遙けき過去 三幕
 

 葦の原に風が吹く。
 冷え冷えとした風がそよそよと。
 静かに長け高き葦を揺らす。

 茜の夕陽が影落とす。
 赤き流れに影一つ。
 黒き影はそよとも動かない。
 清き川のせせらぎの、流れは心を映し出し。
 内に秘めたる細波を、流れの狭間が映し出す。
 

 凍て付いた足を、女は己が心を映す流れより一歩引いた。
 だらんと垂れた指先から、茜と同じぬめる雫が一雫。
 静寂に落ちた女に、落ちて大きく響いていた。
 葦の穂を鳴らす足音が、雫の音に重なり急激に近付いていた。

 近付く気配は、とうに感じ取っていた。
 気配は女をすり抜け、女の手により夕陽の様な茜の炎を上げた妹に向かっていた。
 残照のような残り火を上げる、想い人の元へ真っ直ぐと。

 驚愕、心を麻痺させる程の驚き。
 悲哀、悲しみの心。
 喪失感、心さえ消え去るような虚しさ。

 そんな感情が、女の胸を一気に駆け抜け。

 …慟哭。

 啜り泣く男より、壊れんばかりに軋む心の激痛と悲しみが女を襲った。

 女の知らなかった痛み。
 女の知らなかった悲しみ。
 知らなかった、人の心が。
 堰を切った激流の如く瞬時に女の心を呑む。

「…な…ぜ?」

 心を呑み込んだ感情の意味すら考える暇なく、女に問いかける者がいた。

「全て終わった」

 茜の照り返しを受けた相貌に内心の動揺を露も見せず、短く応えたリズエルは葦の原に背を向け歩み始めた。

「…何故だ? こんな事は聞いてない!?」

 淀みなく静かに立ち去るリズエルに追い縋り、アズエルは怒りを露にした。
 しかしリズエルは何も応えず足さえも止めない。
 だが葦の原を抜ける直前、その足を止めさせた者がいた。

「リズエル様、あの者は如何なさいます?」

 恭しく尋ねる背後からの男の声にリズエルは足を止めていた。
 しかし振り向きはしない。

 男はダリエリ子飼いの小者だった。
 エルクゥの男達の中でも、足の速さには定評があった。
 今回その足の速さを買われ、皆が敬遠したリズエルらの監視を命じられたのだ。
 しかし足が速いと言ってもリズエルやアズエルには適うべくもなく。
 どちらかが裏切れば、死しか待っていない役目を進んで遣りたがる者は誰もいなかった。
 男の声音には押し付けられた役目を無事終えた安堵と、滅多にお目に掛れぬ皇族の生命が散らす炎に酔った喜色が感じられた。
 エディフェルの上げた炎に刺激され、本能の命じるまま次郎衛門を狩る許可を求めたのだ。
 
「高貴なる皇族が血、獲物の血ごときで汚すはダリエリも本意ではあるまい」
「貴様は、報告だけすればよい!」

 リズエルの氷の如き声音にアズエルの怒声が加わり、恐れ戦いた男からは喜色が消し飛び、縮こまり平伏するとダリエリの元へと飛んだ。
 
 事は成ったのだ。
 リズエル、アズエルの神経を逆撫でし、不興を買うのは得策ではなかった。

 逃げるように去る男の気配が消えると、リズエルはゆっくりアズエルに顔を向け。
 秀麗な柳眉を僅かに引き上げ顔を逸らす。

「…皇族が涙を見せてはいけない」

 呟くように言われたアズエルは、言われて気が付いたかの様にハッとした顔で腕で溢れる涙を拭った。

 いや。アズエルは言われるまで、涙を流しているのに気付いてはいなかった。
 輪廻を繰り返すエルクゥは、死を尊んでも悲しむ事はなかった。
 死は次なる生への通過点であり、終わりではないからだ。
 同じ時を生きる者を失った喪失感はある。
 しかしそれは、生命の終わりを嘆き悲しむ人の嘆きとは異なっていた。
 だが、次郎衛門の悲しみに貫かれた二人には、小さな変化が起こっていた。

「我らも戻る」

 言葉が終わらない内、リズエルはその場から姿を消した。
 一瞬背後を伺い躊躇ったアズエルは、意を決したように唇を噛み拳を握るとリズエルの後を追う。

 二人が去った葦の原を夕陽が焼き尽くす火の如き茜に染め、冷たくなって行く想い人の骸を抱えた男の嘆きを、葦の穂が小さく揺れながら見詰めていた。
 
 

 アズエルを後方に従え、リズエルは飛ぶように真っ直ぐヨークへと向かった。
 ヨークへと今少しのススキの原で、リズエルの足は不意に止まった。
 ススキ野を渡る風は冷たく、沈んだ陽に変わり夜空には蒼白き月が昇っていた。

 何故逃げるように次郎衛門から去ったのか?

 蒼白き月を見上げながら、リズエルの胸に自問が沸き起こった。
 後顧の憂いを絶つ為にも、次郎衛門は始末して置くべきだった筈。
 
「リズエル! 何をしたか判っているのか!?」

 自問の応えを見つける前に、アズエルの詰問が浴びせられた。

「……」

 リズエルはなにも応えず蒼白い月を瞳に映している。
 エディフェルが次郎衛門と出会ったススキの原で、二人が共に見上げた月を見上げ。
 今まで想像もしなかった、自分自身の心を穿った穴を見詰めていた。

「あの娘は、もうヨークには戻れないんだぞ!」
「…戻れば…他の同族に引き裂かれるでしょう」

 アズエルの激昂を気にした風も無く装い、リズエルは冷ややかに返した。

 例えヨークが受け入れようと。掟を破ったエディフェルの魂は、他のエルクゥの魂に千々に引き裂かれ消滅してしまう。
 だからこそ他のエルクゥの手に掛かるよりはと、自分自身の手で最後の死を与えたはず。
 裏切ったとは言え、エディフェルは皇族。
 雑兵に散らされるなど、あってはならない。
 だのに何故?

「だから!」

 柔らかな月の光を受け冷たく輝くリズエルの横顔を睨み付けたアズエルは、自分の中に生まれた感情を恐れるように力無く項垂れ肩を震わしていた。

「…だから…連れ戻しに行ったんだろう」

 これまで幾多の獲物を狩り。
 幾多の同族が命の炎を消した。
 だがアズエルが動揺した事は、一度としてなかった。
 死は終わりではなく新たな生への準備。
 そう信じて疑わぬ自分の動揺を、アズエルは生まれ変わる事のない妹の無情な死のせいだと思いたかった。
 死を尊び敬っても、エルクゥが死を恐れるのは恥。
 まして皇族は、死を司る者であって死を恐れる者であってはいけなかった。

 だが、今アズエルが感じている物は、紛れもなく死に対する恐怖だった。
 己自身の死への恐れではなく、大切な者を失った激しい心の痛み。
 胸に穴を穿たれた如き衝撃と、生気が抜けるような虚脱感。
 エディフェルの死を前にしたアズエルは、今まで感じた事のない喪失感と恐怖に震えていた。

「先に帰りなさい」

 一切の感情を廃した静かすぎるリズエルの声音からは、心中の後悔も悲しみも感じ取れなかった。
 だがそれも、もう限界に近かった。
 血を分けたアズエルとはいえ、配下に動揺を見せる訳にはいかない。
 
「リネットが心配です。行け」

 僅かな後、顔をアズエルに向けリズエルは命を発した。
 アズエルを遠ざける為か、真にリネットを案じてか自分自身にも判らぬままに。

「はっ!」

 凛と響く声音で命じる者の厳しい冷たさを湛えた瞳を向けられたアズエルは、反射的に頭を垂れ短い呼気を発して地を蹴っていた。

 自分を襲った感情の渦を、リズエルも感じ取ったのは間違いなかった。
 それ故、感覚で二人に勝るリネットを心配しているのだ。感情に呑まれ動揺するだけの自分と違い、リズエルは動揺を抑え冷静な判断を下した。
 だが、それがなぜか哀しい。
 どんな時でも冷静に判断を下すリズエルを誇りとしていたアズエルは、この時初めてリズエルの冷静さを恨めしく思い。
 風の如くヨークへと急ぎながら、同時に酷く哀しくも感じていた。
 

 遠ざかるアズエルの背を見送っていたリズエルは、目を柔らかな光を投げかける月に戻した。
 
 アズエルが自分と同じ物を感じたのは、常にない動揺から感じ取っていた。
 だが、小者には動揺した様子はなかった。

 皇族故に感じ取ったのか?
 それとも、女故にか?

 ふっと月の光に浮かぶリズエルの唇が笑みに歪んだ。
 己が心を騒がし大波となって揺るがした感情を、殊更分析を試みる自らをあざ笑うかのような歪んだ笑みを、蒼白き月の光が浮かび上がらせる。

 生命が散る瞬間上げる炎に見せられ。
 刹那散る生命の炎が与える恍惚と快感に酔うエルクゥ。
 それは同族の生命の炎とて例外ではない。
 より強い生命力を秘めたエルクゥの散らす炎は、どんな獲物の上げる炎より華々しく美しい。
 そしてエディフェルの散らした炎は、リズエルが今までに見た、いかな炎とも比べようもなく。
 皇族の名に恥じぬ高貴さと美しさを兼ね備えた物だった。
 しかしその炎を前に、リズエルの中には恍惚も快感もなかった。
 だだ虚しく空虚な心。
 それを覆い尽くした、激しい痛みと胸が張り裂けんばかりの悲しみ。
 限りなく深い闇に閉ざされた永劫の氷壁に覆われたかの如き凍て付く寒さ。

 何故?

 震える事さえ適わぬ氷壁に覆われた心が、応えを求めて狂わんばかりに悲鳴を上げていた。

 これはあの男の心。
 あの男の痛み。
 あの男の悲しみ。
 あの男の…慟哭。

 この地の者達も同族で殺し合う。

 だのに何故?
 何故、このような痛みと虚しさを覚える?
 喜びもなく、悲しみしかないのなら。
 何故、殺し合う?
 
 何故!?
 何故、戦えるっ!?
 このような心を抱え。
 何故…殺せる?

「…エディフェル…貴方…知っていたの?」

 頭上を覆う月へ弱々しく問い掛け、膝から崩れ落ちたリズエルに応える者はいない。
 ただススキ野を渡る風が頬を通り過ぎ。
 瞳より溢れ蒼白き光を跳ね返す雫を、どこまでも冷たく凍らせて行く。
 
 

 雨月山。
 領主、天城忠義(あまぎただよし)が治める所領の中にその低い山はあった。
 未だ戦国の世の訪れを知らず平和に暮らしていた雨月山周辺の村人は、その中腹にエルクゥの一団が降り立った時から恐れ戦きながら生きる事を余儀なくされていた。
 エルクゥの集団は村々を襲い。
 老若男女、子供や幼子さえ残らず血の海に沈め、後に生ある者の息吹の欠片さえも残す事が無かった。
 いや、生き残った者も僅かだがいた。
 しかし、それを喜んでいる者は恐らくなかっただろう。

 二度に渡り天城義忠が差し向けた討伐隊はことごとく討ち滅ぼされ、既にエルクゥに逆らう者はいない。
 近在の村の中には、エルクゥに女達を贄として差し出し、襲わぬよう懇願する使者を送って来る所もあった。
 狩猟を生き甲斐とするエルクゥが聞き入れる筈も無かったのだが。

 アズエルが山腹に半ば埋もれたヨークの元、雨月山中腹に帰り着いた時。
 贄として差し出されたのか、僅かな生き残りと化した村の者なのか。女の悲鳴とも嬌声とも付かぬ声が、ヨークの前に広がる広場で赤々と焚かれた篝火の回りで幾つも響き渡っていた。
 広場には篝火の炎の照り返しを受けた女達の白い肌が蠢き、覆い被さるようにエルクゥの男達が群がっている。
 狩りの興奮に刺激され沸き上がった性欲を吐き出し、高揚を静めているのだ。

 アズエルは広場で繰り広げられる痴態には目もくれず、真っ直ぐヨークに向かう。

 不慮の事態に流れ着いたこの地の人々がエルクゥと姿を同じくしたのは、アズエルらには行幸と言えた。
 エルクゥには適わぬまでも、美しき生命の炎を持ち。
 男達の狩猟欲と性欲を同時に満たす生物が生息する星は、そうはなかったからだ。
 だが、そんな希少な星であっても、男達の欲望を自由にしておけば、すぐに狩り尽くすのは目に見えていた。
 それ故、リズエルのような皇族が一族を率い、獲物を狩り過ぎぬよう目を光らす必要があった。

「アズエル。リズエルはどうした?」

 ヨークへと続く洞窟の中の薄闇から声を掛けられ、アズエルはサッと身を翻した。

「ダリエリか?」
「首尾は聞いた。残念なことだ」

 アズエルの誰何に応え、ダリエリはアズエルの目に見える位置にその姿を現す。
 その顔に浮かぶ落胆を目にして、アズエルは自分でも理解出来ぬ激情に襲われた。

「残念だと! 貴様!……」

 胸倉を掴まんばかりに詰め寄ったアズエルは、ダリエリの訝しげな表情に気付いて言葉を飲み込んだ。

 何を言おうとした?
 もっとも美しいとされる皇族が生命の炎。
 その散り際を見損なったダリエリが落胆を顕わすのは、エルクゥならば当然ではないのか?

「興奮が冷めやらぬようだな。アズエル、お前もそろそろ男を選んではどうだ?」

 アズエルの激昂を、ダリエリはエディフェルの散らした生命の炎を目にした興奮と受け止めていた。

「余計な世話だ!!」

 痴態を繰り広げる広場に一瞥をくれ豪快に笑うダリエリに一吼えを与え、アズエルはヨークの奥へと足早に進んだ。

 リネットはヨークの中央で、今も母星との連絡を回復すべく務めている筈だった。
 今まで感じた事のない心の動きに翻弄されたアズエルは、一刻も早くリネットと会いたかった。
 リネットならば、この訳の判らぬ怒りや痛み、寂しさや悲しみを埋めてくれる。
 理解の範疇を越えた直感が、そう囁いていた。

 直感のままに足を急がせるアズエルの回りは、やがてゴツゴツとした岩肌から仄かな光を発する生物の内蔵のような有機的な壁に変わった。

 そこでアズエルは、心を包む安堵に息を吐き出した。

 ヨークの中はエルクゥに取って第二の子宮とも言える帰るべき場所であり、長い航海の間を過ごす家でもあった。
 ヨークの内部にはエルクゥ達が過ごす大きな空洞が幾つもあり、エルクゥの多くは航海中その中で眠って過ごす。
 長い航海に渡りエルクゥの狩猟本能を抑え続けるのは困難であり。生物であるヨークは、友であるリネット以外の手を必要とはしなかったからだ。
 航海中ヨークの中で目覚めているのは、リネットに指示を出すリズエルを始め、補佐を務めるエディフェル。
 そしてアズエルの皇族の四人だけである。
 故にヨークは、眠り続けるエルクゥ達の揺り篭とも箱船とも呼ばれる。
 そのヨークを友とし一族の命運を担ったリネットは、リズエルとは別の意味で一族の尊敬と敬意を集める存在だった。
 存在だった筈だった。
 ヨークが翼を失い、この地に流されるまでは……

 やがて皇族以外立ち入る事も許されない中央の空洞に着いたアズエルは、そっと中を伺い声をかけた。   

「リネット?」
「…アズエル?」

 部屋の中央で跪き祈りを捧げる様に両手を組み合わせていた少女は、呼び声に俯いていた顔を上げた。
 少女の目は真っ赤に泣き腫れていた。

「泣いていたのか?」

 静かに尋ねたアズエルに、リネットは小さく頷く。

 泣く事を許されず、恥とする皇族。
 しかし、リネットは例外だった。

 ヨークは膨大な知識と能力を秘めながら、心は幼子のそれであり。ヨークと心を通わせるリネットは、ヨークの友であると同時に母でもあった。
 無垢な心故にヨークと心を通わせるリネットは、他のエルクゥと違い狩猟に酔う事も生命の炎を自ら狩る事もない。
 その無垢な心故に、かってヨークを得る以前のエルクゥ社会では、リネットのような特異な存在は無用の長物とされ虐げられてもいた。

「すまない。エディフェルを連れて帰れなかった」

 ゆっくりとヨーク中枢に足を踏み入れたアズエルの謝罪に、リネットは小さく頭を振った。

「ヨークが教えてくれました」

 無理をした笑みを浮かべたリネットは仄かに光る壁に手を添え、その華奢な身体を支えるように伸ばした手で愛しげに壁をなぞった。

「この星にもレザムが存在する。エディフェルは、きっと人として生まれ変われる」
「獲物にか!」

 嫌悪を覚え、思わず吐き出すようにアズエルは言った。
 戦わずして同族を差し出す恥知らずな獲物に生まれ変わる屈辱を味わうなら、魂ごと消滅した方がアズエルには遙かにましだった。
 しかし、リネットの面を過ぎった悲しみに気付いたアズエルは、リネットから目を逸らした。

「…すまない」

 リネットがエディフェルの生まれ変わりを心の慰めにしているのならば、それを否定して悲しませるなどアズエルの本意ではなかった。

 リネットはアズエルに何も応えない。
 遠くを見詰める瞳に悲しみを映し、エディフェルの死が投げかけた未知の感情を胸に秘め。
 仄かに光るヨークの内壁を、愛しげに静かに掌で撫でさすっていた。
 

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