夢幻の章 十一


 薄く朝の光が部屋を照らし始めた中、俺は軽い寝息に誘われ、穏やかな寝顔を見詰め額に掛かる乱れた髪を指で直した。
 指で頬を押さえると、柔らかい肌が俺の指を弾く様に押し返し、煩そうにしなやかな指が俺の手を払い退ける。
 もう一度指で滑らかな頬を押さえると、もぞもぞと体が横を向き掛布団を被り直す。
「…初音、…もうちょっと」

 いつもは初音ちゃんに起こされてるのか?

 新たな事実に、俺は苦笑を押さえた。
 掠れた眠そうな声に気は引けたが、もう朝食の支度をする梓が起き出す時間だ。
「千鶴さん。初音ちゃんじゃないんだけど」
 もぞっと布団の固まりが動き、掛布団の端から千鶴さんが恐る恐る顔を覗かせた。
「おはよう」
「あっ?…えぇっ!」
 俺が顔を覗き込むと短い小さな驚きの声を上げ、千鶴さんは布団を慌てて被り直す。
「な、何で? ど、どうして耕一さんが?」
 布団から聞こえたくぐもった非難混じりの声に、俺は頭を掻いた。

 千鶴さんも結構寝起きが悪い。

「どうしてって言われても。ここ客間だから」
「……えっ?」
 やっと千鶴さんは、真っ赤な顔を布団から覗かす。
「あ、あの。もしかして、あのまま寝ちゃいました?」
 瞳だけでキョロキョロと部屋を見回し、昨夜の事を思い出してくれ。ぎこちない笑みを布団で隠した千鶴さんは首を少し傾けた。
「もしかしなくても、そう」
「ごめんなさ〜い」
 俺が大きく頷くと、千鶴さんは謝りながら、また布団で顔を隠してしまう。
「いいんだけど。そろそろ梓が起きて来るよ」
「あっ! でも耕一さん、何処で寝たんですか?」
 やっと自分の寝かされているのが俺の布団だと気が付き、布団から目元を覗かし千鶴さんは俺を見る。
「うん。まあ適当に」
 言いつつ目元に残った涙の跡を指で拭うと、千鶴さんの目元が真っ赤に染まる。
「ごめんなさい。寒くありませんでしたか?」
 心配そうに言いながらも、千鶴さんは布団から出ようとしない。
「大丈夫だったよ。起きないの?」

 俺は焦りが出て来た。
 こんな所を梓に見つかったら、問答無用で叩きのめされる。
 下手をすると、本気で命が危ない。

「…でも」
「でも?」
 問い返すと、千鶴さんは更に赤くなる。
「…起きますけど。ちょっと後ろを向いてて貰えます」
「へ?」
 恥ずかしそうに眼の周りを真っ赤にした千鶴さんの言葉に首を捻ると、千鶴さんの眼がスッと細くなった。
「後ろを向いて下さい!」
「ああ、うん」
 裸で寝てる訳じゃ無し恥ずかしがる事も無いだろうに。と考えつつ。怖くなった声の調子にポリポリ頭を掻きながら、俺は言われた通り背中を向けた。
 布団から起き上がる気配に続きガウンを纏う衣擦れの音が聞こえたかと思うと。障子がスッと開き俺が振り返る暇もなく、足音が小走りに廊下を遠ざかって行く。
 閉められた障子を見ながら、俺は深い溜息を吐いた。
 朝のキス位は期待していた俺の儚い希望は、脆くも崩れた。

 何なんだ?
 俺なんか悪い事したか?

 考えてもガウンを脱がせた位で、何か特別した覚えもない。

 何も…しなかったから?
 ……まさかな。

 改めて眠る気も失せた俺は、洗面所で顔を洗い居間に向かった。


 居間に入ると、台所から包丁のまな板を叩く音が、規則正しく静かな居間にまで響いていた。
 台所を覗き込むと制服にエプロン姿の梓の肩が、包丁の音と同じ感覚でリズムを取っていた。
 包丁の音が止まるのを待って声を掛ける。
「梓、おはよ」
「あれ? 耕一、おはよ。また偉く早いな」
 振り返った梓は、包丁を手にしたまま腰に手を当て、俺を上から下まで珍しそうに眺め回す。
「ああ、今日帰るから。皆の登校前に挨拶をな」
「…ああ、そうだった。…帰って来ても居ないか……」
 少し視線を下げ、梓は思い出した様に寂しそうな顔を見せ。手にした包丁を握る手にも、僅かに力がこもっていた。
「随分長居になったからな、梓にも世話掛けたよな」
「そんなの。別に………」
「どうかしたか?」
 口ごもった梓に声を掛けると、梓は顔を上げ俺を上目遣いに見た。
「余分に買うとこだったと思ってさ」
「へっ?」
「夕食だよ。そうだった、今日から四人分で良かったんだった。危うく余分に買うとこだった」
 一気に捲し立てクルリと流しに向くと、梓はまた包丁を動かし始めた。
「じき初音も起きて来るだろ、居間で待ってなよ。タマネギ切るから、眼に染みても知らないよ」
 言いながら目元を拭く梓が、俺には無性に可愛く見えた。
「ああ、そうするか」

 タマネギなんか切ってないくせに。

「耕一」
「うん?」
 俺は台所から出て行こうとして、梓に呼ばれ足を止めた。
「ごめんね。腕、大丈夫か?」
「ああ、昔から怪我の治りは早いからな。もう痛みもないから、気にするな」
「うん。…なあ」
「うん?」
「帰っても、ちゃんと飯食えよ」
 背中を向けたまま梓はぼそっと言うと、また包丁を動かし始める。
「ああ、ちゃんと食うよ」
「耕一さん、おはようございます。今日は早いですね」
 梓の後ろ姿に目を細めて応えた俺は、居間からの声に振り返り額を押さえた。
 スーツに着替えた千鶴さんが、居間から俺に、穏やかな微笑みと温かい眼差しを向けていた。

 この女(ひと)は、何の屈託も無くシャラッとこういう台詞を言うか?

「おはよう、千鶴さん。いつも、こんなに早いの?」
 俺が意地悪く眼を細めて聞くと、千鶴さんは頬を膨らまし軽く睨む。
「千鶴姉が起きてるって? 珍しい、いつもは最後なのにさ」
 梓の声が台所から俺に応え、千鶴さんは赤くなって俯いてしまう。
「いえ、たまには朝食の用意を手伝……」
「朝から手間掛けるな!」
 千鶴さんが言い終わる前に、梓が怒声を上げ台所から居間に顔を覗かせ、
「梓! 包丁を何とかしろ」
 俺は梓が手にした包丁が、目の前で放つ鈍い光に寒気がした。
「あっ! ごめん。朝から、あんまり心臓に悪い台詞聞いたから」
 短く謝り梓は包丁を下げ、千鶴さんを横目で見やる。
「梓! どういう意味よ」
「そのままだろ。朝飯が昼になる!」
「酷いわ。いくら何でも昼だなんて」
 可愛く胸の前で拳を握り身をよじった千鶴さんの抗議も、梓には通じない。
「遅刻するだろ! あたしが料理始めた訳、忘れたとは言わせないからね!」
 包丁をビシッと突き付けられ、千鶴さんはウッと凍り付いた。
「梓、訳って何だよ?」
 興味を引かれ俺が尋ねると、千鶴さんは言うなと髪を揺らし小さく首を横に振る。
 梓はニヤッと笑い、俺に横目を流す。
「あたしが料理するまで、一応千鶴姉も、料理もどきは作ったんだけどさ」
「うん」
「朝は間に合わない。夜は食べるのが怖くって。給食だけが命綱。餓死するかと思ったよ」
 フッと息を吐き、梓は遠い眼で視線を彷徨わせ軽く頭を振る。
「だから。あたしが料理覚えたのは、生き残る為の知恵よ、知恵」
「梓! いくら何でも言いすぎよ!」
 胸の前で拳を握り締めた千鶴さんの抗議を無視し、大きく溜息を吐き、梓はキッと千鶴さんを睨み付けた。
「何でもいいから。朝は忙しい! 耕一とお茶でもすすってな!」
 梓の迫力にまたもウッと詰まり、千鶴さんは俺を横目で見ると、赤い頬にはにかんだ笑みで小首を傾げた。
 俺なら無条件で何でも許してしまう魅力的な笑みも、梓にはまったく通じない。
 睨んだ目を千鶴さんから逸らそうともしない。
「千鶴さん。まだ時間早いし、散歩でもと思うんだけど。一緒にどうかな?」
 可哀想になって千鶴さんに言うと、梓は俺の肩に両手を置き真剣な顔で俺を見詰めた。
「いいな耕一。まともなもん食べたかったら、千鶴姉を台所に、近づけるな!」
「……判った」
 真剣な瞳で言われ、俺はコクンと頷いた。
 俺は梓の声援を一身に受け、むくれた千鶴さんと散歩に出掛けた。



 川面から吹く少し肌寒く感じる風に乗って舞う粒子を、樹木の梢を抜ける柔らかな光が煌めかせる。
 小鳥の囀りが耳に心地好く届き、木漏れ日が光りのカーテンを揺らす山道をゆっくり歩く。
 夜とはまるで違う裏山の明るい爽やかさに大きく息を吸い込み、俺は後ろを振り返った。

 千鶴さんは家を出てから、俺から遅れ気味に後ろから着いて来る。
 何事か考える様に視線を伏目がちに落とし、俺が歩調を落すと少し遅れ同じ様に遅らせ、俺が歩調を戻すと同じ様に戻す。

「千鶴さん?」
 俺は足を止めた。
「えっ? あっ!」
 千鶴さんは俺が足を止めたのに気付かず、伏せていた顔を上げ俺の胸にトンと当たった。
「どうしたの? 梓に言われたの気にしてるの?」
 よろけた千鶴さんを両腕で抱き止め、俺は尋ねた。
「いいえ。そうじゃないんです」
 抱き止められたまま千鶴さんは、俺の胸に額を付け顔を上げ様としなかった。
「じゃあ、どうしたの? 起きた時もおかしかったよ」
「…あれは」
 木漏れ日を受け輝く髪を片手で梳く俺の目に、髪の透き間から覗く耳が赤く染まって行くのが見えた。
「俺、何か悪い事したかな?」
「いいえ。だって」
「うん」
「…眼が」
「うん?」
「…腫れて…ないかなって」
 俺の口から小さく笑い声が洩れた。
「おかしくありません!」
 むくれた声音で、千鶴さんは額を胸に押し付けてくる。
「ごめん。でもさ……」
「髪だって………」
「寝顔、ずっと見てたのに?」
 俺が言うと、やっと起きるまで寝顔を見られていたのに気が付いた千鶴さんは、ぱっと俺を見上げ、真っ赤な情けない顔で瞳を潤ませる。
「そんな顔しないで、寝顔も可愛かった」
 俺は言いつつ千鶴さんの額に唇を寄せた。
「起きるまで見てるなんて酷いですよ」
 千鶴さんは拗ねた声を出し、また俺の胸に額を押し付けた。
 俺は髪に手をやり、小さな頭を胸に抱いた。
「何も言わずに出て行くから、どうしたのかと思った」
「ごめんなさい」
 謝りながら俺の背に回された千鶴さんの細い腕が、俺を抱き締めてくれる。
「歩きながら、そんな事考えてたの?」
 尋ねると千鶴さんの腕の力が少し弱まり、胸の中で小さく頭が横に動いた。
「…怒らないで」
 躊躇いがちな声が聞こえ、背に回された腕の力が縋り付く様に強くなった。
「怒るって?」
「…耕一さん、寝苦しいんじゃないんですか?」

 今日帰るのに、この調子では。

 俺は小さく溜息を吐いた。
「本当に、あの夢は見ていない」
 俺もあれから連日繰り返し、僅かに口調が強くなる。
「ごめんなさい。でも…私」
「でも、一度制御すれば……」
 俺は言葉に詰まった。
 俺を見上げた千鶴さんは、怯えた子供の様な顔で不安を訴え、瞳に涙を滲ませていた。
「……ごめんなさい…力が…大きかったから……」
 ぽろぽろ雫を零す千鶴さんの声は掠れ、呟きの様に聞き取り辛かった。

 鬼を葬った俺の力が大きすぎて、制御出来ると信じ切れなかったのか?

「何で早く…ごめん…そんなに不安だったなんて。気が付けなくて、ごめん」
「…ごめん…なさい、でも…また…」
 謝る千鶴さんに最後まで言わせず、俺は強く抱き締めた。

 力を使わせ、俺が制御出来なかったらと考え言い出せなかったのか。
 俺は馬鹿だ。
 千鶴さんが不安を持っているのは知っていたのに。
 一度制御出来れば生涯出来ると教えた千鶴さんが、ここまで不安を抱いていたとは、考えなかった。

「使って見せれば、安心出来る?」
 体を離し出来る限り俺は優しく尋ね。
 千鶴さんは小さく頷いた。
「…解った。水門まで行けば、人もこない」
 俺は千鶴さんの目元の雫を指で払い、髪を撫でながら落ち着くのを待って水門に向かい歩き出した。

 あれからずっと不安を抱きながら、笑顔を作っていたのか。
 やっと判った。
 情緒不安定に見えたのは極端な為だ。
 以前の千鶴さんなら、俺が制御出来るか確かめていただろう。
 元が優しい女だ、良い姉と母親をやるのはまだ良い。
 当主と会長の責務に求められる厳しさを身に付けたのも判るが、不器用にすぎる。

 温かさと冷たさ。
 優しさと厳しさ。
 強さと弱さが、紙一重で拮抗している。

 それぞれを使い分ける器用さがあるのに、千鶴さんには、二つの間を適当に折り合いを付ける器用さが欠けている。
 厳しく冷たく振舞う為には、本来の自分を殺すしか無くなる。
 本来の自分を殺し俺を問い詰められず、どう対処して良いか判らない迷った態度が、俺には精神的な不安定に映ったのだ。
 普段の千鶴さんと、当主の厳格さを持って対する千鶴さんの両方を知る梓が、本性を知らない等という筈だ。
 普段押さえているストレスが、気安さから梓に出るのかも知れないが、怒らすと怖いと怯える訳だ。
 もっと早く気付けば………
 制御して見せるしかない。
 体が鬼化する寸前までで止めれば、刺激しすぎずにすむかも知れない。
 このまま帰れば、ずっと制御出来ていない不安を千鶴さんは抱き続ける。



 俺は水門の河原で一旦足を止め、千鶴さんから十数歩の距離を取った。
 知覚を最大限使い辺りを探ってみる。

 匂い、音、川面を渡る風までが、まだ慣れていない為だろう。人の時には感じない異質な鋭敏さで感じられた。

 辺りに人の気配はない。

 俺は心の檻から鬼を開放した。
 心臓の鼓動が高まり頭に響く、身体中の血管に血が流れ込み身体を熱くたぎらせる。
 細胞一つ一つが、力に満ち溢れ歓喜の叫びを上げる。
 辺りの大気が凄まじい鬼気に悲鳴を上げ、鳥が逃げ惑い一気に飛び立つ羽ばたきが大気を振るわせ。獣が怯え逃げ出す事も出来ず息を潜め。足元の砂利が増加する重量に土に沈み込み。川面の細波が徐々に高さを増し波が収る。

 俺は自分の瞳が赤く染まり、瞳孔が縦に裂けるのを感じた。

 身体中に力がみなぎり、耐え切れぬ力に体が変化を起こす寸前、俺は力を抑えた。
 今の状態でも、ここで葬った鬼以上の力が身体中を駆け巡っていた。
 目覚めたばかりの時とは違う。今なら組み合わなければあの鬼にも勝てる。

 俺は自分の力に、恐れと喜びを同時に感じた。
 人が持つには強すぎる力に恐れ。
 溢れる力に歓喜にも似た喜びを感じた。
 鬼では無く、人の持つ力への欲求が力を試せと叫んでさえいた。

 ゆっくり息を吐き、俺は千鶴さんに顔を向けた。
 自らを凌駕する力を前に、千鶴さんの表情には驚愕が、瞳には喜びが浮かんでいた。

 彼女もまた狩猟者だった。

 俺の力に反応し、彼女の力がざわめき高まっていた。
 俺の強大な鬼気に人として怯えながら、鬼として魅せられ。いいや、俺の力を誇っていた。
 敵ではなく、愛し愛された者の強大な力に瞳が輝いていた。

 狩猟者の本能なのかも知れない。
 自らを救ったより強い力に、彼女の中で俺の存在が変化したのも理解していた。
 本能だけでなく、伯父と親父がなし得なかった鬼の制御に、俺が成功したのが大きい。
 伯父夫婦を亡くしてからの環境も大いに関係しているだろう。千鶴さんに取って頼り信頼出来る者が親父だけと言う時間が長過ぎた。
 頼る者の前で、彼女は無防備な子供に戻ってしまう。
 彼女の長い間の精神的緊張が、限界に来ていたのかも知れない。
 俺達の想いとは別に、俺との関係が保護する者とされる者になりつつある。

 だが、俺自身が関係の変化を別の意味で理解もしていた。もう一つの彼女の姿に淡い恋心以上に引かれている自分を、鬼になった瞬間理解した。
 あの時、鬼を制御した瞬間、彼女の人を越えた命の美しさと、高貴な命の輝きに引かれている己を悟った。
 むろんそれだけではない。
 人として彼女を愛した気持ちは、今も代わりはない。
 だが、俺の願いとは逆に。
 俺がいる事で、彼女の笑顔は曇る事が多くなった。

 俺は徐々に力を抑えた。
 瞳が元に戻り、力が全身から失われていく。
 力を封じ終えた俺は、自分が頼りなく脆弱な存在に思えた。

 俺は、ゆっくり千鶴さんの元へ戻った。
「どう。安心してくれた?」
「はい、すみません」
 千鶴さんは嬉そうな陰りのない笑みで俺を迎えてくれた。

 俺が望んだ陰りのない明るさで。

「あれ以上は体が変化を起こす。ここで裸になるのもね。服が破れたら着替えを持って来てないから、帰れないし」
「耕一さんが裸で帰ったら、大変ですね」
 小さく笑う千鶴さんが、制御出来ると信じてくれて、俺はホッと胸をなで下ろした。
「じゃあ。急いで帰らないと梓にどやされるな」
「はい」
 千鶴さんが差し出してくれたハンカチで額の汗を拭い、俺達は微笑みを交わしながら引き返し始めた。

夢幻の章 十章

夢幻の章 十二章

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