夏光 七
ぎゅっと握られた両腕を左右から引かれ、耕一は苦笑を抑え右左に眼を配った。
懐中電灯を持った耕一の右腕を両手で掴んだ初音は、落ち着きなくオドオドと周囲の薮に視線を巡らしては、ゆっくりした耕一の歩調に遅れないよう、時折トトトっと足を早め。
同じ様に左腕を掴んだまま臥し目がちに眼を落した楓は、掴むというより腕にしがみ付くといった感じで、耕一にピッタリ寄り添って歩いていた。
三人が歩いているのは、海辺に近いそう大きくもない森の中の砂利道。
時折、初音が腕に下げた手提げ袋が耕一の手にした懐中電灯と当たり小さな音を立てる他は、三人の足音しか聞こえない、辺りに街灯もない細い道。
懐中電灯と月の光だけが頼りとはいえ、煌々と輝く満月の光でかなり夜目は利く筈だが。樹木が伸ばした腕が月光を遮り、昼間の猛暑の反動か夜霧を孕んでジットリと蒸し暑い森は、暗鬱とした霞みがかった暗闇を演出している。
この闇に沈む森を突っ切り、森の出口にあるお寺の墓地の奥の祠にお札を置いて来る。というのが肝試しのコースだった。
しかし墓地よりむしろ、陰鬱とした闇に沈み茂みや樹木に囲まれた、この森の方が肝試しには格好の舞台だった。
「………」
ふと耕一を見上げた楓は、苦笑気味の耕一の顔を伺い問い掛けるような瞳でジッと見上げた。
楓の様子に気づいた耕一が少し歩調を緩めると、初音も耕一の顔を恐る恐る覗き込む。
「……ねぇ…お兄ちゃん……どうかしたの?」
「初音ちゃんは、昔と同じで怖がりだなって」
「えっ…だって……」
からかうように笑いながら顔を覗き返され、初音はぽっと赤くなった顔を伏せ、上目遣いに耕一を見上げる。
「耕一お兄ちゃんは、全然怖くないの?」
「うん、全然」
「………耕一さん…幽霊……信じないんですか?」
自身たっぷりに言い切る耕一に、どことなく意外そうに楓が聞く。
「いいや。でも楓ちゃん、怖いの?」
「怖いと言うか、他の人より敏感で…その…」
一応口では否定しながらも、楓はコクンと頷く。
感覚が敏感な分、他の人より異常な気配が判るので気持ちが悪いと言いたいらしい。
「い、いいやって? お兄ちゃん…も、もしかして?」
初音は楓の言葉より、耕一が幽霊を否定しなかった方が気になるらしく。ごくんと喉を鳴らすと、乾いた声で更に腕にしがみ付く。
初音と楓には、以前エルクゥの亡霊を見た経験がある。
「幽霊…いない…よね?」
「いるよ」
初音はこの近くに幽霊なんかいないと言って欲しかったのだが。そんな事を知らない耕一は、からかい半分に素知らぬ顔で言い切る。
「うっ、嘘…だよね? いっ、いないよね?」
「こ、耕一さん。お、脅かさないでください」
あっさり耕一にいると言われた初音は、引きつったぎこちない笑いで落ち着かなく周囲を見回し、楓までが耕一の答えに腕にしがみ付き、落ち着きなくキョロキョロとし出すと、ついに耕一は歩くのを諦め足を止めた。
一組先に出た梓に早く追い付いてやらないと、梓が後で文句を言うだろうが、両側から腕にしがみ付かれては歩くどころの話ではない。
まさか初音と楓を引き摺って歩くわけにも行かない。
どうせ悪くしても、梓がかおりの毒牙に掛かるだけだ。
「初音ちゃん、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ。楓ちゃんも、そうそう出たりしないからさ」
「だっ! いえ。でも………」
元々白い顔から更に血の気の失せた顔色の楓は、勢い込んで何か言い掛け、ハッとしたように顔を伏せるるともごもごと口篭もった。
「そんなに怖がらなくても」
「……怖いと言うか…そのもし…もしもですよ」
「うん、もしも?」
「出たら……」
「うん。出たら?」
「どうしたらいいんですっ!?」
泣きそうな顔で耕一を見上げ、楓は普段は聞けないようなキンとした震えた声を上げた。
「かっ、楓お姉ちゃん!」
「初音ぇ〜〜」
楓の声に驚いた初音が更にぎゅっとしがみ付き、楓は楓でこれまた普段は想像も出来ないような泣きそうな声を上げ初音を抱き締めようと確り腕を回す。
耕一を間に挟んでいるので、二人は耕一を抱き締めただけなのだが。
二人に抱き付かれた耕一は、傍目には非常に羨ましい状態ながら、疲れたような溜息を一つ吐いていた。
初音が怖がりなのは知っていた耕一も、普段から冷静で落ち着いている楓が肝試しで怖がるとは思ってなかったのだ。
これ程怖がるなら、幽霊なんていないと言えば良かったと後悔しても後の祭りである。
この時になって、耕一は肝試しのメンバーにやっと納得がいった。
花火も終わり、耕一達は帰ろうとしたのだが。既に肝試しの組み合わせに梓が入れられた後だった。
予想の通り、梓はかおりと。
それも最終組という念の入り用だった。
梓が帰るとかおりが一人になるとあって、かおりに泣き付かれた梓は、しぶしぶ参加を決め。
梓に泣き付かれた初音が、耕一に恐る恐る頼み込むと言った具合で、耕一達もなし崩しに参加も決めた。
最初は、初音と楓、耕一と千鶴が組むはずだった。
しかし、初音と楓だけでは心配だという意見を梓が出した。
梓は、初音と楓のどちらかを一緒に連れて行きたかったようだ。
だが、かおりがそれを許すハズもなく、すったもんだのあげく初音と楓は耕一と三人。千鶴は留守番となった。
千鶴が予想外に大人しく引き下がったのを不審に思っていた耕一も、初音と楓の様子でやっと納得が行った。
この二人の様子では、夜道で抱き合って震えているだけになり兼ねない。
「初音ちゃん。楓ちゃんも、大丈夫だって」
「で、でも耕一お兄ちゃん。この森の中で自殺した人がいるって、みんなが話してたよ」
「はっ、初音。どうしてそう言う事は、もっと早く教えてくれないの?!」
ううっと目尻に涙を溜め、初音が耕一を見上げると。眥(まなじり)を上げた楓は蒼褪めた顔で初音をキッと睨む。
「だっ、だって。話すの怖い………」
「いま聞いた方が怖い」
「ううっ……ごめんなさい…楓お姉ちゃん」
「まあまあ、楓ちゃん。何が出ても楓ちゃんと初音ちゃんは俺が守るから。ね、信用してよ」
今にも泣き出しそうな初音の頭を撫でてやりたいところだが、あいにく両腕を確り握られている耕一は、楓の視線から初音を隠すように首を捻って楓の顔を覗き込んで言う。
楓には睨んでいる意識はない。
しかし吊眼がちの楓の瞳で睨まれると、整い過ぎた顔立ちと相俟って耕一でも怖いのだ。
「耕一お兄ちゃん」
嬉しそうに耕一を見上げた初音は、目尻に浮いた涙を指で拭いにっこり微笑む。
「そうですね、平気ですよね。耕一さんが一緒ですもの……ごめんね…初音」
困った顔の耕一に覗き込まれて少し興奮の収まった楓は、少し安心したように微笑み泣き出しそうな初音の様子に気付いて決まり悪そうにぽつりと謝った。
「ううん。ごめんね、楓お姉ちゃんまで巻き込んで。でも、梓お姉ちゃん、本当に困ってたみたいだったから……」
「ううん。私も、梓姉さんにはまともでいて貰いたいし……」
プルプル首を振って臥し目がちの覗く初音に、ふるふる髪を揺らした楓は、眉を寄せて言う。
二人とも、梓がかおりに押し切られないか、心配で仕方がないのだ。
まかり間違っても、かおりを姉さんなどとは呼びたくはないらしい。
「まっ、ある意味幽霊より怖いからな。早く梓達に追い付かないとね」
「そう…でした」
「そうだよね。早く行こう」
歩きだそうとした初音は、ビクッと身体を震わしまた耕一にしがみ付いた。
「初音ちゃん、どうかしたの?」
「お兄ちゃん…いま、音がしなかった?」
足を上げた所でしがみ付かれ、危うくバランスを取り直した耕一が聞くと、初音は恐る恐る後ろを振り返って、背後の暗く沈んだ茂みにクリクリの瞳を落ち着き無く動かした。
「何も…聞こえなかったけど」
言いつつ耕一は、掴まれた腕で不自由しながら、手にしたライトで茂みを照らし出した。
丸い輪を描いた光に浮かび上がった薮は静まり返り、ピクリとも動いた気配はない。
「た、確かに聞こえたんだよ」
「…動物かな…タヌキとかイタチとかさ」
「そ、そうです…動物ですよ」
耕一の影に隠れた楓は首だけを覗かせ、ヒクヒク震える頬でぎこちない笑顔を作り、早くこの場を立ち去ろうと耕一のシャツを引っ張っていた。
「そう…かな」
「初音ちゃん、大丈夫だって。熊が出たって、熊ナベにでもしちゃうからさ」
「えっ! お兄ちゃん、クマさん食べちゃうの?」
「食べた事はないけど美味しいらしいよ。毛皮は敷物にしようか?」
「そんなのダメだよ、クマさんが可哀想だよ」
「耕一さんが相手じゃ、熊の方が災難ですね」
話している間に少し余裕を取り戻したのか、楓がクスリと笑った口元を拳で押えて言うと、初音も安心したように口元を緩めた。
「出たらの話、たまに出るんだろ?」
「もっと後か、冬眠から醒めた春先ですけど」
初音の意識が薮から逸れた所で、耕一と楓は話しながら先に足を進めた。
「あん、待ってよ。耕一お兄ちゃん、楓お姉ちゃん」
初音が掴んだ腕に引かれるように歩き出し、相槌を打ちながら遠ざかると、後には闇に沈んだ夜道だけが残った。
その暗闇を揺らし薮から忍び出た影が一つ、音も無く夜道に立つと、耕一達の消えた闇に鋭い視線を送った。
「……気づかれなかったようですね」
「はぁ。しかし………」
先に姿を現した影に応えながら、がさこそと騒がしい音を立てながら薮を掻き分け大きな影がもう一つ、夜道に姿を現す。
「はい? きゃ!」
長い髪を揺らし振り向いた顔を強烈なライトに照らし出され、小さな悲鳴を上げた千鶴は顔を両手で覆い蹲ると呻き声を洩らした。
「あっ! 申し訳ありません!」
頭に枝葉を付けた柴田は、その悲鳴に大慌てで手にしたライトを地面に向けた。
生徒達が使っている安物の懐中電灯と違い、集光すれば一万カンデラとも言われるマグライトの明かりだ。
拡散させてあるとはいえ、まともに照らされては闇夜でも見える鬼の眼には凶器に近い。
「すっ、すみません、大丈夫ですか?」
「ええ、少し目が眩んだだけですから」
おろおろと駆け寄り覗き込む柴田を手で制止して、千鶴は睫毛を震わせパチパチと瞬きを繰り返す。
本当は、とても大丈夫とは言えなかった。
闇に慣れた網膜に光が焼き付き、目蓋の裏に光の輪の残像が残り顳かみがきりきりと痛み涙が滲み出す。
「もう、大丈夫です」
千鶴が目元に滲んだ雫を指で拭い、少しばかり心許無い笑みを浮かべて立ち上がると。柴田は大袈裟な安堵の息を吐いた。
「それに早く追わないと、見失ってしまいます」
「はぁ…それですが…」
「はい?」
勢い込んでクルリと振り返り、耕一達の姿を飲み込んだ闇に眼を向けた千鶴は、柴田の気のない返事にキョトンとした顔を戻した。
「いえ、それ程急がなくても。道はこれ一本ですし、もう半ばまで来ていますから……」
柴田は歯切れが悪い。
生徒の半分が祠に着いてから、見回りを兼ね出発点に戻った柴田は、そわそわと落ち着き無く歩き回っていた千鶴と一緒に耕一達の後を追っていた。
こっそり耕一達の後を追おうとした千鶴は、監督に一人では危険だと止められたのだ。
監督にも見回りがてら千鶴のエスコートを頼まれ、柴田は必要以上に気負って引き受けた物の、千鶴のペースは競歩並みの早さで。柴田は半ば駆け足で千鶴の後を追う始末だった。
柴田の夜道を二人でゆっくり散歩。
あわよくば、怖がる千鶴に頼りになる所を見せようという思惑は、見事なまでに外れた。
しかも、立ち止まっていた耕一達に追い着いた所でライトを消し薮の中に押し込まれ。隣に感じる千鶴の体温と潜めた息遣いに煩悩を刺激され、柴田はあらん限りの理性を振り絞っていた。
かおりの囁いた計画。
食事に誘い花火で盛り上げるが見事なまでに崩された柴田としては、肝試しは親しくなる最後のチャンスなのだが。かおりの仄めかしたように、暗闇に紛れ押し倒すなど柴田に出来る訳も無い。
逆にいらぬ煩悩を刺激してくれたかおりに呪詛の言葉を吐いて、間近から仄かに漂う芳しい(かぐわしい)髪の良い香りから意識を逸らしていた。
まあ、その柴田の人の良さが、自分の命を救った訳だが。
「森を抜ければ墓地ですし、ゆっくり歩いてもすぐに追い付きますよ」
ほとんど諦めの境地でにこやかに柴田は言う。
いやというほど千鶴と耕一の仲を見せ付けられ、柴田も耕一は気に入らないながら、ここは男らしくキッパリ諦めようかと言う気になっていた。
最後に肝試しぐらい楽しんでも良いじゃないか。というのが本音である。
「はぁ…でも……」
対する千鶴も歯切れが悪い。
お姉さんぶって素直に待っていると言った手前、耕一や楓達に追って来たのを知られるとばつが悪い。
しかし初音や楓は耕一が一緒だから心配はないが。ああも二人がべったり耕一に張り付いていると、どうも心穏やかではいられない。
千鶴だけなら耕一達に気付かれずに追うのも可能なのだが。柴田が一緒では、どうしても気配に敏感な楓や初音に気付かれてしまう。
「あの様子でしたら、墓地に着く頃にはゆうゆうと追い付けますよ」
「……はぁ」
唇を指で押え道の先を睨むようにしていた千鶴は、しばらく考えて顔を上げた。
父兄として柴田の見回りに付き合って、耕一達と墓地で出くわすなら言訳は立つだろう。
「判りました。それじゃ、行きましょう」
そう考えを決め、千鶴は自分の思い付きに満足してにっこり微笑み歩き出した。
「あっ。ま、待って下さい」
口では判ったと言いながら、返事も待たずスタスタ足早に歩き出した千鶴を柴田は慌てて追い駆ける。
千鶴の後を追う柴田の姿は、どう見てもお供の小者で、柴田の望むような一時は訪れそうも無かった。
その頃、梓は。
「……か…かおり、考え直せ。あたし、そんな気は無いんだって」
「梓先輩……ひ…ひどい。あたしの事、嫌いなんですか?」
墓地まで後一歩と言う所で、かおりに薮の中に押し込まれた梓は、木立に逃げ場を奪われ必死にしがみ付くかおりを引き剥がそうと足掻いていた。
「…き、嫌いとか言うんじゃなくて……あたしも…あんたも……女じゃない………わか…るだろ?」
「愛に性別は関係ありません!」
かおりが走らす指の感触に息を荒げる梓の瞳を見上げキッパリ言い切ったかおりは、さわさわと指を梓の脇に走らせる。
「……かお…り……ダメ…だって」
「女同士だから、男より判りあえる事ってありますよね」
的確に性感を刺激するかおりの指先が梓の息を乱れさせ、赤く上気した顔を俯かせた梓の身体からは徐々に力が抜けていく。
「例えば……ここ」
「…ひっ!」
妖しい笑みを浮べたかおりの指先が脇腹から乳房の付け根を摩るように動くと、梓はぶるぶると身体を反応させ息を飲んだ。
「あ・ず・さ・せんぱい。止めて、いいんですか?」
「…ひ…人が…」
「大丈夫です。先輩が、声を上げなきゃ判りません」
「ダメ、耕一達が……ああっ!…ダメっ!」
梓が耕一の名を口にした途端、かおりはキッとした眼で梓を睨み上げ、不機嫌そうに唇を尖らせる。
「……どうして…あんな人を気にするんですか? お姉さんの、婚約者。ですよ」
本能とでも言うか、梓が耕一を好きなのに気付いてているかおりは、容赦のない現実を突き付ける。
ビクッと身体を震わした梓は、ゆるゆると顔を上げてかおりのうっすらとした微笑みを目に入れた。
「……だけど」
「先輩には、あたしがいるじゃないですか」
普段とは違う妖艶とも言える笑みを浮かべたかおりの表情に、梓はゆっくり頭を振る。
「違うよ、かおり。こんなの、なんか違うよ」
「違いません。先輩、これから、もっと幸せにして上げます」
「…い…イヤだぁぁぁぁぁ!!」
「きゃ!?」
最後の力を振り絞りかおりを突き飛ばした梓は、脱兎のごとく逃げ出した。
「梓先輩!?」
ばきばき騒々しい音を響かせる梓の通った後、ぽっかり森に開いた穴のような闇を見つめ、かおりは尻餅を着いたまま呼んだ。
しかし音は、森の奥へ奥へと遠ざかる。
「せんぱぁ〜い。待って、待って下さい!!」
一瞬の後、かおりは梓の開けた穴に飛び込んでいた。
その少し前。
「耕一さん」
「どうかした、楓ちゃん?」
ぴたりと足を止めた楓に呼ばれ、耕一は手にしたライトを楓に向けた。
相も変わらず耕一の腕を掴んだ楓は、瞳を閉じ考えるように唇に指を置いていた。
「初音、何か感じなかった?」
キョロキョロと辺りを見回していた初音は、楓に尋ねられ首を傾げた。
「えっ?……誰かに呼ばれたみたいな…気がしたんだけど」
初音はコックリ頷くと、また周囲を見回し出す。
「幽霊かもね。楓ちゃんと初音ちゃんが可愛いから、出て来たかな」
「いいえ。違います」
「うん、違うよね」
気の迷いだろうとおどけて見せた耕一は、二人に揃って強い調子で否定され、照れ臭そうに頭を掻いた。
両腕を掴まれているので、上体を傾げるような妙な格好だったが。
「もっと良く知ってる…ような…」
「でも、だとすると」
耕一に構わず、初音と楓は真剣な顔を見合わせ、顔色を変えた。
「まさか」
「でも、それしか」
「初音ちゃん、楓ちゃん。どっちでもいいからさ、俺にも判るように話してよ」
カクカク頷き合う二人の話が判らず焦れた耕一は、一応辺りをライトで照らしながら尋ねた。
「あの感じは親しい人です」
「って、言うと?」
「千鶴姉さんか、梓姉さん」
楓の言葉に耕一の口の端がピクリと反応した。
「あの馬鹿。あれ程言っといたのに」
「お兄ちゃん。早く行って上げないと、梓お姉ちゃんが……」
腕を引っ張る初音に頷き、耕一と楓は走り出した。
「楓ちゃん、どの辺りか判る?」
「あっちです。まだ遠くて、近くで無いと場所までは………耕一さん?」
「初音ちゃん、楓ちゃんも。ごめん」
「えっ? きゃ!」
「お、お兄ちゃん?!」
行き成り立ち止まった耕一に腰を抱えられ、初音と楓は眼を白黒させた。
「この方が早い。しっかり掴まって」
「う、うん」
「……はい」
コクンと頷いた初音と恥ずかしそうに返事を返した楓が確り腕を回し抱き付くのを確認して、耕一は鬼の力で楓の示した森の中へ跳躍した。
「あら?」
「どうしました?」
不意に足を止め空を見上げて首を傾げた千鶴に追い付いた柴田は、一緒になって空を見上げた。
耕一の鬼を感じ緊張した千鶴だったが、鬼は一瞬で消えた。
「いいえ。なんでもありません」
柴田に愛想笑いで首を横に振り、千鶴はスタスタと歩き出した。
「待って下さい。一人で行くと危ないですよ」
またも置いてきぼりを食らいそうになった柴田は、慌てて千鶴を追い駆け、隣に並ぶと千鶴の足元をライトで照らし出す。
不思議な事だが昼間でも何も無くてもよく転ぶ千鶴が、今日は暗闇だというのに転ぶ事も無くスタスタと歩いている。
耕一達が見れば、首を傾げるだろう。
「すみません。妹達が気になって、気が急いてしまって」
「いいえ、お気持ちは判ります。ですが色々とおかしな噂もありますし、私から離れないで下さい」
ペースを緩めず軽く頭を下げた千鶴に、柴田は胸を張って頼りにして下さいと返す。
千鶴には柴田が邪魔でしかたがないのだが、知らないとは哀れな事だ。
「……おかしな…噂…ですか?」
「ええ。さっき妹さんが話してらしたでしょう?」
やっと話の糸口を見つけた柴田は、怖がらせようとしていると思われないか心配しながら話を続けた。
「良くある話ですよ。去年ですか、この森で自殺した女性がいまして。それ以来、出るそうです」
「……出る?……なにが、です」
心持ち蒼褪めた顔で足を緩めた千鶴に聞き返され、柴田はおやっと思った。
平気で闇深い森中を先に歩いていくので、てっきり千鶴は幽霊や怪談を信じないタイプだと思っていたのだ。
「幽霊ですけど」
「いっ、イヤですわ。ゆっ、幽霊だなんて」
千鶴はビクッと身を震わすと、ぎこちなくなった笑みを正面に向け早足で歩き出す。
「私もそう思います。ですが最近は物騒ですし、女性一人では、この森は危険ですから」
「ええっ、そうですね!」
上擦った声で返した千鶴は、正面を向いた顔を向けようともしない。
柴田はやっぱり不味い話題だったな。と、ぼりぼり頭を掻いてシュンと項垂れた。
そんな柴田に構っている余裕が、千鶴には無かった。
千鶴も初音や楓同様、幽霊が苦手なのだ。
耕一達の事に気を取られすっかり忘れていたのに、柴田の話のお蔭で思い出した途端、暗闇に心細さを覚えていた。
今度足が早まったのは、恐怖心から耕一達に追い付きたい一心だった。
泣き出したいのを堪え、千鶴は走り出したい気持ちを抑えて一心に目の前の地面だけを見つめ足を速めた。
「姉さんを、変な道に引き込まないで」
背中に梓を庇い、楓の凛とした声が闇を裂いた。
その楓の後ろでは、突然舞い降りた耕一達に息も切れ切れに泣き付いた梓が、初音に慰められている。
耕一達が見つけた時には、木立をなぎ倒し逃げ回った梓は、かおりに押し倒される寸前だった。
梓に盾にされた耕一が何か言う前に、楓はすっくとかおりの前に立ちはだかり、冷たい視線でかおりを射竦めていた。
「なにが変な道よ。愛があれば、タブーなんて無いの!」
後一歩まで梓を追い詰めた所で邪魔をされたかおりは、楓の氷点下の氷を思わす瞳に臆せず、半眼に閉じた眼で睨み返しブスッと言い放つ。
「無理強いするのが、あなたの愛ですか?」
「先輩は嫌がってなんか無い!」
かおりの答えに、楓はチラリと冷たい視線を梓に送る。その視線の冷たさは、梓だけでなく耕一や初音までを凍り付かせるのに充分だった。
「…梓姉さん」
「……い、いや……あたし………」
真っ赤に染まった顔を上げられずに身を縮めたまま、梓はもごもごと口篭もる。
「姉さん!」
「いぅ。あっ、あたし…ノーマルだよ」
楓の一喝に怯えたように初音の腕にすがり、梓は楓の視線から逃れようと首を振る。
「だ。そうです」
「脅してるんじゃない! 先輩の妹だからって、私達の愛を邪魔をしないでっ!」
かおりの叫びに、楓は薄い冷笑のみを持って応えた。
その瞳は愛情と欲望の区別も付かないかおりを、冷淡に糾弾する蔑みと微かな哀れみをも浮べていた。
「な、なによ。その眼は?」
楓はなにも言わない。
ただ冷たい感情を感じさせない瞳で、かおりを見つめる。
「うっ…せ、せんぱい?」
楓の視線に寒気を覚えたかおりは、梓の助けを求めるように呼ぶ。
だが梓は、何も応えない。
否、応えられなかった。
これほど冷徹な瞳の妹を見たのは、一緒に育った梓にしても初めてだった。
「せっ、せんぱい? 梓先輩?」
何も応えない梓を覗くように楓の背を伺い、かおりは不安そうに二度三度と梓を呼ぶ。
応えない梓に落ち着きを無くしたかおりに、楓の冷たい瞳に浮かんだ哀れむ光が強くなる。
「な、なによ?」
微かな瞳の変化に反応したかおりは、蔑むような眼に落ち着きなく問う。
だが何も応えず、楓はかおりにくるりと背を向けた。
「行きましょう」
もう楓は、かおりを相手にすらしない。
「……楓…お姉ちゃん」
「なに?」
「……あの…可哀想…すぎない?」
こわごわと言った風に楓に声を掛けた初音は、温かみを取り戻した楓の瞳に安心したように言った。
初音の心配そうな瞳は、俯き唇を噛み締めて拳を振るわすかおりを映していた。
「…愛情の押し付けだもの」
「そう……だけど」
「初音ちゃん」
ぽんと頭に手を置かれた初音が見上げると、耕一が軽く首を横に振った。
「お兄ちゃん?」
「結局は、梓とかおりちゃんの問題だよ」
「……そう…だね」
初音は眉を寄せ困った顔で耕一を見上げ迷いながらもコクンと頷き、泣きそうな顔でぺたんと地面に座り込んでいる梓を心配そうに伺った。
「梓お姉ちゃん、大丈夫かな」
「すぐ復活するさ」
初音を安心させようと、耕一は軽い調子で言った。
「初音、ジュース持ってたよね?」
「う、うん」
楓にポツンと尋ねられた初音はコックリ頷くと、腕に下げた手提げ袋をごそごそ探り缶ジュースを取り出した。
肝試しの順番待ちにビールを飲んでいた耕一が、酔い醒めに喉が乾いたら出そうと思い初音が気を効かして持って来た物だ。
「二本頂戴」
「う、うん」
渡された缶ジュースを見ながら薄く微笑んだ楓を訝しげに見ながら、初音はもう一本缶ジュースを手渡す。
「楓ちゃん、どうするの?」
缶ジュースのプルを開け何事かやっている楓に、耕一は嫌な予感を覚えて尋ねた。
「聞きたいですか?」
表情一つ変えずに聞き返した楓の影になった口元が、うっすらと笑ったように耕一には思えた。
「い、いや。お、俺、外してるわ。居ない方がいい………」
思わず本能的な恐怖を覚えて後退った耕一は、シャツの端を引っ張られて逃げ出そうとした足を止めた。
「……初音ちゃん」
「………」
シャツの端を握り締め心細そうにここに居て、と眼で訴える初音の瞳に耕一はガックリ身体の力を抜いた。
項垂れた梓と、そら恐ろしい程冷え冷えとした楓。その上、いまは唇を噛み締め項垂れているとは言え、かおりまで一緒なのだ。
まともな状態でこの場にいるのは、初音と耕一だけだ。
耕一が居なくなったら、初音にはどうしたらいいのか判らなかった。
「判った、居るよ」
言いつつ耕一が頭をくりんと撫でると、初音はほっと安心した大きな息を吐いて胸を押えた。
「梓姉さん、コレでも飲んで落ち着いて」
「……うん…ごめん」
眼を逸らして楓からジュースを受け取った梓は、ごくごく喉を鳴らして飲み干すと、大仰な溜息ともつかない息を吐き出した。
「こっちは、かおりさんに」
「えっ?」
「姉さんが勧めれば、かおりさんも飲む」
微かな笑みを浮かべ缶ジュースを差し出す楓に、梓はゴクリと喉を鳴らし唾を飲み込んだ。
「……ま…まさか」
「害になるものじゃない。信用して、姉妹でしょ?」
「…あ、ああ」
膝の震えるような楓の笑みに、梓は操られたようにカクンと頷く。
「じゃあ、私達は外すけど。姉さん……」
「………」
きっと一瞬梓を睨んだ楓は、ふっと目元を和ませ。梓は途切れた言葉に吸い寄せられるように眼を上げた。
「お願いだから、流されないでね」
二人にするとまた同じ事になるのではないか不安そうに見る楓に念を押された梓は、心許無げに視線を逸らした。
「……うん」
僅かに考え梓が頷くのを確認した楓は、初音と耕一の元に戻った。
「楓お姉ちゃん……その…大丈夫なの?」
がさがさ薮を掻き分ける耕の後に続き歩き出した初音が、後ろから付いてくる楓を振り返りつつ聞きにくそうに尋ねた。
「大丈夫だと思うけど。梓姉さん、人がいいから……」
「ううん。その……」
「なに?」
「ジュース…だけど。なにを……入れたの?」
聞いていいのかな。と言う感じで初音は尋ねる。
「眠くなるお薬」
「……楓…お姉ちゃん」
ヒクっと喉を鳴らした初音は、驚いた様に振り返り楓をまじまじと見つめる。
「どっちにしろ一時凌ぎかな?」
「はい…姉さんが態度をハッキリさせないと……」
薮漕ぎを終え初音と楓が小道に出るのを手伝いながら、耕一は溜息混じりに言う。
「初音ちゃん、心配しなくても平気だよ」
「でも、耕一お兄ちゃん」
「平気だって。楓ちゃんが無茶な薬の使い方する筈が無いよ」
不安そうな初音を安心させようと、耕一は初音の肩を軽くぽんぽんと叩きながらにっこり笑って見せ。
「…うん」
耕一の態度と笑顔に少しは安心したのか初音はまだ不安そうながらもオズオズと頷き、出て来た薮を心配そうに見つめていた。
「さてと、どうするかな」
「待っていた方がいいかと……えっ!」
耕一に答え様とした楓は、ビクッと身を震わせ首を巡らした。
そちらから女性の短い悲鳴のような声が聞こえた。
「耕一さん!」
「お兄ちゃん!」
楓と初音が言うより早く、耕一は駆け出していた。
薮ではなく、墓地の方角へ。
「お姉ちゃん!?」
「初音は梓姉さんを呼んで来て、私は耕一さんを追う」
「うん!」
てきぱきと初音に指示すると、楓は耕一を追って走り出し。初音は、その小さな身体には少し荷が重い薮を掻き分け始めた。
ものの数秒で墓地の中に駆け込んだ耕一は、いつの間にか月に雲が被さり、仄かな星明かりに浮かぶ薄暗い墓地の中で、遠目にもぼんやりと明るい光を放っている場所を目指していた。
「千鶴さん!」
まさかと思った耕一だったが、悲鳴の主は出発点で待っているはずの千鶴だった。
ごつい男に抱き付かれているように見えた耕一は、痴漢かと思い一気に駆け寄って唖然と足を止めた。
「ち、千鶴さん?」
抱き付いているのはどう見ても千鶴の方。と言うより、きゃあきゃあ悲鳴を上げる千鶴に抱き締められた男は、人形のようにぐったりした身体を振り回されている。
「千鶴さん!」
「あっ?…こ、耕一さん?」
一瞬唖然とした耕一がハッと気付いて強い声で呼び掛けると、千鶴はボロ屑の様な男を放り出し眼に涙を浮べ駆け寄って来る。
「うぅ耕一さん! ひっ、火が…女の人…自殺で…幽霊が…白くってぇ…うぅ…」
しゃくり上げながら耕一に飛び付いた千鶴は、えぐえぐしゃくり上げながら訳の判らない事を言う。
「千鶴さん、落ち着いて。もう大丈夫だからさ」
訳が判らないながらも、耕一は千鶴を落ち着かそうと抱き締めた手で背中を摩り、もう片手で子供をあやす様に頭を撫でる。
「耕一さん!? …千鶴…姉さん?? ……一体??」
やっと追い付いた楓は、耕一にしがみ付き子供のように泣きじゃくる千鶴を呆気に取られたように見ると、顔中に困惑と書いて耕一を見上げた。
「それが、俺にも良く……」
聞かれても千鶴はしゃくり上げるだけで、耕一にもさっぱりだ。
「悪いけど楓ちゃん。そっちの人の様子見てくれるかな」
「……はい?」
千鶴にしがみ付かれて手を離せない耕一は、ボロ雑巾のように地面に転がる男を顎で示した。
恐る恐る男に近付いた楓は、側に落ちていたマグライトを拾いざっと調べて耕一に顔を向けた。
「……気絶…してるだけ…見たいです」
「痴漢…かな?」
「柴田先生……ですけど」
首を傾げながらありそうな可能性を口にした耕一に、楓は首を傾げて気持ち悪そうに返した。
「どうしたの?」
「気絶してるのに…顔が……」
不気味そうに眉をしかめた楓を耕一が見返すと、細い両肩を自分の両手で抱き締めた楓は、心底イヤそうにぶるっと身震いして言を継いだ。
「……笑ってるんです」
「……そりゃ、不気味だ」
想像しただけで気持ち悪くなりそうで、耕一も眉を潜めた。
「暴漢にでも襲われたんでしょうか?」
「……違う…と思う」
不安そうに周囲に建ち並ぶ墓石をライトで照らす楓に、耕一は頬を引きつらせて言う。
耕一には大体の事情が飲み込めた。
柴田が気絶したのは千鶴に抱き付かれたせいだ。
何があったかは判らないが、我を忘れた千鶴に抱き付かれれば気絶もする。
千鶴に抱き付かれた柴田に同情する気は、耕一にはさらさらない。
しかし余程鍛えているのだろう、良く肋骨が折れなかったものだ。と耕一は妙な感心をした。
「千鶴さん、落ち着いた? もう大丈夫だからね」
「あっ…はい……すみません」
千鶴が少し落ち着いて来たのを見計らって、耕一がゆっくり諭す様に声を掛けると。千鶴はうっすら涙に濡れた瞳を上げ恥ずかしそうに頬を赤く染め眼を落とした。
「千鶴お姉ちゃん!?」
「あ、初音?」
たとたと走って来た初音の驚いた声に千鶴は耕一からパッと離れると目尻の涙を指で拭い、ぎこちな無い恥ずかしそうな笑顔を作った。
「初音ちゃん、梓は? 一人で来たの?」
「うん。かおりお姉ちゃんが寝ちゃったから、梓お姉ちゃんおぶって来るって」
苦笑いで耕一に応え、初音は両の拳を胸の前で握り心配そうに千鶴を見上げた。
「千鶴お姉ちゃん、大丈夫だった?」
「ええ、大丈夫。ごめんね、心配させて」
「ううん。そんなの良いけど、何があったの?」
「あっ、あのね。その、火の玉がゆらゆらって……ほっ、ホントですよ」
クスッと笑った耕一の笑いに反応して、千鶴は拗ねた様な上目遣いで見上げるとムキになって言い募る。
「白い影も見たんです! 自殺した女の人の幽霊が出るって初音も言ってたじゃないですか!」
「千鶴お姉ちゃん? ……どうして知ってるの?」
「えっ!?」
キョトンと首を傾げた初音の訝しげな声に、千鶴は耕一から初音に眼を戻した。
「わたし、千鶴お姉ちゃんに話してないよね?」
「…えっ? そ、そう?」
「……千鶴…姉さん」
詰問口調の訝しげな初音の問いに一歩後退った千鶴の額を、楓の冷え冷えとした声がつつっ一筋の冷や汗を滴らせる。
「そ、それより。先に出たあなた達が、どうして後から来るの?」
「後を付けてたのね」
キッと千鶴を睨んだ楓は、胡麻化そうとした千鶴に構わず決めつける。
「つ、付けるなんて。柴田先生の見回りのお手伝いよ。父兄として、そう…その、義務よ義務!」
もう千鶴は幽霊そっちのけで、グルッと初音と楓を見回し苦しい言訳をする。
「こ、耕一さんは、信じてくれますよね?」
「………」
「耕一さぁん!」
ふっと呆れた息を吐いた耕一にまでやれやれと頭を掻かれ、千鶴は両手を胸の前で組んで情けなく泣きそうな顔をする。
「それより、柴田先生をどうするかな」
「耕一さぁん。なんとか言って下さいよぉ」
「……放って置く…訳には行きませんね」
ぼりぼり頭を掻いた耕一が柴田のにやけた顔を嫌そうに一瞥して溜息を吐くと、楓も困った表情で唇を指で押えた。
「先生…幽霊見て気絶しちゃったの?」
「楓ぇ〜、初音も無視しないでよぉ〜〜」
恐る恐る柴田を覗き込んだ初音は、気味悪そうに耕一にしがみ付き、怯えた眼で耕一を見上げた。
幽霊が怖いのか、柴田の顔に怯えたのかは判らないが。
「あっ、梓! あなた何してたのよ!」
「なにって……いろいろあって…千鶴姉は、何してんだよ?」
耕一や楓はおろか初音にまで無視され八つ当たり気味の千鶴の声に振り返った耕一達は、疲れ果てた顔色の梓が、かおりをおぶりぶらぶら歩いて来るのを眼に入れた。
「おぉ〜い、梓。コレ、どうしよう?」
「へっ? 監督じゃない」
呼ばれて耕一の指差す先に視線を落した梓は、もう驚くのも嫌そうに倒れた柴田を見て、あからさまに顔をしかめる。
「耕一……」
「俺じゃない。良く顔を見てみろ」
耕一がやったと決めつけた梓の非難の篭もった溜息混じりの声に、耕一は軽く首を振って柴田の顔をライトで照らし出した。
「…なんだ?…不気味だな、笑ってる…」
「…あのぉ〜…耕一さん?」
「幸せそうだから良いだろ」
愛想笑いを浮べ横から覗き込む千鶴を無視して、耕一はふっ〜と息を吐いてわざとらしく夜空を見上げる。
「えっと。耕一さん、怒ってませんよね?」
「おい、耕一?」
「どうする梓? 俺、男おぶるのヤダしな。俺がかおりちゃんおぶるから、お前、コレおぶるか?」
珍しく千鶴を無視する耕一を訝しげ伺う梓に、耕一は柴田を指差しつつ言う。
「耕一さん、耕一さんってば」
「あたしもヤダよ。それより耕一……」
「じゃあ、生徒に引き取りに越させるか」
腕を引っ張る千鶴に知らん顔の耕一に遮られ、梓は初音と楓を恐る恐る伺う。
楓は素知らぬ顔で眼を逸らし、両手を身体の後ろで組んだ初音は困った顔で肩を竦めて苦笑いする。
「まだ祠に何人かいるだろ」
「耕一さん、ごめんなさい。謝りますから、なんとか言ってくださいよぉ」
「初音ちゃん、楓ちゃん。行こう」
腕を盛んに引っ張る千鶴に構わず、耕一は初音と楓の頭にぽんと手を置き歩き出す。
「えぇっ! ホントに怒ってるんですかぁ?」
「おいって、耕一いいのか?」
徹底的に無視され半泣きで立ち竦む千鶴と、耕一と一緒に歩き出した初音と楓をキョロキョロ見回す梓を、耕一は足を止めず首だけ捻って見る。
「梓、来ないなら置いてくぞ」
「あっ! あ、い、行くって。待ってよ」
かおりをおぶり直した梓は、慌てて耕一達を追い駆けた。
「え、えっ!?」
立ち竦む間に一人残された千鶴はおろおろ辺りを見回し、さぁっと顔色が青白くなった。
「耕一さぁ〜ん! 置いてっちゃヤですぅ!」
暗い墓地に千鶴の涙声と足音がパタパタと響き、後には大の字に横たわる柴田の幸せそうな顔を、雲の切れ間から明るい月の光が照らし出していた。