四の章


 ベッドの上に宝物を並べて眺めていた初音は、扉を叩く微かな音で、イヤリングやブローチと一緒に並べた桜の花びらから顔を上げた。
 聞き違いかと思うほど微かな扉を叩く音に耳を澄ませ、もう一度叩かれるのを待ったが扉を叩く音はしなかった。
 首を傾げながら立ち上がり、初音は恐る恐る扉を開いた。
 細く開いた扉の隙間から、僅かに俯けた頬を赤く染め、楓が身体の前で組んだ両手の指をもじもじと弄っているのが見えた。

「……楓お姉ちゃん?」

 俯けた頬を仄かに染めた姉の様子を怪訝に思った初音は、スッと扉を大きく開いて楓の俯けた表情を伺うように下から見上げた。

「お姉ちゃん? どうしたの?」
「あの、あの」

 上目を上げた楓は口篭もる。初音は心配になってきゅっと胸元で拳を握った。

「……何か…あったの?」

 初音の心配そうな声にふるふる首を横に振って、楓は心配させたの詫びる様に一息に話した。

「あの、梓姉さんが水着を持って来なさいって」
「あ、うん」
「でも、学校のしか持ってなくて」
「うん。わたしもだけど?」

 混浴に入るのを恥ずかしがっていたのか。と、ホッとした初音が頷くと、楓は上目を上げてチラッと初音を伺う。
 初音は楓がなにを言いたいのか判らず、首を捻った。

「水着って、いま売ってないよね?」
「千鶴お姉ちゃんが、鶴来屋で売ってるって言ってたけど?」
「そうなの?」
「う、うん?」
「良かった」

 パッと顔を上げた楓に両肩を掴まれた初音が驚いてうんうん頷くと、楓はほっと息を吐き出した。

「楓お姉ちゃん? 水着が見付からないの?」
「ううん。スクール水着じゃ、恥ずかしいし」
「……恥ずかしい、かな?」

 ぎこちなく微笑む楓に言われて、初音はぴっちりした紺の競泳用水着を思い出して赤くなった頬で楓を上目遣いに伺う。
 楓は真剣な瞳でコックリ頷く。

「巫結花ちゃんも必要だろうし、初音も一緒に鶴来屋で、ね」
「うん。あっ、巫結花ちゃん、いま一人だよね?」
「うん、これからお部屋に行こうと思って」
「わたしも行くね。楓お姉ちゃん、ちょっと待ってね」

 そう楓に言ってベットに引き返した初音は、机の引き出しに丁寧に宝物を仕舞い始めた。

「初音の宝物?」
「うん」

 肩ごしに覗く楓に頷き、初音は桜の花びらを掌に乗せ楓に差し出した。

「さっきね。耕一お兄ちゃんとお話してたら、お兄ちゃんの髪にくっ付いてたの。千鶴お姉ちゃんが、天使の贈り物だって……でも…いいのかな?」
「……?」

 嬉しそうだった表情を曇らせて俯いた初音の様子を訝しく思った楓は、ジッと初音の言葉の続きを待った。

「耕一お兄ちゃんの髪に付いてたんだもん。お兄ちゃんへの贈り物じゃないのかな?」

 恐る恐る上目で覗く初音の前で両膝を突き、楓は初音を見上げた。

「でも、初音は耕一さんに頂いたんだよね?」
「そうだけど」
「じゃあ天使が耕一さんに、初音に上げなさいって下さったのよ」
「天使が耕一お兄ちゃんに?」

 そっと覗く初音に楓が微笑みかけると、初音は静かに眼を伏せる。

「でも楓お姉ちゃん。わたし、天使やお兄ちゃんに贈り物を貰えるほど良い子じゃないよ」
「そんな事無い。初音は良い子だよ」
「ううん」

 初音は楓の言葉に首を横に振り、微かに涙の滲んだ瞳を楓に注いだ。

「耕一お兄ちゃんや千鶴お姉ちゃんとちゃんと話せたけど、やっぱりどこかで千鶴お姉ちゃんの事………」

 小さく嗚咽を洩らす初音を静かに抱き寄せ、楓は初音の髪をゆっくりと撫でた。
 掛ける言葉のない無力さを感じながら、ゆっくりと。

「ごめんね。わたしなんかより楓お姉ちゃんの方が……ごめんなさい…」
「違うよ、初音。それは違うの」

 髪を撫でながら、楓は言い聞かせるように初音に言葉を紡いだ。

「誰かを好きになったら、みんな一緒。自分だけを見て欲しいと思うし、好きになって貰いたい。でもね、私は耕一さんも千鶴姉さんも好きだから、二人とも失いたくない。耕一さんと姉さんを失うより、二人の幸せそうな顔を見てる方が良いと思っただけ」
「……楓お姉ちゃん」
「でも、やっぱり時々姉さんが羨ましいって思う事があるの。どうして私じゃいけないのか考える事だってある。だから初音だけじゃないの。初音が自分を責める事は無いの」

 初音は楓の声を聞きながら、ぎゅっと楓を両腕で抱き締めていた。
 無口で感情を表すのが下手な姉の、精一杯の優しさを感じながら、胸から熱く湧き出す想いと固く閉じた瞼から溢れ出す熱い物を頬に滴らせて。
 優しく初音を抱いた腕を解いた楓は、初音の頬を滴る涙を細い指の背で拭い静かに笑みを浮べた。

「初音、そんなに強く握ると、花びらが壊れちゃうよ」
「あ! う、うん」

 目元をごしごし拭いながら掌を開けた初音は、花びらが壊れていないのを確かめほっと息を吐いた。

「楓お姉ちゃん」
「うん?」

 初音は花びらを見詰めながら、そっと楓を呼んだ。
 大きく息を吸い、どうしても今まで怖くて聞けなかった。

「耕一お兄ちゃんは、千鶴お姉ちゃんが好きなんだよね?」

 問いを発した。

 楓は躊躇いに瞼を伏せ、静かに息を吸った。

 初音自身が深い闇の中で手探りしている状態だというのに。それでも聞かずにいられない程、かって耕一であった者の憎しみは深かったのか。という思いと、聞かずにいられなかった初音の不安を取り除きたい想いの狭間で、楓は静かに息を吐き出した。

 ゆっくりと瞼を上げた楓は、傾げた首で初音の瞳を見詰め深く優しい笑みを頬に刻んだ。

「耕一さんと千鶴姉さんは、二人で乗り越えたよ」

 驚いた顔をした初音は、ゆっくりと安心した笑みを浮べコックリと頷いた。

「千鶴お姉ちゃんも…そう…そうなんだね」
「巫結花ちゃん一人だから、先に行くね」
「ごめんね、楓お姉ちゃん」

 静かに髪を揺らした楓は、手の中の花びらを深い笑みで見詰める初音を残し。佇む初音を瞳に映しながら部屋の扉を静かに閉じた。
 閉じた扉に額を付け大きく息を吐いて、楓は細い指で伏せた眼から滲む涙を拭った。
 これ以上、誰も苦しまなくて済む事を祈りながら。



 楓が初音の部屋を後にした頃、梓達は駅前から出ている鶴来屋の送迎バスで鶴来屋に向かっていた。
 美冬がどうしてもバスが良いと言うので耕一や千鶴も折れたのだが。梓は車の方が良かったと思いながら、美冬の隣に腰を下ろしてぼんやり窓の外を流れる景色を眺めていた。

 バスの窓枠に頬杖を突いて流れる景色を眺めながら、梓は雑音を無視して盛んに頭を働かせていた。

 耕一に千鶴、楓や美冬。
 みんな色々教えてはくれる。しかし誰も、梓に何を期待しているのか、どうすればいいのかは教えてくれない。
 自分で考え無ければいけないのは、梓にも判っている。
 でも考えてみれば、そもそもみんな教えられた情報で、梓自身で気付いた事ではないのだ。
 姉が背負って来た重責や哀しみは耕一から教えられ。梓が気付きもしなかった姉の悩みを、妹の楓に教えられないと判らない始末だ。
 その上、美冬は自殺しなかったのが不思議なほど悩みながら、耕一が何かを調べていたように話していた。

 暗闇で出口を探して動き回り、光りが見えたと思えば、より出口から遠ざかる。
 考えれば考えるほど、梓は迷宮に迷い込んだネズミにでもなった気分だった。

 もしかしたら。と、梓は溜息を吐き出した。

 耕一が変わったのが悩んで苦しんだ結果なら、自分も同じ様に苦しまなければ、判る事は永遠に無いんだろうか?
 でも、それなら姉と妹にも、梓は永遠に追い付けない気がした。

「ねってば、なに暗い顔してるの?」

 何度目かの脳天気な明るい雑音を無視しきれず、梓はもう一度溜息を吐いて窓から横目を流した。
 通路側に座った美冬が満面の笑顔で首を傾げて覗き込む向こう。通路を隔てた席から二十歳前後の旅行中の大学生と言った感じの男二人が、作ったような愛想笑いを浮かべて身を乗り出していた。

「この人達、大学生ですって」
「そっ」

 素っ気なく返した梓が興味なさそうな眼を向けると、大学生二人は少し居心地悪そうになった顔で小さく手を振る。
 軽薄馬鹿。声に出さずに呟いて、梓は振られた手を無視して眼を窓に戻した。

 美冬には悪いが、今の梓は馬鹿な軟派野郎に付き合う気分には、とてもなれなかった。

「ごめんね。この子シャイだから、照れてるのよ」
「あはは、気にしてないって」
「ねえ。あなた達、二人だけなの?」
「うん。ホントは後二人来る予定だったんだけど、都合が悪くてさ」
「ああ、その二人って女の子でしょ? 彼女じゃないの?」
「違うって。俺達、まだ決まった彼女っていなくってさ」

 うるさいな。と思いながら、梓はへっと鼻で笑う。
(嘘を付け。ろくな観光名所もない温泉に、大学生が男二人で来るかよ)

「ええ、ホントかなぁ?」
「ホントだよぉ〜ん」
「ばぁ〜か。古いってお前」

 完璧に猫を被った美冬の媚びた声に被さり、馬鹿丸出しで語尾を伸ばした大学生二人の惚け突っ込みが入る。
 美冬はおかしそうにころころ笑い、話を盛り上げろと言うように梓を肘で突っついて来る。

「ねえねえ。彼女達大学生? 名前教えてよ」

 突っつかれた梓が面倒臭そうに横目を向けると、早速突っ込んだ学生の方が愛想を振りまき、顔を突き出して聞いてくる。

「さあ、どうかな。名前も、ひ・み・つ」

 指を唇に当てた美冬はクスッと口元で笑い、ゆっくり首を傾げて柔らかく弛めた目元で、尋ねた大学生の顔を覗き込むようにする。

「あ…いやぁぁ〜〜参ったな。もしかしてOL? あ、姉妹かな?」

 息が掛かる程寄せられた美冬の笑顔に見取れ、微かに喉を鳴らした大学生は身を引くと、照れ笑いを浮かべながら頭をぽりぽりと掻き出す。
 落ち着き無く動く瞳と赤くなった目元で、美冬の笑顔と仕草に惑わされたのが梓にも判る。

「ううん。私、彼女ん家に遊びに来てるのよね」
「えっ? そっちの彼女、地元なの?……じゃあじゃあ、鶴来屋に泊まんないの?」

 相棒が標的を美冬に決めたのを察したのか、梓を見ながら尋ねた惚けた方の学生は、梓がぷいっと視線を外すと苦笑いしながら美冬に尋ねた。

「うん、泊まらないの。温泉に入りたくて、鶴来屋って有名なんでしょ?」
「らしいけどさ。残念だな、温泉だけで帰る手はないじゃん。ねえ、泊まっちゃわない? まだキャンセルしてないからさ、二人分空いてんだよね」

 美冬の見せた反応に脈ありと見たのか、突っ込んだ方はそうしようと身を乗り出して来る。

「ん〜と、どうしようかな? 行ってみないと、どんなトコか判んないしぃ」
「いいじゃんか。展望温泉とか、いろいろあるらしいしさ。四人で宴会しようよ、ぱあっと騒ごう」

 梓に素っ気なくされた方が、梓はダメだと思ったのか美冬に媚びを売る。

「ばぁ〜か。お前、温泉で宴会って発想がおじん臭いんだよ。雰囲気見りゃ判るだろ? 夜景も綺麗だってさ、カクテルラウンジで静かに夜の海見ながらって感じだよね」

 むっとした顔でもう一人の方が相棒を抑えて言う。
 二人とも美冬に標的を絞って牽制し出したのを横目で見て、梓はもう一度軽い溜息を吐いた。

 こんな連中でも、鶴来屋に来ればお客様だ。
 千鶴姉、とことん仕事にも恵まれてないよな。と。

「ごめんねぇ。やっぱりダメだと思うな」

 にこやかに首を捻って人差し指を伸ばし、美冬は突き出された二人の目の前で指を横に振る。

「えぇ! なんで、なんで!?」
「だって、余ってるの二人分でしょ? 私達、八人だもん」

 慌てて聞いた二人に美冬は笑顔を崩さず、こくんと反対に首を傾げて見せる。

「は、八人って?」

 へっと言う顔を見合わせて、二人はバスの中をきょろきょろと見回し出した。

 観光バス並みの大きさがある送迎バスの席は、約半分が埋まっている。
 バスの中程に座った美冬達の前に子供を連れた家族連れが、後ろには品の良い中年のカップル。
 他にも家族旅行だろう数組と会社の同僚らしい中年男性のグループ。数人の女性グループもいるが、こちらは美冬達と離れていて、一緒でないのはすぐに判る。
 後は後部座席の隅に座る若いアベックだけだった。

「ははっ、なぁ〜んだ。冗談か? 人が悪いな」
「ホントホント、まあさ、八人でもどんと来いだけどさ」

 バスの中をぐるぐる見回した二人は、ホッとしたように言う。

「冗談じゃないんだけどな、後から来るのよね」

 唇を指で弄りながら言うと、美冬は通路に身を乗り出し後部シートのアベック――千鶴と耕一を振り返った。
 美冬に釣られて学生二人も一緒になって振り返る。

「ねえ。この人達が、みんなの宿泊費も持ってくれるって、どうしようか?」
「………」

 通路側に座っていた耕一は、頭痛がしてきた頭を片手で押さえギンッと美冬を睨み付けた。
 何かを我慢した険しい表情で睨む耕一に寒気を覚えた学生二人は、蒼い顔でごくりと息を飲み込み慌てて前を向いて席に座り直す。

「ごめんね。彼って焼き餅妬きだから」
「い、いや。残念ですけど。はは」

 乾いた笑いで耕一を気にしながら答えた二人は、それっきりバスが鶴来屋に着くまで大人しくなった。
 二人が大人しくなると、美冬は一列前に座った家族連れに朗らかに話し掛けた。
 中学生位の兄妹の内、兄らしい男の子は神経質そうな顔を仄かに赤くして、ぷいっと横を向いてしまう。
 その兄の照れた様子を笑いながらポニーテールの女の子は、退屈していたのか美冬の話に乗り、これから行く鶴来屋で楽しみにしている遊戯施設や数々の温泉の話を始めた。
 女の子に相槌を打ち、時々質問とジョークを挟む美冬の横顔を見ながら、梓はそっと息を吐いた。
 美冬と一緒では、落ち着いて考え事は出来そうもなかった。


 一方、女の子と美冬の様子を後部シートから見ながら、耕一は涼しいバス内で額の汗を拭っていた。

「ったく。離れて座ったと思ったら、こんなトコで市場調査始めやがって」
「設備は調えているつもりですけれど。温泉だけでは、やはり若い男の方には魅力に乏しいようですね」

 なるべく目立たないよう後部座席の奥に座った千鶴は、耕一のイライラした物言いに物憂げな溜息を吐いた。

「人によると思うけどね。ところで、千鶴さん」
「はい?」

 耕一は額に脂汗を浮かべたぎこちない笑顔を向け。千鶴は春風のような爽やかな笑みで首を傾げた。

「そろそろ勘弁してよ」

 半泣きで頼む耕一の軽く曲げた指の先。
 耕一の太股を千鶴の細い指が、バスに乗ってからしっかと挟んでいる。
 千鶴は首を傾げ直して優しい微笑みを浮かべ。

「もうすぐ、鶴来屋ですね」

 耕一のお願いを黙殺した。

 抓り上げられた痛みを堪えて、耕一はがっくり肩を落とした。
 初音をからかったお仕置きは、まだ続きそうだ。

 五つの別館を従えた鶴来屋本館十五階建ての偉容が視界に入った時、耕一はバスの超安全運転に呪いの言葉を呟いていた。
 バスの前面に空を覆うように聳える鶴来屋。
 柔らかな春の陽射しを照り返すその偉容を見上げ、乗客はそわそわと動き出した。
 降りる用意を始める者、鶴来屋の全景を見ようと身を乗り出す者。興奮気味に本当にここに泊まるのか父親に尋ねる小学生の嬉しそうな声。
 それらが入り交じった興奮した様子を眺めていた千鶴の指から力が抜けたのに、耕一はほっと安堵の息を吐いた。
 微かに誇らしそうに感じられる千鶴の横顔に眼を細め、耕一もバスの中を見回し美冬の真剣な表情に視線を止めた。
 美冬の表情は遊びに来た客の顔ではなく、ビジネスに撤した冷たく怜悧な物だった。
 だが次の瞬間、耕一の視線に気付いて首を巡らした美冬は、表情を緩め梓に話し掛けていた。

 バスはゆっくりと鶴来屋正面のポーチを周ると、微かなブレーキの音と揺れを残し玄関前に静かに停車した。
 バスを降りる乗客の背中を見送り、バスが空になるのを待って耕一達も立ち上がった。

「ご苦労さま。これからも安全運転でお願いしますね」

 降りる間際、千鶴に声を掛けられた運転手は制帽に白手袋をした手を掛け、丁寧に頭を下げて笑顔を浮べた。

「千鶴さん、バスは初めて?」

 先にバスを降りて待っていた耕一は、抓られていた太股を摩りながら聞いた。
 隣では美冬が鶴来屋を見上げ、本館と別館をゆっくりと見回している。

「入社した頃に一度だけ。梓、こっちへ」
「え?」

 玄関に向おうとした梓は、千鶴に呼び止められくるんと踵を返した。
 見るとバスを離れた千鶴と耕一は、前庭の端の方に向っていた。美冬も鶴来屋を見上げながら、同じ方向に移動している。

「どこ行くの?」
「いま入るとお客様の邪魔になるわ。美冬さんには申し訳ないですけど、少し待ちましょう」
「私は気にしないで。それより千鶴」

 美冬は千鶴に気にしないよう軽く手を振り、バスの方に視線を流した。
 玄関前で一列に並び宿泊客を出迎えた従業員の内、バスから荷物を降ろしに来た数人が、少し迷ったような顔をしている。
 千鶴が視線をバスに移し微かに頷いて見せると、従業員は一礼してバスに向った。

「新人さんね」
「ええ、社員研修の時期ですから」
「耕一?」

 千鶴達と少し離れて立っていた耕一に近付き、美冬と千鶴の会話が判らなかった梓は、問い掛けるように呼んだ。

「会長を出迎えるか、お客の荷物を優先さすか迷ったんだな。まだお客さんが玄関前に残ってるのに、お客さんほっといて、揃って会長出迎える訳にも行かないだろ?」
「ああ、なるほどね」

 梓も新入社員がお客と会長、どちらを優先すべきか判断が付かなかったのに気付いて軽く頷いた。

「じゃあ千鶴姉が出社するたび、揃って出迎えるのかな?」
「誰がここで一番偉いのかってな。毎朝の挨拶で、会長の権威を社員に示すんだ。だからさ、その為にも専用の車を使うんだろ。車から着く時間を知らせて、社員を集めてんだな」
「贅沢で送り迎えやってるんじゃないんだ。あたしゃ、千鶴姉が迷子にならないか、免許取らせない為かと思ってたよ」
「足立さんの事だから、案外そうかもな」

 ひそひそやっていた耕一と梓が顔を見合わせ笑い出すと、千鶴と美冬が怪訝な顔で近寄って来る。

「耕一さん? 梓もどうかしたの?」
「何でも無いよ。千鶴姉に声掛けられて、喜ぶ人もいるんだなってさ」
「え?」
「バスの運転手さんだよ。いやあ、外面がいいと得だねぇ」

 クスクス笑いながら梓が言うと、千鶴はムッとした顔でぷんとそっぽを向く。

「ねえ、千鶴。ここの最上階の二フロアが本社になるのよね?」
「あ、ええ。最上階が会長室を含む社長室や重役室、その下が営業などの事務ですけれど。美冬さん、良くご存じですね?」

 鶴来屋を見上げていた美冬の質問に、むくれた顔を笑みに戻して千鶴は問い返した。

「どこも構成は大体同じだから。でも立派な物ね、世界の一流ホテルと比べても、これ程の物はざらにはないわ」
「有難うございます。ですが、建物もですけれど接客業は接客が一番大切ですから、後ほど感想を聞かせて頂きたいですわ」
「ええ。私で良ければ」

 微笑み合う千鶴と美冬を見ながら、梓は首を傾げていた。
 千鶴も美冬も他人行儀で、梓はどこかがいつもと違う気がしていた。美冬も梓の軽口に乗って来ないし、千鶴も社交辞令のような態度だ。

「そろそろ良さそうだな。入ろうか?」
「はい。観光バスが着くと、慌ただしくなりますから」
「他にも、ホテルやスポーツセンター等を経営してる筈よね?」
「ええ。他に………」

 美冬の質問に答えながら玄関に向う千鶴に付いて行こうとした梓は、耕一に肩を叩かれて足を止めた。

「梓、写真の受け取り持って来たか?」
「うん。持って来たけど」

 ジャケットの上から受け取りを入れた財布を軽く押さえ、梓は耕一に小さく頷いた。

「美冬は千鶴さんに任せて、先に取りに行こうや」
「いいけど?」

 後でもいいのに。と思いながら梓が玄関に眼をやると、付いて来ない梓達を振り返って見ていた美冬が、千鶴に促され玄関を潜る所だった。

「耕一、なんか話でもあんの?」

 耕一が引き留めるのを知っていたような千鶴の態度で、梓にも写真が口実なのが判った。

「まあ、歩きながらでいいからさ」
「うん」

 一瞬、役員の話かと思って身構えた梓だが、軽く笑って歩き出した耕一の様子で、違うらしいと判って安心して後を追った。

「なあ、梓。お前美冬に色々聞いてるみたいだけど」

 玄関を潜りながら話し出した耕一の言葉で、梓の心臓が一つ大きく跳ね、顔を俯け唇を噛み締めた。
 梓は耕一が知られたくなかった耕一自身の話を、美冬から聞いたのがばれたのかと思った。

「あんまり、美冬の話は鵜呑みにすんなよ」
「あのさ、その」
「俺が習ったって言っても、教えられた通りやるつもりはないし。ゆっくり覚えりゃいいんだから、焦って知識詰め込まなくていいからな」
「あ? え?」
「どうした? なに驚いてんだ?」

 話を聞いたのがバレてないのに安心して、ドギマギ口篭もっていた顔をパッと上げた梓を、耕一は訝しげに見て足を止める。

「そりゃ、何て言うかさ。あんまり行き成りだから」
「そうか? 先に言っときゃ良かったんだけど、梓と美冬じゃ全然違うからな。あいつは一番悪い状況の話するから、あんまり深刻に考えんなよ」
「うん。美冬さん良い人なんだけど、なんか血生臭い話が多いんだよね。すぐ生きるの死ぬのって持ち出すしな」

 再び歩き出した耕一の隣に並び梓が言うと、耕一は小さく息を吐いた。

「まあな、あの性格で笑いながら言うからあんまり気にならないけど。気が弱くなってるのかな、一段と酷くなったな」

 耕一の溜息混じりの台詞に、梓は思わず耕一の横顔を見詰めた。
 美冬が気弱なら、梓は自分が神経衰弱だと言われても驚かない。

「気が弱いって? 美冬さんのどこがさ? 耕一だって、自信家だって言ってたじゃん」
「仕事と知識量に関しては自信家だけど。あいつが自信がないのは対人関係だ。ここで待ってるから、取って来いよ」
「あ、うん」

 耕一の横顔を見ながら歩いていた梓は、耕一に言われて売店のすぐ側に来ていたのに気付き、歩き難いヒールを気にしながら写真を取りに向った。
 梓は受け取りを渡し写真を待つ間、美冬には親しい友達がいないような事を、耕一が言っていたのを思い出した。

「お待たせ。耕一、美冬さんには、友達がいない見たいに言ってたよな?」

 写真を受け取るのももどかしく、急いで耕一の所に戻った梓は、早速思い出した事を聞いた。
 ヒールを履いた危なっかしい急ぎ足で戻って来た梓を大丈夫か? と言うような眼で見た耕一は、梓の照れ笑いに苦笑しながらゆっくりと歩き出した。

「少ないな。スキップしたって言ってたろ? だから同級生って、みんな年上らしい」
「でも上ったってさ、二つぐらいだろ?」

 歩きながら顔を覗き込む梓に首を傾げ、耕一はぽりぽり頭を掻いた。

「あいつ、大学はスキップしてないんだよな。十六で大学だぜ。それに中学や高校なら、二つの差は大きいだろ?」
「あ、うん。そうか、一年と三年か? 新入生って、子供に見えたな」
「だろ? だから美冬は、自分の知識量を見せ付けて、相手より有利なポジションを築こうとする。相手より下に見られないようにな。無意識にやってる見たいだけど、そうしないと安心出来ないんじゃないかな」
「学校にもそういう子はいたけど。でもさ、耕一」

 梓は耕一の話を聞いていて、新しい情報を仕入れては、みんなに教えて得意がっていたクラブの後輩を思い出した。
 美冬とは少し違う気がするが何となく耕一の言う事も判る気がして、梓は疑問を口にした。

「あたしにはそうだけど、耕一には違うよな? 千鶴姉とも普通に話してるしさ」
「今更、俺に知識あるトコ見せてもな」
「まあ、そう…か?」

 どうも周りの視線が気になった梓は、足を止めて周囲を見回した。
 何かロビーに入ってから、みんなが見ている気がするのだ。
 履き慣れないヒールと美冬から見られても気にするなと言われた所為で、逆に自意識過剰になっているのかと思って、あまり気にしなかったのだが。

「どうした。やっぱり歩き難いのか?」
「ううん。なあ、耕一、あたしなんか可笑しいトコある?」

 立ち止まった梓に気付いて足を止めた耕一が気遣わしげに尋ねたのに尋ね返し。梓は身体を捻って自分の格好をチェックした。
 ロビーにいた従業員が何事か囁き合っては、梓の方を見てクスクス笑っていたのだ。

「いや。可笑しくないけど、見慣れないから少し違和感があるかな」
「その所為かな? なんかさ、従業員の人があたし見て笑ってんだけどさ」

 眉間に皺を寄せて怒り出すと思っていた梓が不安そうに服装を見回すのを見て、耕一はやっぱり梓も女の子なんだな。とぽりぽり頭を掻いて苦笑した。

「笑ってるって?」

 苦笑した口元を梓から隠して、耕一もロビーを見回して見る。
 確かに何人かの従業員がこちらをチラチラ見ていたが、耕一と視線が合うと慌てた様に立ち去ってしまう。

「気にすんなよ。良く似合ってるって、千鶴さんや美冬と並んでても、梓は見劣りしてないからさ」
「えっ!?」

 珍しい耕一の誉め言葉に服を見回していた梓は、驚いた顔を上げる。
 一瞬、耕一を見詰めてカッと顔を赤く染めた梓は、

「な、なに言ってんだよ。おだてたって、何も出ないからな!」

 怒ったように言い、さっさと先に歩き出した。
 慣れないヒールでスタスタ歩く梓を追い抜いた耕一は、先にロビーから影になった業務用エレベーターに着くと、ボタンを押して少し考えるように首を傾げ、梓が着くのを待ってゆっくりと息を吐き出した。

「さっきの話だけどな。千鶴さんは、多分、美冬には理解出来ないからだろ。理解出来ないから、突っ込んだ話はしないんだと思うな」
「耕一は、なんでそう思うんだ?」

 美冬も千鶴を理解不能だと言っていたのを思い出し、梓は尋ねながら眉を寄せた。

「二人が似てるからかな? 俺の勘だけど」
「千鶴姉と美冬さんて、似てるかな? それにさ、似てんなら理解出来るんじゃないのか?」

 エレベーターの到着を知らせる軽い電子音と共に開いた扉を先に潜り、梓は最上階のボタンを押しつつ振り返って聞いた。
 似た者同士なら判り合える筈だと梓には思えた。

「元は一緒でも周囲の状況が違えば、変わってくるさ。理解出来ないんじゃなくて、理解したくないのかもな。時間無いから手短に言うけど、美冬には親父もお前らもいなかったって事だけどな」
「でも美冬さん、両親はいるんだろ?」

 エレベーターの表示を一瞥した耕一の視線を追い、梓も表示をチラリと見て言った。

「健在だけど。梓達は気付いてないか」
「なんだよ。またか?」

 判ってないの気付かないのと言われ続け、近ごろ食傷気味の梓は、苛立ちを押えて深い息を吐いた。

「お前だけじゃない。千鶴さんや楓ちゃんも、初音ちゃんもだ」
「千鶴姉や初音まで?」

 眉を寄せぼんやり視線を宙に泳がせる耕一の横顔を見ながら、梓は首を傾げた。

「違うんだよな。お前達が親父に持ってる感情って。外から見てると判るけど、父親に寄せる愛情とかとはさ」

 千鶴や楓も気付いてないと言われ、何の事か首を傾げる梓を無視したように呟き、耕一はエレベーターの停止する軽い浮遊感に舌打ちした。
 時間切れだった。
 だが、不味い事を言い掛けたのに気付いて、耕一はエレベーターが最上階に着いたのに感謝していた。

「梓、明日でもゆっくり話そう。これだけ覚えとけよ」
「なんだよ? 真剣な顔してさ」

 先にエレベーターを降りた耕一は、廊下の壁に背をもたらせ、廊下に誰も居ないのを確認して続いて降りて来た梓に真剣な顔を向けた。

「美冬の話はあまり気にするな。俺が教えたかったのは、感情に流される前に考えろって事だ。お前、ずいぶん落ち着いて来たしさ、急がずに試行錯誤しながら色々覚えりゃいいんだから、焦って何でも詰め込むなよ」
「でも、耕一。あたし、なんでも知っときたいんだ。気になると落ち着かなくって、別に聞いたって良いだろ?」

 なにか耕一の物言いに納得出来ない梓は、僅かに顎を引き厳しい面持ちで耕一を見詰めた。

 耕一には梓をマネーゲームに引き込む気は無かった。非人間的な利益計算より、接客等の実務での細かな気配りが必要なメンタルな部分で期待を掛けていた。
 美冬の感情を切り離した物の考え方が、梓にあまり良い影響は与え無いと考えて注意したのだが。
 梓は耕一の言い様が、まるで自分を子供扱いしている気がして反発を覚えていた。

「俺にも気持ちは判るけど……」

 厳しい真剣な梓の瞳に見詰められて、耕一は諦めの深い息を吐いた。
 必要に迫られて知識を求めていた耕一にも、知識欲に駆られて何でも知りたい時期があるのは判る。そう言う時、気真面目な人間程、歯止めが効かなくなる。
 耕一や千鶴に刺激され、問うままに教えてくれる美冬と出会い、梓は丁度そういう時期なのだろう。そう耕一は思っていた。

「そんなに睨むなよ。別に美冬と話すなって言ってんじゃないんだからさ」
「ああ。自分なりに考えろってんだろ?」
「判ってんならいいさ。じゃあ、行くか?」
「うん」

 今まで感じた事のない反発心に戸惑いながら、梓は耕一の後を追うように歩き出した。

三章

五章

目次