夏光 三
指に付いた果汁をつつっと舌で舐め取ると、口の中に濃厚な甘さが広がる。
「梓、お行儀が悪いわよ」
「いいじゃんか。家族だけなんだしさ」
うるさい千鶴にむくれた一瞥をくれ、梓は柔らかな桃の果肉にかぶりつく。
良く冷えた薄紅の果肉は芳醇な甘さを口一杯に広げ、口から溢れた果汁がつつっと腕を滴り落ちる。
「うぅ〜美味い。スイカもいいけど、桃もいいよな」
同じように桃にかぶりついた耕一が声を上げる。
瑞々しい果肉から溢れ出し指に滴る果汁を舐める耕一の様子をおかしそうにクスクス笑い、初音と楓も桃に手を伸ばした。
「もう、耕一さんったら」
「いいじゃないの。千鶴さんも食べたら? 桃は寿命を伸ばすって言われてるぐらいでさ。美容にもいいんだよ」
梓を叱ったばかりなのに指を舐める耕一に軽く息を吐いた千鶴がむくれて睨むと。耕一はからかうように首を傾げて千鶴の顔を覗き込む。
「えっ、本当ですか? じゃあ」
「歳だからな。誰かさんはあたし達より余分にビタミン取らないとなぁ」
嬉そうに桃に手を伸ばす千鶴を半眼に閉じた目で見て、梓は独り言のようにぼそっと呟く。
かおりに追い駆け回されている間に、千鶴に食らった一撃の効果は薄れてしまったようだ。
「楓お姉ちゃん、美味しいね」
「うん、甘くってさっぱりしてる」
ジトッとした眼で梓を睨む千鶴を遮るように初音が明るい声を上げ。楓は小さな齧り痕を残した桃を両手で支え、果汁の甘さに眼を細め幸せそうに応える。
「美冬の奴、木箱で送ってくれたからな。食べ切れるかな?」
「良く熟れてますね」
ほっと息を吐いた千鶴は桃の皮を丁寧に剥き出す。
完熟した桃は細い指に果汁を滴らせつつ、なんの抵抗もなくピンクの果肉をあらわにする。
「疲れた時は、甘いもんが最高だな」
「耕一お兄ちゃん」
丁寧に皮をむく千鶴の指先をなんとなく見つめ、耕一が大仰に息を吐くと。初音は耕一を少し申し訳なさそうな上目遣いに見上げた。
「どうしたの初音ちゃん?」
「うん。その。ごめんね、朝からバタバタさせちゃって」
「ごめんなさい、耕一さん」
ちょと恥ずかしそうに初音が言うと、楓も顔を臥せて申し訳なさそうに謝る。
朝から軟派学生の類を追い払ってくれた耕一に、二人ともせっかくの休日なのにと言う思いを持っていたようだ。
「はは、そんな事か。そんな意味じゃないんだよ。それにね、それだけ初音ちゃんと楓ちゃんが可愛いって事だもんな。独り占めにしてる代償だと思えば、お安いもんだよ」
明るく耕一が言うと、初音と楓は白い頬をぽっと桃と同じ色に染め恥ずかしそうに顔を臥せる。
「そうそ。美女四人が付き合ってやってんだ、文句なんて言えないよな。耕一には贅沢過ぎて、感謝してもらいたいぐらいだ」
ぬけぬけと自分まで入れ、梓はうんうん頷く。
「美女三人と野獣だろ?」
「野獣ってのは、あんただよな?」
「誰が野獣だ?」
「自覚がないのか?」
「耕一お兄ちゃん、梓お姉ちゃんも、せっかくのお休みなんだから」
ギチギチ歯を噛み鳴らしながら睨み合った二人は、しょうがないなぁと言う顔の初音に宥められ、ふんと顔を背けた。
「ねえ、梓お姉ちゃん」
「うん?」
「さっきの人達に花火に誘われたんだけど。梓お姉ちゃんはどうするの?」
「私も」
楓も初音の言葉に頷き、梓に眼を向ける。
「あいつら、いつの間に。油断も隙も無いな」
「私も誘われましたよ」
ちっと舌打ちした耕一をちらっと見て、千鶴はやっと皮を剥き終わった桃に口を付け得意そうに言う。
「千鶴さんにまで」
「までって、どういう意味です?」
「意味って。別に………」
「私が誘われちゃ、おかしいんですか?」
「だぁぁ! 千鶴姉、いちゃつくんなら後にしろよ!」
楽しそうに耕一を問い詰める千鶴を制止して、梓は初音に眼を戻す。
「で、初音と楓は何て応えたんだ。行くなんて言ってないよな?」
OBが顔を出さず、妹達だけ行かせる訳にも行かない梓は必死の形相で聞いた。
「うん。お姉ちゃん達と相談してからって言ったんだけど」
「梓姉さんが来るから、一緒にって」
顔を見合わせた初音と楓の答えで、梓は頭をかきむしった。
既に後輩全てに、梓が夜まで付き合うのが周知の事実として、かおりの根回しが行き渡っている。
面倒見が良く気っ風のいい梓は、後輩に人気がある。そうでなくても浮いた存在のかおりだ、梓が顔を出さないと嘘つき呼ばわりされるだろう。
「中々の策士だな。鶴来屋にスカウトするか?」
「見てる分には面白そうですね。退屈もしませんし」
「千鶴姉! 耕一に似てきたぞっ! 耕一もあたしで遊ぶなぁ!!」
きっと眼を上げ、梓はのほほんと楽しそうな二人を睨み付ける。
千鶴と耕一は完全にリラックスして、桃を頬張りながらさっきの仕返しと梓の不幸で遊んでいた。
「ねぇ、梓お姉ちゃん。それならみんなで行ったらどうかな」
「あっ?」
梓の剣幕に困ったように首を傾げた初音の提案に、梓は顔を上げた。
「肝試しがイヤなんでしょ? 花火だけして、みんなで帰って来ればいいんじゃないのかな」
「あっ、初音ぇ!」
「きゃ!」
梓にぎゅっと抱き締められ、初音は小さな悲鳴を上げ身を竦ませた。
「あ、梓お姉ちゃん?」
「あんた良い子だよなぁ。薄情な千鶴姉や耕一とは違ってさぁ」
「まっ、薄情だなんて失礼ね」
「まあまあ」
ぷんとむくれた千鶴と宥める耕一は無視して、梓は初音の頭を撫でながら頬を擦り寄せる。
「柏木、お前………」
少し情けなさそうな声に揃って顔を上げた柏木家一行は、驚き顔で肩を落とす柴田を見つけた。
「あら、先生。準備の方は宜しいんですか?」
「あ、はあ。いまボートを用意させてます」
営業スマイルで尋ねた千鶴に応え、柴田は眩しそうに眼を細める。
愛想が良すぎるから誤解する馬鹿がいるんだよなぁ。と耕一は溜息を吐く。
「珍しいですね。スイカじゃなく桃ですか?」
「あっ? ええ、頂き物なんですけど。宜しかったら、お一つどうぞ」
どうも等と言いつつ千鶴から桃を受け取り、芝田は眼を細め。皮をむくと果肉にかぶりつき美味そうに満足げな息を吐いて腕で口に付いた果汁を拭う。
桃のお礼に千鶴の笑顔に軽く頭を下げ、柴田は思い詰めた表情で梓に向き直った。
「柏木、妹が可愛いのは判る。しかしだ、妹と後輩は違うぞ。姉妹愛と恋愛は別だ」
「はぁ?」
「日吉は、俺が立派に更正させてみせる。お前も、本当の女の幸せを捜さんといかんぞ」
完璧に梓をズーレーと誤解した暑苦しい台詞に、梓だけでなく初音や楓、千鶴と耕一の眼も点になる。
「まずは身体を動かして余計な事は忘れろ、健全な肉体から作るんだ。すぐに準備出来るから、お前も来いよ」
言いたいだけ言うと、柴田はくるりと踵を返した。
「梓とかおりちゃんて、有名なんだな」
「うぁぁぁぁぁ〜、言うなぁぁぁ〜」
ぼそっと耕一が呟くと、茫然としていた梓は頭を抱えて号泣した。
初音と楓に慰められ、梓がグスグス涙を拭ったのは軽く五分以上経ってからだった。
その間、千鶴と耕一は軽い溜息を吐き、新たな桃を二人して分けあっていたりする。
「なんか、飛んでもない勘違い野郎だな」
「テレビの見すぎなんだよ。熱血青春物のビデオ、全巻持ってるって噂があるぐらいでさ」
「スポーツで健全ねぇ。警官とか暴力団って、体育会系が多いんだけどな」
「あらあら、耕一さん。こぼしてますよ」
呆れたように言う耕一は、まだ桃を齧っている。その隣で腕を伝った果汁をかいがいしくも千鶴が拭いているのが、なんとも見ている方がこそばゆい。
「耕一、どうする?」
鼻を啜り上げ、やっと気を取り直した梓が不貞腐れたように耕一に聞く。
「花火か?」
「初音と楓が来るんなら、耕一だって来るんだろ?」
「耕一お兄ちゃんも来るよね?」
「うん。花火はしたいしね」
「競泳の方だよ。次いでだから、便乗しようか?」
初音に愛想良く返す耕一に少し口を尖らせた梓は、約束しただろと首を傾げ。耕一はそうだったと梓を見返した。
「でも、高校生と一緒に泳ぐのか?」
「思いっ切り身体動かして忘れたいんだよ。別でも良いけどさ。コースも作ってあるらしいから、ちょうど良いだろ?」
「忘れたいってな。現実逃避ってんだぞ、それ」
「悪いかよ。かおりの奴、用意が終わったら手が空くからな。泳いでりゃ、くっついて来られないだろうしさ」
「なる程な。じゃあ、やるか?」
「よし、手加減なしな」
上げたお互いの手をぽんと打ち合わせ、耕一と梓は立ち上がった。
みんなでビーチに出てみると、海水浴場の耕一達がいた反対端の方で一キロほど沖に浮かんだブイまで一本のロープが張られ、二隻のゴムボートが配置されていた。
トライアスロンの選手だけに、安全への配慮は万全らしい。泳ぎ疲れて落後した生徒はボートが引き上げるのだろう。
中々本格的だなと、耕一達が感心していると。準備を監督していた柴田が片手を軽く上げ近寄ってくる。
「どうだ、やる気になったか?」
「ええ、まあ」
「俺も参加させてもらっていいですか?」
「歓迎しますよ。所で柏木、お姉さんは?」
苦い顔で頷く梓と耕一にニカッと笑って応え、柴田はぐるりと辺りを見回す。
言われて梓と耕一が背後を振り返ると、楓しかいない。
「あれ?」
「千鶴姉さんと初音なら、すぐ行くから先に行きなさいって」
耕一が首を傾げると、楓はコクンと首を倒して耕一を見上げた。
さらさらの黒髪が倒した首の動きに連れ光を跳ね返す。
強い陽射しの元、抜けるように白い肌理細かな肌と輝く黒髪が対比をなし、見るものに肌をより白く輝いて見せる。
日頃女の子と接する機会の少ない男子高の生徒に気にするなと言う方が無理だろう。蜜に群がる蟻のように、ぞろぞろと柴田の後ろに集まってくる。
耕一を恐れているのか、柴田より前に出ようとする生徒はいない。
一塊になって覗き込む男子高の生徒の後ろでは、梓の後輩達が不満そうにぶつぶつ何か言い合っていた。
楓の方は、男子校の生徒の視線に水着から覗く肌理細かな肌を赤く染め、耕一の背中に隠れてしまう。
ギンと耕一が視線に力を込め睨むと、男子高生はいっせいに眼を逸らす。
不思議な事だが、梓のナイスボディに眼を向ける男子高生は少ない。軽く上げた手を小さく振る後輩達とは逆に、なぜか男子高生の方は梓から視線を外らしていた。
「まあ。それじゃあ先にコースの説明を………こら! 日吉!」
「きゃあぁぁ〜、セクハラ教師! エッチ! スケベ! 梓先輩、助けてくださいぃ〜」
つつっと柴田の横をすり抜けようとしたかおりは、腕を掴まれじたばたと暴れ回る。
「何を言っとるか。お前は救護班だろ?! しっかり準備せんかっ!」
掴んだ腕の一振りでかおりを後方に投げ飛ばし、柴田は涼しい顔で怒鳴り付ける。
柴田は、かおりに容赦がなかった。
判る気はするが。
梓はほっと安堵の息を吐き、涙眼で不満を訴えるかおりに軽く手を振って準備に戻るように言う。
しぶしぶ梓に従うかおりに呆れた溜息を吐き、柴田はコース説明に戻った。
「さてと。あのブイまで約一、二キロ、行きは左側のコースを使う。ブイで折り返して右側のコースを戻って来る、全、約二、四キロな訳だが。無理はするな、ゆっくりでもいいから最後まで泳ぎ切るのが大切だ。どうしてもダメだと思ったら、手を上げて知らせろ。待機しているボートが拾ってくれる。その場で仰向けになって身体の力を抜き、波に浮かんでいれば大丈夫だ。慌てたり余計な力を入れると、身体は逆に沈むからな。それから、ブイの向こうは流れが速くなっている、間違ってもブイより沖には出るなよ。判ったか? 質問のあるものは?」
ぐるりと生徒を見回し、芝田は眉を潜めた。
「お前らどこを見てる! ちゃんと聞いてたのか!?」
生徒の視線が自分より後ろに向いているのに気づき、柴田は怒鳴りながら後ろを振り返り目元を緩めた。
耕一と梓も振り返り、大型のクーラーボックスを片手に下げた千鶴と、パラソルと丸めたシートを抱えた初音が砂浜を歩いてくるのを見つけ手伝いに向う。
「千鶴さん、初音ちゃんも。言ってくれたら俺が運んだのに」
「わたしは大丈夫だよ。耕一お兄ちゃんは、千鶴お姉ちゃんを手伝ってあげて」
にっこり微笑んで額の汗を拭く初音の仕草に、可愛いなどと、女子部員の声が上がる。
「初音、それあたしが持つよ。あんたにゃ大きいからさ。引きずってるだろ」
「うん。ごめんね、梓お姉ちゃん」
「じゃあ、千鶴さん。それは俺が持つよ」
「あっいえ。これぐらい平気ですから」
耕一に顔を向けた千鶴は輝かんばかりの特上の笑顔を見せ、ほぉ〜と見ていた高校生からいっせいに溜息が洩れる。
その溜息に、耕一の方は羨ましいだろうと言わんばかりに有頂天になっていたりする。
「あの、少しですけど皆さんで召し上がってください」
「あっ、これはどうも。申し訳ありません」
クーラーボックスを砂浜に降ろした千鶴が言うと。柴田は嬉しそうに近寄ってくる。
梓は初音から荷物を浮け取り、周りを一瞥し少し離れた場所にシートを広げパラソルを砂浜に刺す。
「楓お姉ちゃん、陽射しが強いから」
「うん、ありがとう初音」
赤いリボンの付いた麦わら帽子をかぶり、手にもう一つ麦わら帽子を持った初音はとことこ楓に歩み寄ると、手にした麦わら帽子とパーカーを楓に渡した。
愛らしい初音と素肌を隠す楓のツーショトに、今度は感嘆とも残念がっているとも取れる溜息が沸き上がる。
「お前ら、差し入れを頂いたぞ。お礼を言わんか」
「ありがとうございます!!」
柴田のかけ声でいっせいに頭を下げた部員の大声で、梓以外の四人は少し顔が引きつった。
体育会系の部というのは、大声と連帯が余程好きらしい。初音と楓などは眼を丸くして両手で耳を押えている。
「これは豪華ですね。こんなに頂いていいんですか?」
「頂き物で申し訳ないんですけど」
クーラーボックスを覗いた柴田の驚いた声に、千鶴は耕一をチラリと見て嬉そうに応えた。
大型のクーラーボックスの中には、ぎっしりと桃が詰め込まれていた。目一杯詰め込んでくる辺りが千鶴らしいと言えば言える。
「中国では、祝い事に桃は欠かせないらしんですよ。友達が送ってくれたんですが量が多くて。俺達だけじゃ食べ切れませんから、遠慮なさらずにどうぞ」
「中国では祝い事には桃なんですか? 鯛みたいなもんですかね。それでは遠慮なく。…あっ、なんのお祝いですか?」
思い出したように尋ねた柴田に、耕一はニヤリと笑った。
「俺達の婚約祝でして」
千鶴の腰に手を回した耕一の言葉に、柴田の額に汗が流れ頬がピクピク震える。
「こっ、婚約、ですか? でっ、でも指輪はないようですが?」
「泳いでいてなくしても困りますし」
嬉そうに頬を染め、耕一を見上げてうふふと笑う千鶴の微笑みが自分に向けられている事に、耕一は優越感と共に柴田に同情すらを感じた。
千鶴には、柴田がモーションを掛けていたのさえ伝わっていないらしい。同じ男としては余りに不憫と言える。
「はは、そ、そうでしたか。御婚約ですか。おめでとうございます」
乾いた声で言う柴田の背後では、女子部員の素敵とか、あたしも彼が欲しい。等と言う声が聞こえてくる。
「それでは、妹達が待っていますので」
「はぁ」
暗い顔の柴田とは正反対に、千鶴は幸せそうに耕一の腕を取ると長い黒髪を煌めかせて背中を向ける。
「監督。姉貴の相手は、耕一以外にゃ無理だって」
ショックを隠し切れない暗い顔で千鶴達を見送る柴田の肩を、梓は軽く叩いた。
「そりゃ、俺はしがない高校教師だしな」
「そう言うんじゃ、ないんだけどな」
情けなさそうに肩を落とす恩師が哀れで、梓は頬を指で掻きながら首を横に振る。
「地元一の名士だからな。しょせん高嶺の花だよな」
「監督、そのクーラーボックス持てば判るよ」
ふっと息を吐いた梓は、顎でクーラーボックスを示した。
「これを?」
「持って見ろって」
「うっ! なっ、なんだぁ?」
梓に促され、軽く持ち上げようとした柴田は眼を剥いた。
とにかくずっしり重い。
千鶴がその細腕で軽々運んでいたはずが。良く見ればクーラーボックスの底が砂浜に沈み込み深々と痕が残ってさえいる。
「なっ? それ冷蔵庫なんだ。バッテリー積んでんだけど、重すぎて車じゃないと運べないんだ。うちの旅館から持って来たんだけど軽く五キロはあるな。そんなもんにぎっしり詰め込んで、片手で軽々運んでんだよ。並の男に姉貴の相手は勤まらないって」
兎に角、嫉妬を焼くと見境がなくなるのだから、我が姉ながら始末に悪い。耕一じゃなかったら、とっくに全身の骨が砕けてるよなぁと梓は軽い溜息を吐く。
「ふふふっ」
「あっ?」
俯いてクーラーボックスを見つめていた柴田の不気味な笑い声に、梓は怪訝に思い眉を潜めた。
「凄い! 凄いぞ! あの細腕でこんなものを軽々と運ぶとは、余程鍛えているに違いない」
「お、おい。監督、大丈夫か? なに考えてんだ?」
遂に切れたと思った梓は、後じさりながら頬を引きつらせた。
「柏木、お前のお姉さんは凄いぞ。俺と組めば、トライアスロンでチャンピオンも目指せる。理想だ、俺の理想の女性だぁ!」
「んな事言ったって、もう婚約してんだしさ」
はぁ〜と呆れた息を吐き出し、恩師の相変わらずの運動馬鹿ぶりに、どうしてあたしの周りにはおかしなのばっかりなんだろ? と梓は境遇の不運を嘆いた。
「まだ婚約だ、結婚したわけじゃない。チャンスはまだある。俺はやるぞぉ!」
「そんなもんないから、やめときなって。耕一に殺されるぞ」
「俺だって身体には自身がある。まずは競泳だ。俺もやるぞ、あいつより男らしいところを見てもらうぞっ!」
「好きにしろよ。忠告はしたかんね」
これ以上係りあいになるのはごめんだと思った梓は、拳を握り締め一人で燃え上がっている柴田に背を向けた。
柴田が熱くなるのはいつもの事だ。なれたもので部員はまた始まったと適当に水浴びを楽しんでいる。
「あの先生、なに吠えてんだ?」
「ああ、気にするなよ。時々、ああなるんだ」
ストレッチをしながら、隙あらば梓の後輩達と話している初音や楓に近寄ろうとする男子高生を牽制していた耕一が聞くと。梓はめんど臭そうに言い捨て、ストレッチを始めた。
「うふふっ。梓の後輩って、みんな良い子達よね」
「そりゃ、あたしの後輩だからな?」
やたら赤い顔ではしゃいでいる千鶴の様子に首を傾げ、梓は膝に手を置きグッと足の腱を伸ばす。
「みんな、おめでとうって言ってくれるのよ。素敵な彼ですね。ですって」
「ははっ、そう。良かったね」
なるほどと定番の祝福で無邪気にはしゃぐ姉に適当に応え、梓は両手を組んで背を一杯に外らす。
「梓先輩、頑張ってくださいね。男になんか負けちゃいやですよ」
初音と楓と囲む女子部員の輪から抜け出し、かおりがタオル片手に熱い瞳を梓に向ける。
ストレッチの邪魔をしないのは、一応運動部のマネージャーの自覚があるのか。それとも梓に嫌われたくないだけか。
「梓、背中押してくれよ」
額に汗を浮べた耕一が砂浜に座り開脚して身体をほぐしていた手を止め言う。
「ああ」
「ダメですぅ! 先輩の柔軟はあたしがやるんです」
きっと耕一を睨み、かおりは二人の間に立ちはだかる。
「じゃあ、私が押しますね。思いっ切り行きますよ」
「いいっ! ちょと千鶴さん」
ギャッとかフグッとか言う耕一の悲鳴とも呻き声ともつかないものが聞こえたが。かおりに立ち塞がれた梓は、心の中で十字を切って冥福を祈っただけだった。
「かおり。ふざけずにしっかり出来るんだな? あたしは思いっ切り泳ぎたいんだ」
真剣な表情で言われたかおりは、ビクッとしてうんうん頷く。
「じゃあ、頼むよ」
そう言って背中を向け腰を下ろした梓の背中を、かおりは一心に押し始めた。
かおりは陸上選手だった頃の梓を知っている。
今の梓は、勝負の前と同じ真剣さだった。じゃれ付いて邪魔をすれば、本当に嫌われかねない。
かおりも真剣な表情で、梓の柔軟を手伝った。
やがて、運動不足気味で固くなっていた梓の身体がぺたんと二つにくっつき、内から温められた汗が滲み出て来た頃。柴田の生徒を呼び集める声が聞こえて来た。
「もう良いよ、かおり」
かおりから受け取ったタオルで汗を拭い、梓は礼を言って耕一とスタート地点に向かった。
「全力でいいんだな?」
「前にも言ったよな? 使わなくても全力だってさ。俺達の勝負はブイまで。帰りは、ゆっくり泳ごうや」
「一、二キロか。…よしっ!」
パンと耕一の上げた手を打ち、梓は眩く輝く太陽を翳した手の間から見上げ、波間に揺れるブイに視線を落としてスウッと静かに息を胸に満たした。
切るように波を裂いた手が水の抵抗を伝え、力強く後方に押しやりグッと身体を前に押し出す。そしてまた波を切り裂く。
何度も繰り返した一連の動きに意識を集中し、より早く短い呼吸で息を吸い。水を掻きながら吐き出す。
滑らかな動きで波を切る梓のストロークはほとんど飛沫を上げていない。それに比べ派手に水飛沫を上げ追い縋る耕一は、徐々に遅れ始めていた。
一瞬呼吸の合間に後ろを振り返った梓は、微かに笑みを浮かべた。
力強く派手だが無駄の多い耕一の泳ぎと、地味だが無駄のない梓の泳ぎでは、見た目の派手さとは裏腹に梓の方が早い。それでも耕一は体力にものを言わし、飛沫を周囲に撒き散らし梓に追い縋ってくる。
他の生徒は、とっくに二人を追うのを諦め遠泳向きな平泳ぎに変えている。只一人、耕一を追うように続く柴田を除いては。
ブイはもう眼と鼻の先だ。
梓は更にストロークを小さく早く鋭くすべく、意識を集中した。
思う通りに動く身体が気持ちいい。
身体の隅々まで行き渡った神経が水の抵抗をものともせず、思い道理に身体を前へと進める。
指先に当たった固い感触に、梓は顔を上げ息を吹き上げた。
両手を広げ波間に浮かんだ瞳に、透き通った青空が白い筋雲を走らせ、眩しい太陽がゆらゆらと揺れる。
力を抜いた身体は心地好い疲れを癒すようにゆらゆらと波に揺られ。陸では感じられない浮遊感が、空に吸い込まれそうな微かな心細さを感じさせる。
眼を瞑ると海水に覆われた耳が、自分の鼓動を頭一杯に響かせた。
この世に自分一人しか存在しないかのような頼りない不安を追い払おうと目を開いた刹那、ばしゃっと顔にかかった水飛沫に心細さはスッとどこかに消えていった。
顔にかかった飛沫を手で拭い、梓は立ち泳ぎに体勢を変えた。
「くそっ!」
「ははっ! どうだ恐れ入ったか? 耕一が溺れたら、今度はあたしが助けてやるよ」
悔しそうにぶっちょうずらを向ける耕一を鼻で笑い、梓はブイに手を伸ばし耕一に背を向けた。
耕一の存在を感じた途端、安心した自分を恥ずかしがるように、腹を立てたように。
「やっぱり、海とプールは違うよな」
「なんだよ、それ? プールなら負けないってか? 負け惜しみなんて、男らしくないよな」
「いや、波が邪魔でだな。慣れてないからさ」
「それ言うんなら、男と女のハンディも付けろよ。それで五分だろ?」
波間にプカプカ浮かびながらぶつぶつ言う耕一を振り返り、梓はニヤリと笑う。
「判ったよ。俺の負けだ、負けっ!」
ばしゃと海面を叩き、耕一は悔しそうに負けを認めた。
「そうそ、潔く認めなって。あぁ〜気持ち良いよな」
梓はへへっと笑い、ブイを背にフッ〜吐息を吐き出す。
「耕一さ、叩いてんだよな」
「あん?」
「こう、スッと腕を入れてさ。水を掻くんだよなぁ〜」
言いながら梓はブイから一掻きでスッと耕一に近づく。
「あんたのは、水面を叩いてるからさ。無駄が多いし、疲れんだよ」
「こうか?」
少し首を傾げた耕一は、見よう見まねで腕を動かしブイの方にゆっくり泳ぎ出す。
「まあまあかな。耕一のって自己流だろう? 派手だけど早くないんだよ」
梓に教えられた通り腕の角度を調整した耕一は、一頻りブイの周りを泳いで見た。
「ああ。そういや、楽に進むな」
「そうだろ? さあって、勝負の賞品は何にする?」
「賞品取るのかよ?」
当然と梓は頷く。
「まっ、ゆっくり考えるか」
「ちぇ」
「おおぉ〜い、どうした?」
耕一が舌打ちするのを梓が軽く笑っていると、やっと追い付いて来た柴田が声を掛けてくる。
「一休みしてただけだよ、監督」
「ペース配分を考えんからだ。俺のようにちゃんと最後まで一定のペースを保ってだな」
「はいはい。一休みしたら浜に戻るよ」
渋い顔で説教を始める柴田を梓は適当に受け流す。
梓と耕一に追い付けなかったのは、ペースも考えずに飛ばすような無謀さのせいだと言いたいのだろう。
「ボートを呼ぶか? スプリントのペースだったぞ、無理はするな」
「大丈夫ですよ。ゆっくり戻りますから、先生は先に行って下さい」
引率者の責任を思い出したのか、少し心配そうに聞く柴田に耕一は言う。
くれぐれも無理はしないで下さいよ。と念を押し、少し残念そうに柴田は豪快なストロークで先に泳ぎ始めた。
柴田としては飛ばしすぎてバテた耕一を、浜の手前で颯爽と追い抜く姿を千鶴に見せたかったのだろう。
「さてと俺達も行くか?」
「ああ、初音と楓がお待ちかねだろうしな」
「梓。お前、こういうの出来るか?」
先に泳ぎ始めた耕一は、身体を斜めにして足で水を挟むようにして泳ぎ出す。
抜き手のようにも見えるが、腕ががほとんど動いていない所が少し違うようだ。
「出来ないよ。なんだよそれ?」
「古式泳法って奴さ」
「へぇ〜。じゃあさ、耕一バタフライ出来るか?」
言いつつ梓は豪快に水飛沫を煌めかせ、跳ねるように泳ぎ出す。
「出来るかっ! 俺はバッタじゃねえ」
適当にバタフライを切り上げた梓に追い付いた耕一は、悔しそうに言う。
「犬かきならどうだ?」
「ばぁ〜か。こんなとこで、そんなもんするかよ」
「レパートリーが狭いな。何なら出来るんだよ」
「古式泳法にクロールだろ。後、平泳ぎかな? 梓は?」
「クロールと平泳ぎは当然。背泳にバタフライだろ。犬かきもな。一応ひと通りは出来るさ」
平泳ぎで水を掻きつつ得意そうに梓は顎を上げる。
「ほぉ〜そりゃ凄いな。よし、浜まで色々試しながら泳ごうぜ」
「ようし。背泳とバタフライ教えてやるよ」
「じゃあ、俺は古式泳法な」
「いいよ、なんか泳ぎ方がカッコ悪いしさ」
「日本古来の伝統ある泳ぎ方だぞ」
「ははっ、ヤァ〜だよっ」
梓がスピードを上げると、耕一もスピードを上げる。
陽光を跳ね返す波間を楽しげに言い合いながら、梓と耕一は泳ぎ方をさまざまに変える。
追いつ追われつしながら梓と耕一は陽の光に飛沫を煌めかせ、みんなの待つ浜を目指した。