夏光 五
ぱちぱち爆ぜる焚火の音に混ざり、いくつかに別れたバーべキューセットを囲んだ間から、甲高い笑い声が風に乗って浜に流れていた。
肉の焼ける香ばしい匂いと、笑い声の絶えない明るい雰囲気が若い胃袋を刺激し、旺盛な食欲を賄う肉や野菜がどんどんと追加される。
浜で行われた合宿最終日のバーベキューは、盛況の極みにあった。
「ええい、邪魔するな。かおり離れろってっ! あんたは、あっちにこれ運んで。早くしろってっ!」
「そんなっ〜あたし先輩のお手伝いぉ〜」
中でも一番五月蝿いのは、この二人である。
「誰のせいだっ!? あんた、あたしの頼みは聞けないってのかっ!?」
「うぅ。判りましたぁ〜」
かおりは涙根で梓を振り返り、串に刺した肉と野菜を満載したお盆を持って歩き出す。
当の梓は、かおりを追い払った安堵の息を吐く暇もなく、串に肉と野菜を通してはお盆に積み上げていく。
「だから焼き肉にしろってんだよな。なんでみんなバーベキューに拘るんだっ!」
ついにグチが出始めた梓に、隣で串を刺していた一年二年のマネージャーが申し分けなさそうに首を竦める。
選手の慰安を兼ねたバーべキューは、伝統的にバーベキューセットの準備は男子校のマネージャーが。食材の準備は女子校のマネージャーがする事になっていた。
これは梓が現役の頃から同じだったのだが。女子高側では、梓が一年の時、当時のマネージャーの手際の悪さを見兼ね手伝ったのが好評を博し、以来三年間、梓は肉を焼き続ける羽目になった。
今回もOBの梓が手伝う必要はないのだが、かおりの役立たずを見兼ねて手伝っているわけだ。
「よお、梓。忙しそうだな」
「あっ、耕一! 今までなにやってたんだっ! あんたも手伝えよなっ!」
「なんで俺が?」
ひょこっと顔を出した耕一を、梓はいきなり怒鳴り付ける。
「あっ! わ、悪い。つい」
勢いだけで耕一を怒鳴り付けた梓は、ハッとしたように周りを窺い、決まり悪そうに笑う。しかし、その間も串に肉を刺す手は休めない。
「相当切れてんな。どうしたんだ?」
「かおりの奴、下ごしらえの手を抜きやがったんだ。材料もいい加減だしさ、始める寸前に買い足しだよ」
準備して置けば焼くだけでいいバーベキューで、これ程忙しくなっている理由は、かおりだった。
柴田を裏切った罰が、一番手の掛かる買い出しと下ごしらえだったのだが。梓には逃げられ、柴田にも睨まれて不貞腐れたかおりはまともに準備しなかったのだ。
一年二年のマネージャー達は、不貞腐れたかおりが怖くて、口出し出来なかったらしい。
結局、耕一達が差し入れた肉で先に始め、買い出しと下ごしらえのやり直しを梓の指揮の元、かおりを除くマネージャー達でやっているわけだ。
「忙しいんなら、手伝うってさ」
「初音か? 楓?」
「千鶴さん」
「!」
怒鳴る気力も尽きたのか、一瞬嬉しそうな顔をした梓は、ガクンと肩を落し項垂れてしまう。
「どうする? 俺は止めたんだけど」
「あ・た・り・ま・え・だっ!!」
血管の浮き出た額を突き出し一語一区切った梓の口から、はぁはぁと息が洩れる。
「判った。俺と千鶴さんの分、持ってってもいいかな?」
「ああ、これ持ってけよ。千鶴姉、ここに近寄らすなよ」
予想した通りの梓の反応に軽く手を振る耕一に、刺し終わった串を置いたお盆を押し付け、千鶴を近づけないよう念押しして、梓は溜息を吐いた。
千鶴に盆の一つも落されたら、頭の血管が切れかねない所だ。
「さあ、刺すだけ刺したら後はかおりに運ばすから、あんたたちは食べに行っていいからね。もう一息、頑張ろっ!」
一年二年のマネージャーは、ホッと嬉しそうな顔をすると元気良くはいっと応え、せっせと串に肉や野菜を刺し始めた。
一番端にセットされたコンロに向いながら、耕一は活気に溢れた高校生達の様子に苦笑を洩らした。
いくつかのグループに別れた生徒達のそれぞれには、僅かながら特徴と言えるものがあった。
まず同性同士で集まり、時折話すほかは食べるのに終始してせっせと肉を頬張る者。なんとなく照れ臭そうな顔でコンロを囲む女子部員と男子校の生徒達。
そして少数派に属する焼けた肉を皿に盛、集団から離れた場所で親しそうに話し込む男女の組み合わせ。
なぜか最後のグループだけ、男の顔や腕に怪我が多いのが不思議だが。
恋人と呼べるのか友達なのかまでは耕一には判らないが。若いよなと。ほのぼのとした物を感じて、耕一は苦笑いを浮べた。
まだ二十歳を過ぎたばかりなのに、まるで年寄りのような感想だ。
「耕一お兄ちゃん」
自分の持った感慨に苦笑を洩らした口元を片手で押えて足を速めた耕一は、通り過ぎた女の子達の集団の中から声を掛けられ足を止めた。
クルッと首を巡らした耕一の眼に、周りの女の子達に栗色の髪を揺らしピョコンと頭を下げる、白にピンクの縁取りも夏らしい、涼しそうなワンピースを着た初音の姿が映った。
初音の隣で軽く会釈している楓も、白いブラウスに薄いブルーのスカートから抜けるように白い腕と膝小僧を覗かせ、夏の蒸し暑さと学生の放つ熱気の中で涼しげな雰囲気を漂わせている。
もっとも周りが短パンとTシャツという服装の中で、二人の存在が際だっているのは、服装の所為ばかりではないが。
頭を上げた二人は、耕一の方に初音はとことこ駆け出し、遅れた楓はトトトと少し足を速める。
少し慌てているようなのは、周りを女子部員に囲まれ、背の低い初音と楓を耕一が見落とした所為だろう。
「やあ、初音ちゃん。楓ちゃんも楽しんでる?」
「うん。大勢でお話しながら食べるのって楽しいよね」
「………(コクン)」
柔らかいフワッとした長い髪を、いつもの赤いリボンでまとめた初音は、興奮気味の赤い頬で見る者に幸せを感じさせる微笑みで嬉そうに笑い。
楓も白い頬を微かに朱に染め、コクンと頷く。
「そうだよね。大勢で食べるのって楽しいよね」
明るさ全開の天使の微笑みに相好を崩し、耕一は梓の悪戦苦闘も忘れて相づちを打つ。
「あの耕一さん、千鶴姉さんは?」
「うん、あっちのベンチ。俺、食料を調達して来たとこでさ」
部員達で賑わう会場から少し離れたベンチを示し、耕一は初音と楓を伴い歩き出した。
「お兄ちゃん、梓お姉ちゃん忙しそうだった?」
「うん。少しね」
少し心配そうに聞く初音に頷き返し、耕一はあれっと首を傾げた。
「梓姉さん。自分の後輩の事だから、私達には気にするなって」
梓が忙しくしているのに、気にしていて初音が手伝っていないのに首を傾げた耕一の疑問に、楓は少し困った様に初音を見て応えた。
そう言われても、初音の事だから梓の事を気にし続けていたのだろう。
「梓なら大丈夫だよ。後輩の子達と一緒だからさ。初音ちゃん達が手伝ってたら、他の部員も気を使って落ち着いて食べられないだろうしさ」
「そうなのかな?」
ちょっとぎこちなくなった笑顔を向ける初音に、耕一はうんと頷く。
「お客さんになりきって、楽しませてもらおうよ。ね、初音ちゃん」
「うん、そうだね」
やっと納得したのか、初音は耕一ににこっと笑顔を見せコックリ頷く。楓も少し安心したように微笑むと、微かに頭を立てに動かした。
話しながら着いたベンチで、千鶴は男子校の監督と談笑していた。
ベンチからは会場になった浜が良く見渡せ、ベンチの近くにはテーブルが、少し離れた所にコンロがセットされている。
若い者の交流に年寄りが一緒だと邪魔でしょうと男子校の監督は笑っていたが、勝手に抜け出す者が出ないように、ここから監視だけはしっかりしている訳だ。
耕一達に気づいて顔を上げた監督に、初音と楓は礼儀正しく頭を下げ。耕一は織火が赤く燃えるコンロに串に刺した肉と野菜を乗せていく。
「すぐに焼けますから」
「どうもすみません。お招きしておいて、お使いだてしてしまって。まあ、お一つどうぞ」
「あ、すみません。頂きます」
申し訳なさそうに白い物が混じった頭を下げる監督からコップを受け取り、耕一はビールを注いでもらう。
どうやら場所を離してあるのは、生徒の前で大っぴらに酒を飲む訳にいかないのが、本当の理由らしい。
「どう、初音も楓も楽しんでる?」
「うん。梓お姉ちゃん、みんなに凄く人気があるんだよ。色々と面白いお話も聞かせて貰ったし」
初音は嬉そうに千鶴に応える。
「楓は?」
「楽しいけど、少し疲れて」
千鶴の隣に腰を下ろした楓は、微笑みながらも軽く息を吐く。
人付き合いが苦手な楓は、少しばかり女子部員達の元気が良すぎて気圧されていた。初音と一緒だからそれでも楽しめたが、一人なら途方にくれている所だった。
「うん。俺もあの元気の良さには勝てないからな」
「耕一さんでもですか?」
楓を慰めるように言う耕一に、千鶴は意外そうな顔を向ける。
「女子高生とおばさんパワーには勝てないってね」
「えっ? 私達っておばさんと一緒なの?」
初音は驚いた様に振り返り。楓は複雑そうな表情で首を傾げ、上目遣いに耕一を見上げる。
「えっ? い、いや、初音ちゃんや楓ちゃんは別だよ。運動部の女の子って逞しそうだしさ」
等と初音と楓に見つめられた耕一は、周囲に女子部員がいれば袋叩きにされそうな台詞を口に乗せて愛想笑いを浮べた。
「さぁって、見に行かないと焦げちゃうよな」
「ふふ、耕一お兄ちゃんたら。あっ。こっちのは、もう裏返していいよね?」
耕一が逃げる様にコンロに向うと、とことこと着いてきた初音は、先に焼け具合を確認する。
「うん。じゃあ、っとつっ」
「あっ。これは、どうも」
耕一が串を回していると、ひょっこり柴田が姿を現し、嬉そうに駆け寄って来る。
「ああ、どう……も…」
「お言葉に甘えさせて頂き、お邪魔させて頂いております」
「いいえ。邪魔だなんて飛んでもない、お待ちしてたんですよ。ゆっくり楽しんでください」
コンロにいる耕一を無視して傍を通りすぎ、立ち上がってあくまで礼儀に乗っ取った挨拶をする千鶴に駆け寄ると、柴田はテレテレに溶けそうな顔で後ろ頭を掻く。
「ああ、柴田先生ご苦労さまです。どうでしたか、生徒の様子は?」
「はっ、みんな楽しんでおるようです。監督」
白くなった頭を下げて聞かれた柴田は、ぴしっと表情を引き締めると男子校の監督に一礼して返す。
「君も監督だろう? 柴田君は、相変わらず堅いね…そうだ、すまないが焼く方を頼めんかね?」
柴田の敬礼でもしそうな姿勢に苦笑した監督は、申し訳なさそうな顔で柴田に眼を上げる。
「は? はぁ」
「お招きした方の手を患わせるの気が引けてね。あいにくと私は料理が苦手なもので。戻ったばかりなのに申し訳ないんだが、頼めんだろうかね?」
「あ、いや。判りましたから頭を下げんで下さい」
少しいやそうに眉を潜めた柴田は、監督に頭を下げられ慌てた様におろおろと引き受ける。
「それでは、代わりますので。ゆっくり、楽しんで下さい」
「はぁ、どうも。じゃあ、初音ちゃん」
「うん」
唇の端をヒクヒク震わす柴田を、なんだかなぁと思いながら、耕一は初音を促しベンチに戻った。
「どうぞ耕一さん。監督さんも、どうぞ」
「ありがとう」
「あっ、すみませんね」
一つ腰をずらし耕一に場所を空けた千鶴にビールを注いでもらい。耕一と監督は弾け白い泡を立てる冷えたビールで喉を潤す。
いや、お嬢さんに注いでもらうとビールが美味いですな。あら、そんな。等と言う会話に耳をぴくぴく動かす柴田の哀愁漂う背中を向けた肩が震えているのは、怒りか、それとも泣いているのか。
「ああ、疲れた。あれ? 監督、焦がすなよ」
「おお柏木、いい所に来た。代わってくれ」
満面に気色を浮べた柴田に顔を突き出され。肩をコキコキ鳴らして戻って来た梓は、はぁっという顔で眉を潜める。
「お前得意だろ。焼くの代わってくれ」
「なに考えてんだよ。あたしは、今まで下ごしらえしてたんだ。そこまで面倒見られるかよ」
むすっと腰に両手を当てた梓は、怒るのも馬鹿らしいといった風に片手を上げ、すたすた柴田の脇を通り過ぎ。
「うん? いいかな?」
鼻をくんくん動かした梓は、ピタッと足を止め振り返った。
「監督」
「おお、代わってくれるのか?」
梓は喜色満面、涙を流さんばかりの柴田ににやっと笑う。
「焼けてるよ。貰ってくね」
ささっと香ばしい香りを漂わせる串を皿に積み、梓はくるりと踵を返す。
「柏木ぃ〜」
「諦めろって、無駄だからさ」
情けない声で呼ぶ柴田に後ろ手に挙げた手を振り、梓はすたすた歩み去る。
後にはガックリ肩を落とした柴田と、空になったコンロが熾火の赤い光を放っていた。
「まったく、あきらめの悪い」
「梓お姉ちゃん、お疲れさま」
肉を齧りながら、柴田のあきらめの悪さをぼやく梓を初音の笑顔が迎える。
「ご苦労さま」
「やっと終わったよ。熱い内に食べようよ」
監督、耕一、千鶴、初音と楓が並んで座ったベンチを一瞥して、梓はちょっと迷い辺りを見回した。
ベンチは五人で一杯で、座る余地がない。
「おっ、これこれ」
昼間桃を詰め込んで差し入れたクーラーを見つけ、梓は手にした皿をテーブルに置き、引きずって来たクーラーボックスを椅子代わりに腰を下ろした。
「えっと。なあ、耕一」
「うん、なんだよ」
皿をみんなに回しながら男子校の監督をちらちら窺い、梓は肉にかぶりついた耕一になにか目配せを送る。
「?」
「眼をどうかしたの?」
「千鶴姉はいいんだよ。耕一、喉乾くよなぁ」
首を傾げた耕一に代わり千鶴が聞くと、梓は千鶴をうっとしそうに見て猫なで声を耕一に向ける。
外聞を気にする千鶴に頼んだところで、梓の願いに監督の前で素直に頷く訳がない。
耕一を取り込んだ方が早い。
「あん? ああ、暑いからな」
「だから、こう暑くちゃ喉が渇くだろって」
首を捻りながら食べ続ける耕一の鈍さを恨みがましく思い、梓は更に繰り返す。
「ああ、暑い時に熱いもんもいいよな」
「梓お姉ちゃん、ジュースならこっちにあるけど」
初音は梓の催促に気づいて、困った顔でジュースの瓶を差し出す。
「だからっ! ジュースも…良いんだけどさ」
「なんだ? なんか言いたいんなら、ハッキリ言えよ。梓らしくないな」
言いながらグビグビビールの入ったカップを空ける耕一を、梓はムッとした顔で睨み付ける。
なにを梓が欲しがっているか判っていて、耕一は惚けているのだ。
「そう言えば、梓」
「うんっ! コップならここに」
「かおりちゃん、どうした?」
「………食べ終わった分の後片付け」
美味そうに泡の付いた口元を拭った耕一は、空のコップを差し出した梓から眼を逸らし。梓は差し出したコップの持って行き場に困り、ぶすっと耕一を睨み付ける。
「はいどうぞ。監督さんも、もう一杯いかがですか?」
「これはどうも」
「良くかおりちゃんが承知したな」
空になった耕一と監督のコップにビールを注ぐ千鶴を見ながら、梓は確信した。
千鶴も判っていて無視している。
「後片付け全部終わらせたら、花火付き合う約束なんだよ」
「ほぉ〜、かおりちゃんも成長したな。今の楽しみより、後の確実なチャンスを取ったのか?」
耕一の感想は、実は違う。
自分の尻拭いを梓にさせたかおりは、これ以上梓を怒らせたくなかっただけだ。無責任といい加減が嫌いな梓の性格を良く知っているのだ。
梓が居なくなれば、後輩のマネージャーに後片付けを押し付ければ良いのだから、かおりに取って楽な取り引きだ。
「それより耕一、あたしにもビールくれよっ!」
教育者の監督の前だと思って耕一が勧めるのを待っていた梓だが、美味そうにビールを空ける耕一の姿に我慢が出来なくなってコップを突き出す。
「梓お姉ちゃん、ジュース飲もうよ。ね?」
「諦めたら?」
阿(おもね)るように言ってくる初音と溜息混じりの楓の言葉に、梓は激しく頭を振る。
困ったものだが。梓は耕一に付き合って毎晩のように晩酌を酌み交わす間に、すっかり酒好きに成っていた。
「あたしはビールを飲むんだっ! 一番働いたあたしには権利が」
「あ・ず・さ」
「ヒッ!」
千鶴の持つビール瓶に手を伸ばした梓は、ギンと強くなった瞳に射竦められ息を飲み込んだ。
「け・ん・り・って言葉の意味、判ってる? あなた、未成年よね」
「わ、判ってるけど。昼間はさ」
「普段は大目に見てるけれどね。外でまで調子に乗っていいと思う?」
射竦めた瞳はそのままに薄く笑った千鶴の笑みに、梓はいつまで経っても慣れない冬の墓場に踏み込んだような寒気を感じた。
「まあまあ、宜しいじゃありませんか」
「ですが。妹は、まだ学生ですし」
「仕事柄、勧めるわけにはいきませんが。そこはそれ、百薬の長とも言いますし。私は見なかったという事で」
「はあ、監督さんがそう仰って下さるなら」
監督の声に外された千鶴の視線にほっと息を吐き、梓は監督に頭を下げコップを差し出した。
「でも、もう空なのよね」
ちろっ舌先を覗かし首を傾げた千鶴は、肩を竦めて空になったビール瓶を梓の目の前に翳す。
「そんなぁ〜まだどっかにあるんだろぉ?」
「ばぁ〜か」
耕一はふっと口元を緩め鼻で笑う。
千鶴を怒らせないように惚けてやったのにと言う思いと、梓の感の鈍さに呆れて。
「誰が馬鹿だっ!」
「お前な、何に座ってんだよ」
スッと視線を落した耕一に釣られ、梓も視線を落す。
「あっ? そっかっ!」
慌てて腰を上げクーラーボックスを開けた梓の眼に、待望のビールが、瓶に冷たい水滴を滴らせて鎮座していた。
ビール瓶に頬を擦り寄せ勢いよく栓を抜き、梓はさっそく手酌で飲み始める。
「ああ、仕事の後の一杯は美味いよな」
「もう。大酒飲み見たいな事言わないでよね。一人で飲んでないで、ちゃんとお注ぎしなさいね」
梓の飲みっぷりに感心した様に笑う監督の笑い声に顔を赤くして、千鶴は恥ずかしそうに梓をメッと睨む。
ハハッと苦く笑った梓に勧められ、監督もビール片手にバーベキューを口に運び。耕一と千鶴もそれぞれビールを手に肉を頬張る。
楓と初音は、先に充分食べたのかジュースを飲みながら、梓の後輩達から聞いて来た話を披露し、梓を赤面させた。
「さてと。監督、もういいんじゃないっ!?」
梓がすぐ脇で一人背中に哀愁を漂わせる柴田の事を思い出したのは、皿が空になる頃だった。
初音と楓が焼けた順に運んでくれていたので、柴田は黙々と串を火に翳し続けていた。
「おお、これで最後だ!」
やっと戻って来られた柴田は、赤い顔の梓にちょっと眉をしかめる。
「柏木、飲むなとは言わんがな。飲みすぎじゃないのか?」
「まあま、これぐらい平気だって。監督も飲みなよ」
上機嫌の梓にコップを突き出され、柴田は仕方のない奴だ。などと呟きつつコップを受け取る。
「先生ご苦労さまです。お一つどうぞ」
「は、はっ。恐縮です」
千鶴にビールを勧められ、柴田はかちんこちんに固まりつつ、ぎくしゃくとコップを持った手を差し出す。
ビールを注ぐ頬を桜色に上気させた千鶴の白い手から視線を腕に添ってあげてゆくと、ワンピースから覗く滑らかな肩甲骨から首筋までがつやつやと艶かしくも妖しく、薄い朱に染まっている。
それだけで、もう柴田は天にも昇る心地で顔を赤く染め、視線をついっと逸らした。
「い、頂きます」
真っ赤な顔で奇妙な動きでギチギチビールに口に運ぶ柴田に思わずクスッと笑いを洩らした千鶴の、口元に手を運ぶ仕草に柴田の動きはピタッと止まった。
「どうかなさいましたか?」
思わず千鶴に見とれた柴田を、千鶴は笑ったので気を悪くしたのかと申し訳なさそうな顔で首を傾げ、下から覗き込む。
「はっ? はい、いえっ!」
ハッと一瞬千鶴の顔を見つめた柴田は、大慌てで背筋を伸ばし一気にビールを飲み干す。
千鶴の方は、そんな柴田の様子になにも気づいていないのだから、哀れを通り越して滑稽ですらある。
「耕一、良いのか?」
「なにが?」
「監督だよ、余裕じゃんか」
真横でそんな会話が交されているのも、柴田は耳に入らないようで、空けたコップに注がれたビールをぐいぐい開ける。
まともに千鶴を注視も出来ないのだろう。
「いいんじゃない。夏の夜の夢ってのもあるしさ」
「耕一さん、違う気がします」
出典の間違いを冷静に指摘する楓。
「それより、凄い飲み方だよ。止めなくていいの?」
柴田の息を継がない飲み方に心配そうな初音。
千鶴は差し出されたコップに機械的に注いでいるだけで、柴田のペースをまったく気にした風がないのが怖い。
「いいんじゃない。真夏の夜の悪夢だろ」
「それも違います」
「耕一、酔ってるのか?」
「耕一お兄ちゃん?」
「耕一さん?」
姉妹三人が顔を覗き込むと、耕一はふっと口の端を吊上げ、ニヤリと凄絶な微笑を刻んだ。
「いいんじゃないの? 幸せは大きな程、無くした時は辛いんだからさ」
一瞬、姉妹三人、姉以上の悪寒を耕一から感じ真っ青になって震え上がった。
似たもの同士とは良く言ったものだ。
「ううぅ。お、お兄ちゃん、怖いよ」
「は、初音。声かけるな。刺激するんじゃない、切れかかってる」
「酔っただけじゃ」
「楓、あんた耕一贔屓も大概しろ。どう見たって焼き餅だろ」
肩を寄せあった姉妹はひそひそと言葉を交し、一様に深い深い溜息を吐き出した。
「千鶴さん、良いかな?」
「あっ、はい。耕一さん」
耕一の一言で千鶴はパッと嬉そうに振り返ると、ビールの注ぎ先を変える。
「でも、ちょっと飲みすぎですよ。気を付けて下さいね」
「うん。ほどほどにね」
柴田に向けるのとは明らかに違う心配そうな表情で、千鶴は耕一のコップにビールを注ぐ。
空のカップを差し出したまま固まった柴田の眼は、点になったままだ。
「柴田君、そろそろ終わりだが。今年もやるのかね?
だいぶ飲んだようだが」
情けなくて見ちゃいられないと言った風に首を振り、監督は柴田に声を掛けて来る。
「はぁ、申し訳ありません。そのつもりです」
「それじゃあ。判ってると思うがね、注意して扱ってください」
大丈夫なのかと言った溜息を吐いた監督は、脇に立てかけた白木の長箱を柴田に渡し念を押した。
「はい」
一礼して長箱を受け取り、柴田は千鶴の横顔を一眺めして、千鶴の腰に見せつける様に腕を回す耕一を憎々しげに睨むと踵を返した。
人前、特に姉妹の前でべたべたしない耕一の態度は、姉妹には充分すぎるほど危険な兆候だった。
柴田の後ろ姿を見送り、梓と初音、楓までが大きく安堵の息を吐き。
「笑ってるね。耕一お兄ちゃん」
「……千鶴姉さんに似てきた」
「………下手にからかうの止めとこ」
耕一の浮べた勝ち誇った薄笑いに、三者三様の呟きを洩らした。