三の章
客間を後にした耕一が廊下で足を止めると、千鶴も足を止め客間を振り返った。
「美冬の奴、何を考えてんだ」
「やはり、変ですね」
千鶴が考え深げに尋ね、耕一は小さく頷いた。
美冬達を招いたのは、耕一達であって鶴来屋ではない。
いや。仮に鶴来屋にだとしても会長の千鶴が了承しているのだから、足立と食事の席で顔を合わせれば挨拶ぐらいは当然だが、美冬がわざわざ挨拶に赴く必要はなかった。
仕事で来た訳ではない。
千鶴と仕事上の関係を暗に否定した美冬が、千鶴の部下に好んで接触するのはおかしかった。
「情報が漏れたかな」
「はい?」
「あいつの所は総合企業でね。建築や土地の開発まで何でも手掛けてる。今の肩書きは宝石商だけど、来月から極東支社のゼネラルマネージャーに就任する事になってる」
「ゼネラルマネージャー? あの若さで凄いですね」
「うん……しかし、まだ来日して五日程じゃ、地方都市の事情までは知らない筈だけど」
眉を顰めた耕一の説明を聞いて、訝しげだった千鶴の表情が少しして申し訳なさそうに変わった。
「あの、耕一さん」
「うん?」
「すみません。佐久間さんが耕一さんの事を調べたのを……」
「美冬に話したの?」
上目遣いに伺う千鶴に耕一が聞き返すと、千鶴は小さくこくんと頷いた。
「佐久間の線から情報を集めたのか」
「ごめんなさい。不注意でした」
「千鶴さんが謝るのはおかしいよ」
「でも今の段階で情報が漏れると、せっかく耕一さんのお陰で有利に運びそうなのに……」
シュンと俯いてしまった千鶴の肩を軽く叩いて、耕一は千鶴の俯けた顔を覗き込む。
「そんなの気にしなくっていいって。それにいずれは知られる事だし。こちらに不利になるか有利になるかは、まだ判らないだろ?」
「はい。でも、早めに手を打った方がいいですね」
「うん。足立さんと面識を持つ気なら、美冬も俺達を無視して進める気はないだろう。上手くやれば、佐久間の牽制に使えるかな」
ホッとした顔を上げた千鶴を安心させるように言い、耕一は千鶴を促し歩き出した。
「問題は補助金か」
「ええ。県議会は乗り気なんですが、国の補助が受けられるか。計画書の作成を急がせてはいるんですけれど、地元の反対も心配ですし」
「急ぐ事はないよ、一年二年で済む仕事じゃないし、地元への根回しだけでも大変なんだからさ。根を詰め過ぎちゃ、ダメだよ」
「はい。判ってます」
「うん。じゃあ、俺は巫結花の様子を見て来るから」
微笑んで頷いた千鶴と別れ、耕一は庭へ巫結花を捜しに向かった。
庭に出た耕一は、すぐに巫結花を見つける事が出来た。
巫結花は一本の桜の樹に向かい、心持ち細い頤(おとがい)を上げた頬を気持ち良さそうに弛め、瞼を伏せた面を春の陽の光に浮かび上がらせて佇んでいた。
静けさを破らないよう足音を忍ばせて歩み寄った耕一は、静かな声で呼び掛ける。
「巫結花」
柔らかな春風の流れるまま、微かに髪を揺らしていた巫結花は、ゆっくり細い睫毛を震わせ瞼を開くと、首を傾げるようにして瞳を声に向けた。
微睡み続ける幼子のようなゆっくりした首の動きで、細く黒い髪が肩の上で漂うように揺れる。
「髪、まだだいぶかかりそうだな」
巫結花の肩で揺れる髪を見ながら、耕一は微かな憂いを面に刻んだ。
耕一が最初会った時には、巫結花の美しい黒髪は背中で豊かに波打っていた。
しかし、いまは肩を僅かに覆う程しかない。
「悪いな。美冬の事でも、巫結花にまで余計な真似させて」
ふっと目元を和ませると、巫結花は微かに髪を揺らした。
二日前の朝、巫結花に柏木の秘密を隠す必要はなかった。千鶴達と美冬、柳を納得させる為に巫結花にも頼んで見せただけだった。
友人であっても巫結花は耕一の師であり、深い理解を持って耕一を導くには、巫結花には知る必要があった。
耕一が何を求め、何を苦しんでいるのかを。
巫結花が耕一に教え始めて半月、順調に進んでいた行半ばにして耕一の精神は安定を失いつつあった。
半月を掛け安定を取り戻しつつあった気が大きく乱れ、巫結花の気を受け入れなくなって行った。
巫結花は気の乱れの原因を探る為、それまで聞こうとしなかった耕一の悩みを問うた。
一切の干渉を禁じた部屋で耕一を前に座した巫結花は、只ジッと耕一を見詰めただけだった。
瞑想に入った巫結花が三日や四日部屋に籠もるのは、家人には日常でしかなかった。
美冬や巫結花の父であっても、瞑想の邪魔をする者は、部屋の前で扉を守る柳によって道を閉ざされる事になる。
その部屋の中で、巫結花はひたすら澄んだ黒曜石の瞳で耕一の闇に落ちた瞳を見詰め、ひたすら耕一が語るのを待った。
二人の静かな睨み合いは一昼夜に及んだ。
先に根負けしたのは耕一の方だった。
だが柏木の秘密を語る訳には行かない。
耕一は巫結花を見据え微かに首を横に振った。
一昼夜の間で、それだけが耕一の答えだった。
巫結花はその応えに顔色一つ変えず、藍色の紐でまとめた長い髪をばっさりと切る事で応えた。
古風と言えば古風すぎる、証だった。
耕一には躊躇いなく切られた髪を前にして、澄んだ瞳を向け続ける巫結花に口を閉ざしている事が出来なかった。
巫結花の口が閉ざされて以来、切られた事のない髪を前にしては。
耕一の話を聞き終えた巫結花は、微かに愁いを帯びた瞳で頷いただけだった。
耕一は巫結花の瞳が浮かべた憂いを同情と取っていたが、実は違っていた。
憂いは耕一が己と同じ精神世界を探り、深き真理を探求する者ではなかった微かな失望だった。
古代中国の三皇は、人頭蛇身を初めみな異形であったと言う。
巫結花には天空から来た鬼であろうが、その血脈であろうが驚くには値しなかった。
耕一が耕一であり、好ましい者である限り些細な事だ。
巫結花には、耕一が志を同じくする同胞でなかった失望の方が大きかった。
その時には、まさか鬼の血脈が持つ気が、己が自らに課した禁を破らせるほど強大だとは思ってもみなかったが。
「迷惑ばっかり掛けて悪いけど……」
耕一は軽く頭を下げて、片手で巫結花を拝み。
巫結花は僅かに首を傾げて先を促す。
「例の計画、美冬が嗅ぎ付けたらしくて。すぐじゃないけど、巫結花の力を借りなきゃならなくなるかも知れない。それと………」
ゆるりと軽く片手を上げた巫結花に遮られて、耕一は言葉を切って巫結花を伺った。
巫結花はゆっくりと身を捻り、耕一の背後の樹の陰を眼で示した。
巫結花の視線の先では、悪戯が見つかった子供のような戸惑った顔をした初音が指で唇を押さえ俯いていた。
「あ、あの」
一度顔を上げた初音は、何か言いかけてまた俯いてしまう。
巫結花は音もなくスッと初音に近づくと、初音の肩にそっと手を置いた。
巫結花の置いた手に励まされたように、初音は顔を上げぎこちない笑みを作った。
「あの、廊下から巫結花ちゃんが見えたから。ごめんなさい」
「うん? どうして?」
耕一は初音に歩み寄り頭にぽんと手を乗せ、ゆっくりと動かした。
「えっ? あ、あの。わたし、お話の邪魔しちゃったんじゃないかと思って……」
「散歩してただけだよ。巫結花も初音ちゃんが一緒の方がいいよな?」
上目遣いに覗く初音の様子で話の内容までは聞いていないと判断した耕一は、言いながら初音の隣で佇む巫結花に顔を向けた。
耕一の視線を追った初音が首を巡らすと、巫結花は微かに傾げた首でゆっくりと頷いた。
「巫結花と初音ちゃん、とっても仲が良くなったみたいで、良かったよ」
「う、うん。あの、巫結花ちゃんと一緒だと、とっても安心出来てね。ぽかぽかあったかい気持ちになれるの」
巫結花に微笑みながら耕一に答え、初音は耕一に眼を戻した。
「わたしも不思議なんだけど。巫結花ちゃんがなんにも言わなくても、何を言いたいのか判った気がして。ジッと隣で座ってるだけで、ちゃんとお話が出来ちゃうの」
初音の明るい表情でもどかしさげに話す姿に安心して、耕一は初音に気付かれないように微かな安堵の息を吐いた。
「きっと二人の心が通じてるからだろうね」
「心が? うん! そんな感じなの」
勢いよくこっくり頷いた初音も、以前と同じように自然に耕一と話せた安堵で、ホッとしていた。
初音は記憶が戻ってから、ぎこちなくなるのが怖くて知らず知らず耕一を避けるようになってしまい、楓や巫結花といる事が多かった。
旅行中は、耕一も千鶴や梓と美冬と一緒にいる事が多かったお陰で、初音が年齢の近い巫結花達といても自然だったが、家に帰って来ると耕一を避け続ける訳にも行かない。
初音は耕一とちゃんと以前と同じように話せるのか不安に思っていた所だった。
「巫結花には同じ年頃の友達っていないから、心配だったんだけど。初音ちゃんや楓ちゃんが仲良くしてくれるから、俺も一安心したよ」
「えっ? 巫結花ちゃん、お友達いないの?」
唇を指で押さえて聞いていいのかな? と言う顔で巫結花の方を伺い、初音は小声で聞き返した。
「うん、学校に行ってないからね。ごめん、初音ちゃんには、まだ話してなかったっけ?」
「うん。でもどうして? 学校って楽しいのに」
「巫結花の奴、喋らないからさ。家庭教師と通信教育で大学まで出ちゃってね」
「巫結花ちゃん、大学を出てるの?」
心配そうに尋ねる初音の頭を軽く撫でて耕一が答えると、初音は少し驚いた顔で巫結花の方を振り返った。
巫結花は首を傾けたまま小さく頷き、スッと顔を上げ傍らの桜の樹を見上げた。
「あっ! この桜ね、家で一番早く咲くんだよ」
余計な事を聞いて巫結花が気を悪くしたのかと思った初音は、少しぎこちなくなった笑顔で、枝で膨らんだ蕾を見上げる巫結花に話し掛けた。
巫結花は初音に視線を戻すと、口元に微笑を浮かべゆっくり首を横に動かす。
それが桜の樹の説明に対する否定ではなく、初音の杞憂に対する否定なのは、初音にはすぐに判った。
「庭でも一番日当たりがいいからかな? とっても綺麗なんだよ。巫結花ちゃんがいる間に咲くといいんだけど」
「うん、だいぶ蕾は膨らんできてるけど。どうかな?」
初音が巫結花の笑みに安心したように言い。耕一も蕾を見上げて僅かに首を捻る。
出掛ける前はまだ固かった蕾は、旅行中、隆山の天候が良かったのかずいぶい膨らんでいるように見える。しかし三月の下旬では、隆山で桜が咲くには少し早過ぎるかも知れない。
巫結花に呼ばれた気がした初音は、蕾を見上げていた顔を巫結花に戻した。
「巫結花ちゃん? もうすぐ咲くって?」
片手をそっと幹に伸ばした巫結花が、そう言っている気がして、初音は微かに首を傾げた。
屋敷の高い塀を越え枝を伸ばす桜の樹は、隆山の他の桜より毎年一足先に咲くのだが、早いと言っても四月に入ってからで、三月に咲く事は今までなかった。
しかし幹に触れるか触れないかで手を止めた巫結花は、もうすぐ咲くと確信しているようだった。
「初音ちゃん、大丈夫だよ。巫結花がそう言ってるなら、もうすぐ咲くよ」
耕一は確信を持って初音に保証した。
巫結花が咲くと言うのなら、桜の季節で無くとも桜は花を咲かせる。
その事を耕一は知っていた。
「うん、そうだよね」
初音は巫結花や美冬、みんなでお花見が出来るいいな。と思いながらこくんと頷いた。
「そうだ初音ちゃん、疲れてないかい? 今朝は早かったからね」
桜の幹に掌を翳し軽く瞼を閉じた巫結花の邪魔をしてはいけない気がして、ひっそりと佇む巫結花を見ていた初音は、耕一に尋ねられるとパッと顔を上げ、ぷるぷると首を振った。
「ううん。大丈夫、疲れてないよ」
「そっか、それなら良かった。もう初音ちゃんは聞いたかな? 美冬の奴が我が侭を言ってさ、夕食は鶴来屋になったんだけど。みんな疲れてるのにさ、全くあいつは」
困った奴だよね。と耕一が文句を言ってみせると、初音は苦笑を浮かべた。
耕一は美冬の事では文句ばかり言う。しかし嫌っているようでもなくて、初音には梓と耕一が言い合うのと一緒で、二人とも言い合うのを楽しんでいるような気がしていた。
「うん、楓お姉ちゃんから聞いたけど。でも耕一お兄ちゃん、我が侭じゃないよ。美冬お姉ちゃん、梓お姉ちゃんが、帰ってすぐお料理するんじゃ大変だろうからって、気を使ってくれたんだもの」
「そうかな。本音は温泉に浸かって、パァッと騒ぎたいだけじゃないかな」
耕一がうう〜んと腕を組んで考えて見せると、初音はおかしそうに微笑みちょっと首を傾げた。
「でも、お姉ちゃん達とも一緒にお風呂入るの久しぶりだし、美冬さんや巫結花ちゃんも一緒だもん。きっと大勢で入ると楽しいと思うよ」
「そういや、子供の頃一緒に入ったよね。初音ちゃんと梓と楓ちゃんと俺でさ」
「うん」
「風呂の中で梓に殴られたんだよな。何でだっけ?」
昔耕一と一緒にお風呂に入ったのを思い出した初音がはにかんで頬を赤くする横で、耕一はハテと首を捻って考えた。
「梓お姉ちゃんが女の子だって、お風呂の中で耕一お兄ちゃんが大騒ぎしたからだよ」
苦笑いした初音に言われて、耕一はあるべきものがない梓を見て、驚いて騒いだのを思い出して頭を掻いた。
「ハハッ、そうだっけ? 真っ黒で乱暴だから男だと思ったんだよな。誰も女の子だなんて教えてくれなかったし、教えられても信じなかったかな?」
「もう、耕一お兄ちゃんたら。梓お姉ちゃんには、そんなこと言っちゃダメだよ」
くすくす笑って見上げる初音に少し安心して、耕一はもう一度初音の頭を優しく撫でた。
「うん。梓も成長したし、もう間違わないよね。しかし今日は楽しみだな」
「えっ?」
「初音ちゃんと楓ちゃんがどのぐらい成長したか、じっくり確かめようかなぁ」
「え? ……えぇ!?」
驚いて眼をぱちくりさせる初音は、真っ赤になって両の拳を胸で揃える。
耕一は初音の反応に満足して、にやけた顔でにへら〜っと厭らしい表情を作る。
「あれ? 初音ちゃん聞いてないの? 美冬の奴、混浴がいいんだってさ」
「こ、混浴って? こ、耕一、お、お兄ちゃんも、一緒に入るの?」
「もしかして、初音ちゃんはイヤ? 俺だけ一人寂しく温泉に入れってぇ〜」
耕一は真っ赤な顔でうろたえる初音に、今度は悲しそうな顔を作って見せる。
「え? え? そ、そっか、そ、そうだよね。お兄ちゃんだけ別になるんだ」
「うん、そうなんだ。寂しいよなぁ〜」
「で、でも、お兄ちゃん。お姉ちゃん達がいいって言わないよね」
両手を身体の前で組んでもじもじさせながら、初音は困った赤い顔で言う。
「そうでもないよ。反対しなかったよ」
「そ、そうなの?」
「うん、ダメって言わなかった」
「そ、そうなんだ」
確かに梓も千鶴も言葉で反対はしなかったが……
疑う事を知らない初音は、耕一の肝心な部分を省いた台詞にコロッと騙される。
赤い顔で真剣になった初音は、ジッと耕一を見詰めて思い詰めた表情でこくんと頷く。
「う、うん。い、いいよ。耕一お兄ちゃんなら、わたしも一緒でも」
「えっ? い、いや初音ちゃん。そんなに真剣に考えなくても」
初音の赤い顔で深刻になった様子に、耕一の方が慌てた。
「で、でも、やっぱりお兄ちゃん一人じゃ寂しいよね。恥ずかしいけど、お兄ちゃんならいいよ。でも、そうだ巫結花ちゃんはいいのかな?」
慌てる耕一に気付かず、初音は頷いた顔も上げられずに恥ずかしさを紛らわそうと、もじもじしながら話し続けていた。
安心してからかいすぎた耕一は、これ以上はやばすぎると思って初音の肩を掴み一息に言った。
「初音ちゃん。水着なんだよ」
初音は耕一の前にいるのが恥ずかしくて耐えられないようにそわそわして、今にも耕一の前から逃げ出してしまいそうだ。
もし梓達の耳に入ったらどういう目に遭うか、想像しただけで背筋が寒くなる。
「えっ?」
両肩を掴まれた初音は、キョトンと真っ赤な顔を上げた。
キョトンと見上げる初音によく聞こえるように、耕一は息を大きく吸い込みハッキリと発音した。
「み・ず・ぎ」
「……みずぎって…泳ぐ時に着る?」
「そう、そうだよ。それにさ、混浴だと俺だけじゃないしさ」
「あ、あ…お…お兄ちゃんの意地悪ぅ!」
ジワッと瞳を潤ませると、初音は上目遣いに耕一を睨んでぽかぽか胸を叩き出した。
「ごめん、初音ちゃん。ごめんよ」
調子に乗ってからかい過ぎた耕一は、初音が叩くに任せて謝った。
耕一も気を付けようと思うのだが、初音と話していると、つい気が緩んでしまう。
耕一を叩いていた初音は、巫結花に慰めるようにそっと肩をさすられ、巫結花の静かな笑みを上目で覗くように伺った。
巫結花の穏やかな面を見る内、徐々に興奮が治まると、初音は二の腕まで真っ赤に染め恥ずかしそうに俯いてしまう。
あくまで耕一の言葉を良いように解釈した初音は、からかわれたのに気付かず自分が勘違いしただけだと思っていた。
耕一は、一言も裸で一緒にとは言ってなかった。
初音がお風呂だから裸だと思い込んだだけで、混浴なら女性は水着でオーケーはいまや常識だった。
水着なら耕一が一緒でも、姉達が反対しないのは不思議でもなんでもない。
勘違いに気付いた途端恥ずかしくて、初音は顔を上げていられなかった。
「ごめんね。耕一お兄ちゃん、わたし勝手に変な誤解して」
「いや、俺が誤解させるような言い方したから。ごめんね、初音ちゃん」
俯いたまま謝る初音をそっと抱き寄せ、耕一は癖毛を撫で付けるようにゆっくりと初音の頭を撫でた。
微かな溜息を聞いた気がして、耕一が初音の頭を撫でながら眼を上げると、巫結花の普遍とも思える笑みがあった。
桜の幹に片手を添えた巫結花の瞳には、いつもの透明さに光が加わり、大人に成り切れない耕一を面白がっているようにも見えた。
「……耕一…お兄ちゃん」
小さな吐息のような初音の声に呼ばれ、耕一は頭を撫でていた手を止め眼を戻した。
「……初音…ちゃん」
躊躇いがちに上げた初音の怯えた子犬のような瞳に見詰められ、耕一は乾きを覚えた喉でなんとか声を出した。
「耕一お兄ちゃんは………」
初音は言いながら視線を下げると、耕一のシャツを両手でぎゅっと握り締めた。
「耕一お兄ちゃんは………わたしの……お兄ちゃんだよね。ずっとお兄ちゃんでいてくれるんだよね?」
「うん…そうだよ。約束しただろ? 初音ちゃんがそう呼んでくれる限り、俺はずっと初音ちゃんのお兄ちゃんだよ」
心のどこか深い所で安堵と痛みを覚えながら、耕一は微かに震えている初音の身体をゆっくりと両腕で包み込んだ。
いつの間にか巫結花の姿は消え、初音を抱き締めた耕一の上に、まだ咲くには早い桜の花びらが一枚、舞い落りて行った。
「あっ、初音。どこ行ってたんだ?」
部屋の前で梓に呼び止められ、初音は開けかけていた自分の部屋の扉から手を離した。
「うん、巫結花ちゃんと耕一お兄ちゃんと一緒にお庭に……梓お姉ちゃん、どこかに出掛けるの?」
振り向きながら梓に頷いて返した初音は、キョトンとした顔で梓をまじまじと見詰めた。
梓は家では大抵がジーンズとTシャツ、外出する時でも動き易さ重視でスカートを滅多に穿かない。
しかし一番奥の扉の前で千鶴と一緒に佇む梓は、明るい臙脂のタイトスカートに生成の麻のジャケット。
ジャケットの下には藍色のサテン地のデザインシャツを着ていた。
「ああ、じゃあ耕一に聞いたかな? 美冬さんと千鶴姉、耕一と一緒に先に行くんだけど」
「う、うん。お兄ちゃんに聞いたけど」
「あたしも一緒に行くからさ…初音、どうかしたのか? …ああ、そうか、やっぱ似合わないかな?」
初音の視線に気付いた梓は、照れ臭そうに赤くなった鼻の頭を指先で掻くと心配そうに聞いた。
初音は慌てて首をぷるぷる振る。
「ううん。とってもよく似合ってるよ。梓お姉ちゃん、とっても綺麗だよ」
「そ、そうか?」
初音の真剣に頷く様子に、梓は嬉しそうな顔で照れた笑いを浮かべる。
「似合ってるわよ、梓。でも、カチューシャがちょっと気になるんだけど、髪留めの方が良くないかしら?」
軽く梓の肩を叩いた千鶴は、初音を伺うように見て尋ねた。
「うん。ちょっとアンバラスかな? でも、梓お姉ちゃんのトレードマークだもんね」
「ハハッ、まあ一遍に全部変えなくてもさ」
「そうね。徐々に慣れればいいわよね」
何となく居心地悪く笑う梓に頷き、千鶴は初音を見て首を傾げた。
初音が胸の前に上げた片手を、何かを捧げ持つように掌を上にしたままでいるのだ。
「初音? 手をどうかしたの?」
「あ、ううん」
手に怪我でもしたのかと心配そうに近付く千鶴に首を振り、初音はゆっくりと手を差し出し掌の中を見せた。
差し出された初音の小さな掌の上に、ピンクの花びらが一枚乗っていた。
「もう桜が咲いたのね」
「へぇ〜、今年は早かったんだな」
初音は少し驚いた顔で掌を覗き込む千鶴と梓に首を振った。
「ううん。不思議なんだけど、これだけなの。他はまだ蕾なんだけど」
優しい瞳にピンクの花びらを映して、初音は大事そうに花びらを乗せた手を胸元に戻した。
「不思議だよね。枝は蕾しか付けてなかったんだけど」
「天使の贈り物ね」
そっと初音が瞳を上げると、千鶴が静かに微笑んでいた。
「季節外れに降る雪や咲いた花を、外国ではそう呼ぶそうよ。神様が天使を使わして下さった贈り物だって。だから、これは天使の花びらね」
「天使の贈り物……うん、そうだね」
こっくり頷いて、初音はもう一度、可憐な薄紅の花びらに視線を落とした。
「天使の贈り物か? いいな。あたしも欲しいよな」
「なんと言っても神様からだもの。初音みたいな、良い子にしか貰えないわよ」
「あたしじゃ無理だって言うのかよ?」
くすっと笑った千鶴を睨んで、梓は憮然とした顔で噛み付く。
「良い子しか貰えないって、言っただけでしょ?」
「険があるんだよね。言葉の端々にさ」
「お姉ちゃん達、出掛けるんじゃ無かったの?」
また言い合い出した姉達に困った顔で初音が言い。梓と千鶴は顔を見合わせた。
「そうだったわ。じゃあ初音、楓には言ってあるけれど、柳さんが見えられたら、あなた達で鶴来屋の方に案内して差し上げてね」
「うん。あっ! お姉ちゃん達、水着は持っていかないの?」
千鶴達が手ぶらなのに気付いた初音は、首を傾げて尋ねた。
すっかり耕一の話を信じ込んだ初音に、耕一は冗談だと言い忘れていた。
「……水着…?」
「楽しみだよね。耕一お兄ちゃんや巫結花ちゃん達も一緒だし、温水プールみたいだね」
顔を見合わせて眉を顰めた千鶴と梓に気付かず、初音は楽しそうに言う。
「えっと、なあ初音。プールって?」
「えっ? だって混浴なんでしょ? 耕一お兄ちゃん一人じゃ可哀想だもんね。あれ? 柳さんも一緒なんだよね? でも、大勢の方が楽しいよね」
柳も一緒なのに気付いて首を傾げた初音は、姉達が眉間に皺を寄せたのに気付かなかった。
「…千鶴姉…楽しそうだぞ」
「……そう…ね」
「お姉ちゃん? どうしたの?」
顔を寄せてぼそぼそ話す姉達に気付いて、初音は訝しげに尋ねた。
「なんでもないのよ。そうよね、大勢の方が楽しいわよね……水着…ですもの」
「うん、そうだよね」
額で蠢く血管を片手で隠した千鶴が言うと、初音はこっくり全快の笑顔で頷く。
「水着は鶴来屋でも買えるから私達はいいわ。初音、水着はすぐに出るの?」
たまに混浴に入るのに水着が欲しいと言い出す客がいる為、鶴来屋内では少数だが水着も扱っている。
我慢出来る間に初音との話を終わらそうと、千鶴は初音に尋ねた。
初音にこんな話を吹き込みそうなのは、耕一か美冬しかいない。
どちらかは、初音の嬉しそうな顔を見れば一目瞭然だ。
「あっ! そうだ、早く探さないと」
「ええ。じゃあ初音、私達は先に行くから後をお願いね」
「うん、行ってらっしゃい」
「あ、ああ」
「行って来ます」
にこやかに微笑み、大事そうに花びらを持って部屋に入る初音に小さく手を振った梓と千鶴は、扉の閉まる音に揃って小さな溜息を吐いた。
「……千鶴姉…どうすんだよ?」
「梓、楓にも水着を持って来るように言って」
「やっぱり」
ここのところ元気の無かった初音を梓も心配していた。せっかく元気が出て来た初音の嬉しそうな顔を見ては、混浴なんてダメだとは言えないだろうとは思ってはいた。
「仕方ないでしょ。あなた、あんなに楽しそうな初音にダメだなんて言える?」
俯き加減で肩を震わす千鶴の感情を抑えた声音で、梓は千鶴が見てもいないのにぶるぶる首を振る。
「千鶴姉? 水着探すのか?」
いきなりくるりと背を向け自分の部屋の扉に手を掛けた千鶴は、梓の訝しげな声にゆっくりと振り返った。
「混浴は、今夜は貸し切りよ」
「そ、」
「文句ある?」
キッと睨まれた梓は、そんなの職権乱用だろうと言いかけた喉を鳴らして唾を飲むと、ぶんぶん音をさせ首を横に振った。
触らぬ神に祟りなし、切れた千鶴に理屈なし。
ばたんと千鶴の閉めた扉の音で安堵の息を吐いた梓は、大きく深呼吸して楓の部屋の扉を叩いた。
九章