夏光 間奏


 茜色に染まった空に横たわる筋雲が高い部分を白く輝かせ、低く棚引く水平線と交わる境を赤く染め。昼間の喧噪が夢幻の様に潮騒だけを響かせる静かな浜辺を薄紅に染める。
 そんな夕暮れと夜の狭間の砂浜に、耕一は一人足跡を刻んでいた。
 赤く染まった岸辺に二つの人影を見つけた耕一は、少し首を傾げて眼を凝らした。

 沈む陽に白いノースリーブのサマードレスを茜に染め背を向ける長い黒髪の向こうから、向かい合う初老の男性が耕一を見つけ微かに頭を下げ。男性の視線を追うように長い髪が風に乗りふわりと潮風に広がる。

 スッと頭を下げた初老の男性は、潮騒だけが響く静謐を楽しむような柔和な笑みを浮べ、会釈を返す耕一と入れ替わるように波打ち際を歩み去った。

「ご苦労さまでした」

 歩み去る男性の後ろ姿を見ながら歩み寄った耕一を、潮風が広げた髪を片手で押さえた千鶴が、落ち行く陽が茜色の影を落した面に笑みを広げて迎えた。

「お待たせ」

 白く滑らかな顔(かんばせ)を茜に染めた千鶴の優しく温かな眼差しに頬を緩め、耕一は細い腰に手を回しそっと引き寄せ、静かに腕の力を抜いた。

「あの人、千鶴さんの知り合い?」

 時折浜辺に腰を屈め何かを拾っては、沈む夏の陽を惜しむように海を眺める初老の男性を見やり耕一は尋ねた。

「男子校の監督さんです。散歩がてら海岸に残ったゴミを拾っておられるそうです。…以前、お世話になった事があって」
「千鶴さんが?」

 男子校の監督と千鶴の接点が思い浮かばず、耕一は意外そうに首を傾げた。

「梓が、あちらの生徒さんと問題を起こしてしまって。その時に間に立って穏便に納めて下さったのが、柴田先生と先程の監督さんなんです」

 引き寄せられたままの身を耕一に寄せ、千鶴は耕一の背に腕を回しながら応えた。

「……ああ、それで」
「………?」

 微かな笑いを洩らした耕一を、千鶴は不思議そうに見上げた。

「ごめん。あいつら、なんか梓だけ避けてるな。とは思ってたんだけどさ」

 男子校の生徒が梓を避けるようにしていた理由が、なんとなく想像が付いて洩らした笑いだった。しかし千鶴には笑い事では無かっただろうと、耕一は詫びる様に軽く眼を落とす。

「ふふ、そうですね。初音や楓の事でも少し脅かした見たいですよ。妹におかしな真似をしたらって」

 軽く笑みを零し、千鶴は静かな瞳を陽の落ちた水平線に向けた。
 寄せる波、引く波が音を奏でる浜辺から望む穏やかな海は、茜色の残照を残し水面に姿を消した陽が波頭を煌めかせ、遠い空に白い幻の様な月が姿を浮かべていた。

 残照を受け朱に染まった優しい横顔を見ながら、遠泳から帰ってから女子部員しか様子を見に来なかったのを思い出し、耕一はふっと口元を緩めた。

「あっちの岩場まで、歩きませんか?」

 ゆっくり傾げた首で耕一に微笑み、千鶴はスッと一歩足を踏み出し、半身を捻って耕一に手を差し出した。
 誘う白い手を取り、耕一も歩き出す。

「皆さん、喜んで下さいました?」

 繋いだ手をぎゅと握り、千鶴はサンダルを揃えて脱ぐと腰を落とした。

「うん。かおりちゃんには文句言われたけどね」
「梓ったら、きっとギリギリまで来ないつもりですよ。耕一さんにお肉とタレを運ばせるなんて」

 話しながら揃えたサンダルを手に立ち上がり、千鶴は耕一の手を引くようにゆっくり波打ち際を歩き出した。

「バーベキューにタレを付けるとは思わなかったな」
「梓の特製ですって。タレに浸けてお肉に味を染み込ませておくそうですよ。野菜には水を吹きかけて、お肉より先に焼けないようにするとか。細かく言ってましたよね?」

 はしゃいだ声で爪先立って歩く千鶴の背中で、跳ねた細く柔らかな髪が潮風になぶられ滑らかな肩の上でさらさらと流れる。

「それに、串に刺す順番まで紙に書いて渡してましたよね?」

 ドレスの裾が潮風を孕み軽やかに舞い。
 白く細い肩紐だけが隠した柔らかな曲線を描く肩で流れる髪をぼんやりと眺め、耕一は誘われるままに足を運ぶ。

「そんなに気になるなら、用意しに来ればいいんですよね?」

 ふっと耕一は足を早め、返事も待たず話し続ける千鶴の顔を覗み、微かに目元に光るものを見つけた。

「千鶴さん?」
「あっ」

 スッと視線を耕一から横にずらすと、千鶴は頬を赤く染め耕一と繋いだ手をぎゅっと握り締めた。

「どうかしたの?」

 肩に掛かった髪の間から繋いだ反対の手を滑り込ませ、耕一は千鶴の頭を胸に引き寄せ、細い肩甲骨をなぞるように掌で滑らかな首筋から肩を摩る。
 恥ずかしそうに胸に額を付けた千鶴は、ジッとそのまま摩る手に身体を委ね、やがて笑みを浮かべた顔を上げた。

「すみません。……少し感傷的になって」

 顔を上げた千鶴の微笑みに安心して、耕一は千鶴の肩を抱き歩き始めた。

「感傷的って?」
「……海が…あんまり綺麗で…夢みたいだなって。映画か夢で見た景色みたいだって思ったんです」

 ゆっくり岩場に歩きながら、千鶴は耕一に寄りかかるように身を寄せていた。

「そうしたら怖くなって」
「怖いって?」
「ジッと海を見ていたら、吸い込まれて目が覚めるような気がしてきて。なにかしてないと、目が覚めちゃう気がして。小さな子供みたいで、おかしいですよね」

 耕一の顔を窺い、千鶴は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「おかしくないよ。俺なんか、もしかしたらっていつも思うよ」
「耕一さんも?」

 岩場の中で比較的平らな岩へ促す耕一の横顔を、千鶴は首を傾げて見上げる。

「うん。朝目が覚めたら、この一年の事が全部夢でさ。千鶴さんに電話して、母さんの葬式以来ですね。なんて言われたらどうしようとかね」
「………」

 スッと視線を落した千鶴から離れ、繋いだ手を引き耕一は岩に腰を下ろした。

「マンションで受話器握って、番号押すのが怖い時ってあるな」
「あっ!」

 立ったまま俯いている千鶴を握った手でグッと引き寄せ、もう片手で腰を引き寄せた耕一は、自分の膝の上に抱き寄せる。

「耕一さん?」
「違うよ」
「えっ?」

 ぎゅうと後ろから千鶴を抱き締めた耕一は、振り返ろうとする千鶴の肩に顎を乗せて振り返れないようにした。

「夢の方が俺には良かった。なんて考えてなかった?」
「……でも」
「夢だったらさ。こうやって、千鶴さんを抱けないしね」
「…も…う。耕一さんたら」

 抱き締める力を強め、頬を頬に擦り寄せる耕一に、千鶴はむくれた声で言い、クスッと笑いを洩らした。

「ええ。これが夢なら、きっと醒めない夢ですよね」
「覚めない夢なら。いい夢にすればいいよ」

 スッと肩から離れた重みに、千鶴は首を巡らし軽く目を閉じた。
 千鶴と耕一は、重なり合った唇の温かさを確かめあい。
 千鶴は耕一に身を任せ、重ねた身体の温かさを感じながら、幻の様だった月が現つの明るさ取り戻すのを眺めた。

四章

五章

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