夢幻の章 十二
通学路を途中まで送って来た初音ちゃんが、振り返りながら道路の角を曲がるのを見送り。俺は踵を返そうとして、曲がり角から道路に落ちた影に気が付いた。
ピンと立った癖毛が、ゆらゆらと躊躇う様に揺れていた。
声を掛け様かと思い、考え直しそのまま踵を返した。
初音ちゃんの事だ、声を掛ければ無理にでも笑顔を作って見せ、何でもないと学校に向かうだろう。それよりは、気付かない振りで背中を向ければ、初音ちゃんは俺の姿が見えなくなれば学校に向う。
束の間の別れでも、残す者より残される者の方が辛い、幾度も繰り返す事も無い。
帰り道を急ぐ途中、やはり通学途中の梓と出くわした。
「よっ、梓。元気でな」
片手を上げ、一言掛けて横を通り過ぎる。
「なんだよ、耕一。真っ直ぐ帰る気か?」
案の定、梓のむくれた声が背中に飛んで来た。
「あん? 他にする事もないしな」
「まだ、電車まで時間あるだろ?」
さりげなく横目で覗くと、何か言いたそうに梓は、赤い顔で鼻をぽりぽり掻いている。
「そうだな。帰って楓ちゃんに、途中まで付き合うか」
意地悪く言うと、梓の拳がぐっと握られフルフルと震えた。
「耕一、お前は」
「その前に」
怒りを抑えた震える声に、さりげなく返す。
「何だよ?」
「梓に、少し付き合うか」
「えっ?」
振り返ると、ぽけっと気の抜けた顔になった梓が、上げた拳の持って行き場に困り視線をうろうろ泳がせる。
「嫌なら止めとくけど?」
「いや。まあ、耕一がどうしてもって言うんなら、付き合わせてやるか」
偉そうに赤い顔を背けて言う梓の頭を軽く叩き、俺は先に歩き出す。
「てっ! 耕一あんたまた。頭をぽんぽんと叩くんじゃない!」
「いてっ!」
「あれ!? 今日は何で逃げないの?」
頭にクリーンヒットした拳の痛みに顔をしかめると、梓の慌てた声が後ろから聞こえてきた。
「お前な、手加減って知ってるか?」
俺は振り返り、軽く梓を睨み付ける。
「先に手を出したの、耕一だろ」
「まあ、そうだな」
俺が返すと、梓は虚を突かれた様に軽く眼を開き、まじまじと俺を見直した。
「なあ、耕一。最近なんか変じゃないか?」
「変? 俺が?」
俺は歩みを止めず聞き返す。
「うん。寝込んでからさ、何か前より落ち着いたって言うか。暗くなったって言うかさ」
「暗くってな。俺は根暗か?」
小走りに横に並んだ梓の言葉に、俺は苦笑を洩らした。
梓に見抜かれてる様だと、皆気付いてるな。
「いや、そう言うんじゃなくて。たまに何か考え込んでるし。今だっていつもなら、さっさと逃げるのにさ」
「ああ、来年は俺も就職だからな」
「あんた、就職って一年も先じゃない? そんな先の事考えてたの?」
呆れた様に見る梓に、俺は曖昧な笑みで見返し、
「逃げなかったのは、昨日貸しがあるから、殴られると思わなかった」
目を細めて見せる。
「昨日って?」
「お前な。恩に着るって言わなかったか?」
あっさり忘れている梓に、俺は頭痛を覚えた。
千鶴さんが、しつこく叱る訳だ。
「ああ、言ったっけ? でも、耕一のお蔭か?」
俺が体調を崩し曖昧になっただけだと、眇めた目を向ける梓に向い。俺は指を一本出し振って見せる。
「努力はした。千鶴さん、心配してたぞ」
「心配ね。八つ当たりじゃない?」
梓はケッと言うと、不満そうに口を尖らせる。
「まあ多少は、それも在るかな? でも、千鶴さんよく遣ってると思うけどな。鶴来屋の会長だけでも大変だろう?」
チラリと隣を覗くと、千鶴さんの苦労を判ってはいるのだろう。梓もばつが悪そうに難しい顔をしていた。
「耕一は、千鶴姉の味方かよ? ったく」
「昨日は千鶴さんに、梓の味方かって言われたよ」
どっちの味方もないだろうと軽く梓を睨む。
「あっ、耕一、ちゃんと言ってくれたの? 悪い」
口を尖らしていた梓は、小さく拝んで見せる。
「俺は良いけどさ。千鶴さんにあんまり心配掛けるなよ」
「うん、耕一にも怪我させたし悪かったよ。でもさ、千鶴姉に当られる方の身にもなってよ。手加減ってもん、知らないんだから」
珍しく梓は素直に自分の非を認め、俺に上目遣いにした眼を向ける。
「まあ、千鶴さん不器用だからな」
「そうそ、千鶴姉には、加減なんて言葉ないんだから。困った姉だよ」
俺が小さく溜息を吐き言うと、勢い込んで梓は言う。
俺と梓では心配してる、不器用の内容が違いすぎる。
「お前が言うな。手加減無しで殴っといて」
俺は、殴られた頭を撫でながら言う。
「加減は、してる」
梓はむすっと言い返す。
「疲れてるんだろ。家は梓に任せてるみたいだけど。鶴来屋は大き過ぎるよな」
「当り前だろ。家の事に千鶴姉が手を出したら、あたしの仕事が増える」
梓は身体を震わし嫌そうに言う。
「違うって。そう言う事じゃなくって梓を頼ってるから、叱る時もきつくなるんだろ?」
「そうかな? やっぱり」
鼻を掻きながら、梓はぬけぬけと胸を張る。
「お前だってそうだろ? ここん所、千鶴さんに当ってなかったか?」
単純に気を良くする梓に、俺は横目で覗きながら意地悪く言ってやる。
「うん。まあその、かおりの事で苛々してたからさ」
決まり悪そうに梓は、ぼそぼそと応える。
「梓も来年は大学なんだから、少しは落ち着いたらどうだ?」
「何だよ説教? 耕一のくせに」
「まあ、俺らしくないよな」
何も話さずに千鶴さんの辛さを、梓に判れって言っても無理だよな。
「そうそ。真面目な耕一なんて、らしくないって」
梓は調子に乗って、俺の背中をばんばん叩く。
「だから加減しろって」
俺が咳き込みながら言うと、梓は照れくさそうに、ははと乾いた笑いを洩らした。
「なあ、耕一」
梓はいきなり神妙な顔になり、視線を落とした。
「何だよ?」
「就職ってさ。向こうでするの?」
「まだ一年在るしな、どうするか判らないけど」
俺としては、ただの言い訳に過ぎなかった就職を蒸し返され、首を捻り返した。
「こっちに来る気、無いのか?」
上目遣いに横目で俺を見て、梓は言った。
「こっちって? 鶴来屋か? それとも、屋敷に住めってか?」
「そりゃ、耕一が鶴来屋手伝ってくれたら千鶴姉も楽になるし嬉しいだろうけど。それが一番いいけど。でも、他でもいいんだ。耕一が家に居てくれたら、初音だって楓だって喜ぶし。やっぱり、その何て言うかさ………」
途切れた言葉が、寂しい、だと判っていた。
強気で無鉄砲で弱みを見せないが、人一倍寂しがりやの梓の事だ。何も言わないが。いや、口にしない分、親父の死が余計堪えているのだろう。
「まだ一年在るさ。でも、無事卒業出来るかな?」
一週間前なら、迷わず来ると言えた。
だが今は。
俺は言葉を濁し、自信なさげに頭を掻いて見せた。
「たっくう。卒業危ないのか? ぐうたら寝てるからだろ」
少し赤くなった顔を手で額を押さえて隠し、呆れた様に梓は首を横に振った。
「さて、そろそろ俺は戻るよ」
「えっ、もう?」
少し寂しそうな顔をした梓に、俺は笑って手を振る。
「ああ、楓ちゃんにも挨拶しとかないとな」
「うん。…じゃ、元気でね」
「ああ、梓もな」
俺は踵を返し歩き出した。
梓が立ち止まったまま向けた視線を背中に感じたが、それもふいに消え。走り出した梓の靴音が遠くなって行った。
屋敷に戻ると、丁度楓ちゃんが玄関で靴を履いている所だった。
「楓ちゃん、そこまで送るよ」
「あっ…はい…」
一瞬躊躇った後、楓ちゃんはコクンと頷いた。
屋敷の門を潜り、しばらくの間、俺と楓ちゃんは肩を並べ無言で歩いていた。
「楓ちゃん」
俺が静かに呼び掛けると、楓ちゃんは伏目がちに落した視線を上げ、俺を見上げた。
「今朝、千鶴さんに使える所見せたから。もう心配しなくて良いよ」
俺は出来る限りの優しさを込め言った。
「…はい。姉さんから、聞きました」
安心した穏やかな表情で、楓ちゃんは俺に応えた。
「それと、聞いて良いかな?」
「…はい?」
小首を傾げ、楓ちゃんは小さく頷いた。
「やっぱりさ、昨日、何か言い掛けて止めなかった?」
「えっ、いいえ」
楓ちゃんは、困った様に視線を落し勢いよくフルフル首を横に振る。
いつもとは違う慌てた首の振り方が、俺の想像が正しい事を教えてくれた。
「そう。じゃあ、いいんだけど。何度もごめんね」
こうまで話したくないなら仕方ない。
そのまま会話は俺が話し掛け、楓ちゃんが頷きと静かな微笑みで返すいつもの形になり。当たり障り無く梓や初音ちゃんの話しを続け。
学校と屋敷の中間で、俺は屋敷に戻る事にした。
楓ちゃんに、お礼と心配を掛けたお詫びをもう一度言い。楓ちゃんは首を横に振って照れくさそうに頬を染めた。
俺は屋敷に戻る道を急ぎながら、楓ちゃんと千鶴さんの昨日の態度を考えていた。
昨日楓ちゃんと千鶴さんの見せた不自然さが、俺は気に掛かっていた。
姉さんは、と言いながら。直ぐ梓姉さんと言い直した楓ちゃん。
もし外でと洩らし、言葉を濁し曖昧に笑って見せた千鶴さん。
あの曖昧な笑いは、俺が鬼の夢の話をした時、千鶴さんが胡麻化した時と同じだった。
楓ちゃんが言い掛けたのは、千鶴さんが梓に厳しくする理由だと、俺は考えていた。
まだ俺に教えられない、何かが在るのか?
俺は屋敷に帰り、その足で仏間に向った。
じき千鶴さんの出社の時間だ。
この時間なら仏間だろう。
思った通り、千鶴さんは仏間で親父と話していた。
寂しそうな表情だが、以前の様な崩れそうな空虚さは感じられない。
白い布で覆われた骨箱に、遠く懐かしむ様に細めた瞳を向け。千鶴さんは、背筋を伸ばし正座していた。
愛しむ瞳の光、失った者の大きさを感じさせる、深い陰りを浮べた表情。
こんな千鶴さんを見れば、誰もが千鶴さんが、親父より鶴来屋を選ぶなどと思わないだろう。
あの刑事も、飛んだ間抜けか、切れすぎるかだ。
浮かび掛けた苦笑が、自分の中のもやもやした気持ちを胡麻化す為だと判っていても、俺には止められなかった。
俺は親父に嫉妬している。
自分自身の力の無さに対する、理不尽な感情だと判っていても。千鶴さんが叔父以上の存在として見ていた親父に、確かに嫉妬していた。
千鶴さん自身も、親父を男性として見ていた自分に、気付いてはいないかも知れない。
いくら昔の記憶が蘇ろうと、柏木耕一としての俺は、依然として大人には成り切れていないのだろう。いいや、過去の強すぎる少女との繋がりが、今の千鶴さんとの繋がりを、苛立たしく感じさせるのか。
この家にとって親父の存在は、大き過ぎる。
今となっては、それが救いになるかも知れないが。
親父を亡くした痛みに耐えられたのなら……
「耕一さん、どうかしましたか?」
考え込んでいた俺は、不意の声に顔を上げた。
上げた視線の先で、仏壇の前から千鶴さんが不思議そうに俺を見上げていた。
「いや。帰る前に親父に挨拶をね」
部屋の入り口で柱に寄り掛って、考え込んでいれば当然か。
「ごめんなさい。初音ったら、中々家を出ようとしないから。耕一さんに、ご迷惑を掛けて」
申し訳なさそうに千鶴さんは謝る。
実は、俺は玄関で別れを済ますつもりだったのだが、初音ちゃんが中々学校に行こうとしないので、途中まで送る事になったのだ。
「そう言うの、他人行儀って言うんじゃない?」
来てから何度目かの同じ台詞を俺が笑いながら返すと、千鶴さんは小首を傾げ笑みを零した。
「梓と楓ちゃんも、途中まで送って来たから」
言いつつ俺は、仏壇の前に脚を進めた。
千鶴さんはスッと腰を上げ、俺に場所を譲ってくれる。
「三人とも、仕方ない子達」
千鶴さんの少しむくれた響きが混じった声に、俺は苦笑しつつ線香に火を付け、手で扇いで消し、仏壇に手を合わせた。
不肖の息子をどうか許してくれるよう。
親父が幸せを願ってくれた俺自身が、不幸を呼んだ元だった。親父に俺は、従姉妹達の行く末を見守ってくれる様に、願う事しか出来なかった。
「ごめんなさい。御見送りしたいんですけど」
千鶴さんの出社時間も迫り、俺は一緒に屋敷を出るつもりで部屋に荷物を取りに戻り。部屋まで付いた来た千鶴さんが、申し訳なさそうに眉を寄せた。
「千鶴さん、仕事なんだから、気にしないでよ」
朝から会議で、駅まで見送れないと残念がる千鶴さんに笑って返す。
「…でも…あっ!」
「なに? どうかした?」
申し訳なさそうに曇った表情を、いきなり明るくさせ、ぽんと手を打った千鶴さんに驚いて尋ねた。
「車に先に行って貰って、私も電車で行けばいいんです」
良い思い付きと満面の笑顔を見せる千鶴さんに、俺は眩暈がして来た。
どうして子供みたいな事を言い出すんだ。
「千鶴さん、そうも行かないだろ?」
車で送り迎えする意味だって、それなりにあるんじゃ無いのか?
「どうしてです? 電車でも間に合いますから、駅まで一緒に行きます」
「でも……」
「初音達は送ったのに、私だと邪魔なんですか?」
俺がなおも言い募ろうとすると、千鶴さんはキッと睨み付ける。
「い、いや。とても嬉しいよ」
何か論点がずれてるぞ。
「じゃ、いいですよね」
「…うん」
にっこり微笑まれ、俺は返す言葉を失った。
やっぱり初音ちゃん達を送って行ったの、羨ましがってたのか。
だが、俺達は門を出た所で又も、あの刑事の訪問を受けた。
どうもこの長瀬という刑事は、相手の時間が無いのを見計らって来る様だ。
「帰りの時間が在りますので、手短にお願いします」
俺は素っ気なく、腕の時計を見て言った。
「御時間は取らせませんよ。事後報告だけですから」
長瀬という刑事は、今日はあっさり頭を掻きつつ、親父の死亡は事故として処理されたと経過報告をのんべんだらりと済ませた。
だが、長瀬の何か引っかかる視線は、自分はそうは思っていないとも取れた。
長瀬の訪問で、千鶴さんは電車の時間に間に合わなくなり。ローカル線の哀しさ、次の電車では会議に間に合わないと、迎えに来た車の中から長瀬を恨みがましく睨み付け。
俺に帰ったら電話する様に何度も念を押し、車の中から名残惜しそうに俺を見詰めつつ出社して行った。
千鶴さんを乗せた車を手を上げ見送った俺は、肩を叩かれ振り返った。
「あの私、何か悪い事でも?」
千鶴さんの怨みのこもった視線を浴び、及び腰で俺に尋ねた長瀬に、俺は感心した。
並みの神経なら、殺気だった千鶴さんの視線で真っ青になっている。
長瀬は顔色も変えず、腰は引けても飄々とした者だ。
「重要な会議らしいです」
「ああ。それは、それは」
ははは、と笑いを洩らした長瀬に、気にした風はまったく感じられなかった。
「もう良いですか? 俺も電車の時間がありますんで」
「ええ、私も電車ですから。駅までご一緒して、宜しいですか?」
長瀬の申し出を断ろうとして、俺は思い直した。
刑事なら、惨殺事件のその後を聞けるかも知れない。
「ええ。良かったら、どうして親父が殺されたと思ったのか、教えて下さいよ」
嫌味たっぷりに言って遣ったが、長瀬には堪えた様子も無い。
「まあ、睡眠薬と酒ですからね。利害の在る者もいる。自殺にしては手が込んでるし遺書も無い。事故にしてはね、睡眠薬飲んで運転しませんよ」
歩き出した長瀬は、淡々と喋り出した。
「睡眠薬で眠らせ、酒を飲まして車と一緒に? サスペンスの見すぎじゃない」
多少俺は呆れた。
まるっきりドラマだ。
「刑事の感って奴ですかね」
「でも、事故だった」
「手が足りませんでね。皆あの事件に狩り出されまして。ああ、従妹さんの後輩も被害者でしたよね?」
手が足りなくて捜査出来ない?
遺族に面と向かって言うとは、何て刑事だ。
「ええ」
短く返すと、長瀬は遠くを見る様に視線を上げた。
「実の所、あの事件も謎だらけでね」
「薬中、捕まえたんじゃ無かったの?」
惚けて返すと、長瀬は奇妙な笑いを浮べた。
「人間に出来る殺し方じゃ在りませんって。うっかり喋ったお蔭で、捜査から外されましてね。暇で暇で」
「前に一緒に来た若い刑事さん、柳川さんだっけ? 外されなかったの?」
「行方不明」
「えっ?」
俺は長瀬の呟きを聞き取れず、聞き返した。
「被害者見つけたの、私なんですわ。柳川が休んでるんで見に行ったら。何と、隣が犯人の部屋」
自嘲する様に視線を落し、長瀬は薄く笑った。
「犯人に殺されたか。共犯だって言う奴までいましてね。ま、組んでた私が外された訳ですよ」
俺は、柳川と言う男を思い出していた。
何処かで知っていると感じた、最初の出会いを。
あいつが鬼?
それなら、知っていると感じてもおかしくない。
「どうかしました?」
考えに耽っていると、長瀬の間の抜けた声が聞こえた。
顔を向けると、ぼさっとした長瀬の顔に、目だけが鋭く光っていた。
「いいえ。真面目そうな人だったから」
「ええ、真面目すぎましてね。仕事一辺倒な奴で。無事でいて欲しいもんです」
そう言いながらも、長瀬からは心配しているとか、そういう感情は感じられなかった。
「あれから事件は起こってないんでしょ? だったら、捕まったのが犯人じゃないの?」
俺は長瀬が他に犯人がいるという根拠が知りたかった。
「起こっちゃいませんがね。まあ、部外秘ですから」
「最初は、野性動物って言ってたっけ?」
長瀬に更に聞くと、俺にチラリと視線を向けた。
「ええ、まあ」
言葉を濁し、長瀬はふっと息を吐いた。
「そうですね。ま、いいか。私の質問に答えて頂けたら、御教えしましょ」
ニヤリと笑うと、長瀬は俺にそう持ち掛けた。
「答えられる事なら、どうぞ」
俺は警戒しつつ返す。
「これ、個人的な興味で、蒸し返すつもり在りませんから。お父さん、貴方に会社継がせたかったんじゃ在りません?」
別に意外でもなかった。
親父が俺に継がせたがり、千鶴さんが殺したって公式だろ。
「言ったでしょ。八年間別居で、俺より従姉妹達の方が家族ですよ」
「余計じゃないですか? 何もしてやれなかった息子に、せめて何か残して遣りたい。親心でしょ」
溜息混じりの俺の言葉を、長瀬は一笑に付した。
「俺が受けるとは、思わなかったでしょうがね」
「ほ〜、何故です?」
軽く眼を開き、芝居がかった口調で意外そうに長瀬は言う。
鶴来屋グループを、受け継ぎたくないと言うのは信じられないと言った所だろう。
「学費や仕送りも、俺が断ると思って母の実家通してましたから。死んでから知りましたけど」
「ああ、それなら知ってますよ。調べさせて貰いました」
面白くも無さそうに、長瀬は軽くすいませんと手を上げて見せる。
「じゃあ、いいでしょ。母に死なれ、俺に怨まれての自殺なら、まだ判るけど。俺に継がせたがって殺されたってのは、ありえない」
「それで殺されたって、言ってませんけど?」
長瀬は探る様な視線を向ける
「話の流れでしょ。馬鹿じゃ在るまいし」
俺は馬鹿にしてるのかと、睨んで見せ息を吐いた。
「他には?」
俺は先を促した。
さっさと終らせよう。
「会長さんですがね。何か、時々怖いとか思いません?」
「千鶴さんが?」
「ええ。あの若さにしては、迫力がね」
ふん、流石に鋭いな。
「そりゃ、中学で両親無くして。妹達の面倒、旧家の看板の上に鶴来屋まで背負っていれば、弱み見せられないでしょ」
無難に返すと、長瀬はぽりぽり頭を掻いた。
「そう言うのとは、違うんですがね。こう背筋が凍るって言うか」
「具体的には?」
「気を悪くしないで下さいよ。商売柄、殺人犯とかとも面識がありますんでね」
この刑事、千鶴さんの鬼の気を感じ取ったのか?
「噂ですか?」
この刑事、切れ過ぎる方だ。
さっさと終らした方が良い。
「知ってらした。なら話が早い」
意外でもなさそうに、わざとらしく眉を上げ長瀬は言う。
「根拠のない噂ですよ」
俺は一言で返す。
「そうですかね? まあ鶴来屋は、我々の様な庶民には、望んでも手に入らない規模ですからね」
根拠は、あり過ぎるほど在ると長瀬はうそぶく。
「親父と鶴来屋なら、間違いなく従姉妹達は親父を取る。そう言う事ですよ」
ワザと俺を挑発しているのは判っているが、段々俺も苛々してきた。
「根拠は?」
「長瀬さん、口は堅い?」
俺は、早く殺戮事件の話しに移りたかった。
「まあ。信じて貰うしか無いでしょうな」
「俺に継がせたがってるの、親父じゃありませんよ」
「と、言うと?」
僅かに眼を光らせ、長瀬は興味を示した。
「従姉妹達。保留にして貰ってるから、他言はしないで下さいよ」
半分は嘘だが、千鶴さんはその気だと俺は思っていた。
梓達も喜びこそすれ、反対はしないだろう。
「保留? どうしてまた? あれだけの大企業」
長瀬は、信じられないと頭をゆっくり振る。
「責任が大き過ぎる。俺は事業家に向いてないの。もういいでしょ」
俺は溜息も出ない気がした。
「ああ、そうか。成る程。お邪魔しちゃったんですか、睨まれる訳ですよね」
独り千鶴さんに睨まれた理由を、訳知り顔で納得する長瀬の厭らしい笑いに、俺は殴りつけたいのを我慢した。
「まあね」
長瀬から眼を逸らし、俺は吐き出した。
長瀬はこうやって、相手から本音を引き出すのだろう。
嫌らしいやり方だ。
「まあ、そう言う事でしたら」
曖昧に笑う長瀬の笑みが、やけに癪に触った。
周囲の眼を胡麻化すのに継がせたがってるか。俺が死んだら、今度こそ千鶴さんが犯人だとでも思ってるんだろう。
「じゃ、俺の方の質問の答えは?」
「ああ、あれね、簡単ですよ。現場に残された体毛は、人間の物とも、どんな動物とも一致しない。むろん傷痕も。凶器は鋭い爪状の物ですがね。遺体は引き裂かれてるのに、動物特有の細菌も発見されてない。人間に出来る様な、力でもないですしね」
おいおい、響子さんに聞いた話と同じじゃないか。
「一番の問題点ですけど。えっとオフレコでお願いしますよ」
一様念を押すというおざなりな感じで、長瀬は目くばせする。
俺は頷きだけで返した。
「捕まってた被害者から、犯人の体液が出たんですがね。犯人の物と一致してない」
俺は失望した。
俺の知っている事ばかりだ。
「これが問題なんですがね。マズイ事に、柳川と血液型が一致してましてね」
初めての有益な情報に眉を上げ掛け、俺は平静を装った。
やはりあの刑事が鬼か?
「体液って あれ?」
俺が白々しく聞き返すと、長瀬は頷いた。
「お願いしますよ。個人のプライバシーですからね」
「それは判ってるけど。妊娠なんてしてないんでしょうね?」
小声で囁いた長瀬に合わせ、俺も小声で囁く。
「まあ、検査の結果は大丈夫そうですけど。何でまた?」
「長瀬さんが言ったでしょ。従妹の後輩」
長瀬の答えに息を吐き、答えると長瀬もああ、と頷いた。
少なくとも、鬼の子は残って無いか。
まあ堕胎するだろうが。
「そう言う訳でして、薬中でぼろぼろの男に出来る訳が無いんですよ。お偉方には都合が良いってだけで」
「どうして?」
「そりゃ、現職の刑事が犯人だった。何て事になったら、県警本部長以下、皆これですから」
長瀬は自分の首の前を、手刀で引いて見せる。
「真相は闇の中ですか?」
「まあ、そう言う事です」
大義そうに息を吐くと、長瀬は大きく伸びをした。
「また同じ事件が起こらない限りは、闇に閉ざされたままでしょうね」
長瀬の呟きは、どうでも良い事を話している様に聞こえた。
俺には事件が闇に葬られ都合が良かったが、長瀬にはそうでも無いのだろう。
長瀬が、わざと何でも無い様に振舞っている様に見えた。
職務でも義務でもなく、この刑事は、自分の知りたい事、気になる事件を追っている様な気がする。
組み込まれた歯車の様な社会では、この長瀬も所詮、はみ出した存在なのかも知れない。
人間社会に紛れた鬼の様に。
少なくとも犯人の鬼の目星と、子供が出来ていない事は確認出来た。
問題は、柳川だ。
何処で鬼の血が入ったかが問題だ。
「長瀬さん、柳川さんて地元の人?」
「え? いや、違ったんですがね。母親はこの街の出らしいですけど。父親は判りませんし。しかし、なんでまた?」
伸び上がった長瀬は、答えた後に不思議そうに俺を見た。
「いや。地元の人なら、行方不明で犯人扱いじゃ、家族が騒ぐんじゃないかと思って。週刊誌とかに騒がれると。また被害者もね。家からの帰り道だったから、従妹が責任感じちゃってて」
ああ、と頷くと大丈夫ですと長瀬は太鼓判を押した。
何でも、事実は公表されないそうだ。
一応犯人は捕まり、柳川自身天涯孤独の上、未成年者の性的事件の性質上、報道管制が敷かれたらしい。
報道各社協力と言う奴だ。
俺は長瀬と駅で別れ、電車を待つ間も、車中でも考えを巡らせていた。
柳川が鬼なのは間違いない。
だが歳が、三十位か?
柏木の血筋なら、伯父や親父の子供にしては少し歳が合わない。
残るは爺さんだが。
こればかりは、仕方がない。
千鶴さんに、柳川の血筋を興信所にでも頼んで調べて貰おう。
長瀬にばれて、変に勘ぐられなければいいが。
その答え如何で、柏木以外、鬼の血が残っていないと確信も出来る。
少なくとも、もう一度この街を調べないと。
梓の事も気になる。
長瀬の話で、千鶴さんの心配がおぼろげに見えて来た。
梓が、外で感情に任せ鬼の力を使ったらどうなる。
今は不味い。
まだ親父の考えも、理解出来ていない。
何故、初音ちゃんに角を渡した。
何故、従姉妹達と一緒に暮らした。
何故、俺を呼ぼうとした。
何故ばかりだ。
俺は、考えが足りなさ過ぎる。
今だけでも、判らない事だらけなのに。
過去とも決着をつけなければ。
過去の想い。
現在の想い。
過去の罪。
現在の罪。
過去の記憶。
現在の記憶。
それぞれが反発し、それぞれが結び付いている。
そしてそれらが、いずれ彼女達を苦しめる。
俺には時間が必要だ。
考え結論を出さなくてはならない。
俺から安らぎが永遠に失われたとしても、俺の罪でしかない。
彼女達を巻き込むのは、俺のエゴだろう。
彼女達に取っては過去であり。
俺に取っては、現在の過去だから。
俺は、真に鬼にならなくてはいけないのか?
いつしか揺れる車中で、俺は膝を抱え震えていた。
まだ時間は在る。
まだ今は。
凍った時 夢幻の章、完