五の章
 

 会長室に隣接した秘書室での短い誰何の後、会長室に通された耕一は、革張りのソファに向かい合って腰を下ろしていた千鶴と美冬に軽く片手を上げ、千鶴の隣に腰を下ろした。

「やっぱり秘書って置いてたんだ」
「あたしも初めて会う人だったけど」

 腰を下ろしながら感心した様に言う耕一の正面。美冬の隣に腰を下ろした梓が、会長室の扉を振り返るようにして相槌を打つ。

「耕一さん? …そう言えば、業務中は初めてでしたね」
「ずいぶん若かったな。二十二、三かな?」
「可愛い子だったわね。専属秘書と上役の不倫って多いのよね」
「今はいいけどさ。耕一はスケベだからな、将来は心配だよな」

 意味有りげに耕一を見て口を挟んだ美冬の尻馬に乗り、梓が眇めた眼を耕一に向けからかうように笑う。
 耕一だけが美冬の意図を理解して、不味かったと思いながら、二人を無視して視線を宙に泳がる。

「ご心配には及びません。耕一さんが会長になって下さったら、私が秘書になります」

 が。あっさり美冬に乗せられ、千鶴は将来の心積もりをバラしてしまう。梓は、そうなのか。と言う少し驚いた顔で耕一と千鶴を代る代る見回した。

「へ〜、そういう話が出来てたの? それなら心配ないわね。耕一、良かったわね」

 別に話し合った訳ではないが、耕一も千鶴がそう言い出すのを半ば予想はしていた。

「はははっ、そうだな」

 なにもいらん情報を美冬に流さなくても。と思いながら、耕一は乾いた笑いを洩らしつつ溜息を飲み込んだ。
 感情的になると冷静さを欠くのが、千鶴の悪い所だ。
 もっとも耕一が絡まない限り、千鶴が感情的になるなど考えられないのだが。

「なにか嫌そうですね?」
「会長秘書にしちゃ若いなって、言っただけなんだけどね」

 少し倹を含んだ千鶴の声音に顔を向け、苦く笑う耕一は横眼で美冬に視線を向ける。

「いままでは秘書課長にお願いしてましたが、いつまでもそうも行きませんから」

 あっと言う顔で口元を軽く押さえ、苦笑いを浮かべた千鶴は取り繕うように言を継いだ。

「足立さんは、まだなの?」

 テーブル上に並んだ三つの紅茶のカップを認めた耕一は更に尋ねた。

「足立さんは所用で少し席を外されています。すぐに戻られると思いますけど」
「そうか。秘書は新卒かな?」

 コックリ頷いた千鶴に頷き返し、耕一は少し安心していた。
 課長が秘書を務めていたのなら、社内の情報を握る秘書課は、千鶴の味方だと思っていい。

「新卒で会長秘書? 優秀なのね、でも先輩の眼が厳しそう」

 顎に指を置き方眉を微かに跳ね上げた美冬が口を挟む。と、耕一はスッと細くなった眼で美冬を真っ直ぐ見上げた。

「美冬。お前、性格が更に悪くなってないか?」
「そう? 見た目で胡麻化せるから、いいんじゃない」
「それで胡麻化せる相手ならな」

 俺は胡麻化されないと言った耕一を見詰め返し、美冬は小さく息を吐く。

「厄介な相手を育てたかな?」
「どうなるかは、お前次第だろ? 俺とも腹の探り合いやるつもりか?」

 睨んだまま眉を顰めた耕一の視線に、美冬はふっと愁眉を雲らせ紅茶のカップに視線を落した。

「悪かったわ。言葉遊びのつもりだったけど。あなた、真剣ね」
「ああ」

 耕一の短い返事に微かに口元に自嘲するような笑みを浮かべ、美冬はカップに手を伸ばすとゆっくり口元に運んだ。

「あなたを敵に回すつもりは無いわ。でも、隆山っていい所よね。手伝いは必要でしょ?」
「手伝いはな」

 短い誰何に美冬は満足げに頷くと紅茶を口に含み、耕一も肩の力を抜いた。

 美冬には耕一に手を貸しても主導権を争う気はない。それが判っただけで、耕一には充分だった。
 

 そんな耕一と美冬を見比べながら、梓はまたも置いてきぼりを食ったような、寂しさと苛立ちを覚えていた。
 梓の前に座った千鶴には二人の会話が判っているようで、微かに表情を引き締め二人を見ていた千鶴が、美冬が紅茶を口に含むと同時に眼元を緩めたのが、梓の苛立ちを更に募らせていた。

 千鶴も耕一も、考えろと言うばかりで肝心な事は話してくれない。美冬に聞けば知らなくていいと言う。
 考えようにも、考える為に必要な肝心な部分がすっぽり抜けている気がして、梓は苛立ちと蟠りを胸に抱えていた。
 本当に期待しているなら、千鶴や耕一が教えてくれてもいいじゃないか。そう言いたい気持ちを抑え込み、梓は蚊帳の外に置かれた気分で三人を見ながら唇を噛んだ。

 すっきりしない気持ちのまま俯いていた梓は、求められるまま耕一に袋ごと写真を差し出す。
 耕一、千鶴に美冬が加わり楽しそうに写真を回す横で、後で見ると言った梓がぼんやり窓の外に広がる空を眺めていると、インターホンの軽い呼び出し音に続き、足立の再訪を告げる秘書の声が聞こえてきた。
 席を立った千鶴が答えると、足立と箱を抱えた数人の女性、そして紅茶を載せたトレイを手にした秘書が姿を現した。
 足立は箱を抱えた女性達を会長室に隣接した私室に通し、ソファから立ち上がった耕一と握手を交す。
 秘書がテーブルに紅茶を置き一礼して退室すると、足立もソファに腰を下ろした。

「あちらの方に運ばせましたので、ご自由に御試着なさって下さい」
「申し訳ありません。無理なお願いをいたしまして」

 私室を手で示しながら美冬に言い、足立は穏やかな笑顔で美冬の会釈に、いいえと僅かに首を傾げて応える。

「梓。選んで上げる」
「えっ? あの?」

 気持ちを持て余し流れる雲を睨むようにしていた梓は、何を言われたか判らず、美冬にのろのろと顔を向けた。

「水着よ。行きましょ」
「あっ! ちょ、ちょっと、美冬さぁん」

 梓の気持ちなどお構いなしに、美冬は腕を掴むとずりずりと梓を引きずって行く。

「あっ、会長。少し宜しいですか?」
「えっ? あ、はい」

 梓の引き摺られていく様子に小さく笑いながら腰を上げた千鶴は、足立に呼び止められて腰を下ろし直した。
 足立は美冬と梓が私室に入ると、耕一と千鶴をゆっくり見回し、穏やかな笑みを浮べたまま口を開いた。

「ちーちゃん、困るよ。行き成り混浴を貸し切りにしろなんて言われてもさ」
「あっ! その」
「いや、無理じゃないんだよ。でも、楽しみにして来て下さってる、お客様もいらっしゃる訳だしね」
「はぁ」

 慌てる千鶴を上げた手で押し止めるようにしながら、足立は噛んで含めるように言う。
 困ると言いながら、むしろ楽しげな足立の様子にも関わらず。その場の勢いだけで電話した千鶴は、頬を赤く染め肩を竦めるとしおしおと小さくなっていく。

「取り合えず、一番眺めのいい風呂を押えて置いたから。そっちで我慢してもらえないかな?」
「はぁ。あの、申し訳ありません」
「いや。会長はちーちゃんなんだから、私に謝る必要はないんだけどね」

 小さくなって上目遣いに覗く千鶴から耕一に視線を向け、足立は困った顔でからかうような苦笑を浮べていた。

「しかし羨ましいね、耕一君。私の若い頃には、六人の女性と一緒に温泉に入る機会なんてなかったよ」
「はあ」

 そう言われると、耕一は視線を逸らして頭を掻くしかない。
 水着とは言え、男は耕一と柳だけだ。
 そして耕一は、柳は一緒に入らないだろうと確信していた。
 一歩間違えば地獄に変わりそうだが、まさに耕一だけのハーレム状態である。

「まあ、それだけだから。ちーちゃんも試着して来るといいよ」
「はい。すいませんでした」

 足立さんまで。と言うような、むくれた顔で上目遣いに睨んでいた千鶴は、立ち上がって深く腰を折る。
 千鶴に苦笑しつつ片手を振り、足立は恥ずかしそうにそそくさと私室に向かう千鶴を優しい眼差しで見送っていた。

「耕一君、それは?」

 私室に繋がる扉から眼を戻した足立は、テーブルの上に置いてあったラボの袋に眼を留めた。

「ああ、旅行前に取った写真ですよ」
「見せて貰ってもいいかな?」

 耕一は軽く頷いて袋を足立に手渡した。
 袋から写真を取り出した足立は、一枚一枚をゆっくりと眺め、静かな微笑みを浮べた。

「みんな大きくなったな。いい表情だ」

 耕一は独り言のような感慨深げな足立の言葉を聞きながら、静かに紅茶を口に運んでいた。

「耕一君」
「はい?」
「年寄りの繰言を聞いて貰えないかな」

 呼ばれて眼を上げた耕一の前で、写真を丁寧に揃え袋に戻した足立は、ソファに背を預けて耕一に顔を向けた。
 耕一は頷きだけで応えた。

「私は何も出来なかった。九年前も去年も」

 足立は胸のつかえを吐き出すように、ゆっくりと語り出した。

「鶴来屋を守る事は出来た。しかし、本当に守らなければならない者を守れなかった。君達のお父さん達が頼んで逝かれたのは、鶴来屋なんかじゃなかった筈なんだ」

 ゆっくりと力ない微笑みを浮べた足立が、耕一には人生に疲れ果てた老人の様に思えた。
 そこには人好きのする穏和な笑顔を絶やさぬ紳士の面影はなく、後悔と苦悩に疲れ果て、神の前に懺悔を捧げるような老人の姿があった。

「申し訳ないと思っている。九年前は賢治さんに。今回は君に。私に力がないばかりに、私は君達に頼る事しか出来ない。君達のお父さん達が寄せて下さった信頼に、私は応える事が出来なかった」

 耕一は深く腰を折る足立を前にして、胸の痛みに固く眼を閉じた。

 足立に謝罪し礼を言うべきは、耕一の方だった。
 足立は柏木の宿命に巻き込まれだけなのだ。
 足立の助け無くして、耕一の父や千鶴達の今は無かった。

「違います」

 しかし、筆舌を尽くし謝罪と礼を述べたい気持ちの耕一の口から出たのは、呟くような言葉だった。

「親父も伯父さんも、足立さんに感謝していると思います」

 足立が望んでいるのは、謝罪でも礼でもなく心に蟠(わだかま)った澱を拭い、腹蔵なく話せる関係。
 そう感じた耕一は、筆舌を尽くし感謝と礼を述べたい気持ちを抑え平静に言葉を紡いだ。

「それにこれからですよ。足立さん、まだこれからなんです」
「耕一君?」
「お願いします。俺に、いや俺達に力を貸して下さい。今日は、そのお願いに来ました」

 訝しげに呼ぶ足立に向い、耕一は立ち上がり深く深く腰を折った。
 足立という掛け変えのない理解者のいる幸運を感謝し、胸を熱く満たす謝罪と礼に震える身体で。

「これからかね? ……まだ楽隠居はさせて貰えないようだね」

 足立の苦笑混じりの声を耳にして、折っていた腰を上げ、耕一はゆっくりと腰を下ろし直した。

「足立さんは、まだ若いですよ。老け込むには早すぎます」
「確かに。みんなの行く末を見届けない内は、老け込めないね。それこそ賢治さん達の信頼を裏切る事になるな。……しかしね、耕一君」
「はい?」
「老婆心だとは思うが、無理はしないようにね。君は君なんだよ」
「はぁ?」

 穏やかな表情に戻った足立が何を言いたいか計り兼ねて、耕一は生返事を返す。

「賢治さんの代わりに、君がちーちゃん達の保護者になる必要はないんだよ。君は君らしく、思う通りにやりなさい」
「……はい」

 少し厳しくなった足立の瞳に見詰められ、耕一は千鶴達の保護者になろうと振舞っていたのを見抜かれた気恥ずかしさにテーブルに視線を落とした。

「耕一君、君だろう。ちーちゃんに雇用枠を増やすように言ったの?」
「はあ、すいません。差し出がましい真似して」
「いや。私も萩野君や佐久間さんが君を欲しがった理由が納得出来たよ。役員連中のちーちゃんを見る眼も変わったしね。御住職が誉め千切る訳だ」

 恥ずかしそうにぽりぽり頭を掻く耕一に軽く首を振って、足立は苦笑した。

 今年鶴来屋は不況を理由に、他の企業同様雇用枠を削減する予定だった。
 ところが、急に千鶴が会長通達として役員一同の反対を押切り、雇用枠を例年と同じに戻した上、戻した雇用枠には特定の条件を設けたのだ。
 反対する役員を前に、千鶴は企業を動かすのは人であり、優秀な社員の育成に掛かる時間と、不況下だからこそ他社に先駆け優秀な人員を集められる有用性を説いた。
 足立もこれまで経営に口を挟まなかった千鶴の豹変ぶりには驚いたのだが、役員一同も飾りだと思っていた千鶴の押しの強さに渋々認めざるをえなかった。
 足立もまさかとは思っていたが、それが耕一の入れ知恵だったとは、耕一に言われたからと役員を押し切る千鶴にも呆れるが、それをさせる耕一も大した者だ。

 足立には苦笑するしかない。

「あの条件には私も驚いたが、あれも耕一君、君が?」

 しかし足立には、幾つか気掛かりな事があった。
 千鶴の付けた条件が足立の想像した通りの理由なら、二十歳そこそこの若者が考える方法としては、余りにも老獪に過ぎた。
 それが足立に微かな不安を抱かせていた。

 若い内は老練な手管を使うより、失敗を恐れず自由に何事にも正面から挑み。失敗から学んでこそ自由な発想と冒険心を持った懐の深いスケールの大きな人間に成長する。
 千鶴や耕一が失敗を犯した時、注意を与え指導し、尻拭いするのが自分の役眼だと足立は考えていた。

「ええ。個人の才能や能力に、周囲は関係ないですから」
「私も同意見だけど、そう思わない方も多くてね。信用第一の商売だからね。でも……」
「はい?」

 一旦言葉を切り、首を僅かに傾けた足立の眼が笑っているようで、耕一は何かむず痒いような感覚に首を捻った。

「あの条件は、ちーちゃんの味方を一人でも二人でも増やすのが、本当の狙いじゃないのかな?」

 今度は耕一が苦笑する番だった。

 こうも考えを言い当てられると、切れ者と言われる足立の前では、耕一も子供扱いだった。
 その時になって耕一はさっき感じたむず痒さが、子供の頃、バレてないと思っていた些細な悪戯を、失笑混じりに知っているぞと匂わす父や母に感じた感覚と同じなのに気付いた。
 叱られなかった安堵と、どんなに上手く隠したつもりでも気付いてしまう両親に敵わない悔しさのない交ぜになった、気恥ずかしさと居心地の悪さの混ざった久しく感じなかった複雑な感情。
 父に捨てられたと思い込んだ時から、母を護るのは自分だけだと思い込んでから、耕一が久しく忘れていた感情だった。

 どこか心の奥がホッと軽くなるのを感じながら、自然と頬に笑みを刻んだ顔で、耕一は頭を掻きながら小さな笑いを洩らしていた。

「やっぱり、まだまだ足立さんには敵いませんね。でも、それだけじゃないんです。これからに備える為にも優秀な人員が必要でして、一年二年で信用して使える人材は手には入りませんから」
「いや。残念だけど、私が耕一君に教えられる事は、あまりないみたいだね。賢治さんに代わって君を仕込むのが、私の仕事だと思っていたんだが」

 足立は笑みを浮かべながら、残念そうな溜息混じりに言う。

 確かに優秀なだけならヘッドハンティングで集められもする。だが全幅の信用を寄せられる優秀な人材となると、数年に一人か二人いればいい方だろう。
 足立が考えていたより、耕一の考えは奥が深い。教えるどころか、気を抜くと足立の方が教えられそうだ。
 足立は耕一の中に、足立と賢治が手塩にかけ仕込んだ千鶴が、全幅の信頼と愛情を寄せるに相応しい器の広さを垣間見た思いがしていた。

「いいえ、そんな事はありませんけど。実は俺より教え甲斐のある生徒を、足立さんにはお願いしたいんです。それも含めてお願いに来ました。詳しくは、千鶴さんが戻ってからにしたいんですが」

 足立を見詰め表情を引き締めた耕一は、軽く頭を下げて足立に眼を戻した。

「判った、ゆっくり聞かせて貰うよ。そう言えば、お嬢さん方は遅いね」
「足立さん、まだまだ掛かりますよ。昨日は、服一着に半日引っ張り回されましたからね」

 耕一が旅行中に付き合った買い物を思い出してぼやき気味に言うと、足立は固く閉じられた私室の扉から眼を戻し苦笑しつつ首を横に振る。

「贅沢を言っちゃいけないよ。君に見せるのに張り切ってるんだからね。半日でも一日でも付き合う覚悟はしとかないと」
「足立さんも経験がありそうですね?」
「今じゃ、付き合えとも言ってくれないけどね」

 苦虫を噛み潰したような顔で言う耕一に片眼を瞑って見せ、足立はふっと息を吐くと笑い声を洩らし、一頻り愉しそうに笑うとスッと表情に影を落した。

「所で、ちーちゃんから聞いたと思うけど」
「俺は気にしてませんよ」

 千鶴がいない間にと言った足立の様子に気付いた耕一は、短く答え首を横に振る。

「うん、私の力が及ばなくて申し訳ないと思っている。人の口だけは塞ぎようがなくてね。しかし許嫁の話は、あながち嘘じゃないんだよ」

 会長室の壁に並んだ耕一と千鶴達の父の写真を見上げ、足立は懐かしそうに眼を細めた。

「ちーちゃん達のお父さんと賢治さんの間で、そういう話をした事があるそうでね。ちーちゃん達のご両親が亡くなる前だったそうだ」
「そうでしたか」

 兄弟で子供同士を結び付ける。
 取り立てて不思議でもない普段の雑談の類だが、足立の大切そうに話す様子と伯父の亡くなる前と言う時期に耕一は深く頷いた。
 雑談に寄せ伯父が何を伝えたかったのか、足立も耕一の父も十二分に理解していたのだろう。
 僅かにでも娘達の明るい将来を夢見て安心したかったのか、耕一が宿命を乗り越える事を願っていたのか、もしくはその両方か。想像する事しか出来ない耕一にも、痛いほど伝わる伯父の想いがあった。

「耕一君、答えたくなければいいんだが」

 スッと写真から眼を逸らし、足立は伏せた眼で口を開いた。
 いつも正面から話す相手の眼を見る足立の、聞くべきか聞いていいのかという躊躇いと苦渋を、その様子が物語っていた。

「違いますよ、足立さん。だからって、俺に親父の代わりは出来ませんよ」

 足立の質問を先読みした耕一は、きっぱりと足立の危惧を一蹴した。

「すまない。老婆心だった」

 迷いのない答に、足立は安堵の息を吐きながら頭を下げた。

 足立は不安に思っていた。
 耕一が千鶴の鶴来屋での風評を知っていて、雇用に口を挟んだのではないか?
 耕一が姉妹の保護者たらんとする態度は、その為ではないか?
 それが理由で、役員を引き受けるのを迷っているのではなかと。
 もしそうなら、千鶴にも耕一にも、将来辛い結果だけが残りはしないかと心痛を抱いていた。

「いいえ。俺の方こそ申し訳ありません。ご心配ばかりお掛けしてしまって」

 テーブルを頭が付くほど腰を折った足立に、耕一は感謝を捧げつつ頭を下げて返した。

「いや。元はと言えば、社内を抑え切れなかった私の力不足だからね」
「俺は概要しか知りませんけど。どこにでも噂好きはいますから、足立さんのせいじゃないですよ」

 ホッとした面を上げて言う足立に、耕一はもう一度軽く頭を下げて返す。

「でも、今でもそう言った噂が流れているんでしょうか?」

 耕一は思い切って尋ねてみた。
 耕一の持っている情報は半年近く前の物だ。現在では状況が改善されている可能性もあった。

「いや。最近は下火になっていたんだが」
「なって、いた?」

 耕一は足立の苦笑気味の過去形な言い方に眉を顰めた。

「困った事に、最近新しい噂が流れ初めてね」
「新しい噂ですか?」

 足立は首を傾げて耕一を見ると、困った顔で眉を寄せる。

「耕一君。君、派手な事やったね?」

 先だって鶴来屋のロビーで涙ぐんだ千鶴を抱き締めた一件だ。

「えっと、ハハッ」

 耕一は照れ笑いしながら、後ろ頭を掻くしかない。

「大変だったよ。ちーちゃんに憧れてる若い社員が大騒ぎしてね。ちーちゃんが休み取ったもんだから、更に噂に拍車が掛かって。二、三日は仕事中まで君の噂で持ち切りだったよ」
「はぁ、申し訳ないです」

 騒ぎを思い出したのか疲れたように言う足立に、耕一は小さくなってペコリと頭を下げた。

「まあ、次いでにちょっと利用させて貰ったからいいんだけど。今日耕一君が顔を見せたから、明日からまた大変だろうけど」
「利用って?」
「事後承諾になって悪いと思ったけど、許嫁の件、流させて貰ったから」

 後ろ頭を掻いていた手を止め、思わず足立をジッと見詰めた耕一は、それで納得がいった。
 ロビーで従業員がひそひそやっていたのは、梓を見ていたのではなく、耕一の噂をしていたのだ。

「噂程度だけど撹乱にはなるからね。放って置くと、飛んでもない噂に発展する可能性もあるだろ?」
「はぁ。でも、それじゃあ不味くないですか?」
「私の方に不味い事はないけど?」
「いや、風呂ですけど。また噂になるんじゃ」

 身から出た錆びで足立に文句を付ける訳にもいかず、耕一はノホホ〜ンと首を傾げる足立にお伺いを立ててみる。

「ちーちゃんと二人っ切りじゃないからね。まあ、二人の仲のいい所を出来るだけ見せて、こっちの流した噂を補強してくれると、私としては助かるんだけどね」
「ハハッ、努力してみます」

 耕一は楽しそうに言う足立に苦く笑うしか無かい。
 暫くの間、耕一は鶴来屋に来るたび見せ物になる運命のようだ。

「一般社員はそれでいいが、問題なのは幹部連中でね」

 苦く笑う耕一に笑い返した足立はスッと真顔になる。

「賢治さんを知っている者ほど、ちーちゃんへの風当たりが強くて」
「親父をですか?」

 耕一も笑いを引っ込め、真顔の戻り眉を顰める。

「うん。賢治さんを知っている人達には、ちーちゃんを特別扱いしたのも、君達を呼び寄せなかった理由も理解出来ないんだ。まして、賢治さんはお母さんが亡くなってからも、誰とも付き合おうとなさらなかった」
「千鶴さんに理由を求めたんですね?」

 深く息を吐いた足立は、耕一に首を縦に動かした。

「ちーちゃんも誰とも付き合おうとしなかったからね。ちーちゃんが君達を家に入れるのに反対したみたいに取っているらしい。君のお父さんももてたから、最初は二人の気を引くのに失敗した連中のやっかみ半分の噂だったんだが。実の親子以上に仲が良かったから。君のお母さんが亡くなってからは、特に。私にもう少し力があれば…本当に申し訳なく思っている」
「いいえ。足立さんには、俺達は幾ら感謝しても足りないんです」
「耕一君、それは違うよ。君のお父さんがいらしてこそだ」

 深く頭を下げた耕一に向い、足立を首を横に振った。

「いえ。親父だけなら、どうなっていたか」

 顔を上げ微かに躊躇い眼を伏せた耕一の言葉で、足立は噂に対する尽力に対する礼ではなかった事に気付いた。

「まさか、耕一君?」
「初音ちゃんを見てて気付きました。普通じゃないですからね。両親を亡くした所為もあるでしょうが、本当の父親になら反発もします、我が侭も言えます。でも」

 驚いた顔をした足立の視線から顔を逸らし、耕一は僅かに眉を寄せた。

「親父はやっぱり父親じゃない。しかし他人でもない。親に対する甘えと他人に対する遠慮が同居してたんじゃないですか? 無意識にかも知れませんが彼女達の親父に対する感情は、異常と言っていい依存度です。この関係は、例えるなら恋愛です。彼女達にとっては、親父は恋人以上です」

 梓にエレベーターの中で洩らしそうになった後悔からか、誰にも話せなかった心の織を吐き出すように言い。
 耕一は深く息を吐いた。

 どんなに愛し合った恋人同士でも、結婚しようと些細な喧嘩で別れる事がある。しかし親子は、喧嘩しようと罵り合おうと親と子の関係が切れる事はない。
 意識しようとしまいと、根底には親子である安心感が存在する。
 それが千鶴達と耕一の父、賢治の間には存在しない。
 仲のいい親子でさえ。いや、仲がいいからこそ親に嫌われる恐れを持っている子供もいる。
 そして仲のいい親子が父や母を身近な異性と意識する思春期において、子供が父や母に対して恋愛に近い感覚を体験することがある。
 嫌われる恐れと温もりを求める心の狭間で感じる心の動揺。そして本能的に異性を求める欲求を、未成熟な心が恋愛感情と誤解した為に起こる疑似恋愛である。
 これが無意識に子供が親に似た人を好きになると言われる由縁でもある。
 まして叔父であっても父親でない賢治に父の面影を見、両親を亡くした不安と他人への疑心に傷付いた深い心の痕を癒された千鶴達姉妹の、賢治に対する精神的な執着は想像出来ないほど深い。
 その姉妹の中でも、丁度思春期を迎えていた千鶴の賢治に寄せた信頼と想いは、余りにも大きく深かった。
 他者から見る千鶴と賢治の関係は、まさに疑似恋愛の典型だった。
 周囲が千鶴と賢治の関係を誤解したとしても、それは当然でもあった。

 そこまで考え、耕一は深く息を吸った。

 疑似恋愛だと思いたいだけかも知れない。と。
 耕一は千鶴が賢治に寄せた想いをプレッシャーに感じ、予想しうる最悪の条件をクリアする事で、父を越えようとしているのかも知れなかった。
 長く離れていた為か、耕一には子として父親を超えたい渇望以上に、越えるには大き過ぎる同じ男としての賢治が、耕一自身が乗り越えるべき大きな課題の一つになっていた。

「本当に、君は全てを受け入れたんだね」

 足立は頷いた耕一に労しそうな瞳を向け、表情を曇らせていた。

 亡くした者の存在が残された者に取って大きな程、記憶の中では浄化され、理想化される。
 足立は誰より賢治と千鶴達の絆の深さと強さを理解していた。
 耕一が姉妹と共に暮らすようになれば、千鶴達が意識していなくても、耕一は理想化された実の父の面影を求める姉妹の瞳を、常に意識する事になるだろう。
 愛した者に自分の中に別の誰かを求められ、耐えられる者は少ない。足立自身が耕一の立場なら、耐え切れずに背を向けるかも知れない。
 眼の前に座る二十歳を過ぎたばかりの青年が、どれほどの苦悩の末に一人の女性の全存在と宿命を受け入れ、立ち向かおうとしているのか。
 それを考えると。足立はこの青年の中にある、自分とは比較にならない心の広さと豊かさ、器の大きさを前に頭の下がる思いだった。
 しかし同時に哀しくも思った。
 気付かなければ苦しむ事もなかった。

 足立は壁に掛けられた賢治の写真を見上げ、耕一に掛けるべき言葉を無くしていた。
 ただ、改めて彼らの行く末を見守る決意を固め、全力で彼らを支える事を、今は亡き恩人と友に誓った。

「どんな理由にせよ、千鶴さんは足立さんを信頼しています。それが、親父一辺倒になるのを防いでくれました。本当に感謝の言葉もありません」

 再び深く頭を下げた耕一の低く小さな声で、足立は眼を写真から戻し、耕一をまじまじと見た。

 社内の誰一人、当の足立を除いては、千鶴が足立に全幅の信頼を置き、その手腕と才気に微塵の疑いを差し挟む事はないと信じ込み、疑う者はいままでなかった。
 だが足立は、千鶴が自分を心から信頼し頼っているのではない事を良く知っていた。
 それを耕一に見抜かれているとは、足立はもう感心するよりも、この二十歳ばかりの青年にそら恐ろしい物を感じ始めていた。

 耕一から視線を外しソファの背に身体を預けた足立は、ゆっくりと固く眼を瞑った。
 足立の脳裏には、まざまざと九年前の情景が浮かび上がった。
 千鶴に向けられた瞳と共に。

 九年前、千鶴の両親が亡くなり社内の派閥争いに巻き込まれた足立は、東奔西走の日々を送っていた。
 両親を亡くした千鶴達姉妹の事が気になりながらも、柏木家に足を向ける暇さえない多忙な日々だった。
 この時の思慮の浅さが、足立自身にも生涯消えぬ後悔を刻むとは、その時の足立には知る由もなかった。
 足立が千鶴達の元に鶴来屋の譲渡を迫る輩が押し寄せているのを知ったのは、既に千鶴達の両親の死後一月が経った頃だった。
 急ぎ柏木家に駆け着けた足立が眼にしたのは、夕暮れも迫り茜に染まった固く閉じられた門と、死んだように沈む屋敷の変わり果てた姿だった。
 固く閉じられた重厚な門も屋敷も、見た眼には変わった所はなかった。
 しかし屋敷を包む空気が、千鶴達の両親のいた頃とは打って変わり、明るさの欠片もなく何者をも拒絶する暗く重い重圧を生み出していた。
 知らぬ物が見れば、間違いなく棲む者もない化け物屋敷だと思った事だろう。
 一瞬唖然とした足立は、寒気のする思いを振り切り門を叩いた。
 しかし返答はなかった。
 数回叩いては反応を待ち、返事がないのを訝しみながら、買い物にでも出掛けたのかと門の前で待った。
 しかし幾ら待っても帰って来る様子も、家の中から人のいる気配も伝わって来なかった。
 数時間が経ち、街頭すら点けられない月明かりに浮かぶ門を前に佇んでいた足立は、乗って来た車に引き返した。
 帰る為ではなく姉妹の安否を確かめる為、足立は塀に車を寄せ、ルーフに乗り塀を乗り越えた。
 屋敷内に誰もいなければ、警察に捜索を頼むつもりで、足立は暗闇の中で屋敷内を探し歩いた。
 屋敷内も電灯は点いておらず、足立は月明かりを頼りに庭から一部屋一部屋、様子を伺いながら回った。
 奥まった一部屋から洩れる明かりを見付け、最悪、誘拐や監禁の可能性を考え始めていた足立は、ほっと安堵の息を吐いた。
 だが、声を掛けながら部屋の障子を開けた足立は言葉を失った。

 友人の忘れ形見の姉妹四人は、確かにその部屋にいた。
 足立のおじさんと呼んで慕ってくれた三人の小学生と、訪れるたび微笑みを浮べ迎えてくれた少女が。

 足立はどうやって自宅に帰ったか覚えていない。
 気が付くと家で電話を前に彼女らの叔父、賢治の声が頭に響いていた。
 何を話したのかも覚えていない。
 ただ足立は、震えて泣いていたような気がする。
 今でも思い出せるのは、戸を開けた足立を見た瞬間、千鶴にしがみ付き怯えた瞳で顔を伏せた初音と楓の恐怖に震える小動物のような姿、妹を庇う様に覆い被さった梓の憎しみに輝く瞳。
 そして、屹然とした態度で妹達を抱き寄せ顔を向けた千鶴の、怜悧で感情の抜けた瞳。
 感情が抜け、ガラスのように一切を拒絶した瞳。
 感情を失いながら、抑え切れぬ憎悪と侮蔑がその奥で燃え盛っている。
 そんな相反した情念を宿した瞳を、十五の少女が。
 いや。生きている人間が持てるとも、持っていていいとも信じられない、瞳。

 足立は千鶴の瞳に畏怖しながら、千鶴自身の慟哭の深さを見た気がした。

 足立は賢治が鶴来屋の全権を掌握し、一連の騒動が平穏を取り戻してからも、賢治から千鶴達は大丈夫だと告げられても、柏木家に足を向けようとしなかった。
 幾度か家に呼ぼうとした賢治からの誘いも、仕事を理由に断り続けた。
 もう一度、千鶴にあの瞳で見詰められ、足立には生きて行く自信がなかった。
 自分がもう少し配慮を働かせていれば、姉妹を追い詰める様な事はなかった筈なのだ。
 しかしその足立も、幾度も賢治に誘われる内、断り切れなくなった。
 膝の震える思いで賢治の後に着いて柏木家の門を潜った足立は、以前の足立のおじちゃんと呼んでくれる三人の小学生と、優しい笑みで迎えてくれる少女に再会した。
 あの時見た四人の姿は、悪夢ではないかと思うほどの変わりようだった。
 それから足立は、賢治に誘われしばしば柏木家を訪れるようになっていった。

 しかしその足立も、千鶴の様子がおかしいのに気付いたのは、それから七年が過ぎ千鶴が鶴来屋に入社してからだった。
 始めに気付いたのは、微妙にずれる会話と表情だった。賢治とは自然に話し微笑む千鶴だが、他の者とだとホンの僅かだけ不自然さが着き纏うのだ。
 それに気付けたのは、足立の他、人心に長けた幹部達の中でもごく少数だった。
 千鶴の感情の表し方を不審に思っていた足立に確信を与えたのは賢治だった。
 賢治は入社した千鶴を、次期会長として足立に教育を任せていた。
 しかし千鶴は、足立の教えを帰宅後、賢治に再度確認していたのだ。
 単なる復習とも考えられたが、賢治もまた、千鶴の態度には常々不安を抱いていた。
 足立と賢治は話し合い、二人の出した結論は同じだった。
 千鶴は足立さえ、信用も信頼もしていない。
 賢治が信じ信頼しているから、足立に従っているだけだと。
 賢治と足立は、共にその懐の広さと人望で社内の信頼を集め、グループ全体を掌握していた。こちらが信頼してこそ相手も信頼し、期待に応えてくれる。
 利益を追う現在の企業体制では甘いと言わるかも知れない。しかし、それが二人の信条だった。
 その賢治と足立には、千鶴の根底に見え隠れする他人への不審が一番の気掛かりとなった。
 このままでは、千鶴はいずれ社内で孤立無縁となる。その危惧の元、賢治は秘書として千鶴を傍らに置き教育を行う事にした。
 賢治が教え足立が補佐する事で、千鶴の足立への信頼を増そうと考えての配慮からだ。
 現在の千鶴が足立を信用し頼るのも、その賢治の教育の成果でしかない。
 足立が千鶴をちーちゃんと愛称で呼ぶのも、単なる習慣以上に、幼い頃の親しい呼び方による心理効果を狙った意味がある。
 足立は一抹の寂しさを感じながら、かって自分の犯したミスが残した千鶴の心の痕を、たとえ生涯かかっても、少しでも癒せればと考えていた。

「終わったようだね」

 扉の開く音に固く瞑った瞼を開け、足立はゆっくりと息を吐き出し、悔恨に満ちた想い出から立ち戻った。

 扉から出て来た千鶴に耕一が軽く手を上げ。
 はにかんだ微笑みで首を傾げる千鶴を見ながら、足立は深い安堵に包まれ全身の力を抜いた。

 賢治と足立。
 切れ者と評される二人が話し合って到達した千鶴の深い心の痕さえ理解し、全てを受け入れたこの青年が一緒なら、微塵の不安も感じる事はなかった。
 九年ぶりに感じた重石を下ろした心の軽さと、どこまでも広がる澄み渡った感覚に、足立は小さな笑みを浮べた。

 ならば、この二人に及ばないまでも力を貸し、少しでも助けになれればいいが。と、願いながら。

四章

六章

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