夏光 八


 ジリジリと肌を焼く陽射しを正面から受け止め、耕一は両手を伸ばし大きな欠伸をした。
 ビーチマットに寝そべった耕一の真上で、今日も真夏の太陽がサングラス越しでも眼が痛くなるような光を放っている。

「今日は静かですね」
「うん…所でさ……」

 サングラスをずり下げながら、耕一は傍らでビーチパラソルの陰に座る千鶴に視線を移した。

「はい?」
「水着だけど…何着、持って来たの?」

 聞いてもいいのかな。と言った躊躇いがちの耕一の質問に、千鶴は微かに眼を開き頬を赤らめる。
 今日の千鶴は、上半身右側半分がライトイエロー、左側はチャコール。下が同じチャコールのビキニのような上下がおへその辺りで繋がるワンピースになった水着を纏っている。

「えっと……三着…ですけど。変ですか?」
「ううん。ちょっとした、好奇心かな」

 ふ〜むと一声唸り、耕一は千鶴の水着を観察した。

 ビキニの上下が前で繋がっただけに見える水着は、昨日も泳いだとは思えない白い肌を申し訳程度に隠している。
 自分が見る分にはいいのだが、他の奴には勿体なくて見せたくないと言うのが耕一の本音だ。
 特に最近の女性水着全般、ハイレグ過ぎるよな。と耕一はおじさん臭く内心で呟いていた。

「こ、耕一さん…そんなに…ジッと見ないで…下さい」

 耕一の視線に真っ赤になった千鶴は、居心地悪そうにもじもじ両手を膝で揃え身体の前を隠そうとする。

「あっ? いや、楓ちゃんや初音ちゃんもだけど、千鶴さんも陽に焼けないなぁ〜と思ってさ」
「焼きたいんですけど。サンオイルを塗っても昔から赤くなるだけで、すぐに戻っちゃって」
「うん? どうかした?」

 少し拗ねたように見る千鶴の視線を感じて、訝しげに耕一は首を傾けた。

「小麦色の肌とか言いますし……」
「うん、いいね。陽に焼けた健康的な褐色ってね」

 耕一が意地悪く言うと、千鶴は頬を膨らます。

「梓なんか似合いそうだけど。あいつも焼けないよね」
「ええ!」

 ぷんとむくれた千鶴は、ついっと視線を逸らしてしまう。

「そう言えば梓の奴、遅いな。柴田先生、大丈夫だったのかな」
「……耕一さん」

 苦笑を洩らしながら言った耕一に恨めしそうな半眼に閉じた眼を戻した千鶴は、ふぅ〜っと溜息を洩らした。

「まだ、苛め足りないんですか?」
「苛めてない、苛めてない」
「嘘です。昨夜だって、私だけ置いて行っちゃったじゃないですか」
「千鶴さんが、お化けに弱いとは知らなかったな」
「わ、私にだって、怖い物はあります!」

 サングラスを掛け直した耕一を睨んで、千鶴は両の拳を握り締める。

「でもさ、夜の散歩とか好きだよね?」
「家の近くは別です。良く知ってますし……」

 益々赤く染まった頬で、千鶴は耕一を睨みながら顔を覗き込む。

「……耕一さん、何を見てるんです?」

 濃いサングラス越しに視線を感じて、千鶴は訝しげに尋ねた。
 覗き込んだ耕一の口元は、ニヤニヤ緩んでいた。

「うん。むくれた千鶴さんも、可愛いなって」
「も、もう」

 パッと顔を離した千鶴はむくれた声を出しながらも、少し嬉しそうな顔をしていた。

「……このくそ暑いのに昼間っから、なにいちゃついてんだよ」

 呆れた様な梓の声で耕一は眼を上にあげた。
 軽く両足を広げ腰に手を当てた梓が、耕一の瞳の中で逆さまになって見下ろしていた。

「よう梓。どうだった?」
「無事送り帰し……」

 耕一を見下ろし応えかけ、梓は赤くなった顔を引きつらせた。
 わざとではないが、耕一はきわどいハイレグの股間を見上げている。

「って。このっ!!」
「グオォ!」

 梓のケリでサングラスを吹っとばされた耕一は、頭を両手で抱えドタバタと砂浜を転げ回った。

「このスケベ! あんたは、どこを見上げてるどこを!?」

 寝そべっていて避けられずに横っ面にクリーヒットを食らい、のた打ち回る耕一を平然と見下ろし、首筋まで真っ赤に染めた梓は罵声を浴びせる。

「女の子を、下から見上げた罰だ!」
「こ、耕一さん! 大丈夫ですか!?」
「な、なんとか」

 慌てて耕一に手を伸ばし介抱した千鶴は、キッと梓を見上げる。

「あ・ず・さ。な・ん・て・こ・と・を・す・る・の」
「だ、だって耕一の奴」
「言訳は聞きません。昨夜も助けて貰っておいて」

 梓が昨夜肝試しを断れなかった腹いせと耕一を足蹴にされた怒りを上乗せして、二百パーセントアップの問答無用の冷気を放出する千鶴に睨まれ、蒼白になった梓の膝はがくがく震え出す。

「ああっ。わ、悪かった。あっ、あたしが全部悪い。な、だからそんなに怒らなくても」
「言訳は、聞かないと言ったはず」

 ゆらりと意思ある生き物のように靡く髪を波打たせ、沸き立つ陽炎のように立ち上がった千鶴の瞳は天上に浮かぶ太陽より赤く染る。

「ま、待って! 千鶴姉、後生だからっ!」

 逃げようにも足が竦んで動けない梓は、いやいやと首を振りながら両手を握り締めて懇願する。

「今日という今日は、徹底的に身体に刻み込んで上げる」

 梓の声も耳に入れず口元に笑みを浮かべ一歩踏み出した千鶴の足が、砂浜にずぶずぶ音を立てて吸い込まれる。

「たっ助けて! はっ、初音! 楓!」

 体重を支えられず膝から崩れ落ちた梓は、両腕でずりずり後退りながら必死の思いで妹達を呼んだ。



「……楓お姉ちゃん?」

 浅瀬で泳ぎの練習をしていた初音は海面から上げた顔で、浮輪に捕まりばた足をしている楓をそっと伺った。
 因みに、初音も昨日とは違うライトイエローに大きな白い花弁がワンポイントのワンピースを着ている。

「また梓姉さんね」

 異常な冷気に僅かに眉を潜め、楓は微かな溜息を吐いた。
 楓も昨日とは別の、パステルグリーンに黒いラインの入ったワンピースを着ている。

「放って置こう」
「でも、いいの?」
「耕一さんが一緒だもの、心配ない」

 ばしゃばしゃと昨日より早くなった動きで浮輪を押しながら、楓は初音に顔を向ける。

「それより初音、練習しよ」
「…う…ん…そうだけど」

 不安そうに身を捻って浜辺に視線を送った初音は、斜めに傾げた首で楓を伺う。

「今日も耕一さんに誉めてもらおうね」
「あっ! うん、そうだよね。頑張らなきゃ」

 真剣な表情で頷いた初音もあっさり頭を切り替え、再び水の中で眼を開ける練習に戻った。
 梓の危機を救う者は、もはや居ない。



「ごめなさい。あたしが悪う御座いました。これこの通り」

 正座し頭を砂浜に文字道り擦り付けた梓は、さっきから何度になるか忘れた台詞を繰り返した。
 もはや梓は恥を捨てた。
 プライドか命かの選択だ。

「なにか心が篭もってないのよね」

 胸の前で組んだ腕から伸ばした指を頬に当て、千鶴は不満そうに梓を見下ろして言う。

「うぅ。もう許してよ」
「もういいよ。千鶴さん」
「耕一さんがそう言われるなら……まぁ、いいわ」
「……けっ…なにがまあいいだよ……ヒステリーの…八つ当たり」

 恩着せがましく言う千鶴を上目で覗き、梓は口の中でボソボソ恨みがましく呟く。

「あ・ず・さ。なんですって?」

 千鶴の地獄耳に死角はない。

「ひっ! な、なにも、言ってません」

 梓はぶるぶる頭を振り、愛想笑いで揉み手までして見せる。

「そう? じゃあ後三十分ほど、正座してなさいね」
「いいっ!」
「い・や・な・の?」
「い、いえ。喜んで」

 キッと強くなった視線に引きつった愛想笑いを何とか維持しつつ、梓はほっと息を吐いた。

「まだ少し赤いですね」
「痛みは引いたから、平気」

 ちょこんとビーチパラソルの元で耕一の隣に座り直した千鶴は、クーラーボックスで冷やした缶ジュースを氷代わりタオルに巻き、何事もなかったように耕一の赤くなった頬に当てる。

「ふぅ〜ん、梓も三着か?」

 赤くなった頬にじんわり染み込む冷たい感触に微かに身震いした耕一は、梓に眼を向けた。

「さん…なに?」
「水着。昨日のビキニとスイムスーツに、今日のだろ?」

 かんかん照りの陽射しに曝され正座させられた梓は、ちょっと首を傾げてから、ああっと頷いた。
 今日の梓は、千鶴とは逆におへその辺りを縦長の楕円に切り取った濃いオレンジに黒の縁取りのワンピースを着ている。

「普通だろ? 陽焼け用に一着、ホンちゃんと換えの水着でさ」
「そうなのか? じゃあ、ビキニは陽焼け用か?」
「ああ。ほら水着の痕とか残ると不様じゃん」

 当然そうに言う梓に頷く千鶴を見て、耕一は考えてるんだな。と感心した。
 実は千鶴など、昨夜着れなかった夕食用のサマードレスまで新調して来ているのだ。
 千鶴は言うに及ばず、初音や楓、梓も海水浴が決まった途端、今年最新の水着を買いに走った口だ。

「でも、ビキニだって痕が残るだろ?」
「うつ伏せになって、ストラップはず……ばか…」

 応えてから顔を真っ赤に染めた梓は、恥ずかしそうに俯いてしまう。

「背中はそれでいいけどさ。前はどうすんだ?」

 これ以上は不味いとは思いつつ、耕一は梓をからかうように尋ね。

「だから! …その…ノーストラップ…とか……水着…小さい…か…ら」

 両手の指をもじもじ弄る梓の語尾は、どんどん小さくなる。

「……耕一さん」
「ハハッ、ごめん」

 千鶴にも赤い頬で横からジトッとした眼で睨まれ、耕一は頭を掻いて笑って胡麻化す。

「千鶴さん、もういいよ」
「本当に大丈夫ですか? 痛みません?」

 頬に当てたタオルをそっと外す耕一の顔を、千鶴は心配そうに覗き込む。
 少し赤くなっているが、痣になる程では無いのを確認して千鶴はほっと息を吐いた。

「……あれぐらいで…オーバーな」
「なんですって?」

 ぶう垂れた梓の呟きに反応した千鶴は、見事なタイミングで剣呑な視線を向け。
 ぶるぶる頭を振った梓は背筋を伸ばし正座し直すと、両膝に手を置いて項垂れて見せる。

「まったく男の人の顔を蹴るなんて、どうしてこうも乱暴に育ったのかしら?」
「…けっ!…昨夜は監督絞め殺すトコだったクセに……」
「反省が足りないみたいね」

 舌打ちした梓の呟きにムッとした顔をした千鶴は、ゆるりと長い髪を片手で後ろに払い。にっこりと究めて恐ろしい笑みを浮かべる。

「ああ。そう言えばさ、さっきの続き。柴田先生の様子はどうだった?」

 放って置くといつまでも続きそうな堂々廻りに、耕一は軽く首を振って梓を助けることにした。

「あっ!うん。良く覚えてないってさ」

 千鶴を遮るように尋ねた耕一に、梓は天の助けとばかり顔を突き出して応える。

「まあ、覚えてても言えないだろうけどね。千鶴姉に、抱き付かれて、気絶した。なんてな」

 厭らしい視線を千鶴に送った梓は、わざとらしく千鶴のした事を強調する。
 千鶴はなにも言わずに視線をぷいっと逸らす。
 その頬は気不味さと恥ずかしさで桜色の染まっていた。

「そうそう。あれ、千鶴姉が見たって言う幽霊さ」
「うん」

 千鶴の視線が逸れたのに気を良くした梓は、ププッと吹き出しつつ耕一に身を乗り出す。

「うちの後輩共らしいんだ」
「えぇ!?」
「ありそうな話だな」

 ぱちくり目蓋を瞬かせ振り返った千鶴に、梓は含み笑いで小馬鹿にしたような眼を向ける。

「あんまりあたし達が遅いんで、暇持て余した奴が脅かしてやれってさ。ポケットティッシュと針金で即席の火の玉作ったらしいんだ」
「でっ、でも。白い人影が……」
「シャツだろ? あたしとかおりのつもりだったのに。千鶴姉があんまり騒いだんで、関係ないアベックだと思って、ヤバイってんで逃げ出したらしいんだな」

 逃げる生徒のシャツを見間違えたんだ。と決めつけられ、千鶴はしおしおと小さくなる。

「驚いたのはお互い様だよな。まさかさ、大の大人が、我を忘れて大騒ぎするとは思わないよな。ああ、見っともないったらないよ」

 さらに追い打ちを掛けられても、返す言葉がない千鶴は更に両肩を竦め、恥ずかしそうに小さくなって行く。

「まあ、千鶴さん。そんなに気にしなくても、良くある学生の悪ふざけだし」
「……はぁ…すみません」

 慰めるように肩に手を置く耕一に、千鶴は小さくなったまましょんぼり謝る。

「それで連中、大人しく柴田先生引き摺って帰ったのか」
「苦労してたよな。ま、自業自得だけどな」
「それにしても頑丈だよな。あの先生」
「そりゃな、身体鍛えるのが趣味の筋肉マンだからね」

 ハハッと笑った梓は、軽く閉じた眼で耕一を見る。

「それ言うなら、当然だけど耕一の方が頑丈だよな」
「まあ、慣れだな。うん」
「……二人とも…どういう意味です」

 少し調子に乗りすぎた耕一は、寒気を覚えてぶるっと身震いした。
 隣で小さくなっていた千鶴が上目遣いに細めた眼を上げ、頬を膨らませ睨んでいる。

「い、意味なんてないよ。な、梓」
「あ、あたしに振るな!」

 頬をぴくぴく引きつらせた耕一に顔を覗き込まれ、梓は巻き沿いはごめんだとブンブン首を横に振る。

「耕一さんまで、そんな風に思ってたなんて酷いです」
「い、いや。言葉のアヤで……あっ! 初音ちゃん、楓ちゃん!」

 むくれた千鶴に詰め寄られた耕一は、千鶴の肩越しに海から上がって来た初音と楓を見つけ、天の助けとばかり声を張り上げ両手を大袈裟に振った。
 嬉しそうにたとたと駆けて来た初音は、両拳を胸の前で揃え腰を屈めて耕一の顔を覗き込むと、にっこり地に舞い降りた天使の笑顔で微笑む。

「耕一お兄ちゃん! わたし水の中で眼を開けられるようになったよ」
「へぇ〜、初音ちゃん頑張ったんだ」

 ぷぅっと頬を膨らした千鶴も、初音の嬉しそうな様子になにも言えず上目遣いに耕一を睨みながら黙り込んでしまう。

「耕一さん。あの…私も少し…ですけど…早くなったと思うんです」
「うん。楓ちゃんも、朝から頑張ってたもんね」
「耕一さんの教え方がいいからです」

 心許無げに言った楓は、耕一の言葉にもじもじしながら赤い頬でにっこりと微笑みを浮べた。

「偉くタイミングがいいじゃないか。あたしの時は来なかったクセに」
「私だって、一生懸命教えたのに」

 姉二人は、妹二人の笑顔の影でぶちぶちと文句を零していたりする。

「じゃあ一休みしたら、昨日の続きをしようか?」
「うん」
「はい」

 ビーチマットの上にちょこんと座り嬉しそうに頷く初音と楓の影で、梓は砂の上で直に正座。
 千鶴はと言うと。

「…うぅ、耕一さんたら…初音や楓ばっかり構って」

 砂に指でのの字を書いて、いじけている。

「千鶴お姉ちゃん、まだ気にしてるの?」

 初音は千鶴の様子を、まだ昨夜の大騒ぎを気にしていると勘違いして心配そうに笑顔を曇らせる。

「初音、違うって。昨夜の幽霊でも何でも無いんだよ。うちの部員の悪ふざけさ」
「なんだぁ、そうだったの」

 梓の説明に初音は、安心したようにほっと胸を撫で下ろす。

「だから千鶴姉の奴、恥ずかしくって顔上げられないんだよ」
「梓ぁ、あなたは余計な事を……」
「それは恥ずかしいですね。あれだけ大騒ぎして……」

 楓は眉をしかめ千鶴に追い打ちを掛ける。
 楓本人に悪意がない分、梓を叱ろうとした千鶴の胸には余計ズキンと突き刺さる。

「でも楓お姉ちゃん。あの森って、本当に気味が悪かったもの仕方ないよ」
「……うん…嫌な感じだった」

 シュンと小さくなった千鶴を慰めるように言葉を継いだ初音は、唇を指で押え薄気味悪そうに表情を曇らせ、楓も真剣な顔で頷く。

「お墓の方は、そうでも無かったのにね」
「やっぱり初音ちゃんは鋭いな」
「耕一さんも、感じてたんですか?」

 感心した様に初音の頭に手を置きそっと撫でる耕一に、楓は首を横にコクンと倒して問い掛けた。

「うん。幽霊ってさ、いろんな人の意思の残像みたいな物らしいんだ」
「死んだ人のじゃないのか?」

 梓が茶々を入れると、耕一は首を横に振った。

「いいや。生き霊って言うだろ。生きてる人間の悪意の方が強いんだってさ」
「嫌だな、なんか生々しくってさ」
「平たく言うと幽霊って悪い気の集まりなんだってさ。だから気持ち悪く感じたり、気分が悪くなるような所には、出るんだってぇ〜〜」

 真夏の真っ昼間だというのに、耕一は声を震わしニタリと笑って怖がらそうとする。

「こ、耕一さん。止めて下さい」

 耕一の腕を掴み、千鶴は情けなく下がった目尻で頼み込む。

「本当だって。巫結花に付き合って幽霊退治するの見た事あるんだからさ」
「巫結花さん、そんな事までするんですか?」
「気が向けばね」

 掴まれた腕の千鶴の手を軽く叩き、耕一は片目を瞑って見せた。
 怖がらせたお蔭で、千鶴もいじけてばかりもいられなくなったようだ。

「気をしっかり持ってれば、大丈夫。怖がり過ぎてもいけないけど。頭っから馬鹿にして踏み荒すような事さえしなければね」
「本当ですか?」

 顔を覗き込む千鶴に頷き返し、耕一が千鶴の肩に軽くなぞるように手を置くと、千鶴は擽ったそうに肩を竦め小さな微笑を浮かべた。

「ねえ、梓お姉ちゃん。どうしてそんな所に座ってるの? 暑いでしょ、こっちに来ない」

 千鶴と耕一の様子を見ながらくふっと笑った初音は、楓が差し出したカップに注いだ麦茶を受け取り、ふと眼を上げて首を傾げた。
 梓はこの暑い盛りに焼けた砂の上で、いまだに正座している。

「うん。あたしも…そうしたいんだけど……」
「ああ、忘れていたわ。もういいわよ、梓」
「わっ!? …忘れ…」

 苦笑いで上目遣いの視線を千鶴に送った梓は、千鶴のどうでも良さそうな返事に絶句し、グッタリ肩を落とすと大きな溜息を吐き出した。
 忘れていたで、済ますな! と怒鳴りたい所を、梓は握った両の拳に力を込め何とか踏み留まる。
 焼けた砂が張り付いた足は痺れている上、かんかん照りの太陽が焼いた肩と背中はひりひりする。
 この上罰が増えては、いくら身体は頑強でも神経の方が持たない。

「姉さん」
「あんがと、楓」

 のそのそ四つん這いでパラソルの影に入った梓は、楓の差し出した冷たい麦茶を受け取り、喉を鳴らして一息で空ける。

「ふぅぅ〜生き返った」
「うわぁ。梓お姉ちゃん、真っ赤になってるよ」

 初音は眼をぱちくりさせ、梓の背中を見ていた。
 強い陽射しに焼かれた梓の肩から背中は、赤く染まっている。

「そんなに酷い?」
「ううん。火傷にはならないと思うけど」

 不安そうに首を捻って顔を向ける梓に少し大袈裟過ぎたかな。と思った初音はゆるゆる首を横に振って安心させた。

「でも、なにか塗っておいた方がいいよ」
「でもな、サンオイル塗って海に入る訳にもいかないしさ」
「梓、これを塗っておくと良いわよ。そのまま海に入っても平気だから」
「じゃあ梓お姉ちゃん。塗って上げるね」

 千鶴がバックから取り出した小瓶を受け取り、初音はコクンと頷くと梓に横になるように言った。

「紫外線予防? 千鶴お姉ちゃん、ちゃんと持って来てたんだ」
「えぇ、まあ」
「ははっ、小皺やシミが気になる歳だもんな」

 うつ伏せになった梓は、初音の柔らかい掌でひんやりとしたローションを伸ばして貰い、ついつい気が緩んでいつもの憎まれ口を叩き始める。
 緊張感の持続しない、なんとも得な性格である。だが、それが梓自身に禍の種を蒔いているのだが。

 梓はおやっと思った。
 いつもなら、失礼ね。等と返って来るはずなのだが、千鶴はなにも言い返さない。

「ま、いっか」

 熱く火照った肌を冷やす感触に気持ち良くなった梓は、腕に顎を乗せ目を閉じるとじんわりと染み込むローションの心地好さに身を委ねた。

「…初音…ちょっと擽ったい…」
「でも、気持ちいいでしょ」
「うん…!?」

 とろんとしていた梓は、初音と違う甘い声に恐る恐る首を捻り。

「……うわぁぁぁぁぁ!」

 砂を巻き上げ腹這いでザザザっと一気に三メートルは砂浜に身体の痕を刻んだ。

「あん、先輩。まだ塗り終わってないですよ」
「ななな、なんで、あんたがここにいる!?」

 にっこり微笑むかおりに指を突き付け、砂まみれになった梓はぶるぶる震えていた。

「もちろん愛する梓先輩の為です」
「み、みんなと帰ったはずじゃ?」
「駅で別れて来ましたぁ」

 悪びれた様子もなく問題ないですと応えるかおり。

「……迷惑」
「なによ。梓先輩が良ければ問題ないんでしょ」

 麦茶を口に運びながら知らん顔でポソッと洩らした楓を睨み、かおりは腰に手を当ててふふんと鼻で笑う。

「………」

 楓はもう相手にするのも馬鹿らしくなったのか、かおりを無視して麦茶を口に運んだ。

「初音っ! どうしてかおりが塗ってんだよぉ」
「うん…だって……」

 かおりから矛先を代えられた初音は、困った様にオズオズと知らん顔の千鶴に視線を送った。

「千鶴姉ぇ!」
「何事も経験よ、自分でなんとかすれば」
「千鶴姉、妹が可愛くないのかよぉ?」
「あら、可愛いわよ」

 年寄り扱いされた仕返しに感付いて睨む梓をチラッと一瞥し、わざとらしく初音の頭を撫でて見せる千鶴はにべもない。

「初音も楓も、誰かさんと違って憎まれ口は叩かないし素直だものね」
「初音、楓ぇ、なんとか言ってくれ」
「初音、楓も梓を甘やかしちゃダメよ」
「梓もそろそろ自分で何とかしないとな」

 千鶴と耕一が揃って言うと、楓と初音は顔を見合わせた。

「……梓お姉ちゃん、頑張ってね」
「…私…正常な梓姉さんが好き」

 なんとも温かい妹達の声援にガックリ肩を落とし、梓は項垂れた。
 千鶴だけなら兎も角、耕一にまで言われては初音も楓も助けてくれない。

「先輩、砂だらけですよ。シャワーでも浴びて、もう一度塗りましょう。全身むらなく塗らしていただきます」
「い、いい。寄るなぁぁぁぁ!」
「あん、待って下さいよ。梓せんぱぁ〜い!!」

 脱兎のごとく海の方に逃げ出した梓をかおりが追い駆ける。

「まあ、二人とも元気ね」
「……千鶴お姉ちゃん」

 薄く笑い口元を片手で隠した千鶴の横から、ぎこちない笑顔に冷や汗を滴らせた初音は腰を浮かせ耕一の隣にずりずりと後退る。

「あの調子じゃ、大学まで追い駆けて行きそうだな」
「……耕一お兄ちゃんまで」

 クスクス笑う耕一を見上げ、初音ははふぅ〜と溜息を吐く。

「初音ちゃん。心配しなくても、そのうち梓が自分で何とかするよ」
「そうだといいけど……」
「それより初音ちゃん、そろそろ泳ぎに行こうか?」

 ぽんと初音の頭に手を置いた耕一は、苦笑いを抑えた口元に笑みを浮かべる。

「うん」

 初音はパッと笑顔を輝かせ頷く。

「楓ちゃんはどうかな。疲れてない?」
「平気です」

 コクンと首を横に倒し、楓は微笑で応える。

「千鶴さんは、どうするの?」
「もちろん行きます」

 立ち上がって覗き込む耕一に応え、千鶴も耕一を見上げて微笑を浮かべ立ち上がる。

「耕一ぃぃぃ〜〜助けてよぉぉぉ〜〜」

 砂浜を逃げ回る梓の声が遠くから聞こえたが、誰も気にしない。

「さあて、思いっ切り楽しむか」
「うん、早く行こう」

 初音に腕を引かれた耕一は、まだまだ続きそうな強い陽射しの中、涼やかな笑みを浮かべる千鶴と楓を伴い海に向って歩き出した。

 抜けるような蒼天の元、碧い海が白い波飛沫に強い陽射しを煌めかせ、耕一達を誘うように眩しい光を跳ね返している。
 夏も盛りと輝く光の元、千鶴や楓、初音や耕一の波飛沫を煌めかせる楽しそうな声に混じり、梓の悲鳴とかおりの甘い呼び声がいつまでも浜辺に響いていた。

               完

七章

あとがき

目次