蒼月夜

                 樹

      序

 それは長い間、暗く深い闇に閉じ込められていた。
 遠い昔、束の間光を受けながら、長く闇の底に閉じ込められ、再び光を受ける時を待ち望んでいた。
 その瞬間は悠久とも思える時の末、遂に訪れた。
 しかし皮肉にも、その時は自らの命の炎が消え去る直前でもあった。

 それは一瞬の躊躇いの後、最後の力を振り絞り自らの肉体を変化させた。

 危険な賭けだった。
 本能が力を解き放たぬ生命の危機を知らせ。同時に、力を解き放つ危険を盛んに訴えていた。
 知覚が、それより劣る力しか持たぬ同族が二人、力を振るっている事を告げている。
 それを呼び覚ました美しい命の輝きが刹那の光芒を放ちながら、互いの炎を散らそうと燃え盛っていた。
 今力を開放すれば、自らの力に耐え切れずそのまま命を失うか、かろうじて命を繋げる。

 だが命を繋いでも、同族との戦いに勝てるのか?

 愚かな持ち主が捨てた脆弱な肉体を、強靭な鋼へと変え傷を塞げば、高潔なる血を失いすぎた身を、微かな希望とは言え存続出来る可能性はあった。
 しかし同時に同族にも気付かれる。
 手負いの今、戦いになれば勝てる筈もない。
 一人は、それを殺そうとした者なのだ。
 確実に止めを刺そうとするだろう。
 だが死から逃れるには、解放しか無かった。

 やっと手に入れた自由。
 このまま朽ちるより、束の間でも戦いの中で己が炎を散らした方が、誇り高き狩猟者に相応しい。

 それは力を解放した。

 それは己の開放した力の凄まじさに身震いを起こし、突き上げる高揚に知らず咆哮が口を突き、蒼白い月光がそれの禍々しい姿を照らし出した。
 咆哮が大気を揺るがせ、空間が恐怖に震えた。

 何という解放感。
 かぐわしき血の臭い。
 これから、自由が始まる。
 命の炎を消そうとする深手を、組み替わった遺伝子が鋼と化した筋肉で締め血を止める。

 完全ではないが、死からは一時的に逃れた。
 血さえこれ以上失わなければ、時間さえ在れば何とか傷は癒える。

 大気を裂いた咆哮が、同族にそれの力を知らしめた。
 戦いを忘れ、咆哮に潜む力に二人の同族は動きを止めた。

 一瞬躊躇した二人の内、それと同じ異形の者が大地を蹴る。圧倒し止めを刺そうとした獲物を放り出し、咆哮を上げ牙を剥いた。

 異形の本能が目の前の獲物より、今葬るべき敵を告げた。

 自らを凌駕する力への恐怖が、獲物に背を向けてでも、手負いのいま、それを葬る事を優先させた。

 それは迎え撃つべく、異形の動きを追う。

 一瞬しか、それにはチャンスがなかった。
 幸いにも傷は急所を僅かに外れている。が、無駄に動けば死しか無い深手を負っていた。
 一撃で仕留め、いま一人の同族から逃れなければならない。

 それが最後の力を振り絞り迎え撃った一撃が、異形より遅いと感じた瞬間。それの勝機は、意外な所からもたらされた。
 それに死を与え様とした者、同族の女が無謀ともいえる戦いを異形の後方より挑んだ。

 無防備な異形の後方から腕を振るう。
 反撃しろと言わんばかりの、無造作な一撃だった。
 異形が女に一瞬気を取られ。女は掠り傷を付けただけで、異形の身体に跳ね返され地に臥した。
 しかし、その一瞬で勝敗は決した。
 気をそらした異形が加えた一撃は、それの頬を掠め異形の腹を、それの鍵爪は貫いていた。

 血の生暖かく腕が濡らす感触が。
 肉を裂く快感が。
 それを興奮させた。

 興奮と勝利の咆哮を上げ、それは異形が散らした炎の美しさを目にして更なる陶酔に、瀕死でありながら恍惚と至福を感じた。
 残った同族に目を向け、炎を散らす欲求がそれの中を駆け抜けた。

 傷付き血にまみれていても、その同族の女は美しかった。
 よろよろと立ちがろうともがき、幾度も倒れ臥す女に背を向け、それは身を屈め跳躍した。

 今は、身体を癒す方が優先される。
 立ち上がれもしない獲物など、狩っても興奮も、満足も得られない。
 身体を癒し、あの美しく高貴な炎を散らす。
 考えただけで身体中を歓喜が駆け抜け、それは再び咆哮を上げた。

 すばらしい狩りが出来る。

 命を削る攻防の末、俺があの高貴な炎を散らす。
 考えただけで身体を駆け巡る歓喜に頬を歪め、それは空を駆けた。
 
 残された女は、震える膝で、よろよろと立ち上がり、それが姿を消した空を放心した瞳で見上げた。
 やがて女は顔を上げているのさえ辛い様に視線を落とし。刹那、女の面に恐怖が浮かび、瞳を見開き震える両腕で自らの肩を抱き、腰から崩れる様に座り込むと、光りを無くし濡れた瞳を虚空に向けた。

 女の落した視線の先には、異形であった男の躯が横たわり、人に戻った男の胸に蒼き月光が、一筋の痕を浮かび上がらせていた。

 柏木千鶴と呼ばれる女が、かって柏木耕一で在った者が犯した、殺戮の証しとした痕が……

                  一夜へ

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