、昨日の今日でどうしてそんな最後通告を突き付けたのか、梓には訳が判らなかった。

「あっ! まさか、あたしのせい!?」

 エレベーターでの耕一との話を思い出した梓は、自分から美冬を遠ざけようとしたのかと思い身を乗り出していた。

「梓?」
「耕一に言われたんだ。美冬さんにあんまり聞くなって。でも、あたし、色々知りたかったから!」

 訝しげに眉を顰めた美冬は、スッと手を梓に伸ばすと。

「落ち着きなさい」

 椅子の背を握り興奮ぎみに話す梓の二の腕を掴み、ぐっと力を込めた。

「あなたのせいじゃないわ。どうしても話すなと言うなら、耕一は私にそう言うわ」
「…そう…か? そうだよね」

 腕を掴んで遮った美冬の強い声音と青みを帯びた瞳に真っ直ぐ眼を見詰められ、梓はスッと興奮が収まると。どうして、そう思い込んだのか自分でも不思議に思った。
 以前なら、耕一がそんな遠回しな手を使うとは考えなかった筈だった。

「私が悪かったのよ。もう一度謝るわ、ごめんなさい」
「……あたしに謝らなくても」

 腕を掴んだまま頭を下げた美冬の謝る理由が判らず、梓は下げられた美冬の頭を見ていた。

「耕一の将来のポジションを確認したのよ。千鶴が乗ってくれたから会長になるのが判ったわ、千鶴が秘書になるつもりなのもね。耕一は、友人として来てるなら探るなって言ったの」
「耕一を、からかったんじゃ?」

 頭を上げた美冬は小さく頷くと、掴んでいた手を離して梓から眼を逸らした。

「ごめん、梓に聞いた話を利用した形になったから」
「いいよ。あたしも知りたかったし」

 はっ〜と息を吐き出し、梓は小さく頭を振り額を押えた。これだけ気落ちした顔で謝り通しに謝られると、もう怒る訳にも行かない。

「でもさ、なんでそんな遠回しな事したの? 耕一に直に聞いたらいいのにさ」
「言葉遊びのつもりもあったんだけど。耕一ったら、本気で怒った見たいなの」

 首を傾げて困った様にぎこちなく微笑む美冬を見て、梓は美冬がまだ二十歳なのを思い出していた。
 考えて見ると梓は、二つしか違わない美冬をもっと年上に見ていた気がする。

「あいつ千鶴姉が絡むとムキになるからさ、止めといた方がいいよ」
「うん、気を付ける」

 なんとなく親近感が増す美冬のしょぼんとした姿に苦笑を抑えた梓が言うと、美冬は素直にコックリ頷いた。

「なあ、聞いても良いかな?」
「うん?」
「耕一ってさ。美冬さんには……その、どういう存在?」

 ふっと顔を俯けた梓は、言葉を選びなから尋ねた。

 梓に取っての耕一は、従兄で喧嘩友達でいざと言う時、頼りになる男性。そして、初恋の相手。
 幼い頃、水門で助けられてから変わらず持っていた想いの対象。
 しかし、今はそれが変わりつつある。
 姉の恋人で、近い内兄になるだろう男性。保護者のように振舞い、時に叔父以上に口煩く躾ようとする男。
 耕一に感じた反発、美冬に感じた劣等感、そして行き場の無くした幼い頃からの想いの残照。それらが心の中で混ざり合い、感情の発露を求め渦巻く波が、梓の冷静であろうとする胸の内で、自分の存在価値を求め続けていた。
 それは従兄でも千鶴の妹でもない自分を見て欲しい欲求。誰かに柏木梓として、女として認められたい願望。長い間そう願いつつ決して叶う事の無くなった耕一への想いを、転化しようと足掻く心の葛藤。
 梓自身、それが同じ一人の人間として耕一に認められ、対等になろうと欲する欲求であるのに気付いてはいない。
 耕一と自分を繋ぐ絆が不確かで脆く感じた梓は、今の耕一を自分の中でどう位置づければ良いか判らなくなっていた。
 その曖昧な不安が梓に、美冬に取っての耕一の存在意義を尋ねさせていた。

「どうって? そうね、無遠慮に人の事情にまで入り込んだ、お節介で馬鹿な、尊敬出来る男性。じゃダメ?」
「でも、それなら……」

 首を傾げて茶化すように言った美冬に、梓は自分でも何を言い掛けたのか判らず言葉を途絶えさせ。

「聞きたい事は判るけど。いいわ、正直に言えば好きと言うより、たぶん愛してると思うわ」

 美冬は梓の途絶えた言葉を、中途半端な答えへの反撥と取り言葉を継いだ。

「……たぶん?」

 美冬の答えで、梓は自分が何を言い掛けたのかを理解した。
 梓は千鶴と耕一を見ていて辛くないのか、それを聞こうとしていた。それに気付き、梓は気付いた考えから逃げる様に赤くなった顔を伏せて聞き返した。

「恋愛経験が無いから断言出来ないな。もちろん、父や母は愛してる。巫結花もよ。でも、さっきも言ったけど、深く異性と関わったのは、耕一が初めてなの」
「美冬さんが?」

 梓は驚きに伏せていた顔を上げた。
 陽気で同性の梓から見ても魅力的な美冬が、恋愛経験が皆無とは信じられなかった。

「昔、一人だけいたけど。その頃は、愛とか恋とか言う感情じゃ無かったし。それに耕一とは、恋人にはなれないな」
「ごめん」

 寂びしそうに瞼を伏せる美冬から眼を逸らし梓が謝ると、美冬は軽く首を横に振り揺れる髪を片手を当てて押さえた。

「誤解してると思うけど。千鶴がいるからって意味じゃないの。仮に耕一が望んでくれても、私の方が耐えられないという意味」
「耐えられない?」

 ふっと息を吐いて押さえた髪を掻き上げる美冬の仕草を上目遣いに見上げ、梓は首を傾げた。

「耕一の愛し方は、私には耐えられない」

 訝しげに見上げる梓に微笑み掛け、美冬は短いビープ音がダウンロードの終了を告げたパソコンに向き直り、ダウンしたファイルを点検し液晶ディスプレイを閉じた。

「梓…怖くない?」

 終了されずに閉じられたパソコンの端で光る、強制的にスリープ状態に移行したのを伝える緑の明滅を瞳に映しながら、美冬は梓に背を向けたまま呟くように洩らした。

「怖いって、なにが?」
「耕一は鋭すぎる。私自身が理解していない心の奥底まで覗かれてしまう。私は自分の心の奥にある、気付きたくもない部分まで覗き込むような愛し方には耐えられない。いえ、耐えられる人がいるなんて信じられない」
「でも、好きだから知りたいって思うんだしさ」
「好き…だからよ」

 口を開いた梓を遮り、美冬はゆっくり椅子を回し首を横に倒すと梓の瞳を覗き込む。

「いい所だけ、綺麗な所だけ見て貰いたいんじゃないの? 誰だって、知られたくない秘密や醜い心があるわ。そんな物を人に知られる位なら、死んだ方がマシだって思うような醜い心がね。それが、好きな人なら尚更」

 言葉を切った美冬は、両手で大きく豊かな髪を掻き上げ軽く頭を振った。
 ゆるくウェーブの掛かった髪が広がり微かなジャスミンの香が、無機質な部屋の中に広がる。爽やかな香りを吸い込むように大きく息を吸い、美冬はゆっくり梓に眼を戻した。

「ごめん。反省したばっかりなのに、またきつくなっちゃった」

 自嘲気味に謝る美冬の寂しげな微笑みに頭を振り、梓は深く息を吸った。

 美冬の話を聞く内、梓は言い知れぬ不安と恐ろしさを感じていた。
 梓にも誰にも知られたくない秘密や、心の奥に仕舞った様々な感情がある。そんな自分でも醜いと思う心をむき出しにされたら。
 普段はどうしようもなく鈍い耕一だが。その反面、そんな心の奥底まで、なにもかもを見通すような何かを感じさせる所がある。実際、姉の複雑過ぎる心理まで理解していた。
 自分の中にある劣等感や嫉妬、想いをけどられた時、耕一や姉と今まで通り暮らして行けるのか。
 それを考えた時、梓は身体が消え心だけが落ちて行く様な、恐れを感じていた。

 小さく扉を叩く音にハッとして、梓と美冬はブースの中で揃って顔を上げた。
 反射的に顔を向けたものの幾重にも重なる仕切り越しでは、何も見える筈がなかった。ブースから出なければ返事をしても外には届かないだろう。

「丁度いい時間ね」

 手首に巻いたシルバーの鈍い輝きを放つリストウオッチを一瞥した見冬は、緋崎がブースに戻る前に終わらせて置こうと。再びパソコンの液晶ディスプレイを開け、スリープから目覚めたパソコンの終了作業に戻った。
 その隣でキーボードを走るしなやかな指と液晶の明かりに照らし出された横顔を眺めながら、先行きに不安を感じた梓が、肩で大きく息を吐き出していた。
 

五章

七章

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