夢幻の章 十
離れに戻ると、皆は初音ちゃんを囲み、初音ちゃんの手元を覗き込んでいた。
俺が入って行くと、初音ちゃんが顔を上げにっこり微笑んだ。
「お兄ちゃん、もう良いの?」
「待たせてごめん。あんまり資料が多いんで、時間掛かっちゃて」
初音ちゃんに答ながら座ると、梓が小さく息を吐き俺を軽く睨んでくる。
「遅いから、またぶっ倒れたんじゃないかって、様子見に行くとこだったよ」
「また、梓は」
梓の相変わらずの物言いに、千鶴さんも小さく息を吐き梓を軽く睨む。
「何言ってんの。千鶴姉だって心配して、そわそわしてたくせに」
「そわそわ何て。私は、その………」
梓に横目で見られ、千鶴さんは頬を仄かに染め、俺にチラリと視線を向け下を向いた。
その態度で、そわそわしていたのは茶室の上座の件だろうとすぐ判る。
「ごめん、心配掛けて。所で、集まって何してたの?」
楓ちゃんがチラリと視線を俺に向け、初音ちゃんの手元を食い入る様に真剣に見ているのが気になり俺は尋ねた。
「初音が、お守りが光ったって言うもんですから、見ていたんですけど」
はにかんだ笑顔で変わった話題に応えた千鶴さんから初音ちゃんに眼を向ける。
「本当に光ったんだよ。柔らかくて優しい光り方だったんだから」
初音ちゃんは大きく頷いた。
「だけどさ。ただの石が光るか? 光の具合でそう見えただけだって」
何度も梓は繰り返しているのか。初音ちゃんは梓に見間違えだと決めつけられ、手元に視線を落とした。
「でも、ただの石じゃないもの。地球外の物質だって叔父ちゃんが言ったもの」
「地球外?」
初音ちゃんの真剣な様子にも驚いたが、俺は、それ以上に地球外のと言うのが引っかかった。
「叔父様が初音の誕生日に下さったんですけど。初音を守ってくれるって」
「親父が? 初音ちゃん、ちょと見せてくれるかな?」
千鶴さんの説明に、俺は嫌な予感がした。
「うん。宇宙人が持って来たんだって。これだけど、綺麗でしょ?」
そう言って初音ちゃんが掌に乗せ差し出したのは。
青い透明感のある紡錘状の物質に、乳白色の筋が入った物を銀細工とおぼしき台に付け、同じ銀の鎖で吊すようにした物だった。
俺は本体に触れない様、慎重に鎖の部分を指で掴み持ち上げ、目の前にかざして見た。
思わず親父に悪態を吐きたくなった。
間違いなかった。
さっき茶室で見た鬼の角と同じ物だ。
何を考えて、地球外の物質だなんて親父は話した。
柏木当主だけの秘密だというのに、まして証拠まで。
…いや、角が持ち主に返ったのか?
だとすると、四人とも?
「耕一お兄ちゃん、お守りがどうかした?」
俺は余程真剣に角を見詰めていたのか、初音ちゃんが心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「いや。親父も案外ロマンチストだと思ってさ。綺麗だけど、今は光ってないね」
茶室で触れた時は確かに光った。
あの時、一緒に反応したのかも知れない。
「だから、光の加減だって」
「…うん。でも、さっきは確かに光ったんだけどな」
梓に横から再び言われ。俺がかざした角を見ながら、初音ちゃんは納得出来ないと首を捻った。
「ありがと。楓ちゃん」
初音ちゃんの掌に角を戻す俺に、楓ちゃんがお茶を差し出してくれた。
湯飲みを受け取りながら、俺は楓ちゃんの問い掛ける様な瞳から目を逸らした。
澄んだ瞳に、寂しさと哀しさ、困惑と不安が浮かんでいた。
瞳を見詰めていると、今にも俺は彼女を抱き締めてしまいそうだった。
俺は不自然にならないよう、逸らした視線を湯飲みに向けた。
「でも、光っても光らなくても、親父の気持ちだからさ」
親父にも何か考えがあって初音ちゃんに渡したんだろう。
俺が言うと千鶴さんは小さく初音ちゃんに頷いて見せ。初音ちゃんはジッと角を見詰めた。
「うん。大事にするね」
明るい声で頷き、初音ちゃんは大事に両の掌でお守りを包み、そっと頬を擦り寄せた。
千鶴さんも楓ちゃんも、そんな初音ちゃんの仕草に温かい眼差しで初音ちゃんの様子を見守り。梓も親父を思い出したのだろう、大人げなく言い張ったのを恥じる様に視線を落とし、神妙な顔で鼻の頭を掻いていた。
程なく離れに戻って来た住職に丁寧に礼を述べ、俺達は家路に着いた。
§ § §
音もなく暗い廊下に、乾いた音が二つ響く。
程なく小さな金属音に続きドアが細めに開き、怪訝そうな表情の千鶴さんが顔を覗かせた。
ドアの前に立つ俺を認めた千鶴さんの表情が微笑みに変わり、少し困った顔になると、頬を染め視線を下げた。
多分、誤解してるな。
無理も無い、もう夜中近い。
寺から帰ってからは、明日帰るのもあって初音ちゃんがずっと側に居た。俺は伯父からの手紙を渡すチャンスを逸していた。
昼間の疲れも手伝い、皆が早々に床に就いてから、帰る準備を済ませ千鶴さんの部屋を訪ねたのだが。この時間に足音を忍ばせて部屋まで来れば誤解もされる。
「ごめん、寝てたかな?」
「…いえ、まだ起きてましたけど」
恥ずかしそうに応える千鶴さんの囁きで、俺は完全に誤解されているのを確信した。
「実は、住職から預かり物が在って」
まずは誤解を解こうと、俺は切り出した。
「和尚様から?」
不思議そうに眼を上げ俺を見ると、千鶴さんは睫毛を瞬かせ、少し難しい顔になった。
直接渡さず俺に頼んだ住職の真意を謀っているのだろう。
「夜中に悪いんだけど。出来れば、客間の方に来て貰えるかな?」
「あ、はい」
「先に行ってる」
千鶴さんが小さく頷くのを確認して、俺は踵を返した。
多少の罪悪感が、俺に僅かの間でも部屋の前で待つのを躊躇わせた。
手紙だけ渡しても良かった。だが、手紙に遺書に触れている部分があれば、俺が勝手に処分したのが知れる危険がある。
姉妹の部屋の近くではマズイ。
完全防音でないのは、俺自身千鶴さんと楓ちゃんの話を扉の前で立ち聞きして知っていた。梓の部屋が隣に在る以上、余計なリスクは避けたい。
俺は、客間で障子に向い正座で待った。
月明かりに浮かぶ千鶴さんの影は、時を置かず現れた。
静かに開かれた障子戸から、ナイトガウンを纏った千鶴さんが姿を現し、俺は軽い既視感に襲われた。
あの時と同じ光景。
だが、千鶴さんの浮べた表情は温かい。
僅かの間に俺の人生が変わった。
半月前は、バイトの金でドコに旅行に行くかが悩みだったのに、今では悩みが人生そのものになってしまった。
もう戻れないと思うと、後悔はないが懐かしくもある。
思い出しさえしなかったら、鬼になっても幸せでいられた。
「耕一さん、どうかしましたか?」
つい考え込んでいる間に、千鶴さんは既に俺の前に腰を下ろしていた。
「いや。しばらく会えないと思って」
口にした途端、俺を寂しさが包んだ。
帰れば朝起こしてくれる優しい声も、温かな眼差しも、俺の生活とは無縁になる。
大学に通い、一人の部屋で一人で食事を作り食べるだけの生活。
母さんが死んでから慣れたと思っていたのに。
今は、考えるだけで虚しくなる。
何の事はない。何か理由を付けて、俺が少しでも長くここに留まりたかった。
「もう、今日なんですね」
寂しそうな囁きが千鶴さんの口から洩れ、俺達はしばらくジッと見詰め合った。
「…そう、だった」
俺は手紙の事も忘れ、手を伸ばし柔らかく滑らかな肌を確かめたい欲求を断ち切り。視線を逸らし傍に置いた封筒に手を伸ばした。
俺は何も言わず、封筒を千鶴さんの前に差し出した。
千鶴さんは手に取るまでもなく、宛名だけで誰からか判ったのだろう。軽く瞳を開き、差し出された封筒を見詰めていた。
僅かな時間、封筒を見詰めていた千鶴さんは、顔を上げ問い掛ける瞳を俺に向けた。
「俺宛の物と一緒に。親父の死後、渡す様にと」
俺の声に反応は見られなかった。
何も聞こえなかった様に封筒に視線を戻し、微かに震える手を封筒に伸ばした千鶴さんは、読むのを躊躇う様にそのまま封筒を見詰めた。
千鶴さんは静かに息を吐き封を切ると、俺に宛てたと同じ便箋を取り出した。
封筒から便箋と供に、もう一通の小振りな封筒が零れ落ちるのが俺からも見えた。
だが、千鶴さんは落ちた封筒にも気付かない様に便箋を広げ。やがて静かな部屋に小さく嗚咽が響き、最後の一枚を読み終えた千鶴さんの頬を涙が止めど無く流れていた。
手紙を胸に抱き、肩をすぼめ押し殺した嗚咽を微かに震わせるその姿は、あまりに哀しく寂しかった。
俺は震える肩をすぼめ、握り締めた手紙を胸に抱いた千鶴さんの肩にそっと手を伸ばし。肩に触れた瞬間、微かに身を震わした千鶴さんは、俺の胸に倒れ込む様にすがり、声を上げて泣き始めた。
俺は両腕で抱き締め、片手で髪をもう片手で背中を優しくなで、千鶴さんの泣くに任せた。
俺には掛ける言葉が見つからなかった。
幾度、幾夜こうやって、独り肩をすぼめ泣き声を押し殺して来たのか。
妹達に知られない様、両親を、親父を亡くし、独り声を殺し泣く姿が脳裏に浮かび、俺は抱き締めながら手を動かし続けた。
どれ位そうしていたか、徐々に嗚咽が収まり、顔を上げた千鶴さんは涙を拭きながら、俺に便箋を差し出した。
眼で問い掛けると、千鶴さんは小さく頷き、俺は便箋に眼を落とした。
手紙には、親でありながら千鶴さんの重荷になったと詫びる伯父の長い謝罪と、姉妹の幸せを願う言葉が続いていた。
しかし『何者にも縛られず幸せに』と伯父の手紙に書かれたこの一文の真の意味と、何故この時期に届けられたかを、千鶴さんが知る事はない。
次郎衛門の遺書の内容を知った伯父が、当主になる千鶴さんに残した最後の言葉だった。
辛うじて流れそうになる涙を堪え読み終えた俺に、千鶴さんは、もう一通の封筒を躊躇いがちに差し出した。
俺は僅かに迷った。
苦しめる元凶になった俺で良いのかと頭の隅を過り、受け取る手が止まった。
伯父から千鶴さんに宛てた手紙には、同封の一通は、千鶴さん、もしくは妹達の伴侶が、柏木の血の秘密を受け入れた後に渡す様、記されてあった。
「……耕一…さん?」
迷いに手の止まった俺は、千鶴さんの不安を湛えた震える声音に顔を上げた。
頬に残った涙の後をそのままに、千鶴さんの表情に不安が深い影を落としていた。
俺は微笑んで見せ、傍らに置いてあった伯父から俺に宛てた手紙を取り上げ、千鶴さんの手から手紙を受け取り、代わりに俺宛の手紙を千鶴さんの手に乗せた。
俺の躊躇いを手紙を渡す為と取ってくれたのか、千鶴さんは静かな微笑を取り戻してくれた。
伯父の二通目の手紙には、柏木の血を受け入れてくれた感謝と、娘達のせめて人並みの幸せを願う気持ちが綴られていた。
文面の中で、見知らぬ誰かに娘達を託すしか無い伯父の苦悩と、娘達の幸せを願う懇願が滲んでいた。
俺は二通目の手紙を千鶴さんに返し、読む様に促した。
八年を隔て父からの手紙が届くとは、考えてもいなかっただろう千鶴さんは、読み進む内、また新たな雫を滴らせていた。
しゃくり上げる千鶴さんを胸に抱き、俺は、彼女達の為に何が出来るのかを考えていた。
どの位時が流れたのか、気が付くと千鶴さんは胸の中で泣き疲れ、微かな寝息を立てていた。
無理もない。
いくら治りが早いと言っても表面上の事だ。鬼から受けた傷は深かった、疲れていない訳がない。
それ以上に、親父が死んでから親父の死の疑惑や俺の鬼と、気が休まる暇もなかっただろう。
俺に力があれば、無理にも休ませられた。
今の俺には、彼女を抱き締める事しか出来ない。
俺は起こさない様に気を付け、千鶴さんのガウンを脱がせ布団に横たえ。電気を消すと壁に背をもたれかけ、静かな寝息を耳に、障子越しの月明かりに浮かぶ寝顔を見ながら夜明けを待った。
眠る訳にはいかなかった。
また夢を見て飛び起きでもすれば、千鶴さんの不安をかき立てる。
親父は、鬼と戦いながら膝を抱え夜明けを待った。ただ夜明けを待つだけの俺に、まして安らかな寝顔を見ながら待つのでは、雲泥の差が在る。
寝息に刺激された純然たる欲求を押さえる努力は必要だったが。
俺の欲求と比べるのは親父達に悪いと考え。
その時、俺の中に疑問が湧いた。
何故だ?
八年前から発現の兆候が在り、俺や母さんを襲う危険を感じていたのに、親父は従姉妹達と暮らしている。
鬼の本能は殺戮だけでは無かった。
性衝動も凄まじかった。
水門で倒した鬼も、同族の千鶴さんに異常な執着を示した。
あの時奴は、最初戦いだけでなく、契りを結び同族を増やす事も考えていた。
千鶴さんは八年前、十五。今二十三、もし親父が鬼に飲まれれば、最初に狙うのは千鶴さんだった筈だ。
梓達が小学生や中学の間なら養育の為だと理解出来る。何故親父は、千鶴さんが成人しても、梓達が高校に入っても住居を移さなかった。
親父を信じていない訳ではない。
信じているからこそ持った疑問だった。
鬼の衝動は、一度解き放たれれば人の意思など入る余地がない。
何より大切な従姉妹達を危険にさらしながら、親父が住居を移さなかった理由が気になった。
考えて見ると昨年母さんが死んだ時、親父が俺に、柏木本家に来ないかと誘ったのもおかしい。
大学が在る俺が、望んでも来る事が出来ないのは判っていた筈だ。
親父の真意は、いったい。
俺の疑問は、どんどん膨れ上がり。
夜が明けても、答が出る事はなかった。