蒼月夜
一夜 異変
柏木楓が、それを感じた時、未だ深き夜の闇が部屋を覆っていた。
身体の芯から凍えるような恐怖にベットから飛び起きた楓は、全身を濡らす汗を散らし客間に向って駆け出していた。
濡れたパジャマが肌にまとわり付く不快感が、楓の焦燥を一層募らせる。
この数日感じた鬼とは明らかに違う殺意と魂さえ凍り付かせる強大な恐怖を生む力が眠る筈の客間は、シンと静まり返っていた。
はやる心を押さえ、楓はこの数日繰り返したように廊下から中を密かに伺い息を飲んだ。
そこに居る筈の者は存在せず、寝乱れた布団だけが残されていた。
楓は踵を返し、部屋への道筋を駆け戻った。
駆け戻った自室の向こう、目的の部屋の前では妹が泣き出しそうな顔で首を動かしていた。
楓を認めた妹。初音の表情が束の間安堵を浮べ、次の瞬間、楓を見詰め息を飲む。
楓は初音に構わず、突き当たりのドアを力任せに押し開き、開けたドアに寄りかかり、ずるずると床に崩れ落ちた。
そこにも人の気配は無かった。
ベッドで眠った形跡すらもが、残されてはいなかった。
それが意味する所は、楓には明白だった。
楓がもっとも恐れた瞬間。
心を殺し、守ろうとした者の消失を意味していた。
楓を気遣う初音の涙声も、楓には聞こえなかった。
全身を包む寒さが体を凍えさえ、何処までも虚無に落ちて行く浮遊感に目が眩んだ。
落ち行く意識を後悔が繋ぎ止める。
せめて伝えたかった。
ずっと抱き続けた想いの一片だけでも、伝えて置けば良かった。
早く、伝えれば良かった。
肩を揺さぶる力に、楓は霞む視線をそれに向けた。
ぼやけた小さな唇が、盛んに形を変える。
醜い。
楓はぼんやりと、そう思った。
瞳に映る物全てに何の意味も感じられ無い中で、それだけが酷く薄気味悪く蠢いていた。
ただ何も考えず虚無を漂い。
たゆたう時を過ぎ、また巡り会うのを待つだけ。
幾星霜、幾年月、いつ会える?
五百年かかって、たった三日?
今度会う時、それが自分なのか、彼女なのか。
それすらも判らないのに。
言葉も交わせず。
心を殺し。
そして失った。
判らなかった。
私なのか。
彼女なのか。
……今まで。
最後の意識を繋ぎ止めていた醜い歪みが不意に消え、楓を激しい力が現実に引き戻した。
その力が頬を熱く痺れさせ、楓の華奢な身体を激しく揺する。
「……ねえ…さん?」
微かな囁きが楓の口から洩れ、力はらんらんと輝く瞳を楓の瞳に合わせた。
「楓、何があった? 千鶴姉は? 耕一は何処行ったんだ?」
見詰める姉の瞳に、楓は現実に引き戻された。
赤く裂けた禍禍しい瞳。
姉妹を繋ぐ血の証しの様な、赤。
「楓!!」
力を伴った叱責が楓を打ち、楓はビクッと身を震わし現実に立ち戻った。
「…まだ……間に…合うかも」
よろよろと立ち上がろうとする楓を、梓は抱き止め眉を潜めた。
普段から大人しい妹だが、ものに動じない事では梓も一目置いている。
鈍いという意味でだが。
だが今の楓の様子は、異常すぎる。
「何が間に合うんだ? アレは何だったんだ?」
「……アレ?」
梓の腕の中で弱々しくもがいていた楓が、ふっと闇に蒼白く浮かぶ顔を梓に向けた。
「そうだよ。あの化け物みたいな鬼だよ」
「鬼?」
ぶるっと身を震わし、楓はやっと思い出した。
今まで感じた事のない恐怖。
あの禍禍しい暴風のような力。
殺される。
不意に浮かんだ言葉が、悦びと哀しみを同時に楓を包んだ。
あんな力に対抗出来る筈がない。
だから殺されない。
でも、殺される。
「…こう…い…ちさん…ち…ずる…ねえさん」
どちらも失いたくない人。
でも、どちらかは失う人。
「だから! 二人は何処だ!!」
「ぐっ! ふっ」
苛立った叱責に肩を掴んだ梓の手に力が入り、楓は息が詰まり苦悶の声を洩らした。
「ご、ごめん」
梓は慌てて手を放した。
危うく肩の骨を砕く所だった。
梓も楓同様、混乱の極みにいた。
行方不明の後輩を心配し、クラブの仲間達と彼女の家に泊まり込んでいた梓は、うつらうつらとした所を飛び起き、引き留める後輩達を後に家へと駆け戻って来た。
梓を目覚めさせた力は、信じられない程強大だった。
元来力を感じるのが得意でない梓をして、遠く離れていても、それは梓を震撼させるに十分な力と殺意を放射していた。
鬼の力を使えるのは、柏木だけ。
鬼の力をフルに使い辿り着いた家で、梓は門に向かわず塀を飛び越え、楓と同じく客間に飛び込んだ。
姉妹の誰とも違う力の主は、ここに眠る筈だった。
部屋がもぬけの殻なのを目にした梓が、その場に居たのは一瞬だった。
すぐさま踵を返し、姉妹の部屋に向った。
そこで梓は、真っ暗な廊下の先で初音が必死に楓を揺すり、泣きながら名を呼んでいるのを見つけた。
楓も異常だった。
初音を見ながら楓の瞳は、何も見えていないようにぼやけ、うっすらと浮べている笑み。
否、頬の歪みが、それを見た梓の全身に痺れる様な震えを走らせた。
梓に気付き、ほっとした表情を浮べた初音を脇に押しのけ、梓は楓の肩を掴み、慎重に頬を軽く叩いた。
力を解放している今、それだけで楓の頬は赤く色を変えた。
微かに光を取り戻した瞳を見詰め、楓の肩を梓は軽く揺すった。
だが梓の自制心も、限界に来ていた。
妹達は一応無事だが、姉の千鶴の姿が無い。
昨日、異常な猟奇殺人があったばかりだ。
しかも、こんな状態の妹を置いて、姉が深夜何処かに行くなど有り得ない。
そして、もう一人。
力の源の筈の耕一も、初音や楓を置いて姿を消している。
あんな禍禍しい力が耕一だとは思えないが、他に柏木はいない。
尋常ならざる事態だった。
夢遊病者のようにふらふらと立ち上がる楓を抱き止め。聞き取り辛い呟きを耳に入れ、問い質そうと聞き返した梓は迂濶にも骨を砕く寸前、楓の肩から手を放し。やっと梓は自分を落ち着かせる為、息を吐く事を思い付いた。
二人の姉を見ながら、初音は何も出来ずにいた。
正体の判らない恐怖心に姉達と同じように飛び起き、楓の叩きつける様に開けたドアの音で慌てて廊下に飛び出した初音は、千鶴を起こそうとしたが部屋には姉は居なかった。
急いでもう一人の姉の部屋のドアノブに手を掛けた所で初音は梓の不在を思い出し、耕一に知らせるべきか楓を追うか躊躇っている間に引き返して来た楓は、初音には悪鬼に見えた。
日頃、物静かで表情を殆ど変えない姉の頬は引き連れ、白い肌は血の気を失い青白く暗闇に浮かび上がり、髪を振り乱し駆ける姿は、普段物静かな姉とは初音にはとても思えなかった。
まるでそこに初音が存在しないかの様に、楓は千鶴の部屋に身体を叩きつけるように扉を開け、崩れ落ちた。
必死で肩を揺する初音に虚ろな瞳を向けた姉を、初音は涙ながらに呼び続けた。
反応を示さない楓に不安が募り、耕一を呼びに行こうとした矢先、梓が姿を現し安心したのも束の間。梓の発した言葉に、初音は奈落に突き落とされる様な衝撃を受けた。
初音が何とかこの異常な事態に耐えていたのも、客間に呼びに行けば、耕一が居るという安心感からだった。
異常な恐怖と不安だけが支配するこの時。
母の様な千鶴だけでなく。
兄の様に。
いや、初音が実の兄以上に慕う耕一までが姿を消した。
それが初音に、父や母、叔父を亡くした時以上の衝撃を与えていた。
四姉妹の誰にとっても、耕一は特別な存在だった。
同じ鬼の血を引く従兄弟と言うだけでなく、叔父と重ね合わせての安心感だけでもなかった。
姉妹の誰もが口にこそ出さなかったが、耕一が来るまでは不安を抱えていた。
八年前、姉妹の元に来た父を、耕一は避けていた。
葬儀にすら姿を現さなかった。
アルバイトを始めたばかりで、長期に渡り休めないと理由を付けてはいた。
母方の実家から援助を受けている耕一が、生活の足しにしているアルバイトを持ち出し、遠い隆山まで足を運び以後の生活の不安を匂わせば、薄情とはいえ理由にはなった。
だが姉妹の誰もが、それが叔父と耕一の絆が絶たれている為なのは、薄々気が付いていた。
そしてそれが、叔父が自分達の為に単身この隆山にやって来た為なのも理解していた。
礼節にこだわる千鶴が何も言わず、本来耕一が喪主の葬儀への欠席を了承し、欠席を告げられた妹達も、そう。の一言で片付けたのが、それを物語っていた。
しかし耕一が訪れない寂しさと叔父を不憫に思うと同時に、姉妹全員は安堵を胸に抱いた。
もしも耕一が、父を奪った自分達を恨んでいたら。
叔父を失い失意の最中の姉妹には考えただけで、生きる希望も消えそうな気がした。
千鶴が叔父の納骨まで、せめて四十九日の間だけでもと頼み。千鶴の願いを了承した耕一が来るまで姉妹全員が期待と不安を抱いて過ごした。
昔遊んだ優しい従兄の到来は、姉妹には叔父を亡くした痕を癒してくれる者と思えた。
だが、もし冷たく突き放されたら、どうすれば良いのか、姉妹の誰も考えられなかった。
そして柏木本家を訪れた耕一に、姉妹は元気付けられた。
成長し成人した耕一は昔と代わらず、気さくで優しかった。
姉妹の誰もが、叔父に似た耕一の屈託無い明るさと暖かさに救われた思いがした。
しかし数日を経たず、より深い不安を千鶴と楓は抱える事になった。
柏木の血に潜む、鬼の目覚めである。
訪れた当初、目覚めの兆候のなかった耕一に安堵したのも束の間、それは蠢き出した。
耕一が鬼に目覚め制御出来なければ、三度姉妹は失う苦しみを味わう事になる。
それが最悪の形で現実になった。
だが三人の内、それを知っているのは、楓だけだった。
蒼月夜 二夜へ