遙けき過去 四幕
 

 葦の穂は、なにも知らず風に揺れていた。
 二日前に起こった悲劇さえ、自然の営みには何ら関係がないと言わんばかりに、静かに葦の穂は風に揺れる。

 風に揺られ小さな音を立てる葦の原に、数日前に妹が散らした炎の様な夕陽を眺めるリズエルの姿があった。
 吹く風が絹糸の如き髪をなぶるに任せ、赤き夕陽に照らされた頬に憂いを浮かべ。
 その瞳は、夕陽を映し真っ赤に染まっていた。
 

 蒼白き月に照らされ一夜をススキの原で過ごしたリズエルは、昇る陽と共にヨークの元へと戻った。
 リズエルを待っていたのは、広場に充満した血臭と獣欲の後の蒸せるような匂い。
 そして広場の中央で岩に腰を下ろしたダリエリだった。

 リズエルを一瞥したダリエリは、ゆっくりと立ち上がる。
 リズエルはダリエリより数歩の位置に間合いを取り、油断無く周囲に視線を送った。

 そこここで眠りこける男達。
 全裸のまま死んだように横たわる人の女。
 しかしリズエルが命じておいた、歩哨の姿がない。

「ダリエリ、どういうつもりだ?」
「歩哨ならば、我一人で十分であろう?」

 真っ直ぐ向けられたリズエルの視線を受け流し、ダリエリはリズエルの慎重さをからかうように言う。
 ろくに戦えもせぬ獲物の群を相手に、歩哨など立てる必要はないと思っているのは明白だった。
 まして男達を束ねるダリエリが自ら歩哨など、簡単に信じる方がどうかしている。

「私が戻るまで、狩りも禁じたはず」
「このような地に流され、不満が高まっておる。狩りを禁ずれば、どうなるか判っておるのか?」

 リズエルの刺すように冷たい視線を正面から見返し、ダリエリは諭すように言う。

「貴様が考えることではない!」

 リズエルは静かな瞳に冷ややかな光を映し、ダリエリの言質を一蹴する。

 男達の先頭に立って獲物を狩るダリエリと、獲物を狩り尽くさぬよう抑える立場のリズエルの不和は、いつもの事だった。
 だがこの地に降り立ってより、不和は更に大きくなっていた。
 母星への帰還の目処さえ失われ、替わりに獲物で溢れる手つかずの星を手に入れた男達は、競って人狩りを楽しんでいる。
 ダリエリは男達の欲求を満たす事で不満を抑えようとし。リズエルは日々欲求を強くする男達に危機感を募らせていた。
 今のままでは、いずれ近辺の獲物を狩り尽くした同族は、獲物を求め方々に散っていく。
 方々に散った同族達は、更に多くの獲物を求め。いずれ皇族の支配さえ及ばぬ、獣同然の存在に成り果てる事は目に見えていた。
 一族を束ねる者としては、看過できぬ状態だった。

「まあ、よい。だが、」

 ふっと口の端を歪めたダリエリは、言葉を切ると周囲に視線を走らせる。
 一人待っていた事と言い、他の者に聞かれたくない話があるのだろう。

「あの男を始末せんかったそうだな?」
「獲物一匹、いつでも始末は出来よう」

 やはり。とリズエルは思った。
 エルクゥの高貴な血を授かった獲物の存在を、ダリエリが許す筈がなかった。

「しかし放置して置けば、不満の声が上がろう」
「それも、貴様が気に掛ける事ではない」

 皇族の問題に口を差し挟むなど、本来男達を束ねるダリエリにしても出過ぎた真似だと言える。
 しかし母星への帰還が絶望視されてから、男達の間ではダリエリを重く見る風潮が高まっていた。
 帰還が適わぬとなれば、獲物を狩り渋るリズエルよりも、ダリエリを長として狩りを楽しめるだけ楽しもうと考える一団がいるのだ。
 だがヨークを失えば輪廻すら適わぬ。
 その為、リズエルの信奉者の方が数の上では僅かに勝っていた。
 そんな中で起こったエディフェルの裏切りは、考えられぬヨークの遭難と相まり皇族への信頼を薄れさせ、リズエルの支配権を危うい物にしていた。

「エディフェルの死を尊び、一時退いたまで」
「それならば良いが。リズエルであれば、まさかエディフェルの如く情を移した等とは言うまい」

 スッと細くなったリズエルの瞳がダリエリを貫く。

「貴様、愚弄する気か?」
「まさか、案じておるのよ。我らが血脈を保つには、方法が一つしかない事。先刻承知しておろうが?」
「むろん」

 これ以上の問答は無用とスッとダリエリの横を通り過ぎ、リズエルはヨークへと続く洞窟へ足を向けた。

 ダリエリはダリエリなりに一族の行く末を案じている。
 それはリズエルにも判っていた。
 その為にダリエリは、皇族の権威や特権より力を重んじる新たな掟を作り出そうとしていた。
 だが一度たがが外れた同族は、自らを滅ぼし掛けた遠い昔の状態にまで容易く戻ってしまう。
 リズエルは、それを許す訳には行かなかった。 

 そして、血脈を保つ唯一の方法。
 それも問題だった。

 考えながらも通い慣れた道筋を辿り、リズエルはヨークの中心部に辿り着いた。
 中では寝台のように窪んだ壁面に抱かれ、アズエルとリネットがスヤスヤと眠っている。
 エディフェルの死の衝撃を感じ取った為だろう。
 リネットの頬には一筋の涙の後があった。

 リズエルは起こさぬように気を付け、リネットの頬を静かに指で拭う。

 安らかなリネットの寝顔を前に、リズエルの胸の内を葛藤が走った。
 血を分けた妹への愛情と一族を率いる者の重責が、その胸中では激しく鬩ぎ合っていた。

 同族の血を濃くなり過ぎず維持するには、今の同族の女の数はあまりに少ない。
 一人の女がより多くの男と交わり子供を産み、血筋を管理しなければ。
 そうしなければ、何代にも渡る濃すぎる血は奇形を生む。
 そして、その任は皇族と言えど逃れられぬ。
 いや、皇族は率先して受け入れねばならぬ。
 エルクゥの高貴な血を受け継ぎ、一族を率いる者の責務だとリズエル自身は思う。
 だが、まだあどけなさの残る妹の寝顔を見ると。
 他に方法がないと知りながら、自分の考えが間違っている気がしてリズエルの心は千々に乱れていった。

 乱れた心が指先に伝わったのか、ピクリと頬を動かしたリネットはゆっくり瞼を上げた。
 間近に人の姿を認めたリネットは、緊張に身体を強ばらせた。

「…リズエル」

 瞬きを繰り返したリネットは、安堵の息を吐きながらゆっくりと身体の力を抜く。

 リネットも不穏な気配を感じ取っているのだろう。
 もっとも安全なヨーク中枢で、起き抜けとはいえリネットが警戒を示すのは珍しい事だった。
 ヨーク中枢に詰めているリネットまでが不安を感じているのでは、一刻も早く不和の芽を摘み結束を強める必要がある。

 心を決めたリズエルは、エディフェルを手に掛けた言い訳は一切せず、単刀直入に切り出した。

「リネット。私は、今一度行かねばならない」

 静かに傍らに膝を折り横たわるリネットに目の高さを合わせ、リズエルは静かに告げた。
 リネットの瞳は不安そうな影を落とす。

「リズエル……」
「奴を殺るのか?」

 迷いながら不安げに呟いたリネットの声は、押し殺した低い声音に掻き消された。
 いつ起きたのか寝台に横たわったアズエルは、横たわったままの姿勢で目だけを開き、鋭い眼光を光らせていた。

「ええ」
「その役目、我が遣る!」

 頷いたリズエルの返事に一挙動で寝台より飛び起きたアズエルは、拳を突き出し叫ぶように言った。

 全ての元凶。
 エディフェルを誑かし。
 一族を不和に追い込んだ次郎衛門。

 そして、恐れを知らなかった自分に恐怖の感情を植え付けた。
 己が抱いた恐れを恥じるアズエルの感情は、次郎衛門への激しい憎しみに変化を遂げていた。

 突き出された拳と瞳がエルクゥの本能のままに次郎衛門の生命を求め、燃え上がるような命の炎を上げている。
 しかしリズエルはアズエルに静かな瞳を向け、首を横に振る。

「いいえ。貴方には残って貰います」
「何故だ!!」
「皇族の不名誉を濯ぐのは、私の役目」
「我も皇族。リズエル一人が負う役目ではない!」

 吼えるアズエルの怒声に、リズエルの瞳は柔らかく暖かな光を宿した。
 しかし、それも一瞬、永久氷河の冷たさを秘めた瞳に戻ると、膝を立てスッと立ち上がる。

「既にダリエリは我が命に背いておる。万が一にも我ら不在のおり、リネットの身に何かあればなんとする?」
「リズエルが残ればよい!」
「汝が役目、放棄するか?」

 厳寒の瞳を向けるリズエルの詰問に、アズエルは言葉を失った。

 アズエルに課せられた第一の使命は、リネットの守護。
 エディフェルを失い、更にその役目は重くなっていた。
 そして血を分けた者同士の穏やかな物腰から、統率者の高圧的な気配に変わったリズエルの冷たい瞳は、使命を放棄するならば、アズエルでも容赦はしないと雄弁に物語っていた。

「判ればよい」

 唇を噛み締め握り拳を振るわせるアズエルの肩に、リズエルはそっと手を置く。

「明日出掛ける。リネットを頼みます」
「…奴は強いぞ」

 俯いたまま肩を震わせるアズエルの忠告に一つ頷き、不安げに見るリネットに静かに微笑み掛けると。
 リズエルは休息を取る為、ヨーク中枢を後にした。
 
 

 瞳を赤く染めていた夕陽が静かに沈むと、リズエルは胸に貯まった息を迷いと共に静かに吐き出す。

 今は次郎衛門を討ち取り、一族の団結を確保すべき時。
 次郎衛門は獲物とは言え、エディフェルの血を受けし者。
 アズエルさえ、奴の強さを認めた。
 迷いを持って戦える相手では無い。

 リズエルは戦いに備え、静かにゆっくりと心の迷いを吐き出して行く。
 気を整え研ぎ澄まされた感覚が、生命の息吹が息を潜める葦の原に一つの生命の輝きを捉えた。
 今にも消え入りそうな弱い輝き。

 エディフェルを亡くし、生きる気力を無くしたか?

 リズエルは数日前の自問の応えを見つけた気がした。

 大切な者を亡くした痛み。
 それを知らぬから、奴らは戦えるのだ。
 奴ら人も、痛みを知っては戦えぬのだろう。
 ならば。

 リズエルは葦の穂を掻き分け、真っ直ぐ消え入りそうな命の炎の元へ向かった。

 その男は、エディフェルの骸のあった場所にいた。
 膝を抱え虚ろな焦点の合わぬ目で空を見上げていた。
 近付くリズエルにも気付いていないのだろう。
 沈んだ陽に取って代わった暗く沈んだ闇に瞬く星を薄ぼんやりとした瞳に映し、リズエルが真横に立っても身じろぎさえしない。
 男の首はリズエルに無防備にさらけ出されている。
 手の一振りで全ては終わるだろう。

 そのまま手を振り下ろそうとしたリズエルは、僅かに躊躇った。

 エディフェルが愛した男を、無造作に狩る事が躊躇われた。
 そして思い出していた。
 この地では、戦う者同士が名乗りを上げるのが礼とされていたはず。
 エディフェルの愛した男に、彼ら流の礼を尽くしても良いのではないかと。

 次郎衛門の傍らより数歩退き、リズエルは静かに呼びかける。

「次郎衛門」

 次郎衛門は呼び声にピクリと身体を振るわせ、震えながらゆっくりと顔を上げた。

 リズエルを認めた次郎衛門の目に涙が浮かぶ。
 生気を失い暗闇だった瞳が微かに光を取り戻す。
 震える指先がぎこちなく持ち上がり、リズエルへと伸ばされ。
 震える唇が、静かにゆっくりと。
 恐れるように開く。

「…えでぃふぇる」

 開いた口から漏れた呟きに、リズエルは首を振る。

「我はエディフェルと血を同じくする者」

 しかし次郎衛門は、リズエルの言葉を聞いてはいなかった。
 熱に浮かされたようにエディフェルの名を繰り返し、震える手をリズエルへと伸ばす。
 伸ばされた手を逃れ、リズエルは一歩退いた。

「…えでぃ…ふぇる?」

 何故避けられたのか判らないのだろう。
 次郎衛門は哀しそうな瞳で、リズエルを見詰めていた。

「我が名はリズエル。エディフェルではない」
「…りず…える?」
「そうだ」
「りずえる? …りず…える…り…」

 痴呆のように繰り返した次郎衛門は、口の中で幾度か名を呟き。
 身を固くすると瘧を起こしたように全身を震わす。

「貴様…貴…様……」

 地の底から響く亡者の如き低い呻き。

「貴様がっ!!」

 叫びに呼応するように次郎衛門の身体から、さながら噴火する火山の如く。
 生命の炎が爆発するマグマとなって吹き上がった。
 灼熱の炎の塊となった次郎衛門は、次の瞬間、リズエルの至近距離にあった。

「クッ!?」

 次郎衛門が吹き上げた命の炎に気圧され、数歩後退さっていた事が結果的にリズエルを救った。

 放たれた拳の拳圧に逆らわず、リズエルは後方に飛ぶ。
 次郎衛門はリズエルを追い、更に突進してくる。

 そこには技も技術もない。
 怒りに任せ、リズエルに肉薄する。

 しかし次郎衛門の上げる命の炎に呑まれたリズエルには、闇雲に殴り掛かる次郎衛門に反撃すらもままならない。
 距離を取ろうとリズエルが更に後方に飛ぶ。と次郎衛門はリズエルを上回る早さで後を追い、着地した瞬間に殴りかかる。
 身を屈め避けたリズエルは、伸ばした膝のバネを生かし宙に飛んだ。
 だが次郎衛門はリズエルよりも遙かに早く高く飛び、追い縋ると拳を放った。
 両腕をクロスさせ次郎衛門の拳を受けたリズエルは、地面に叩き付けられる寸前、身を捻り地に足が着くと後方に低く素早く飛ぶ。
 次の瞬間、リズエル目掛け振ってきた次郎衛門の拳が避ける前の地面に突き刺さり大穴を穿った。
 己が拳が巻き上げた土塊を身体中に浴びながらも、次郎衛門は更にリズエルを追う。
 眼前に飛んできた土塊を、リズエルは最少の動きでかわす。直後、爆煙の中から現れた次郎衛門に雨あられと拳を浴びせられ、リズエルの足は止まった。

 間合いを取っての戦いを得意とするリズエルは、至近距離から息も付かせぬ拳を浴びせられ、捌くだけで精一杯となっていた。
 腹、顔、足、狙いも付けず殴りかかる拳を流し、あるいは膝や肘で受け。
 リズエルは反撃のチャンスを待つ。
 しかし顔面に殴りかかる拳を横に流した瞬間、リズエルは跳ね飛ばされていた。
 宙を飛びながら、流した拳の反動を利用して身体ごとぶつかられた事に気付いた。
 とんぼを切って勢いを殺したリズエルは、追い打ちを警戒し身構える。
 しかし次郎衛門は追ってこなかった。
 リズエルを跳ね飛ばしたまま立ちつくす次郎衛門に動く気配はない。
 早鐘の様に打つ胸の動機を抑え、リズエルは乱れた呼吸を調えようと深く息を吸う。

「…何故?」

 息を整えるリズエルの耳に、荒い息の隙間から次郎衛門の呟きが届いた。 

「何故、えでぃでるを殺した!? 何故俺でなく、えでぃふぇるをっ!? …何故、一緒に殺さなかった? 殺してくれなかったっ!!」

 それはリズエルに向けた問いと言うより。
 自分だけ生き残った後悔を嘆く、血を吐くような悲痛な叫びだった。

「掟を破った者は、血で贖うが掟」
「掟…だと? 妹を殺すのが掟かっ!」
「血を分けし者と言えど、掟は掟」

 普段ならば、このような言い訳じみた台詞を口にするリズエルではなかった。
 だが次郎衛門の気に呑まれ。
 次郎衛門の悲痛な叫びに、胸に穿たれた大穴が抉られたような激痛を覚えたリズエルは、無意識に口にしていた。
 それは自分が得たと思った答えが、間違いであったのに気付いた為でもあったかも知れなかった。

 リズエルの応えに、次郎衛門は唇を歪ませ喉の奥から軋んだ音を絞り出した。
 
「クッ…くくっ…ハッ…ハハッ……」

 額を手で押さえ乾いた笑い声を上げた次郎衛門は、狂ったように笑い続け。
 やがてぴたりと笑いを止め、どす黒く濁った血の色を宿した瞳をリズエルに据えた。

 次郎衛門の濁った瞳を向けられたリズエルの背筋を悪寒が這い昇る。
 次郎衛門が身に纏う狂気と死の炎は、リズエルの身体を呪縛し心を麻痺させていた。

「鬼め」

 呟きと同時に次郎衛門は地を蹴る。
 閃光の如き煌めきを曳き迫る次郎衛門から、リズエルの身体は本能に従い逃れようとする。
 しかし、呪縛された足は動かない。
 ハッとリズエルが我を取り戻した時、既に次郎衛門はその内懐に入り込んでいた。
 腹部を狙った次郎衛門の拳が触れた瞬間、リズエルの身体の中を衝撃が突き抜ける。
 鍛え抜かれたリズエルの身体は刹那に反応し、反動で後方に飛ぼうとする身体を足で蹴り上げ、腰を軸に身体を縦に回転させ、跳ね上り回転力を与えられた右膝が次郎衛門の顎を捉えた。
 左足で仰け反る次郎衛門の胸に蹴りを入れたリズエルは、身体を丸めくるりと回転し足から着地する。
 膝を折って着地の衝撃を吸収し、伸び上がる膝の勢いを乗せ、リズエルは顎を蹴り上げられ仰け反った次郎衛門の無防備な胸を目掛け手刀を突き出す。
 全身のバネを使った手刀は、次郎衛門の胸に穴を穿ち生命の炎を上げさせる。
 筈であった。
 だが、リズエルの手刀を次郎衛門は胸板の筋肉で受け止めていた。
 スピード、体力、気迫でさえ劣るリズエルの最初で最後の勝機は費えた。

 筋肉が止めた手を鷲掴みにした次郎衛門は、リズエルを片手で易々と持ち上げ大地に叩き付ける。
 力任せに二度三度と大地に叩き付けられ、リズエルの身体からは力が抜けた。
 力を無くしぼろ切れのようになったリズエルの身体を、次郎衛門は無造作に放り投げる。
 大地に二度三度と跳ね上がり転がった末、葦の穂に止められたリズエルは、身体がバラバラになったような激しい痛みに気を失う事も出来ず、蒸せるように息を吐いた。

「……生きて…いるのか?」

 自分以外の荒い息に気付いた次郎衛門は、放り出したリズエルの元に足を進める。

 人ならば、生きている筈がなかった。
 だが、人とは比較しようもない生命力を誇るエルクゥ。
 群生する葦の間に投げ出されたリズエルは、身動きもならぬ状態ながら息をしていた。

 半死半生で横たわるリズエルを見下ろし、次郎衛門の瞳に暗い喜びが走った。

 憎しみに任せ楽に殺し過ぎたか。と後悔していた所だ。

「ぐっ! ハッ!」

 胸に加わった重圧に、リズエルの口から苦悶が洩れる。
 残された力を掻き集め開いたリズエルの瞳が、膝で胸を押さえる次郎衛門の瞳と正面からぶつかった。
 その瞬間、リズエルは身体を襲う痛みより激しい心の痛みに襲われ、唇を固く噛み締めゆっくりと瞼を閉じた。

 やっと判った気がした。
 エディフェルの言葉の意味。
 これ程の痛みを抱え、人はなおも戦う。
 悲しみを知り、怒りに変え。
 なおも人は戦い抜く。

 こんな痛みを抱えたまま生きるなら、リズエルは死んだ方がマシだった。

 死を受け入れ、リズエルは身体の力を抜いた。
 死を前にして、不思議と安らかな気持ちがした。
 リズエルは、最後の瞬間を安らかな気持ちで待った。

 だが、いつまでもその時は訪れなかった。

 やがて胸の重圧は静かに遠ざかった。

 訝しく思ったリズエルが瞼を上げると、次郎衛門の蔑んだ目がリズエルに注がれていた。

 侮蔑の瞳に傷付けられた矜持が頭をもたげ、リズエルは唇を噛む。
 だが切れるほど噛んだ唇の痛みさえ、胸に穿たれた穴の痛みとは比べようもなく。
 リズエルは、助けを求めるように次郎衛門を見上げた。

 リズエルを不可解な表情で見詰めた次郎衛門は、何かを悟ったように唇を歪め、爆発的な高笑を上げた。

 そしてリズエルは悟った。

 これが復讐なのだ。と。

 エディフェルを殺した後悔と痛みを抱え、獲物に負け誇りさえはぎ取られ、死させも与えられない。

 死による一時の安らぎさえも許さない。
 これがエディフェルを奪ったリズエルに対する。
 次郎衛門の復讐なのだと。

 起き上がる事も適わず地に臥すリズエルの双眸から、止めどなく涙が溢れる。

 皇族の誇りも掟も忘れ、涙が頬を伝い落ちていく。
 妹を殺した激しい後悔と胸を穿った穴の痛みに。
 ただ泣くだけしか出来ぬ女の上を、次郎衛門の哄笑が風に乗り高く低く流れていった。         
 

                遙けき過去 五幕

三幕

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