二夜 記憶
夜明け前、薄明の空を蜻蛉の薄羽のように儚い月光にシルエットを浮かび上がらせ、二体の美しい鬼が駆け抜けた。
一体の背にはもう一体、鬼がしがみ付いていた。
風圧に細めた瞳を先行する妹に向け、梓は噛みしめた唇から一筋の朱を滴らせた。
すぐに飛び出しそうな楓を何とか着替えさせ。その間に楓から聞き出した話は、梓にはとても信じられないものだった。
男の鬼が暴走するのは、叔父から話だけは聞いていた。
しかし、だからと言って姉が耕一を殺すなど、どう考えても梓には悪い冗談としか思えない。
だが、それが嘘や冗談ではない事は、楓の必死な様子からも伝わってくる。
今まで使おうとしなかった鬼の力を、楓が千鶴を止める為だけに使っているのからも話は確かだ。
初めて見せた楓の力は、梓とほぼ同等かそれ以上だ。ジリジリと差は開いていく。
陸上で鍛えた梓の足なら、力の差を補って余りあるが……。
チラッと背を振り返り、梓は更に唇を噛んだ。
怯え切った初音を一人にしておけずに背負って来たが、これ以上早く走れば初音が窒息してしまう。
既に初音は、梓の背に顔を付け息苦しさに喘いでいた。
家から目的地まで数分の筈が、異様に長く感じる。
常人の眼には捕らえ切れない程の早さが、亀の歩みより遅く感じられる。
僅かに落ち着きを取り戻した楓が、力の発信源と感じた場所。
梓に取って生涯忘れ難い、想い出の場所。
裏山の水門。
あそこで耕一は、一度鬼を抑えた筈だった。
どうして今になって……。
今、天駆ける三人の共通の想い出。
耕一は子供の頃、鬼に目覚め三人を殺しかけた。
それは恐怖でも在り、梓にとっては喜びでも在った。
梓を助ける為水門に飛び込み助け上げた後、梓がなくした靴を探しに再び水中へと姿を消した耕一は、悠久とも思える間、水面へ現れなかった。
耕一の安否を気遣い不安と焦燥に包まれた三人の前に、無くした靴を手に姿を現した耕一は、別の者だった。
殺意と恐怖を発散するそれは、見た目は同じでも明るく優しい従兄ではなかった。
だが、それを耕一は抑えた。
叔父から話を聞いた時。
梓は自分達を救う為に、耕一が鬼に勝ったと思っていた。
覚えていなくても、耕一は自分達の為に父にも叔父も出来なかった事を、やってくれた。
他に誰の為でもない。
自分達を救う為に。
自分を二度までも救ってくれた。
泣き出したい程、梓は嬉しかった。
そして多分、あの時から耕一は、梓にとって一人の男性だった事に気付いた。
まだ自分は、何もしていない。
耕一が鬼に苦しむなら、梓は何か助けたかった。
せめて側に居て一緒に苦しみたかった。
何もしない内に、失うなど我慢出来ない。
噛み締めた唇から血の味が口の中に広がり、高められた梓の嗅覚が錆臭い血の香りを嗅ぎ取っていた。
それが耕一の血でなく、自分の血である事を祈りながら梓は逸る心を押し止めた。
梓より一足先に楓は水門にその姿を浮かび上がらせていた。
陽炎の様な姿が実態を成し、そのまま足が止まった。
楓に取っても思い出の地は、血の臭いを漂わせていた。
楓が耕一の鬼の恐怖から覚醒を促された地は、項垂れ座り込んだ姉と倒れ臥す男の血にまみれている。
震える足で一歩一歩男に近付く楓の足が不意に止まり、ゆっくり視線が姉に向けられた。
山の稜線を浮かび上がらせた朝陽が、薄く照らし出した男は、耕一ではなかった。
身も知らぬ男が倒れ臥し、大きく抉られた痕から流れ出た血が、川原を赤黒く染めている。
「…ねえ…さん」
よろめきながら千鶴に近付いた楓は、河原の石に足を取られ千鶴の前で倒れながらも、そのまま両腕でづるづると千鶴に這い寄る。
「耕一さんは? 耕一さん、何処?!」
座り込んだ千鶴の膝を掴み、楓は顔を上げ叫んだまま両眼を見開いた。
楓は掴んだ姉の膝から流れ落ち、両手を濡らしたモノが血が混じった涙だと、その時に知った。
虚ろに開いた穴のような瞳から頬を伝い、膝の間にスカートの布地が吸い切れなかった涙が溜りを作っていた。
「…ねえ…さん?」
楓は不安げに小さく姉を呼んだ。
息はしている。
微かに上下する胸が生きている証しだ。
だが、その瞳は何も映していない。
「……千鶴ねえ…姉さん?!」
再び呼び掛けながら手を伸ばした楓の前で、千鶴は崩れる様に身体を傾げ地に臥した。
「楓! 千鶴姉は!」
いつの間に着いていたのか、梓の怒声が楓の背から響いてきた。
「……気を…失ってる」
「生きてんだな?! あっちの男は誰だ? 耕一は?!」
千鶴を抱き起こしながら矢継ぎ早に尋ねる梓に、楓は首を縦に横に動かす事で答えた。
一方初音は、梓に川原に下ろされてから一歩も動けずにいた。
立て続けに起こる非現実的な光景に、鬼の力にさえ目覚めていない初音は、千鶴が耕一を殺すと聞いてから現実と非現実の間をさ迷い、半ば自失状態だった。
今また血にまみれ死んでいる男と、半死半生の千鶴の姿を目にしただけで、既に立っているのが奇跡のような混乱に襲われていた。
瞳が映し出す光景を拒否しようと、理性が考える事を放棄した。
思考能力が低下し、感情さえ満足に働いていない。
震える事も泣き出す事も出来ず。ただ目の前の情景を瞼を閉じる事さえ出来ずに瞳が映し出していた。
瞳から入った情報がまとまった考えに繋がらず。自分が立っているのかどうかも判らなかった。
ゆっくりした動きで、姉の一人が近付く。
歪む姉の姿を瞳に映しながら、初音の意識は霞むように白くぼやけて行った。
蒼月夜、三夜へ