夏光 二


「耕一お兄ちゃん。どう?」

 少し恥ずかしそうな輝く天使の微笑みが、おしげもなく耕一に向けられる。

「うん、美味しいよ。初音ちゃん、料理の腕をまた上げたね」
「本当? えへへ」

 可愛らしく頬に手を当て、初音は嬉そうに目を細くする。

「本当だって。このダシ巻きも絶品だよ」

 並べた重箱からダシ巻きを一切れ口に放り込み、味わいながら耕一が言うと。楓の頬にさっと朱が走った。

「楓ちゃん、どうしたの?」

 頬を赤くして微かに顔を臥せた楓に耕一が聞くと。楓はむき出しの白い膝で揃えた細い両手の指をもじもじ弄り、嬉そうでいて恥ずかしそうな上目遣で耕一を見上げる。

「あのね、耕一お兄ちゃん。そっちのは、楓お姉ちゃんが作ったんだよ」
「えっ、そうなの?」

 楓に代わって初音が説明すると、楓は口元を押え恥じらいながらコクンと頷く。

「うん。楓ちゃんも料理が上手いよね。冷やしちゃうと味つけとか、むずかしくない?」
「…少し味つけを濃くしたりするだけですから」

 にこにこ笑い掛ける耕一に恥ずかしそうに答え、楓は下げた視線の言い訳のように麦茶の入った紙コップに手を伸ばす。

「こっちのチキンローフも自家製だろ? お握りも塩加減が絶妙でさ」
「あ、そのお握り私が握ったんだけど。ちょとお兄ちゃんには、小さくなかったかな?」

 ビール片手に美味しい美味しいを連呼する耕一に、初音は少し心配そうなはにかんだ表情で聞く。

「そんな事無いないって。ほらね」

 言いつつ、お握りを一個口に頬張り、耕一はむしゃむしゃ口を動かす。
 初音の紅葉のような小さな手で握ったお握りは、耕一の口の中に程よい塩味を残し、ゴクンと喉から胃に収まる。

「丁度、食べやすい大きさだよ」
「よかった。一杯作ったから、たくさん食べてね」

 嬉そうな笑顔で首を傾げ、初音もお握りに口をつける。
 初音の一口では、お握りの三分の一も減っていなかったりする。

「耕一。あんた、もう少し静かに食べられないのか?」

 少し呆れた声と一緒に、黒い影が耕一を覆った。

 見上げると、陽光を遮り水着をビキニから紺のスイムスーツに代えた梓が腰に手を当て耕一を見下ろしていた。
 かおりに襲われ、ビキニには懲りたようだ。
 しかしピッタリ密着したスイムスーツは、ビキニとはまた違う押さえつけられた体の線を強調して、健康的な色香を感じさせている。

「あんたの声だけ、ずぅぅ〜と向こうまで筒抜けだぞ」
「いいじゃないの。たまのお休みですもの、少しぐらい羽目を外しったって。ねぇ、耕一さん」
「そうそう。ねぇ、千鶴さん」

 にこにこしながら頷き合う千鶴と耕一の様子に梓は腰が引けた。
 少し前とは打って変わった千鶴の上機嫌は、普段の明るさに更に輪を掛け不気味ですらある。

「梓お姉ちゃんも、お腹空いたでしょう? これ、私が作ったんだけどどうかな?」

 初音の方は、みんなが幸せならそれで満足らしく。耕一と千鶴の子供のようなやり取りに小さく笑うと。楽しそうな笑顔で梓を見上げ、はしゃいだ声で重箱を持ち上げて見せる。

「どれどれ」

 初音の笑顔で気を取り直し、よっこいしょ、と言いながら腰を下ろした梓は、差し出された重箱から穴子入りのダシ巻きを指で摘み口に運ぶ。

「うん。初音、腕を上げたよね。もう教えることないな」
「そうかな。でも、まだまだ梓お姉ちゃんには敵わないよ」

 料理の先生の梓に誉められ、初音は照れ臭そうに首を傾げて謙遜する。

「で、こっちが楓か?」
「うん」

 コクンと楓が頷くと、梓は楓の方のダシ巻きに手を伸ばす。こちらには穴子が入ってなかったりするのは、楓と初音の料理の年期の差だろう。

「どう?」

 心配そうに楓が聞くと、梓は楓の頭に手を伸ばしてクシャと撫でる。

「美味しいよ。楓も料理の腕上げたな」
「ありがとう、梓姉さん」

 梓に誉められ、楓はホッとした嬉しそうな顔で胸元を拳で押えた。

「ほれ、梓も飲めよ。こっちの方が良いだろ?」
「おっ、サンキュー」

 耕一が冷蔵庫になったクーラーボックスから缶ビールを取り出して渡すと。梓はごくごく喉を鳴らして一気に飲み干す。

「プハァ。くぅぅ、美味いぃ」
「もう。梓ったら、おじさん臭いわよ」
「まあま、千鶴さんも一杯」

 胡座を掻いて息を吐き出す梓を見て苦笑する千鶴にも、耕一は缶ビールを手渡す。

「じゃあ、少しだけ」
「うんうん。今日は無礼講で行こうよ」
「あんたは、いっつも無礼講だろうが」
「細かい事言うなって。ほれ、もう一本」
「へへ、昼間っから飲むビールって格別だね」

 こくこく少しづつ口を付ける千鶴の横で、梓と耕一はごくごく酒盛りを始めた。
 豪快に缶ビールを開け料理を摘む二人を楽しそうに見ている楓と初音も、冷えた麦茶をお互いに注ぎ合い、潮風と夏の光を存分に楽しんでいた。

 照りつける陽射しに乾いた喉を冷たいビールが潤し、周りを最愛の従姉妹達に囲まれた耕一は、まさに我が世の春状態である。
 手作りの豪華な弁当。
 水着美女四人に囲まれ、男一人で飲むビール。
 海水浴に来た周りの男達の羨望の眼差しが、更に耕一の優越感を煽っていたりする。

「いやぁ〜、天国だなぁ」
「ねえ、耕一お兄ちゃん」

 存分に食べて飲んで満足そうな耕一を、初音はちょと控え目に覗き込んだ。

「うん、初音ちゃん。なにかなぁ?」
「うん。お兄ちゃんは、泳がないのかなと思って」

 ほろ酔い気分の上機嫌で首を傾げる耕一に、初音はぎこちない微笑みを浮べて聞く。

 相変わらず初音ちゃんは控え目だな。と耕一は思った。
 一緒に泳ごう。というお誘いである。
 午前中は、耕一も荷物を運んだり、軟派連中の相手をして疲れているだろうと、初音も気を使っていたのだろう。

「そうだね。せっかく海に来たんだし。少しお腹が落ち着いたら、みんなで泳ごうか?」
「うん」

 真夏の太陽にもまけない輝く笑顔で嬉そうに頷く初音を見ると、耕一まで嬉しくなってくる。

「あれ? 千鶴姉、ここどうしたんだ? 虫にでも刺さ……いっ!」
「あ、梓。ちょと」

 梓の声で酔いが吹き飛び、耕一はギクゥとしてギチギチ首を回した。
 ビールの酔いで仄かに赤みを帯びた千鶴の首筋を指刺し、梓が引きつった真っ赤な顔で食い入るように見ていた。

 梓の視線に千鶴の肌が、更に赤く染まっていく。
 その首筋と胸元に、白い肌が赤くなったせいかうっすら虫に刺されたような痕が点々と浮き上がる。

「千鶴お姉ちゃん、虫に刺されたの? お薬なら、こっちに」
「はっ、初音、大丈夫よ。えぇっと、そうだわ」

 心配そうにポーチを探る初音にぎこちない笑いを向け、パーカーをしっかり着直した千鶴はぽんと手を打つ。

「私も一緒に泳ごうかしら。ちょと待っててね、着替えてくるから」
「う、うん」

 そそくさと立ち上がる千鶴を不思議そうに見て、初音はコックリ頷く。
 その影で初音に見つからないよう、耕一は赤い顔を俯けた梓に頭を殴られていた。

「やたら千鶴姉の機嫌がいいと思ったら。あんたは場所を考えろよ。初音や楓もいんだぞ」
「お前が言えるのか? 俺を見捨てて逃げたクセに」

 殴られた頭を摩りながら囁きに囁きを返し、耕一は梓を睨む。
 赤い顔でジトッっと耕一を見る楓は、初音と違い事の真相を理解しているようだ。

「うっ。だからってさ。水着で、どうやって隠すんだよ」
「俺だって命は惜しいんだ。大体お前が自分の格好も考えずに俺に泣きつくから、千鶴さんが切れるんだろうが」

 かおりから助けられたのに、初音を連れて逃げ出した梓が決まり悪そうに鼻を指で掻きながら言うと。耕一はブスッとした声を作って睨み付ける。
 内心耕一は、かおりのテクニックが早速役に立ったなと、にやけているのだが。

「あっ………」

 耕一に言われて、やっと裸同然で耕一の腰に抱きついていたのに気づいたように、梓はかっと身体中を真っ赤に染め抜き俯いて顔を隠した。

「大丈夫だって。熱いシャワーでも浴びりゃ、すぐ消えるって」
「そ、そういう……もん…なのか?」
「ああ。そういうもんだ」

 興味深そうに半信半疑で聞く梓に、耕一は断言する。
 ビールの酔いのせいで、血行が早まりキスマークが浮き上がったのだろう。
 千鶴にビールを勧めたのは、ちょと不味かったかな。と耕一は反省した。

「耕一お兄ちゃん。梓お姉ちゃんも、どうかしたの?」

 こそこそ話す梓と耕一に気づいて、初音がキョトンとした顔を向ける。

「あっ、いや。梓は泳げるようになったのかなぁってさ」
「はっ? あ、そうそう。今じゃ競泳選手並みだって言ってるのに、耕一の奴信じないんだよ」

 話をごまかす耕一に肘で突かれ、梓も相槌を打つ。

「だってな。川で溺れた奴の言う事じゃな」
「いつの話だよ」
「耕一お兄ちゃん、本当だよ。梓お姉ちゃん、ちゃんと泳ぎ方習ったんだから」
「へぇ〜、初音ちゃんが言うなら、本当だな」
「あたしの言う事じゃ、信用出来ないのかよ!」
「梓お姉ちゃん。泳げばすぐ判るんだし」

 ムッと睨む梓は、初音に宥められプンとそっぽを向く。

「じゃあ、競争しようじゃない。その眼で確かめてみろよ」
「おお、受けて立ってやる」

 ニッと笑って勝負を突き付けた梓に、耕一もニヤッと笑い返す。

「耕一お兄ちゃん、梓お姉ちゃんも。食べたばかりじゃ、体に悪いよ」
「お酒も飲んでるし」

 初音と楓に心配そうに注意され、今にも海に飛び込みそうだった梓と耕一は顔を見合わせた。

「しょうがないな。耕一、一時間後でどうだ?」
「俺はいいぜ。これだけ暑けりゃ、ビールなんてすぐ抜けるさ」
「よし、決まりだっ!」

 熱血青春ものよろしく腕をぶつける梓と耕一に、楓は呆れた溜息を。初音はぎこちない笑いを浮べた。
 なんのかんの言いながら、似た者同士の梓と耕一だった。

「そうだ。初音ちゃんと楓ちゃんは、どれ位泳げるの?」

 梓との勝負が一時お預けになった耕一は、初音と楓にも聞いてみた。

「ゆっくりとなら……」
「えっと……」

 楓がぎこちなく微笑んで応え、初音はもじもじと口篭もる。

「初音はさ、息継ぎが上手く出来ないんだよ」
「そうなの?」
「うん…息継ぎすると水を飲んじゃって……」

 梓が代わりに答え、初音は両指を付き合わせてぎこちなく笑う。

「それなら大丈夫だよ。息継ぎだけ覚えれば、泳げるようになるからさ」
「……そうかな?」
「大丈夫だって。初音ちゃんさえ良かったら、俺が教えてあげるけど」
「…うん」
「俺じゃ、ダメかな?」

 自信無さそうに俯く初音に、情けない顔を作り耕一は聞いた。

「えっ! そんな事無いよ。わたし頑張る」

 慌てて耕一に顔を上げた初音は、胸元で拳を揃えて勢い込んで言う。

「あの、わたしも」

 上目遣いに耕一を見て、楓も教えて欲しそうに言う。

「えっ? いいけど。楓ちゃん、泳げるんじゃ」
「平泳ぎは少し出来るんですけど。クロールが………」

 あたしが教えてやるって言った時は、断ったくせに。等と言う呟きが梓から洩れると。楓は顔を真っ赤に染め俯いてしまう。
 膝でぎゅっと握った両手、水着から覗く細く白い腕や足までが赤く染まって、恥ずかしそうな姿がなんとも可愛い。

「うん、じゃあ。初音ちゃんと楓ちゃんに教えるとして。千鶴さんは泳げるのかな?」

 可愛いが、余りにも恥ずかしそうな楓が可愛そうで、耕一は話題を千鶴に変える。

「どうかな? 初音、千鶴姉泳げたっけ?」
「えっ! ……あれ? 楓お姉ちゃん、知ってる?」
「…さあ? 姉さんが泳いでるの見た事ない」

 以外にも、顔を見合わせた妹三人は揃って首を傾げた。

「……誰も、知らないの?」
「うん、そう…みたい」

 ハハッと照れ笑いを浮べ頭を掻く梓と、コックリ頷く楓を代弁して、初音が決まり悪そうにゆっくり頷いて返す。
 相変わらず、謎の多い千鶴だった。

「まさかとは思うけど。海水浴が初めてって事ないよね?」

 海に面した隆山で、我ながら馬鹿馬鹿しい質問だと思いながら耕一は聞いた。

「そりゃ、学校の友達とかとは来たけど」
「夏はお仕事が忙しいから」
「人が多いですから」

 なんとなく暗くなった姉妹の話を総合すると、観光客が押し寄せる夏は鶴来屋が忙しく。夏の盛りを過ぎた頃、耕一の父は、山や川へのハイキングに姉妹を誘っていたらしい。
 家族揃って海水浴に来た事はなかったそうだ。
 梓はクラブの合宿等で海にも来たらしいが。初音や楓は軟派目当ての学生や人の多さがイヤで、学校のプール等で済ませていたそうだった。
 朝から軟派学生の撃退に追われた耕一には、すぐ納得出来た。
 初音や楓だけでは、キッパリ断れなくて、ずるずると着きまとわれるだろう。
 海辺に育った姉妹が、海水浴で耕一以上にはしゃいでいたのも、話を聞けば判る気がした。

「もしかして、千鶴姉の奴さ。重くって、水に入ると沈んじゃったりしてな」

 暗くなった場を和ませるように、梓がハハッと顔の横に人指し指をピンと伸ばして明るく笑いながら言う。

「梓お姉ちゃん。千鶴お姉ちゃん、そんなに重くないよぉ」

 初音も場を盛り上げるように、心持ちいつもより明るい声で応える。
 少しほっとした顔で微笑みを浮べる楓も、どこかぎこちなかった。

 耕一の父が亡くなりちょうど一年。先頃、一周忌を終えたばかり。多分、耕一の父とも、海水浴に来たかった気持ちが姉妹の中にはあったのかも知れない。
 不用意な質問で余計な事を思い出させた気がして、耕一は少し後悔した。


「わぁぁ〜!! ごっ ごめんよぉ〜〜冗談だよぉ〜」

 少し考え込んだ耕一の思考は、梓の悲鳴に遮られた。

「梓先輩? どうしたんですかぁ〜?」
「か、かおりか? 脅かすかなよ、千鶴姉かと思った」

 背中から梓に抱きついたかおりがキョトンとした顔を覗かせ、梓はほっと息を吐く。

 さっき千鶴からもらった一発が、余程効いたらしい。

「御姉様なら、あっちですよ」

 背中越しに突き出した顔で、かおりはぞっとするような薄笑いを受かべて顎を突き出す。

「御姉様ぁ? あっ、あぁぁ!!」
「さぼりじゃ、ないですよね?」
「なんだ、ありゃ?」

 かおりが示した方を見た梓は頓狂は声を上げ、耕一は首を傾げた。

 水着をブルーのワンピースに着替えた千鶴のお尻を、高校生位のスイムスーツの団体がゾロソロとくっついて歩いて来る。

「…うちの後輩だよ」
「後輩って、陸上部の?」

 暗い顔で初音に頷いた梓は、全てを理解していた。
 さぼりがダメなら全員で来ればいいと、かおりが連れて来たのだろう。このまま、なし崩しに梓を夜まで付き合わせるつもりに違いない。

「ええい、後輩もだが! あいつはなんなんだ?!」

 耕一は不機嫌そのものの苛々した声で、チラリと梓を横目で睨んで指を突き出す。
 その指先は、千鶴のお尻に着いて歩く男子生徒の先頭で、千鶴と親しそうに話す男に向けられていた。

「うちの監督ですよねぇ、梓先輩。先輩が御姉様と来てるって教えたんですけどぉ。挨拶したいってすぐ予定を変えてくれたんですよぉ。まだ二十七だし、国立大卒で女生徒にも人気があるらしいんですけどぉ。御姉様とお似合いですよねぇ」

 耕一を挑発するように、かおりはクスクス笑う。

「梓お姉ちゃんの学校、女子校じゃなかったっけ?」
「合宿は男子校との合同なんだ。他校との交流がどうのって言ってるけどさ。監督の人気取りだよ」

 首を傾げる初音に馬鹿にしたように応え、へんと梓は口を尖らせる。
 梓は、あまり監督が好きではないらしい。

「イヤですよねぇ。男子校なんて体力ばっかりありあまってるから、練習してても眼がイヤらしいって。みんなも落ち着かなくって。ねえ、梓先輩」

 梓の首にしがみ付きつつ、かおりはブスッとした耕一の横顔に更に煽りを入れる。

「ちょ、ちょと、かおり。耕一、落ち着けよ」
「俺は落ち着いてる。クラブの監督が、なんで千鶴さんと知り合いなんだよ」

 いっそう険しくなる耕一の視線に、梓はかおりを引きはがすのも忘れてなだめるが。言葉とは裏腹に耕一の声は乾いていく。

「そりゃさ。三年の時、あたしの担任だったから。三者面談とかでさ」
「あの人、叔父ちゃんのお葬式にも来てくれたよね?」
「…うん。そうだと思うけど」

 初音に少し迷ったように首を傾げて聞かれ、楓は耕一を窺いながらコクンと頷く。

「ほほぉ〜。じゃあ俺も、ちゃんと挨拶しないとな。高校生の分際で、あいつらもいい度胸じゃねえか」

 薄く笑ってゆらりと立ち上がった耕一は、半分眼が逝ってたりする。

 最愛の女性の水着姿のお尻をニヤニヤした男子高校生の団体が眺め回し。その隣で今にも肩に手を回さんばかりに親しげな男がいれば、耕一の反応も非難は出来まい。

「あ・ず・さ・先輩。邪魔者は、消えましたね」

 耳元で囁かれたかおりの言葉で、梓は頭を抱えた。
 かおりの耕一排除作戦に、まんまと乗せられたわけだ。

「あ、あたしも。挨拶してこなきゃ!」

 慌てて梓はかおりを背中から振り払い、耕一の後を追う。
 足に縋り付くかおりを引きづり、砂浜に一本の線を引きつつ梓は一歩一歩前に進む。耕一が当てに出来ない以上、後輩達と合流して、かおりと二人にならないようにするしかない。

「おおぉ〜い! 久しぶりぃ、元気だったぁ?」

 まだ距離があるが、わざわざ大声で後輩達を呼んでみる。
 あっ、梓先輩だぁ! などと言いながら黄色い声の一団が走り寄って来る。梓は人気者のようで、一年とおぼしき生徒以外は懐かしそうに梓を取り囲む。
 流石にかおりも梓の体面をはばかったのか、舌打ちしつつ立ち上がって、不機嫌丸出しの膨れた頬で体の砂を払う。
 かおりが離れ、ホッとした梓が後輩達に挨拶を返しながら耕一の様子を窺うと。情けないことに、男子高の一団は耕一の気迫に圧され一塊になって後じさっていた。
 千鶴はいつのまにか、ちゃかり耕一の隣に寄り添っている。嬉そうなにこにこ顔は、耕一の嫉妬を喜んでいるようにも見える。

 梓も後輩を引き連れ、千鶴達の元に急いだ。

「葬儀の折は………一周忌……」

 梓が近づくと耕一の儀礼的な挨拶が聞こえてくる。

 頭に来ていても礼儀正しく振舞う辺り、耕一の奴、千鶴姉に似てきたんじゃないのか? と。この頃、梓は時々思ったりする。
 先輩あの人誰ですか? 等と聞いてくる後輩に適当に受け答えする梓も、優しそうだとか、七十点等と耕一を品定めする評価がいいと、少しばかり鼻が高い。

「御丁寧な挨拶を、どうも。監督を務めさせて頂いている柴田と申します。こちらこそ、この度の合宿にはお力添え頂いて」
「いえ、妹がOBですから」

 ハッと、梓と柴田は首を傾げた。

「妹? 従兄ではないんですか?」
「お、おい耕一。力添えってなんだよ?」

 柴田と梓の問いが重なり、梓は決まり悪そうに恩師に頭を下げた。

「将来の。ですけど」
「鶴来屋の貸し別荘の一つを、合宿にお貸ししたそうよ」

 答が重なり、今度は千鶴と耕一が顔を見合わせ微笑みを交した。

「……耕一、あんた合宿に来てるの知ってたのか?」

 恥ずかしそうに頬を赤らめた千鶴の様子で、耕一の言葉の意味を悟ったのか。微かに残念そうな顔をした柴田にニヤリと笑みを浮かべた耕一は、梓に横目で睨まれた。

「いや、まぁ。千鶴さんは忙しかったしな、予約のキャンセルを探しただけでさ」

 梓から眼を逸らし、耕一は頬をぽりぽりと掻き出す。

 耕一は夏の間、鶴来屋グループの外郭団体でバイトをしていた。
 バイトと言っても経験を積み、地元に顔を広める意味で、足立から貸別荘やペンション、テニスコート等の実質的な運営を任されている。
 夏休みといっても、耕一も柏木の家でゆっくり過ごしていたわけではなかった。
 それは梓達も同じで、梓は鶴来屋で接客係のバイトに精を出し。初音は梓に代って家で掃除洗濯、食事の用意を。
 楓は受験勉強の合間に初音を手伝い。全員が多忙な夏休みを過ごしていた。

 そんな訳で、この休日は柏木家の全員が揃って取れた、特別貴重な休暇だった。

「いえ、助かりました。いつも使う合宿所が手違いで塞がっていて、半分諦めていたんですが。あんなに立派な別荘を貸して頂いて、みんな大喜びですよ」

 柴田はスポーツマンらしい爽やかな笑顔を千鶴だけに向けて言う。耕一と梓を視線に入れない辺り、下心丸出しである。

「いいえ、そんな。喜んで頂けてよかったですわ」

 儀礼的な台詞に千鶴の笑みが添えられ、柴田は余程嬉しかったのかでれっと顔の筋肉を緩めた。

「それでは、練習のお邪魔してもいけませんし。妹達を待たせていますので、私はこれで」
「あ、はぁ」

 営業スマイルを浮べたままスッと会釈すると、千鶴は名残惜しそうな柴田に背を向ける。
 ポッーと千鶴の背中を見ていた柴田は気づかなかったが。柴田に背を向けた千鶴は、微かに溜息を吐いていた。
 男子生徒の視線もだが、なにかと話しかけて来る柴田も、千鶴にはうっとうしいだけだった。

「紹介しといて何ですけど。別荘にはグランドもありませんし、陸上の練習には不向きじゃないですか?」

 千鶴の溜息に苦笑を押えた耕一は、千鶴にくっついて行きそうな男子高生に睨みを効かせ、取り合えず聞いてみる。

「平気だって。合宿って言ってもさ、夏休みの締めくくりにみんなで騒ごうってだけで。基礎トレーニングだけだもんな」
「柏木、相変わらず身も蓋もない言い方だな。まあ、実際は、そうなんだが………」

 梓の台詞に苦笑しつつ、柴田は手持ちぶさたの部員に柔軟体操を命じ、耕一達に眼を戻した。

「せっかくの夏休みに、練習だけじゃ可哀想ですからね。それに」

 チラリと梓と見てから、柔軟体操をするかおりに眼を移し、柴田は重い息を吐いた。

「女子校って、男子と接触する機会が少ないですからね。多少不健全ですし」

 暗にかおりの性癖の事を言っているのは明らかだった。
 梓はへっと吐き出し、柴田から顔を背ける。

「男子校も同じですけどね。先生もやっぱり陸上ですか?」
「ええ、学生時代の話ですが。いまはトライアスロンです。あなたも立派な体格ですが、なにかスポーツを?」

 耕一が話を変えようと話題を振ると、柴田は耕一を一瞥して聞いた。

「いえ、別になにも」
「そりゃ、いけないな。人間健康が第一ですから。どうですか、トライアスロンはいいですよ。やってみませんか?」
「いや、その、暇がなくて」

 陽に焼けた引き締まった胸を張り眼を輝かせる柴田に、耕一は一歩引いた。

「それじゃいけませんよ。運動は暇だからやるものじゃありません。心身を鍛え、自分の限界に挑戦する。素晴らしいじゃないですか」

 一昔前の熱血教師のように拳を握り締める柴田。
 体育会系、運動馬鹿。
 見事に鍛え抜き、贅肉をそぎ落とした陽に焼けた身体をテラテラさせる柴田に、苦笑いを浮べた耕一の頭に文字が浮かんでは消えた。

「…あたしも誘われた」
「そうなのか?」
「しつこいんだ。頷いたら最後だぞ」

 耕一の耳に顔を寄せ囁いた梓は、忠告しつつコクンと頷く。

「まあ、考えておいてください。そうだ柏木、これから遠泳にしようと思うんだが。お前もどうだ。得意だったよな。鈍ってないだろうな?」
「そうですよ、梓先輩」
「うわぁぁぁ〜〜!!」

 いきなり背中を指で撫で上げられ、梓は悲鳴を上げ飛び上がった。

「か、かおり? どこから湧いたっ?!」
「湧いたなんて、ひどいですぅ」

 両手を握りぷうっと膨れたかおりにうるうるした瞳で見つめられ、梓は重い重い溜息を吐き出した。

「日吉、柔軟は終わったのか? 他の部員は?」
「終わりました。あっち」

 邪魔と書いた鋭い眼で柴田に応え、かおりは指をスッと伸ばす。

「あいつらぁ〜!」
「はぁ〜」
「ははっ、若いですからね」

 パラソルの下の初音や楓、千鶴に群がる部員を見て駆け出した耕一に続いて走り出した梓は、腰にまとわりつくかおりをひきづり、また重い息を吐き。柴田は楽しそうに軽く笑う。

「あっ、耕一お兄ちゃん」
「耕一さん」

 女子部員と男子の一部に囲まれた初音、男子部員がほとんどの楓が、ホッとしたように戻って来る耕一を呼ぶ。
 男子のほとんどはその声で後じさり。女子部員は耕一に好奇心に溢れた眼を向け囁きを交し合う。
 少し困り顔の千鶴を囲む部員がいないのは、先程の耕一の気迫。と言うより殺気。のせいだろう。

「時に、将来でしたね」
「はっ? なんだ?」

 走りながら耕一の隣に並んだ柴田の問いに、耕一はうっとしそうに首を傾げた。

「予定は未定って言うでしょ」

 プツっと切れかけた頭の線を繋ぎ直し、耕一は柴田を無視した。
 筋肉馬鹿に何を言っても無駄と腹を決め、耕一は初音と楓を体力の有り余った高校生集団から救出すべく足を速めた。


一章

三章

目次