夏光 四
柴田は浜に上がり、膝に両手を置き大きく胸を上下させ深呼吸を繰り返した。
髪から滴る水気を片手で払い辺りを見回した柴田は、目的の人物の姿を見つけられず。救護班として残した生徒しか浜辺にいない事実に身体から力が抜けた。
座り込みたい所だが生徒の手前すぐに胸を張り、戻って来る生徒達の安全を見守る。
本来安全を考えるなら、遅れている生徒に付き添って泳ぐ所だった。
だが耕一と梓のハイペースに引きずられ、浜に帰り着くのがやっとなほど体力を消耗しているのに気付いたのは、帰路の半ばに差しかかった所だった。
百や二百なら兎も角。二人のペースはそれ程常軌を逸していた。
三年間自分が鍛えた梓ならまだしも、耕一が特に運動もしていないなど信じられるわけも無い。日頃から相当鍛えていても中々出来る泳ぎ方ではなかった。
この時、耕一の言葉は謙遜ではなく、日頃運動していなくてもこれぐらいは軽いとアピールしていたと柴田は受け止めた。
日頃鍛えていれば当然でも、なんの訓練もなく高い能力を示せば、一の実力を十にも見せられる。
自分の良い所をより良く見せる為の常套句だ。かなりの食わせものかも知れない。
耕一が柴田に良い所を見せる必要などないのだが。疲れと勝手に千鶴を張り合っている競争心が、柴田の判断をねじ曲げていた。
「監督ぅ、梓先輩はどうしたんですかぁ」
聞き慣れた不貞腐れた声にチラッと眼を向け、柴田はツイと眼を戻した。
「柏木なら、従兄とゆっくり戻るそうだ。お前は、万が一に備えてろ。そろそろ落後者が出る頃だろっ!」
不貞腐れて睨むかおりに八つ当たり気味に言い、柴田ははぁ〜と息を吐き出した。
「おい、日吉。あの柏木の従兄だが、なにか聞いとるか?」
相手はかおりだ、柴田もまともな答えは期待していないが一応聞いてみる。
「馬鹿でスケベで無節操に馴れ馴れしくって暇さえあれば寝てばっかりいるどうしようも無いグータラ三流大生ですぅ。そう梓先輩が言ってましたぁ」
梓先輩の所だけ愛想良く、かおりはブスッと親の敵のように説明する。
「そうか…なんでまた、そんな奴に」
話半分としても、どうしようも無い男だ。
「そうですよね、梓先輩ったら、どうしてあんな男追い出さないんでしょう」
一方、耕一に悪意しか持っていないかおりは、我が意を得たりと勢いずく。
「去年の夏から、休みになると泊りに来るんですよ。いくら従兄だって図々し過ぎますよね。先輩なんて、ご飯の用意や洗濯までさせらてるんですよ。いくら誘っても、あいつ、世話が掛かるからダメだって断られちゃうし。梓先輩可哀想ですよね」
単に梓がかおりを断る口実に耕一を使っているのだが。かおりは切々と不満を訴える。
「去年の夏だと? 女だけになった途端、家に転がり込んだのか? けしからん奴だな。男の風上にも置けん。亡くなった親父さんは立派な人だったが。似てはいるが、中身はまったく違うのか?……ふん。お姉さんの前では、ネコを被っとるに間違いないな」
ふ〜むと唸り、柴田は考え込む。
「絶対そうですよ監督。叔父さんが死んじゃって、気弱になってる先輩に付け込んだに違いないんです」
「いかんな、肉親を亡くした心細さに付け込むとは許し難い奴だ。なまじ親父さんに似とるから、騙されたんだな」
いつの間にか、父親を亡くした当の耕一が、飛んでもない悪党にされている。
「そうですよ、監督。騙されてる先輩を救えるのは監督だけです!」
「しかし…な………」
耕一に向けられた、千鶴の光溢れんばかりに幸せそうな笑顔を思い出し、柴田は思いっ切り情けない溜息を吐く。
「なに弱気になってるんですかぁ! 先輩達を救えるのは監督だけなんですよっ! 今日が絶好のチャンスじゃないですかっ!」
「チャンスって、日吉?」
「ふふふっ。監督、耳貸して」
悪鬼の顔でニタリと笑い、かおりは柴田にこれからの計画を耳打ちする。
「うぅ、はふぅ!」
「初音。息は、水の中で吐かなくちゃダメよ」
初音と両手を繋いでいた千鶴は、水面から上がった情けなく可愛らしい顔に小さく笑う。
耕一と梓が遠泳に向った後。初音と楓は、浅瀬で千鶴に泳ぎを習っていた。
「そうするとね。顔を上げた時に、自然に息を吸い込めるの」
「…うん。でも、ばた足してると息を吐くの忘れちゃって」
濡れた顔をごしごし両手で擦り、赤いゴムでポニーテールにまとめた髪を身体の前に持って来て絞りながら、初音は困った顔で応える。
「水の中で、ちゃんと眼は開けられたの?」
「うっ、うん。あのね、その……」
しょんぼりとした初音は、ゆらりゆらりと光を跳ね返す海面に眼を落とした。
「水の中で眼を開ける練習から始めないと、ダメみたいね」
ちょと困ったように千鶴は顎に指を置く。
「楓。あなたもいつまでも浮輪に掴まってちゃ、泳げるようにならないわよ」
ネコの絵柄の浮輪に掴まりぷかぷか少し沖を浮かんでいる楓を目に留め、千鶴はふぅ〜と息を吐く。
「でも、千鶴姉さん」
「耕一さんに、泳げるって言ちゃったんでしょ?」
「浮輪に掴まってなら、泳げるもの」
楓は赤い顔で頬を膨らし、スイッと千鶴から視線を逸らす。
浮輪に描かれたネコの頬から伸びたヒゲが風に揺られ、楓の可愛らしい見栄をからかうようにさわさわと赤い頬を擽っていた。
「それって、浮かんでるだけじゃないの?」
「……意地悪」
ぽつっと洩らす楓の拗ねた言い方に、千鶴は片手で額を軽く押えた。
楓も初音も耕一に誉められたい一心で泳ぎを習う気になったのはいいが。楓は浮輪を手放そうとしないし、初音はどうしても水の中で眼を開けられなかった。
すぐにどうこう出来る泳げなさではないのだ。
楓からは浮輪を取り上げ、初音とは繋いだ手を思い切って離せばいいのだろうが。浮輪を取り上げようとすると、楓はジトッと睨んでくるし。初音は手をしっかり掴んで離そうとしない。
仮に離せても、初音が可哀想で千鶴にそのままに出来るとも思えないが。妹達の運動神経は、梓が独り占めしたんじゃないかとさえ千鶴には思えた。
二人とも、なんとか耕一に呆れられない位にはなりたいらしく。やる気は十分にあるのだが、水に対する恐怖心の方が先に立つようで、まず顔を水につけて慣れる方が先決だった。
つまり、今のところ泳ぐ以前の問題だ。
「やっぱり。耕一さんを待った方が良かったのかしら?」
少し情けない気持ちで、千鶴は片手で肘を支えもう片腕の掌に顎を置き考え込んだ。
人に物を教えるのが千鶴は得意ではない。
天才肌の人間に多いが、さして苦労もせずに出来てしまう為。そもそもなぜ出来ないのかが理解出来ないのだ。
自転車の乗り方と一緒で、苦労せずに泳げるようになった千鶴には、泳げない者に教えるコツが今一つ判らない。
人間は水に浮くように出来ているのだから、深みに放り込めばなんとかなる気もする。
もし溺れてもすぐに助け上げればいいのだ。しかし初音には可哀想に過ぎるし。楓には一生恨まれそうで、怖くてとても千鶴には実行出来なかった。
「どうかなさいましたか?」
「あっ、柴田先生。もうお戻りでしたの? それじゃ、梓と耕一さんも?」
不意に掛けられた声に顔を上げ、少し赤い顔の柴田を視界に入れた千鶴は慌てて尋ねた。
柴田が帰って来ているのなら、耕一と梓も帰って来たはずだ。その間なにも進歩がなかったでは、頼ってくれた妹達に姉として面目ない。
一方初音は柴田と千鶴をチラッと見て、慌てて鼻を摘み顔を海面に浸け。楓は水飛沫を散らし始めた。
しかし、初音はすぐに顔を上げるとケホケホ咳き込み。楓は見ている方が哀しくなるほど前に進んでいない。
「いえ、その。私のペースが少し早すぎたようでして。二人が戻るまで、もうしばらく掛かると思いますよ」
そわそわと千鶴から視線を逸らした柴田は、赤くなった鼻を指で掻き掻き眩しそうに細めた眼で、千鶴を落ち着きなくチラチラと窺う。
海水を含んだ千鶴のブルーのワンピースは、スリムな肢体に張り付きまろやかなラインを浮かび上がらせ。陶磁器のように白い肌は海水を弾き、流れ落ちる珠となった水滴が陽射しに光りを煌めかせていた。
長い黒髪は沖から浜に流れる微風にそよぎ、白く細い足は波に洗われ、張りのある太股を波間が見え隠れさせる。
女性の水着姿を見慣れている柴田も、波間に揺れる太股に吸い寄せられる視線を逸らすに必死である。
「あの、どうかなさいました?」
千鶴の方は、なにか戸惑ったような柴田の様子にキョトンとした顔で首を傾げる。
傾げた首筋から覗く陽の光を跳ね返す白い項に、柴田は思わずごくりと生唾を飲み込んだ。
「あ、あっ、いえ。なにか、お困りのご様子でしたので」
なんとかなまめかしい項と太股から意識を逸らそうと、柴田はハハハッと目を蒼い空に向け、あほのようにから笑いを上げる。
はっきり言って、不気味でしかないのだが。
「はぁ? 妹達に泳ぎ方を、どう教えたらいいかと………」
柴田のから笑いにぎこちなくなった笑顔で、千鶴は日頃鍛えた社交性を発揮しまともに応える。
「ああ、それでしたら。教えるのは専門ですから、私がお教えしましょう!」
「初音、大丈夫? いえ、その。でも、先生もお忙しいでしょうし、それには及びませんわ」
勢い込んで言う柴田になんとなく腰が引けた千鶴は、咳き込んでいる初音の背中を摩りながら申し訳なさそうに微笑む。
「いいえ。生徒がしっかりしていますから」
「でも、あの。そう言って頂けるのは大変嬉しいのですけれども。耕一さんに教えて頂く事になっていますから」
千鶴は更に腰を引きつつ言う。
内心、梓なら兎も角、大切な妹を耕一以外に任せるなど冗談ではない。と思っているのはおくびにも出さない。
「彼なら、妹さんとブイの所で泳ぎ疲れてました。当分戻っては………」
「あっ! 耕一お兄ちゃん!」
「えっ! 耕一さん?」
パッと瞳を輝かせた初音が嬉そうに柴田を遮り。浜を歩いて来る耕一らしき白いTシャツの跳ね返す光を見つけ、千鶴も瞳を輝かせ柴田に軽く頭を下げ、いそいそと初音の手を引き耕一を迎えに向う。
「………」
楓も微かに嬉しそうな表情で、無言でパシャパシャ動き始める。
柴田の横を通り過ぎる楓の動きが先ほどより心持ち早く思えるのは、プカプカがパシャシャに変わった辺り、気の所為だけではないようだ。
「…日吉ぃぃ。あのやろぉぉ〜」
一人取り残された柴田は、太陽を見上げ拳を握り締めて震えていた。
かおりの作戦では、耕一はかおりが足止めする手はずだった。もっとも、耕一の注意を梓から引き剥がせればいいだけのかおりには、そんな気は毛頭ない。
「耕一お兄ちゃん、梓お姉ちゃんは?」
「うん。後輩の面倒見るって、コースの途中で頑張ってるよ」
「あの子ったら、相変わらず面倒見が良いですよね。でも、休まなくて大丈夫でしょうか?」
「後輩の面倒ってのは、半分言い訳」
初音と千鶴に迎えられ、耕一は少し心配そうな千鶴にクスクス笑いを向ける。
「浜に戻ると、余計に疲れるってさ。かおりちゃんが待ち受けてるだろ?」
「梓お姉ちゃん、大変だよね」
「かおりさんにも、困ったものですけど」
苦笑する初音の頭に耕一が軽く手を乗せると水気を帯びた栗色の髪が柔らかい弾力を返した。その隣でふっと息を吐いた千鶴は、かおりの性癖に困ったように小首を傾げる。
「はっきりしない梓も悪いんだけどね」
「それは、そうですけれど。ああまで慕われていると、邪険にも出来ないでしょうし」
両脇に千鶴と初音を伴い歩き出した耕一の少し厳しくなった瞳に、千鶴は取り繕うように言う。
「それも、梓のいいトコ…かな?」
「優しいものね、梓お姉ちゃん」
「初音ちゃんもね」
初音が首を捻って見上げと、耕一はふっと目元を和ませて初音に目を落とし軽く頭を撫でる。
話ながら着いた波打ち際では、まだパシャパシャ浜に辿り着こうと楓が足掻いていた。
近くまでは来るのだが、波に引き戻されてはまた近づくを繰り返している。いつもと変わらない表情だが、何となく意地になっているようにも見える。
「………?」
楓の悪戦苦闘――真剣な表情で遊んでいるようにしか見えない――に首を傾げた耕一が千鶴と初音を見ると、初音も千鶴も苦笑しているような笑い出すのを抑えているような、奇妙なぎこちない表情で頬を引きつらせていた。
「楓ちゃん?」
耕一が海に入って近づきながら呼びかけると、楓は少し嬉しそうな顔を上げ、ぽっと顔を赤らめるとズリズリと沈んで浮輪で顔を隠した。
「ええと………」
相手が小学生なら、楽しそうだね。とでも言えばいいのだろうが。高校生ではどう声を掛ければいいのか、耕一でなくとも言葉が出て来ないだろう。
「……クラゲ」
「はっ? …く、クラゲ?」
真っ赤になった目元を浮輪から覗かせ、楓はポソッと呟き。耕一は間の抜けた顔で首を捻った。
顔を半分以上浮輪で隠し、目元だけ覗かせたおカッパ頭の楓は、言われてみればネコガラのクラゲにも見える。
「ああ、う、うん。ク、クラゲね」
チラッと浜に視線を流した耕一は、千鶴と初音を当てに出来ないのを知って、なんとか笑いをこらえた。
初音も千鶴も浜辺に座り込み、お腹と口元を両手で押さえ笑いをこらえるのに必死になっていた。
「か、楓ちゃん。楽しそうだけどさ、一度上がったらどうかな?」
「………はい」
ジッと浮輪のネコの顔の影から覗く瞳で耕一を見つめた楓は、少しだけ首を傾げコクンと頷く。
ホッとした耕一の前で立ち上がった楓は、首からネコガラの浮輪を斜めに掛けたままで、耕一のTシャツの端をきゅっと握る。
楓の幼子のような仕草にくすっと耕一が笑う。
楓は肩や腕まで赤く染め抜き、俯いてもう片手の指で下唇を押えると、ゆっくり耕一に着いて歩き出した。
「ち…千鶴…お姉ちゃん…笑っちゃ……ダメだ…よ…かえで…お姉…ちゃん……可哀…想…」
「は…初音だって……お…お腹…押えて…」
ぺたんと砂浜に座り込んだ千鶴と初音は、息も絶え絶えにまだお腹を押えている。
楓は耕一に背中に隠れ、恥ずかしそうに今度は両手でぎゅとTシャツを握り締めた。
「あの」
「はぃ?」
千鶴達に話を振るべきか、楓を先に慰めるべきか迷っていた耕一は、突然の声に間の抜けた声で返し、柴田を認めて照れ臭そうに頭をぽりぽりと掻いた。
「ああ、どうも監督さん」
耕一は柴田に向き直りながら、楓の赤く染まった裸の肩に慰めるように手を回し。楓は少し嬉そうにTシャツから放した片手で口元を隠した。
「どうも。無謀、なペースでしたが。大丈夫でしたか?」
柴田は耕一が楓の肩に回した手と、楓の赤く染まった顔を一瞥し、無謀を強調する。
柴田の瞳は、この野郎、妹さんにも手を出してやがるのか。と、言った憎々しげなものだった。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません。なんともありませんから」
耕一の方は、柴田の瞳を生徒のペースを乱された非難と苛立ちと受け取り、素直にペコンと頭を下げる。
事実、梓が残ったのは、耕一や梓、柴田のハイペースに着いて来ようとしてへばった生徒の何人かを、帰る途中ボートに引き上げていた所為もあった。
引き上げたのが男ばかりだった辺り、女の子に良い所を見せようと無理をした結果だろう。
「そうですか。それじゃいいんですが、ね」
柴田の方は、耕一の無事を残念そうに言う。
「ああ、日吉を見かけられませんでしたか?」
「日吉?」
「お…お兄ちゃん…か…かおり…お姉ちゃん…だよ」
首を傾げる耕一に、笑いをこらえ息も絶え絶えに初音は教える。千鶴は柴田が加わった途端、今まで笑いを堪えていたのが嘘のようにスッと立ち上がってにこにこしている。
呆れた変わり身の早さだ。
だが耕一や楓、初音ももう慣れ切っていて驚きもしない。
「ああ、そっか。ありがとう初音ちゃん」
箸が転げてもおかしい年頃とはいえ、笑われている楓のむくれた赤い顔を見ると、初音に応える耕一の顔も苦笑いになる。
「かおりちゃんなら、ボートで落後者を拾うの手伝いに行きましたよ」
「そ、そうですか?……あの野郎」
「はっ?」
かおりの裏切りにギリッと噛み締めた柴田の歯の間から呟きが洩れ、耕一は怪訝に首を捻る。
「あっ、いえ。そろそろ夕食の買い出しなもんですから。日吉の奴、マネージャーのクセにしょうがない奴です」
「ああ、なるほど。もう、そんな時間ですか?」
柴田の言い訳に中天よりだいぶ傾いた太陽を見上げた耕一は、まだ夕暮れには程遠い陽の傾き方に首を捻る。
「いやぁ〜なにせ人数が多いですからな」
柴田は後ろ頭を掻いて苦く笑う。
これからが、かおりが柴田に囁いた作戦の第二段だった。
「そうだ。皆さんもご一緒にどうですか?」
「お誘いは嬉しいんですが、お邪魔してもなんですし」
千鶴は耕一が応える前にやんわりと断る。
大勢で食べるのもいいだろうが。千鶴にはどう考えても、高校生に混じって食べるより姉妹で耕一を囲んでの夕食の方が楽しい。
「お邪魔だなんて飛んでもない。合宿の最終日は、バーベキューと決まってましてね。今回はせっかくの海ですし、浜でやろうかと思っとるんです」
「はぁ、ですが………」
若い人の間に混るのはお邪魔でしょうし。と言いかけて、千鶴は生理的な抵抗感から言葉を途切れさせた。
どう考えても、年寄りの台詞だ。
「いや、遠慮なさらず。柏木も参加することですし、皆さんもご一緒に」
「はっ?」
「お聞きになっていませんか? みんな喜んどるんですよ。なにしろ柏木の味付けは、天下一品ですからなぁ。もう味わえないと残念に思っとったんですが。いやぁ〜楽しみです」
千鶴が口篭もった隙に、ここが正念場と柴田は一気に攻勢に出る。
「はぁ」
「監督っ!! なにやってんだっ!!」
ぎこちなく笑って、どう断ろうか目まぐるしく頭を働かせる千鶴の思考を断ち切るように鋭い怒鳴り声が轟いた。
「か、柏木?」
「生徒放っぽり出して、なにやってんだよっ!」
砂を蹴立てて走り込んで来た梓は、柴田を鬼の形相で睨み付けて喚き散らす。
「もう半分ぐらいは帰って来てんだよっ!! さっさと次の指示出せよな!」
「おお、じゃあ。一休みしたら」
梓の剣幕に押されながら口を開いた柴田は、またもギンっと睨み付けられた。
「あたしはもう卒業しただろ! そんなの部員に言いなっ!」
「梓。いくら何でも先生に対して、その言葉遣いはないんじゃないの」
梓の出現で一息吐いた千鶴は、目上に対して少し乱暴すぎる梓を軽くたしなめる。
「いいんだよ! 千鶴姉は黙ってな! 生徒放っぽり出してるような監督にはこれぐらいでさ、誰か溺れたらどうすんだよっ!」
ギンと睨む瞳を千鶴に向け、梓は怒鳴り付ける。
なぜか梓の機嫌は、千鶴を黙らせるほど極端に悪かった。
「おい柏木! まさか誰か溺れたのかっ!?」
「溺れてないよ。さっさと戻れよ」
梓の台詞で真剣な顔になった柴田が聞くと、梓はふぅ〜と息を吐き出し、少し語調を落して遠泳が行われている浜の端に指をビシッと向けた。
「わ、わかった。じゃあ、後でまた」
千鶴に一礼すると、柴田は砂浜を一目散に走り出す。
「はぁ〜」
「どうしたの梓お姉ちゃん? 少し言い過ぎじゃないのかな」
「………」
ストンと腰を下ろした梓を砂浜に手を付いて覗き込んだ初音は、恐る恐ると言った感じで聞く。
千鶴と顔を見合わせ梓に視線を落した耕一のシャツの端を握ったまま、楓もコクンと頷く。
「いいんだよ。監督らしくもない、生徒放り出すなんてさ。それにな」
「それに、なんだよ?」
俯いている梓を見下ろした耕一が聞くと、梓はふっと口の歯で笑い顔を上げた。
「耕一ぃ〜なんでかおりの奴、引き留めないんだよぉ〜」
「あん?」
「あいつボートまで引っ張り出してさぁ〜。あたし沖から逃げて来たんぞぉ〜」
クシャと顔を歪めうぅとしゃくり上げる梓の様子で、半分以上柴田を怒鳴り付けたのは八つ当たりだと判る。
柴田が、かおりから目を離すのが悪いという論法だろう。
「大変だったね。梓お姉ちゃん」
「初音、判るかぁ? あんたにあたしの気持ちがぁ? 判ってくれるのかぁ〜?」
「う、うん。えっと。その…大変、だよね」
泣きつかれても判る筈もない初音は、それでもなんとか姉を慰めようとする。
「でも、かおりさん。もう、追い駆けて来ないの?」
「そう言えば、来ないわね?」
楓の疑問に千鶴も唇に指で添え、遠くを見る細めた眼でスッと浜を見渡す。
「泳いでる部員が全員戻るまでに帰って来たら、絶交だって言って逃げて来たんだよぉ〜」
「お前な」
「なんだよぉ〜」
今回は真剣に身の危険を感じているらしい梓に、耕一は呆れた眼を向ける。
「それが言えるのに。なんで、キッパリかおりちゃん突き放せないんだ?」
「だってさ、なんか放っとけないんだよね。嫌いになれないって言うかさ」
耕一から眼を逸らし、梓はいじいじと指で砂になにか書き始める。
「じゃあ、どうすんだ? いつまでも逃げ回るのか?」
「そんな事言ったってさ……」
ブスッと梓が黙り込むと、耕一も仕方ないなぁ〜といった感じで溜息を漏らす。
「まあいいや。それより今晩どうしようか?」
「ええ。初音と楓も夏休みなのに頑張ってくれてますし、今夜はどこかで豪華にお食事をって思ってるんですけど」
「え、でも。千鶴お姉ちゃん」
初音は困った様な顔で千鶴を見上げる。
「なあに初音?」
「梓お姉ちゃんは、どうするの?」
「仕方ないわよね。あんなに期待されてるんじゃ、梓は抜けられないだろうし」
「あたしがどうしたって?」
梓は残念そうな溜息を吐く千鶴と、キョロキョロ千鶴と梓を見回す初音にキョトンとした顔を上げる。
「バーべキューやるから来ないかってさ。部員全員が梓の味付けに期待してんだと」
「かおりの奴ぅ」
眼を空に泳がせた耕一が言うと、梓は頭を抱えた。
「仕方ないよね。初音、梓姉さんは諦めよ」
「楓、あんた冷たいぞ」
「私、騒がしいの嫌い」
ツイと梓の睨む視線から眼を逸らし、楓は微かに眉を寄せ言う。
その楓の手は、まだ耕一のTシャツの端を握り締めている。
「初音、来るって言ってくれたよな? 花火したいよな? 約束しただろ?」
「う、うん。花火には行くって言ったけど」
梓に両肩を掴まれて顔を覗き込まれた初音は、額から汗を滴らせつつぎこちなく笑う。
「…仕方…ないかな?」
初音の困った顔に耕一は諦めて千鶴を窺った。
「もう仕方ない子ね。イヤならちゃんとお断りすればいいのに。楓もいい?」
溜息混じりに眉を潜め、千鶴は楓に聞く。
「………」
楓は掴んだ耕一のシャツを握り、耕一の横顔を窺ってから、コクンと頷いた。
耕一が一緒なら、どこで取ろうと夕食などどうでもいいのだろう。
「初音ありがとな。いやぁ〜、やっぱりあんたは最高の妹だよ」
しっかり家族の弱点を突いた梓は、嬉そうに初音に抱きつく。
初音を困らせれば、耕一が動くのを見越しているのだ。初音と耕一を味方に付ければ、後はなし崩しである。
「手ぶらって訳にも行きませんし。お肉でも買って来ましょうか?」
「そりゃ、梓に任せる」
千鶴の提案に耕一は梓の肩をぽんと叩く。
「そりゃいいけどさ。耕一達は?」
「決まってんだろ。楓ちゃんと初音ちゃんに、水泳の特訓だ」
「耕一お兄ちゃん、特訓なんて冗談だよね?」
「………耕一さん?」
ぎこちない笑いで見上げる初音と、シャツをぎゅっと握り少し腰を引いた楓を見回し、耕一は柔らかく笑った。
「教えて欲しいって言ったよね?」
「うん、言った…けど」
「…はい」
優しく笑う耕一に、ちょとホッとしたように初音と楓は頷いた。
「じゃあ。頑張れるよね?」
「う、うん」
「…………」
嫌な予感に初音と楓は躊躇いながら再びコクンと頷く。
千鶴はにこにこそんな三人を見て、微かな忍び笑いを洩らした。
口ではどう言おうと、耕一に楓や初音に厳しくし続けるなど出来る筈もない。
「よし、じゃあ。梓は買い出しな」
「よし、判った。任せなって」
梓は豊かな胸を叩き、すたすた歩き出す。
「楓ちゃん、浮輪を外して」
「でも」
「ちゃんと俺が手を繋いでるからさ、ばた足から始めようよ?」
楓はコクンと頷くと、千鶴がいくら言っても放さなかった浮輪をあっさり耕一に渡す。
楓をジトッとした眼で見た千鶴が、隣で溜息を吐いていたりする。
「耕一お兄ちゃん、わたしは?」
栗色の髪を揺らし、初音は勢い込んで聞く。
「初音ちゃんはこの浮輪に掴まって、顔を水に浸ける練習からね」
「うん」
ちょと不満そうだが、初音は耕一から浮輪を受け取り元気良く頷く。
「えっと。それで、千鶴さんは泳げるんだよね?」
「えっ……その…実は、泳げないんですぅ」
ちょと考え泳げない恥ずかしさと耕一に教えてもらう練習を天秤に掛け、両の拳を胸の前で揃えて言った千鶴は、初音と楓にジトッとした眼で見られた。
「千鶴姉さん」
「嘘はいけないよね」
常にない厳しい妹達の視線で、千鶴は身をよじって苦笑いを浮べる。
「…泳げるの?」
「……少し…泳げます」
耕一に聞き返された千鶴は、しおしおと身を縮ませ恥ずかしそうに告白する。
「じゃあさ。楓ちゃんに教えている間、初音ちゃんには、千鶴さんが教えてくれるかな?」
「はい」
クスクス笑う耕一に頼まれ、頬を染めた千鶴は小首をコクンと横に倒して頷く。
「じゃあ、行こうか?」
「うんっ!」
「はいっ!」
「………(こくん)」
それぞれ耕一の合図に頷き、水飛沫を蹴たてた
しかし結局、楓も初音も泳げるようにはならなかった。
水飛沫を陽に煌めかせて海水を掛け合い、水辺を駆け回った四人は戻って来た梓も加え、夕暮れまで夏の熱い光と潮風を楽しみ。
明るい笑い声を絶え間なく澄んだ蒼空に響かせながら、存分に煌めく光と水の饗宴を満喫した。