夏光 一

                        樹



 遠く近く、寄せる波、引く波に混じり明るいはしゃいだ声が聞こえる。
 サンサンと照りつける陽射しを遮るビーチパラソルが作った影の中、目を閉じて横たわる耕一の頬が緩む。
 初音の明るい声に梓の元気な声が応え、落ち着いた中にも楽しそうな楓の声が時折色を添える。
 耕一の傍らでは、膝を抱えて座った千鶴がビーチボールを追う妹達を、強い陽射しに優しく細めた瞳で眺めていた。

 八月も半ばを過ぎ、夏の隆山を彩る花火大会も終わった海水浴場は、花火に劣らず鮮やかな色とりどりの水着の花を咲かせていた。

 花火大会終了まで、忙しさに追われていた千鶴がやっと取れた貴重な休日。
 楓も夏期講習の締め括りの模試を終え、久しぶりに家族全員で揃って迎えた休日を、柏木家の人々は存分に楽しんでいた。

「千鶴さん、泳がないの?」

 シートに寝そべったまま眩しそうに見上げて尋ねた耕一に、千鶴は小さく笑みを浮かべた。

「耕一さんこそ、泳がないんですか?」

 白いビキニの上に着た同じく白いパーカーの紐をしなやかな指でいじり、抱えていた足を崩して耕一を覗き込んだ千鶴は問いに問いで返した。

「うん。…なんか、こう人が多いとね」

 チラリとイモ洗い状態の波打ち際に目を向け、耕一は小さく溜息を洩らし視線を千鶴に戻した。

「それに……こうしてるだけでも、じゅうぶん楽しいしね」

 意味有りげに下げて行く耕一の視線に、千鶴はパーカーの前を慌てて合わせ、頬を赤くして怒った顔を作る。

「もう。どこを見ているんです」
「千鶴さん」

 含み笑いを洩らし、耕一は臆面もなく言って退ける。

「えっ! あっ……もう!」

 言われた千鶴が更に赤くなって狼狽えると、耕一はクスクス笑いを洩らし。千鶴はぷっと赤い頬を膨らし両の拳を膝に置き上目遣いに耕一を睨み付ける。

「いや〜。やっぱり夏は海だよな」
「……耕一さん。なにをしに海に来ているんです」
「そりゃ、遊びにだよ。千鶴さんは違うの?」
「それはそうですけど。なんとなく………」

 ジトッとした眼で耕一を見て、千鶴は軽い溜め息を洩らした。

「眼が、いやらしいですよ」

 ハハッと乾いた笑いで応えた耕一は、額に上げていたサングラスを慌てて手探りして眼を覆い隠す。

「そうかな? 気のせいじゃない」
「いいえ」
「じゃあ。千鶴さんの水着が素敵だからだよ」
「水着、が…ですか……」

 ちょとムッとした膨れた顔で上目遣いに睨まれ、耕一は失言に気づいた。
 中途半端な言葉は、千鶴には通用しないのだ。

「い、いや。そりゃ、千鶴さんが着てるからで。うん、やっぱり白が良く似合うよ」
「…そうですか?……本当に?」

 一転、赤い頬で嬉そうに顔を覗き込む千鶴に耕一は大きく頷く。

「うん。本当に」
「少し恥ずかしかったんですけど。思い切って着て見たんです…けど」
「いや、ホント。良く似合ってるよ」

 お世辞抜きで耕一は言い、眩しそうに千鶴を見る目を細めた。

 長く艶やかな黒髪に陽光が照り返し、いっそう白い肌を引き立て。パーカーから覗く滑らかな肌をビキニが申し訳程度に胸を覆い、パラソルでも遮れない暑い陽射しを張りのあるまろやかな腹部が、薄く浮いた汗をキラキラと輝かせる。

 夏の陽射しを受ける千鶴さんも、また格別に綺麗だな。等と鼻の下を伸ばしていた耕一は、初音達のはしゃいだ声が途絶えたのに気づき立ち上がった。

「またか」
「私が行きましょうか?」

 小さく舌打ちした溜息混じりの耕一の呟きに、申し訳なさそうに千鶴が尋ねる。

「いや。こう言う事は、男の方がね」

 小首を傾げて見上げる千鶴に手を上げ、サングラスを掛け直して耕一は歩きだした。

「あっ! 耕一お兄ちゃん」

 梓と楓の背中に隠れるようにしていたピンクに小さな白の水玉模様の水着(腰の周りのフリルが可愛い)を着た初音は、耕一に気づいて明らかにホッとした表情で振り返った。
 ブルーに白い縁取りの水着を着た楓も、初音の声で振り向き耕一を見つけ安堵の息を吐く。
 笑みを浮かべて初音の頭を優しく撫で、耕一は眼を上げて梓の隣に足を進める。

「この子達に、なんか用か?」
「なんだぁ。あんたに関係ないだろ」

 梓と向かい合っていた、一見して都会の大学生と判る三人が、軟派の邪魔をされ一歩引きながらも虚勢を張る。

 まだ昼だというのに、梓や楓、初音、千鶴らに声を掛けてくる男達は、両手両足の指の数を遥かに超えていた。
 その度、耕一と梓が撃退したお蔭で、イモ洗い状態のビーチの中で、耕一達がパラソルを張った付近だけ、ぽっかり貸切り状態になっている。

「保護者代理なんでね」

 腕を組んでおかしそうに耕一は言う。

 恐らくこの三人は、今ビーチに着いたばかりだ。朝からいれば、柏木姉妹に声を掛ける暴挙は犯さなかっただろう。
 着いた早々、先に場所取りにビーチに出た楓と初音に声を掛けたガラの悪い六、七人の学生は、梓と耕一にタコ殴りにされ。千鶴に警察に突き出されていた。
 実際には、その学生達は声を掛けただけだが。千鶴が涙ながらに警官に訴え、楓と初音が怯えた瞳で警官を見つめれば、不良学生のいう事に耳を貸す者などいなかった。
 彼らは痴漢として豚箱に、耕一と梓は無罪放免と言う訳だ。
 それでも声を掛けてくる猛者もいた。だが、今ではそんな無謀な輩は一掃され、耕一は千鶴とノンビリ日光浴を楽しんでいたわけである。

「誰が保護者だって? あたしだけで十分だってのにさ」
「せっかく助けに来てやったのに。ほっといていいのか?」

 ブルーとホワイトの横縞も鮮やかなビキニの胸を張り、不満げに洩す梓に横目を向け、耕一はからかうように言う。

「へん。頼まれたって、助けてくれなんて言うかよ」
「おお、そうかよ。じゃあ、後は任せて四人で昼にするかな」
「ちょと待てよ! そりゃ、話が別だろ」
「早く終わらせりゃいいんだよ。大体お前がだな、誘って欲しそうな格好してるから、馬鹿が寄ってくんだ」

 サングラス越しでも判る渋い顔で、耕一は梓の胸の辺りを一瞥する。
 耕一の視線に顔を赤くして顔を臥せた梓は、拳を握りふるふると震わせる。

「だ・れ・が・誘って欲しいだぁ!!」

 怒りに眼が吊り上がった顔を上げ、梓の怒声と共に耕一を鉄拳が襲う。
 それをひょいと避けた耕一は、人刺し指を一本突き出し。

「お前」

 豊かにプルプル揺れる胸をちょんと突く。

「てぇん、めえぇぇ〜! このセクハラ野郎!!」

 一瞬胸を押え絶句した梓は、更に鋭さを増した拳で、耕一に二撃三撃を加える。
 その拳を避けつつ耕一は、行き成り自分達を無視して喧嘩を始めた二人に呆気に取られて見ていた軟派大学生に背中を向ける。
 そこに梓の拳が唸りを上げて打ち込まれた。

「ひぃ!
「あっ!」

 当然、耕一が避けた梓の拳は大学生を襲う。
 間一髪、掠めた梓の拳に大学生の一人が息を飲んで座り込むと。梓は引きつった顔で拳を口に当てた。

「あぁ〜あ、酷い奴だな。大丈夫か?」

 わざとらしい非難を込めた眼を梓に向け、耕一はへたり込んだ大学生を覗き込む。

「耕一! お前の所為だろうが!!」

 こりもせず、梓はそのカモシカのような足に旋風をまとい、耕一の頭を目がけ回しゲリを放つ。
 しかし、水着からすんなり伸びた足は腰を屈めた耕一の頭を掠め、残った二人の大学生の胸元を横なぎに襲う。
 ヒッと息を飲み込んだ二人は、蒼褪めた顔で逃げ出そうとした。

「お〜い。友達だろうが? 一緒に連れてけよ」

 逃げようとした二人の腕を掴み、耕一はへたり込んだ大学生を顎で示す。
 こくこく頷いた二人は、慌ててへたり込んだ仲間の腕を掴み、黄色い声に襲われ浜に突っ伏し踏み倒されていた。

「梓せんぱぁ〜い」
「げぇ! か、かおり!?」

 派手な情熱の赤いビキニで、大学生を踏み台にして梓の胸に飛び込んだのは、梓の高校での後輩、日吉かおりだった。

「な、なんで。あんたがここにいんだぁ!?」
「私と先輩は、運命の赤い糸で結ばれているんです〜〜」
「そんなもん、絶対ないぃぃ!!」

 顔色が怒りの赤から青に変わった梓は、必死にかおりを引きはがそうとする。しかしかおりは、両手両足で梓にべったりへばり付き、ぐりぐりと顔を梓の胸に押し付けて甘い声で応える。

「ああぁ〜ん。あ・ず・さ。せんぱぁ〜い」
「かおり、やめろって! ブラがぁ〜!」
「先輩の胸、柔らかぁ〜い」
「耕一! 何とかしてくれ!」

 かおりを引きはがそうとするとビキニのブラまで外れそうで、梓はブラとかおり、双方を両手で押え耕一に助けを求めた。

「助けは入らないんだろ?」
「それとこれは別だぁぁぁ〜!!」

 腕を組んで楽しそうに首を傾げる耕一を怒鳴り付けた梓は、それ以上耕一に構う余裕がなかった。
 既に頬を擦り寄せ縦横無尽に胸の柔らかさを堪能するかおりから、今にもはぎ取られそうなブラを守るだけで精一杯である。

「せんぱぁ〜い」
「あぁっ、ダメだったらぁ。かおりぃ〜」

 巧みに強弱を付けた手ワザと頬や鼻先まで使ったかおりの責めに、ブラを守りながらも甘い鼻声が混ざりだした梓の体からは、力が抜け抵抗も徐々に弱くなっていく。
 耕一は勉強になるな。等と、かおりのテクニックを食い入るように見詰めている。

「耕一お兄ちゃん。見てないで、梓お姉ちゃんを助けて上げてよ」

 突然現れて梓に襲いかかったかおりに、呆気にとられていた初音は、眉を寄せた心配そうな顔で腕を掴んだ耕一を見上げる。
 楓は驚いた表情のまま、真っ赤に上気した顔で固まってしまっていた。

「うん。でも………」

 もう少しで、モロなんだけど。なんて初音に言えるわけもなく。だらしなく緩んだ頬を引き締め、耕一は困った表情を作る。

「ね、耕一お兄ちゃん。お願い」

 クリクリした瞳で見つめる初音のお願いに、耕一が逆らえる筈もない。

「うん。初音ちゃんがそう言うなら。…かおりちゃん」
「なんですか?」

 恐る恐る声を掛けた耕一に冷たい視線と不機嫌そのものの声で、かおりはうっとうしそうに聞き返す。

「もう少しだ、頑張れ!」
「へっ?」

 邪魔させまいと身構えていたかおりは、キョトンとした顔をする。一瞬弱まったかおりの隙に、梓は素早く八割方ずり落ちたブラを直すが、かおりから逃げるまでには至らない。

「お、お兄ちゃん!?」
「ああっ、おしい! ヤッパ水着は取った方がさ。大きな胸がぽろっと、くくぅ」
「こ、耕一お兄ちゃん。おかしいよ、どうしちゃったの? そんなお兄ちゃん嫌いだよぉ」

 口元に手を当てサングラスをずり下げた間から、いやらしい眼で梓の胸を覗き込んだ耕一の腕を引っ張る初音は、頬を赤く膨らし悲しそうに首を弱々しく振った。

「耕一! あんた、どう言うつもりだ!!」

 耕一の捨て身の台詞に罵声を浴びせる梓とは対照的に、かおりはぐるりと周囲を見回した。
 先程からの騒ぎで、男女問わず遠く近くからビーチの視線が痛いほど集中している。

「サイッテェー」

 耕一を眇めた眼で見たかおりは、これだから男は等と呟き。耕一のいやらしい視線から梓を隠すように立ちはだかり、周囲に鋭い視線を送って好奇の視線を追い払う。
 自分以外の者には、見せるのも許せないと眼が語っている。

「……助けてやったんだろ」
「あっ! う、うん」
「ごめんね。耕一お兄ちゃん」

 ぼそっとした耕一の呟きで、梓も一応、貞操の危機が去ったのを自覚した。
 初音も赤い頬に照れた笑いを浮べ、後ろ手に両手を組んで耕一に嫌いと言ったのを申し訳なさそうに謝り首を傾げる。

「良いって」

 耕一が見上げる初音の頭を撫でると、ホッと息を吐いた胸に手を置き、初音はくすぐったそうに眼を細めた。
 かおりの独占欲を突いた、耕一の珍しい勝利だった。

「で。かおり。なんで、あんたがここにいんだよ?」
「先輩、私に会いに来てくれたんじゃないんですかぁ? クラブの強化合宿ですよぉ〜〜」

 うるうる瞳を潤ませ、梓の腕にまとわりついたかおりは拗ねたように言う。
 腕への頬ずりと、指先で脇腹から脇の下までを撫で上げるのを忘れない所が凄い。

「やめろって! でも。あんた三年だろ?」
「梓先輩に後を頼まれたのに、辞められないですよぉ〜」

 梓が頼んだから。とわざわざ念を押す当たり、かおりは梓の性格を知り尽くしていた。
 大学受験を控えたかおりが、自分の言葉でクラブを続けていると思えば、梓には邪険には扱えない。

「他の子はどうしたんだよ。一緒じゃないのか?」
「えっ! えぇ〜と。それはですね」

 少し困った顔をしたかおりを睨み、梓は両腕を組んで眼を細めた。

「さぼってんじゃ、ないだろうね」
「そんなぁぁ〜〜さぼりだなんて酷いですぅ」

 うるうる瞳を潤ませいやいやをするかおりに視線を据え、梓はグッと息を詰め心を鬼にする。
 ここで甘い顔をすると、かおりから逃げるチャンスを失うのは目に見えている。

「じゃあ、なんなんだよ? みんなが練習してるのに、あんただけ泳ぎに来たんだろ?」
「で、でもぉ〜。マネージャーは他にもいますしぃ〜」
「最低だね。みんなが頑張って練習してるってのにさ、一人だけ遊んでるなんてな。責任感のない奴は、大っ嫌いだ!」

 すがるような眼で見つめるかおりにプイと横顔を向け、梓は吐き捨てる。

「うぅ。大嫌いだなんて、そんなぁ〜〜梓せんぱぁい。だって先輩ったら、卒業してから全然顔も出してくれないし。花火大会も一緒に行きたかったのに、忙しいからダメだって。私、寂しいけど。ずっと我慢してたんですよぉぉぉ〜〜」

 チラッと横目を向けた梓の眼に、両手を組んでポロポロ涙を流すかおりの姿が映る。

「……悪…かったよ。後で顔出すから、みんなの所に戻りな」
「えっ! 本当ですか!? 絶対ですよ!!」
「あ、ああ」

 破顔して詰め寄るかおりに一歩引きつつ、額から汗を滴らせた梓は後悔しながら頷いた。

「今日が最終日なんです。花火も肝試しもありますから、絶対来て下さいね。みんなに伝えてきますぅ〜〜」

 梓に二の句を継がせず一方的に約束を押し付け、かおりは背中を向け何度も振り返っては手を振り走り去る。
 見事な引き際である。

「……おぉ〜い。だれが夜まで付き合うって言った」

 力ない梓の呟きは、波の音に打ち消された。

「せっかく助けてやったのに、なに墓穴掘ってんだ。馬鹿か」
「どうせ、馬鹿だよ。参ったな」

 呆れて言う耕一を軽く睨んだ梓は、その場でぺたりと座り込む。

「はぁ〜」
「イヤなら、行かなきゃ良いだろ」
「でも、耕一お兄ちゃん。約束破るのはいけないよね」

 疲れ果てた梓の横にぺたんと座り込み、初音は耕一に困った苦い笑いを向ける。

「初音ちゃん。一方的にかおりちゃんが言ってただけで、梓は約束してないだろ?」
「でも、練習見に行くって言っちゃたし。かおりさん、嬉そうだったよ」
「だからさ。ちょとだけ顔を出して、帰って来ればいいんだよ」
「あっ、そっか」

 ホッとした笑顔で頷く初音を見下ろし、耕一も頷き返す。

「そんな簡単な相手かよ。顔出したが最後、帰してくれるもんか」
「肝試しは、二人一組か? かおりちゃんと梓の二人で、夜の墓場かぁ?」
「言うなぁぁ!! ああぁぁぁぁ〜〜いやだあぁぁぁぁ〜〜!!」

 ジトッとした眼で耕一を見上げていた梓は、絶望的な予想に耳を塞ぎ、半狂乱で頭を掻き毟り膝立ちで耕一の腰に縋り付く。

「耕一ぃぃ〜〜助けてよぉぉぉ〜〜。一緒に来ておくれげぇぇ!!」

 恥も外聞もなくうるうる瞳を潤まし耕一に抱きついた梓は、その一瞬後、顔面から砂浜にめり込んでいた。

「あ・ず・さ・ちゃん。な・に・を・し・て・る・の・かなぁ?」

 口に入った砂を吐き出す梓に凍えるような一瞥をくれ、千鶴は梓の頭を叩いた手で口元の薄笑いを隠す。
 パレオを巻いた腰から伸びる白く細い足。その足元、柔らかそうなふくらはぎまでが、砂浜に深くめり込んでいたりする。
 赤く輝く縦長の瞳が、いつまでも調子に乗ってると妹でも狩っちゃうわよ。っと言っている気がするのは、気のせいか。

「うぅ。千鶴姉、なにすんだよぉ」

 梓は情け容赦のない一撃に、やり返す気力すら失って頭を抱えて呻いている。

「あ、梓お姉ちゃん、大丈夫?」
「あらあら。梓ちゃん、なんのことかなぁ?」

 梓を介抱する初音も、引きつった顔で凍り付いた耕一も、千鶴の惚けた猫なで声に行き成り寒波が襲ったような寒気を覚えていた。

「ち、千鶴さん。いつからここに?」
「私が居ると不都合でも?」
「大きな胸。の、前からです」

 イヤな予感を覚えて後じさった耕一に答えたのは、楓だった。
 顔を心持ち臥せ、耕一の退路を立つように背後を取った楓の声も、千鶴に負けず冷たく耕一に響く。

「あ、はっ。あれは、その」
「はい。あれは、なんですか?」

 目元以外で微笑み首を傾げる千鶴の長い髪が風もないのに妖しくなびき、陽を艶やかに照り返しきらきらと光の残滓をまき散らす。

「あ、梓。なんとか言えって…おい、梓!?」

 助けを求めた耕一の眼に映ったのは、初音の手を引き一目散に遠ざかる梓の背中だった。
 心配そうに振り返る初音の瞳がやけに耕一を切なくさせる。

「耕一さん。ちょ〜と、二人だけで、お話でもしません」
「ははっ。ち、千鶴さん、もうお昼だし、食事の後で」
「い・ま・す・ぐ」
「……は…い」

 可愛く小首を傾げる仕草とは裏腹にひときわ深くなった足元の穴が更にずぶずぶと音を立てる。赤みを帯び細くなった瞳に射抜かれ、もはや耕一は抵抗する力も失っていた。

 千鶴に腕を取られた耕一の瞳には、真夏の太陽より赤い瞳が、身震いするほど妖しくも眩しく輝いていた。

二章

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