遙けき過去 五幕
 

 ヨーク中枢で懸命に母星への呼び掛けを続けていたリネットは、背後に現れた気配に振り返り。
 影のようにひっそりと佇む、リズエルの無事な姿を映した瞳をパッと輝かせた。

 この時、リズエルが次郎衛門に負けてから二日が経っていた。

 リズエルは深く暖かい笑みを浮かべると、静かにリネットに歩み寄った。
 歩み寄るリズエルは、常に気を張り詰め厳しさと冷たさを漂わせていたリズエルと、同一人物とはとても思えない柔らかな気配を身に纏っていた。

「リズエル?」

 リズエルの纏う気配がいつもと違う事に気付いたリネットは、訝しげに呼ぶ。
 リネットの呼び掛けにリズエルは微笑みを浮かべ、静かに口を開いた。
 
「リネット、アズエルを呼んでくれる?」
「あっ、はい」
「他の者には、気付かれないように」

 一瞬怪訝な表情を浮かべたリネットだったが、静かに目を閉じると、言われた通り心の中でアズエルに呼び掛け始めた。

 リネットの皇族としての特異な力。
 それが心と心を繋ぐ、テレパシーとも似た能力だった。
 しかしエルクゥの思念を伝え合う力は、ハッキリとした言葉を伝え合う物ではなかった。
 血の近い者、情を交わし心を通わした者。
 そう言った者同士がお互いの心を感じ合う程度の物だ。
 それは特に優れた能力を持つリネットでも、基本的には代わりはない。
 ヨークの優れた能力があって、始めてリネットはヨークと心と心を繋ぎ言葉を交わす事が可能となるのだ。

 リネットが呼び掛け始めてすぐ、慌ただしい足音が近付いてきた。

「リネット、どうした?」

 駆け込んで来たアズエルは、開口一番にそう尋ね。
 リズエルの姿を見つけて喜色を浮かべ。
 一転考えるような顔付きになる。

「リズエル? だな」
「ええ。二日で見忘れた?」
「いや…雰囲気が違う…なと」

 可笑しそうに笑うリズエルを、初めて会う者を見るような目で首を捻りながら眺めていたアズエルは、ハッと厳しい表情に立ち戻った。

「それより二日もどこへ行ってた? 奴の始末は終わったのか?」
「いいえ。彼には我らでは勝てない」

 リズエルは静かな微笑みさえ浮かべ、アズエルには到底信じられない台詞を口にした。

「ハハッ、耳がどうかしたらしい。我らエルクゥが勝てぬ等と」

 笑い飛ばそうとしたアズエルに追い打ちを掛けるように、リズエルは深く頷いて言葉を継ぐ。

「エルクゥは、人には勝てない」
「馬鹿なっ! 奴らに何が出来る!」
「今は勝てる。しかし、いずれ雲霞の如く押し寄せる人の群に呑まれ、我らは滅ぶ」

 怒鳴り散らすアズエルと不安に顔を曇らせるリネットを前に、リズエルは静かに目を閉じた。

 リズエルにはその光景が閉じた瞳の中に見える気がした。
 哀しみを憎悪に変え、さながら大地を覆う溶岩の如き炎を上げ押し寄せる人々。
 いくら狩ろうと尽きぬ人の波の前にやがて力尽き、呑み込まれるエルクゥの姿。
 そして、その先頭に立つのは……

「次郎衛門殿に仲介を頼もうと思う」

 もう遅いのかも知れない。
 たとえこの身と引き替えにしても、次郎衛門の怨念を静める事は適わないだろう。
 しかしエディフェルの望みならば。
 エディフェルの願いを叶える為にならば、次郎衛門は力を貸してくれるかも知れなかった。

「馬鹿なっ! 戦わずして負けを認めるなどと、それでもエルクゥかっ! それが皇族たるリズエルの言葉かっ!! 誇りをどこに捨てたっ!!」

 顔を真っ赤に染め情けなさに目に涙さえ溜めて詰め寄るアズエルの叫びを、リズエルは顔色一つ変えず受け止め静かに目を開いた。 

「次郎衛門殿に、私は手も足も出なかったのだ」
「嘘だっ!! 生きて帰れる筈がないっ!!」
「殺すのも汚らわしいらしいな」

 平然と微笑みさえ浮かべて言うリズエルを見詰め、アズエルはぺたんと腰が抜けたように座り込んだ。

 アズエルが尊敬した、誰よりも誇り高く気高きリズエル。
 戦いの内に死ぬのがエルクゥの誇りだった筈。
 その誇りを汚され、獲物に負けおめおめと帰って来た挙げ句。
 笑って侮蔑を受け入れるなど。
 アズエルの思考の範囲を超えてしまったのだ。

「アズエル、エディフェルが正しかった。狩りの中止を条件に、我らに土地を与えるよう話してみる。いずれ、通りかかった船が気付いてくれるやも知れん」

 ヨークの仲間が通りかかるのは、それ程低い確立ではない筈だった。
 星の海は広いとは言え、生物の棲む星はそう多くはない。そしてエルクゥの船は、獲物の棲む新しい星を常に探し求めていた。
 狩りの帰路に流されたにも関わらず通信が届かないことを考慮すると、ヨークの能力を僅かに超えた場所にこの星があるのは間違いなかった。
 だがヨークの呼び掛けが届く距離にさえ船が近付けば、救援を送ってくれるはずだ。
 しかし星の海の広がりに比べれば、余りに生命の煌めきは短い。
 何十、何百の月日が必要となるだろう。

「幸いヨークも狩りの帰路で、後数百年は獲物を必要とはしていない」
「は、はい」

 リズエルに確認する視線を向けられたリネットは、慌てて頷く。

 当然だが生物であるヨークは食物を必要とした。
 エルクゥが生命の炎を狩るのを糧とするように、ヨークはエルクゥの狩る生命の炎を吸収し力の源としていた。
 ヨークは吸収した生命力をレザムのエルクゥに分け与え、真なるレザムまでエルクゥを養っていた。
 エルクゥが狩りヨークを養い。
 死したエルクゥをヨークが養う。
 つまり共生関係にあるのだ。
 しかしあくまでエルクゥが主人である。
 ヨークがエルクゥに対して力を行使する事は、教育と深層心理に刻み込まれた本能で厳しく禁じられていた。
 飢餓に陥ったヨークが内包するエルクゥを吸収し始めるか。
 その力を持ってエルクゥに攻撃を仕掛ければ、エルクゥの滅亡にも繋がるのだから当然の処置だった。
 それ故、強大な力を有するヨークを友としながら、リネットは同族に対して直接的な戦力とはなりえなかった。

「地に降りた今なら、補給なしでも数百年は……でも、どちらにせよヨークは……」

 哀しそうな瞳でリネットはヨークの内部を見回す。

 翼を失ったヨークは二度と飛び立つ事なく。
 いずれ蓄えた生命を使い果たし死んでしまう。
 それは、救援が来ても同じだった。
 自分の方が遙かに早く今の生を終えると知っていながらも。
 この地で終演を迎える友を思い、リネットは心を痛めていた。
 
 暗く沈み込んだリネットを心配そうに見ながらも、リズエルは途切れた言葉の先を促す。

「ヨークがどうかしたの?」
「この星にもレザムがあります。レザムに還る運命(さだめ)を持つ生命を、ヨークは吸収する事は出来ません」

 それはヨークが生命を吸収するには、この星のレザムから切り離された空間。
 すなわち、ヨーク内部で直接吸収するしかないと言う事だった。

「この星にもレザムが? では、エディフェルも?」
「多分…エルクゥを、この星のレザムが受け入れてくれれば……」

 視線を落としたリネットの声は、言い難そうに尻すぼみに消える。

「信じましょう。エディフェルならば」
「信じてどうなる?」

 横合いから投げかけられた声に、リズエルは座り込んだまま見上げるアズエルに視線を投げた。

「正気なのか? ダリエリや男共が承知するとでも思っているのか?」
「承知させる。ダリエリを倒してでも」

 半ば失笑を浮かべていたアズエルは、決然と言い切ったリズエルの言葉に顔色を変えた。

「馬鹿な? 一人でダリエリに勝てるとでも……」
「アズエル、私はリズエルに従います」

 リズエルを見詰めたリネットは、静かにアズエルを遮る。

「その為に、ここにいらしたのでしょう?」
「ええ、リネット頼むわね」

 ゆっくり頷いたリズエルはリネットの肩にそっと手を置き、静かに胸に引き寄せ抱き締める。

「貴方は、アズエルと共にヨークを出来るだけ離れなさい。私が迎えに行くまで、決して帰って来てはいけない」
「二人とも、正気なのか!?」

 涙声で叫んだアズエルは、リズエルの瞳に見詰められ呆然と見詰め返した。

 決意を秘めた瞳の強い輝き。
 決然とした態度。

 アズエルが誇りとした姉の姿が、そこにはあった。

 しかし、その瞳には冷たさや威圧感はなく。
 迷いのない透明さだけがあった。

 以前より遙かに気高く崇高にさえ感じる瞳に吸い付けられ、アズエルは怒りや焦燥を全て忘れていた。

「アズエル、リネットを頼みます」

 アズエルにリネットを託し、リズエルは振り返らず歩み去った。
 恐らく二度と会う事のないだろう妹達に背を向けて。
 

「死ぬ…つもりか?」

 アズエルがそう呟いたのは、リズエルが立ち去って暫くしてからだった。

 最後の別れとも取れるリズエルの言葉。
 何かを秘めた瞳。
 死を覚悟したかのような態度。

「リネット?」

 部屋の中央で一心に祈るリネットの姿に、アズエルは確信を深めた。

 ヨークの秘めたる力。
 エルクゥの男性は、その能力を最大限に引き出した時、姿を変える。
 肉体が、もっとも力を引き出せる姿に変化するのだ。
 情けを知らぬ所業と変化した姿が伝説の鬼と瓜二つなところから、エルクゥは人々から「雨月山の鬼」と称されていた。
 鬼の姿となった男性は、雑兵であってもリズエル、アズエルと同等の力を発揮した。
 ダリエリが鬼の姿になれば、皇族といえど敵う者ではなかった。
 だが、強大な力を有するヨークには、エルクゥの力を抑制する事が出来た。
 リネットの願いに応じヨークが力を抑制する事で、始めてリズエルらはダリエリと互角に戦える。
 しかしヨークの力の及ぶ範囲は限られ、故にリズエルは同族の拡散をもっとも恐れていた。

 そのヨークの秘めた力を、リネットは使おうとしているのだ。
 小さく息を吐いたリネットは、組み合わせた手を解きゆっくりとアズエルに向き直った。

「終わりました」
「無茶だっ! ダリエリと対等になっただけだぞ!」

 アズエルの悲鳴のような声に、リネットは哀しげに首を振った。

「誰にも止められません。エディフェルを止められなかったように」
「クッ!」

 唇を噛み締め跳ね起きたアズエルは、リズエルを追い出口に向かった。
 アズエルには、リズエルと二人掛かりならダリエリにも勝てる勝算があった。

「アズエル」
「リネット、お前はヨークに飛ばして貰え。必ず迎えに行くっ!」

 出口で足を止め振り返ると、アズエルは思い出したように叫び走り去った。

 アズエルが走り去った後をジッと見詰めていたリネットは、やがて溢れてくる涙を手の甲で拭い。
 静かにヨークに何事か語り掛け。
 ふっとリネットの姿は掻き消すように消えていた。
 

 洞窟の出口に差し掛かった処で、アズエルは腹部に鈍い衝撃を感じて足を止め岩肌に寄りかかった。

 エディフェルが死んだ時と同じだった。
 数日前に感じた恐怖が蘇り、肌が粟立つ。

 震える足を一歩一歩踏み締め、篝火が照り返す岩肌に手を付きながらもアズエルは出口に急いだ。
 遠く気勢が聞こえていた。
 がんがんなる頭の中で、遠く近く高揚した叫びが聞こえる。
 わずか数歩が果てしなく遠い。

 洞窟の出口から見える広場は、男達の背中で覆い尽くされていた。
 よろけるように洞窟から出ると、アズエルに気付いた男達の波がスッと割れた。

 広場の中央、一団と大きな篝火が夜空を焦がす。
 その前に、鬼が立っていた。
 そして、鬼の前で倒れ臥す女の姿を目にした瞬間。
 アズエルの頭の中は真っ白になった。

 気付いた時。
 アズエルはリズエルを、その胸に抱き抱えていた。
 まだ温もりを残した身体から、命の炎が静かに消えていく。

「…リズ…エル」
「我が散らした中で、もっとも美しい炎であった」

 リズエルを抱き抱えるアズエルを見下ろし、鬼が口を開いた。

 エルクゥ最大の讃辞。
 最強の男と戦い、エルクゥとして誇りある死を遂げた。
 強者に送られる言葉。
 エルクゥとしては、喜ぶべき事だったろう。

 だが、今のアズエルにはどうでも良かった。

 消えゆくリズエルの命の炎と一緒に、自分自身の命の炎が消えゆくような虚脱感。
 止めどなく頬を濡らす涙。
 涙と一緒に、生気の一欠片まで流れ出た気がした。

「よもや、お前は違うだろうが。リネットは愚かな企てに荷担したようだな」
「……」

 リネットの名を聞いて、アズエルはハッとなった。
 ダリエリを見上げ、動かす事もままならないと思えたアズエルの口からは呟きが洩れていた。

「…どこで…それを?」

 リズエルに付けられたと思しき無数に走る傷跡から流れ出る血が、ダリエルが首から下げた動物の牙のような物を濡らしていた。

 ヨークを司る者だけが持つ、ヨークとの絆。
 リネットとエディフェルだけが持っていた筈だった。

「うむ? 人の手に残す訳には行くまい?」

 ダリエルがチラリと向けた視線の先に、先日監視に付いていた小者の姿があった。

 それでアズエルにも判った。
 牙はヨークの分身、ヨークの抑圧を受けぬ者の証。
 エディフェルの牙を利用しヨークの抑圧を逃れ、リズエルの命を奪う。
 初めからダリエリは、この時を待っていたのだ。

 事実は違うかも知れなかった。
 しかし、アズエルはそう確信した。

 徐々に冷たくなるリズエルの身体を静かに地に下ろしたアズエルは、瞼を固く閉じ一人残す事になる妹に心の中で詫び。

「ダリエリッ!!」

 怒号と共にアズエルはダリエリに怒りをぶつけた。
 
 今まで考えもしなかった身体中が燃え上がるような怒りと、はち切れんばかりに漲る力を拳に込めて。

 十数分後。
 篝火の炎の中で息を切らせ激しく肩で息を吐きながらも、滑る血に全身を真っ赤に染め立っていたのはダリエリだった。
 激しい怒りを糧に鬼神の如き強さを見せたアズエルも、鬼の姿となり全能力を引き出したダリエリとの体力差を埋める事は遂に出来なかった。

 「雨月山の鬼」が次郎衛門率いる三度目の討伐隊に滅ぼされたのは、それから僅か一月の後であった。
 

                  遙けき過去 完  

四幕

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