三夜  悔恨
 

 全身を襲う痛みが、千鶴を深い眠りから浅い微睡へと引き上げる。
 じっとりと全身に粘り付く不快感が腹部と胸を襲い、醒め切らぬ混濁した意識を覚醒へと引き上げた。

 未だ朦朧とした意識の中でベッドから起き出そうともがき、身体を襲った痛みにうつ伏せ震える手で口元を押え、押えた手の中に鼻を突く酢い臭いが広がる。
 喉と胸を焼く不快感が胃を縮ませ、苦悶が更に激しい嘔吐感となって襲った。

「うぐっ、うっうぅ」

 昨日から満足に食事を取っていない胃が震え、片手で口を押さえた千鶴は、もう片手で熱く焼ける胸を掻くように身体を九の字に折った。
 押えた胸に新たな激痛が走り、千鶴は堪え切れず声を洩らし、胸から喉へせり上がる焼ける疼痛に更に身体を丸めた。

「姉さん、大丈夫ですか?」

 静かだが感情の失せた声と背を摩る手の感触で、千鶴は部屋に妹がいる事に気付いた。

「…ええ、ごめ……」

 状況を把握出来ないまま、心配を掛けまいと苦痛と不快感に耐え顔を上げた千鶴は、出掛けた言葉を飲み込み胃液が焼いた喉で息を飲み込んだ。

 上げた視線の先には、背を摩る楓と梓がいた。
 だが妹達の様子は明らかにおかしかった。
 二人の妹は対照的な面を千鶴に向けていた。

 千鶴の背を摩り口元を拭おうとティッシュを取り出した楓の表情にも瞳にも、感情がまったく感じられない。
 梓は腕を組んで千鶴を睨み付け、強ばった表情には怒りが滲み、その瞳には憎しみさえが感じられる。

「梓姉さん、居間で待っていて貰えますか」

 楓が振り向きもせず言うと、視線を楓の背中に移しジッと見詰めた梓はクルリと踵を返し部屋を去った。

 振り返りもせず部屋を出ていく梓の背を訝しげに見ていた千鶴は、焼け付く喉を指先でさすりながら楓からティッシュを受け取り口元と手を拭う。

「…梓は…どうしたの?」
「初音もです。さっき、やっと気が付きました」
「…はつね? 初音がどうしたの?!」

 眉を潜めた楓の言葉に、千鶴は喉を詰まらせながら慌てて聞き返し、起こそうとした全身を覆った異常な痛みと不快感に眉をしかめ唇を噛み締めた。

 今の状況を思い出そうとすると胸が焼け、身体を動かせば胸から身体中に痛みが走る。

「…覚えて…ないんですか?」

 千鶴を押し留める様に背中に手を添えた楓の声には、微かな不安が混ざっていた。
 千鶴は苦痛にしかめた眉を更に潜めた。

 どうしてこんなに気持ちが悪いのか。
 全身に走る痛みが何なのか。
 思い出さなくてはいけないと思う半面、思い出してはいけない気がして。

「…なに…を?」

 聞くなと警告する心を押えた胸の痛みで無視した千鶴の口腔に、焼けた喉が唾液を湧き出させる。
 それを飲み下しながら喘ぐ様に聞き返した千鶴を、楓の刺す様に鋭い瞳が貫いた。

「梓姉さんは、何とか自制しています。初音は、水門で気を失いました」
「…すい…門」

 小さく眼を開いた千鶴の脳裏に、昨夜の光景が鮮明に蘇った。
 己が手が最愛の人の肉を裂き、溢れさせた血の感触までがまざまざと蘇る。

 …あれ…は。

「姉さん!!」

 丸めた身体がガタガタと震え蒼白になった千鶴を、楓の叱責が打った。
 静かだが冷たい力を秘めた叱責は、千鶴の身体をビクッと跳ねさせ楓の顔を見上げさせた。
 見上げる瞳を、赤く染り縦に裂けた瞳孔が罪を責める様に射抜く。

「もう昼を回りました。姉さんが眼覚めるまで待っていました。でも、みんな限界なんです。姉さんの気持ちは判るつもりです。でも、事情だけでも早く説明しないと」
「…せつ…め……」

 胎児の様に丸めた身体を両腕で抱き、千鶴は掠れ震える声を出した。

 ……どう、説明しろと。

 暖かさを失いつつある身体を抱き締め、悲嘆に暮れていた千鶴の前に、あれは現れた。
 鬼の本能が、公園で戦った鬼だと告げていた。

 体温を急速に失いつつも、耕一はまだ死んではいなかった。

 人は激痛から逃れる為意識を手放し、多量の出血から気を失っても直ぐには死なない。
 心停止に陥っても適切な治療を受け、生命を繋ぐ者もいる。
 鬼が眼覚め掛けているなら、耕一の回復力は常人を遥かに凌ぐ筈だった。
 儚い希望と知りつつ、まだ手当てをすれば助かるかも知れないと思った。

 だから、あの鬼と戦えた。

 一刻も早くと焦る千鶴をあざ笑う様に、鬼は千鶴の攻撃を避け接近戦を挑んだ。
 肉体を鬼と化した相手に一度でも捕まれば、千鶴に勝機はなかった。
 己の過ちに気付き悄然と受けた最初の一撃で、勝機はほぼ消え失せていた。

 戦えたのは、千鶴の中の狂気。

 この鬼が居なければ、自らの過ちも耕一に手を掛ける事も無かった。
 自責からの逃避が、鬼への怒りに感情を転嫁させた。

 幾度も地に叩きつけられ、諦めかけた瞬間それは起こった。
 咆哮が大気を裂き、圧倒的な力が場を一瞬支配した。
 圧倒的な力を持つ咆哮は、千鶴だけで無く止めを刺そうと勝利の快感にニタリと笑った鬼までもを恐怖に震え上がらせた。
 一瞬身をすくませた鬼は身を翻し、その咆哮の主に牙を剥いた。
 千鶴の本能さえが、その咆哮の持つ力に恐怖を感じ排除を訴えていた。
 だが千鶴は、本能を無視し鬼の攻撃を外らすべく、背後から最後の力を振り絞り身体ごとぶつかっていった。
 咆哮の主の腕が鬼を貫いた時、千鶴は地に投げ出されていた。

 耕一が鬼の力に眼覚め、その驚異的な回復力で命を繋ぎ止めたのだと千鶴は思っていた。

 だが耕一で在った者は、何とか立ち上がろうともがく千鶴に一瞥をくれただけで、その場を去った。
 震える膝で立ち上がった千鶴は、茫然と遠のく姿を蒼月の元より見上げ、どう考えて良いのか既に判らなくなっていた。

 耕一なら、半死半生の千鶴を見捨てて去ったりしない。
 しない…筈だった。
 では、耕一もまた鬼に呑まれていたのか?
 どちらが犯人なのか?

 耕一の胸には、確かに千鶴が付けた痕が在った。
 しかし本能は、地に倒れ臥した鬼が犯人だと告げている。

 自己逃避なのか。

 千鶴自身、虚ろに霞む頭でそう思った。
 犯人でない耕一を殺そうとした事実を否定しないと、生きて行けない気がした。

 殺してくれと。

 これ以上の苦しみから救おうと命を委ねてくれた耕一の行為が、千鶴自身の過ちの産物だった。
 認めてしまえば、贖う方法など千鶴には無い。

 その時、ふと落した千鶴の視線の先に蒼い月の光が、耕一の胸に在った痕を浮かび上がらせていた。
 屍と化した鬼で在った者の胸に。

 そこで千鶴の記憶は途絶えていた。

 間違いだった。と、自分は間違って一番大切な人を、殺そうとしたと妹達に告げろと。

「姉さん!!」

 記憶の狭間を漂っていた千鶴の意識は、再び発せられた楓の鋭い叱責に現実に引き戻された。

「このままだと手遅れになる。梓姉さんの忍耐は限界です。さっきも口を開けば、何を言うか判らないから何も言わなかった。手を出さないよう腕を組んでいた。初音もこのままでは、不安に押し潰されてしまう。時間がないんです」

 身体を丸め震える千鶴の肩を掴み、楓は千鶴にその赤く染まった双眸を据えた。

「お願いです。みんなの前で質問に答てくれるだけでいい。梓姉さんは、叔父さんから鬼の暴走の話を聞いていました。ですから理解してくれる筈です。もう、なにも隠しては置けないんです」

 落ち着こうと、楓は瞼を固く閉じ大きく息を吸う。

「これだけは先に答えて下さい。耕一さんは、生きているんですね?」

 瞼を開き千鶴を見詰める赤い瞳が危険な光を宿し、千鶴の両肩を掴んだ手にも力がこもる。

「…生きて…いる……と思う」

 聞き取り難い囁きを耳にして楓は小さく息を吐いた。

 楓自身、梓と同じ心境だった。
 もし耕一は死んだと。
 殺したと言われていたら。
 許せる自信は、ない。

「梓姉さんに伝えて来ます。少しは落ち着いてくれるでしょう。初音の方がいいと思いますから、手伝う様に言って来ます。汗を流して着替えたら、居間に来て下さい」

 出来うる限り平静に言葉を紡ぎ、楓は踵を返す。

 楓自身、その声から感情が失せ切り裂く冷たい響きが入った事に気付く余裕はなかった。
 千鶴の苦しみ辛さを知っていて何も出来なかった楓自身、自分が千鶴を責めるのは理不尽だと思う。
 それでも楓と梓には、今は確実に生きている姉より、行方の知れない耕一の安否で頭が一杯だった。

 楓も梓も、この時期、耕一を呼んだ千鶴の真意を測り兼ねていた。
 鬼は同族の力と、月の満ち欠けに影響を受ける。
 もっとも鬼の力の強まる満月期に耕一を呼べば、姉妹の鬼の影響と相俟って、耕一が覚醒する危険は大きかった。
 それ故、叔父実の息子に憎まれようと隆山に呼べず、別れて暮らしていたのだ。
 そんな叔父の長年に渡る心痛を知りながら、全ての努力を無に帰する危険を、姉は敢えて冒した。

 そこまで追い詰められた姉の力になれなかった自分にも責任がある。と楓も理解はしている。
 だが、それでも許せるかと問われれば、許せる筈がない。
 上辺だけの事情しか知らない梓では、許せ無くて当然だろう。
 深手を負い苦しむ千鶴を前にしても、梓も楓も一刻も早く千鶴の口から否定して欲しかった。
 肯定されれば、姉妹の絆は絶たれるかも知れない。
 今、少しでも正常な精神を保っているのは、初音だけかも知れない。しかし初音には姉達を正常に戻す力は無かった。
 唯一の救いは、水門で気を失った初音に付き添う間に梓が僅かばかりでも冷静さを取り戻している事だけだ。
 しかし姉妹のまとめ役の千鶴が信頼を無くし自失状態の上、次女の梓が暴走寸前では、楓が何とか姉妹をまとめなくては成らない。
 柏木家の四姉妹が、この先も姉妹として暮らしていけるかどうかは、楓の余りにも弱々しく細い肩に掛かっていた。

 廊下で楓は赤く染まった瞳を固く閉ざし、弱気になりそうな自分を励ます為、大きく息を吸った。

 姉の千鶴が今まで努めて来た役目を、自分が出来ないと背を向ける事は、楓には出来ない。

 その双眸が再び開けれた時。
 楓の瞳は、黒めがちの静かな哀しみを湛えた瞳へと戻っていた。
                                           蒼月夜 四夜へ

二夜

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