第六章 摩天楼の鬼達
 

 午後、俺は四姉妹が泊まっているホテルに足を向けた。
 あらかじめ時間を伝えておき、ロビーに入った途端、

「こーいちおにーちゃ〜ん!」
「おっ……」

 俺を呼ぶ声。
 この可愛らしいソプラノ、そして俺を『お兄ちゃん』と呼ぶこの声の持ち主は、一人しかいない。

「やっ、初音ちゃん。お出迎えご苦労さん」
「えへへ〜」

 とてとてと駆け寄ってきた初音ちゃんは、嬉しそうに天使の微笑みで答えてくれた。

「朝はよく眠れましたか、お姫様? 昨夜は、わたくしめの背中でぐっすりお休みのようでしたが?」

 悪戯半分でからかうと、

「えっ!? あっ……お、お兄ちゃん!」

 予想に違わず、一瞬で初音ちゃんの頬に朱が差し掛かる。

「あははは……どうやら、よく眠れたみたいだね」
「あぅ……こういちおにぃちゃんのいぢわるぅ……!」
「いやぁ……初音ちゃんの困った顔って、可愛いから……」
「む〜っ……」

 真っ赤な顔でぽすぽすと、俺の胸板を叩く初音ちゃん。どうやら、抗議しているらしいが……。当然の事ながら、初音ちゃんの力では全然痛くない。

「耕一さんも初音も、そのくらいで止めておいた方がいいですよ」

 苦笑気味の声。
 視線を移すと、楓ちゃんが苦笑して、でもどこかおかしそうに、俺達を見ていた。

「やあ、楓ちゃん。おはよう」
「楓お姉ちゃん……」
「耕一さん、あんまり初音で遊ばないでください。ちょっと可哀相です」
「ああ、そうだね……ごめん、初音ちゃん。俺が悪かった!」

 俺がぱんっと両手を合わせて謝ると、初音ちゃんは上目遣いに俺に視線を向けた。そして、ぽつりと呟く。

「……もう、しない……?」
「はい、もういたしません」
「うん……それなら……許してあげる♪」

 にぱっと、初音ちゃんが満面の笑顔になる。
 その横で、楓ちゃんが俺達の様子を微笑ましそうに眺めていた。
 
 
 

「よ〜やく来たか。遅かったな、耕一」

 楓ちゃんと初音ちゃんに連れられ部屋に行くと、入った矢先に梓が挨拶してきた。

「おう、梓……ん? 千鶴さんは?」
「ああ、今来るよ」

 その時ちょうど続き部屋の扉が開き、千鶴さんが顔を出した。

「おはよう、千鶴さん」
「おはようございます、耕一さん……ふふっ」
「ん?」

 千鶴さんは、なにやらくすりと笑った。

「どうしたの?」
「いえ……もう夕刻にもなろうかと言うのに、『おはようございます』なんて……なんだか、おかしくって……」
「あはは……そうかもね」

 俺もこれには苦笑するしかない。何せ、ここにいる全員が昨夜の件で睡眠時間がずれてしまっているのだから。

「……で、耕一?」
「ん? なんだ、梓」
「今夜……だよな」
「……ああ……」

 俺と梓のやりとりに、全員の顔が一変した。
 千鶴さんが、鋭く細めた眼を向ける。

「まず、鬼が出たら……どう、対処しましょうか?」
「そうだね……まずは、奴が本当に<狩猟者>と化しているのかどうか……人の心を完全に失っているのかどうか、楓ちゃんや初音ちゃんに判別してもらわなきゃな」
「はい……」
「うん!」

 二人がしっかり頷くのを確認した俺は、続けて上の姉二人に視線を移した。

「千鶴さんや梓は、二人の護衛を頼むよ」
「はい」
「そうだね」

 今夜も二組に分かれるから、奴が出た場合はどっちか奴に近い方がまず接触して、それからもう一方が追いつく事になるだろう。合流するまでは、戦力はあまり余裕がない。

「……奴がまだこちらに還ってこれるなら、全力でその手助けを果たすだけだ。だけど、もしも……」

 もし、人としての心を完全に無くしていたら。

「その時は……」

 俺達柏木の者は、そいつを……殺さなければならない。
 それは、鬼の血を引く者の義務でもあり、そして、その鬼の為でもある。
 だが……奴が完全に<狩猟者>と化していた場合、まともに相手をするには、千鶴さんや梓では荷が勝ち過ぎるだろう。無論、楓ちゃんや初音ちゃんは論外だ。二人のちからの真価がどのくらいなのか知らないが、<狩猟者>相手に正面切ってぶつかり合える類のものではないはず。
 つまり、俺か柳川で……

「……俺達二人で、奴と直接ぶつかる。みんなは、危険のない範囲まで下がっててくれ」
「耕一さん! 私達は……」
「わかってるよ、千鶴さん。無茶はしない。危なくなったら、みんなにも素直に援護を頼むから」

 千鶴さんの、いや、姉妹全員の言いたい事を察知した俺は、先手を打ってそう答えた。

「大丈夫。もう、過ちは犯さない。夏の時のような真似は……」

 その一言に、全員が強張った顔付きを幾らか和らげた。

「そうです、耕一さん……私達だって、戦えるんですから。だから……もっと、頼って下さい。もっと、必要として下さい」
「千鶴姉の言う通りだ。あたし達だって、役に立たないって事はないんだからさ。全部、自分だけでやろうとすんなよ!」
「大事な人が必死に戦っているのを見守るだけなのは……心が、痛いんです。一人で抱え込まないで……打ち明けて、話して、そして、一緒に戦わせて下さい」
「約束したよ、耕一お兄ちゃん。わたし達、一緒にいるって。お兄ちゃんだけに、つらい思いはさせないよ!」

 四姉妹それぞれ、みんなが瞳に優しい光を宿して俺を見つめる。言葉の端々に、彼女達の本音がある。
 暖かい光。柏木家の宿命の中にあって尚、輝きを失わなかった四つの宝石。柏木の女達の持つ、強さと脆さ、純粋さと高潔さを秘めた儚い心。
 その光が、俺に夏を思い起こさせる。晩夏に起きたあの事件。それぞれ心に痕を負い、それでも従姉妹達は俺を受け入れ、常に一緒にいてくれた。

「わかった……でも、頼むからみんな、無理だけはしないでくれよ」
「それは、耕一にも言える事だね」
「ははっ……そうだな」

 まぜっかえす梓の言葉に、他の三人もくすくすと笑い出す。俺は苦笑でそれに答えた。
 
 
 

 柳川から電話があったのは、それから少ししての事だった。

『今夜はぎりぎりまで動けそうもない。午後十一時を回ったら、新宿駅の……』

 時間と場所を伝えられる。

「ああ、わかったよ」
『今夜で、決着をつけるぞ』
「そうだな。なんとしても……」

 そして俺達は、不夜城の摩天楼へと歩み出す。
 新たなる狩猟者との、死闘の為に────
 
 
 

 ざっ。
 俺は、横にいる楓ちゃんに囁きかけた。

「どう? 楓ちゃん……」
「……います。ここからそう遠くないどこかに、私達以外の鬼のちからを持つ者が……間違いなく、この新宿に……」
「特定できる? 楓」

 千鶴さんが妹の顔を覗き込む。

「ううん、ちょっと難しい……気配はするんだけど、まだ弱くて……」
「まだ、<鬼化>してないようだな……」
「ええ……」

 俺と千鶴さんがやりとりする間、楓ちゃんはぎゅっと眼を閉じていたが、やがて諦めたように瞳を開いた。

「やっぱり、無理です。なんだか、気配がぶれているみたい……」
「ぶれて? どういう事だい?」
「なんというか……例えるなら、テレビ画面とかがぶれたり、電話が混線しているような感覚がするんです……時折、複数の気配がふと感じられるような気もするんですけど、そんなはずないし……」
「複数ですって?」

 鬼が複数? そんな、バカな。

「うん……でも、ふとした時に混じるだけで……気のせいだと思う……」

 楓ちゃんは、自信なさそうだ。この子がこんな曖昧で煮え切らないのも、珍しい。

「多分、鬼気が弱すぎるんです。普通じゃ感じ取れないくらいにまで小さくて、押さえ込んでいます。こんなの、私や初音でもなければ、隣にいたって気付けるかどうか……」
「そこまで、気配を消せるのか……」

 普通、そんな芸当は余程力の差がある相手にしか出来ないものだ。しかし、あの時の鬼気の強さは、強力ではあったが俺や柳川を歯牙にも掛けぬ程強くもなかった。
 だと、すると……

「やっぱり、完全に<狩猟者>と化している可能性が高いですね……」

 千鶴さんの形のいい眉が寄る。

「うん。完全に、肉体を制御しているんだ……鬼の意識が、ね」

 救える確率は、極めて低くなった。
 そもそも、制御できるか否かは生まれた時から決まっている。出来るか、出来ないかのニ通りだけ。
 かつての柳川のように、互角にぶつかりあってしまって不確定になってしまっている例もあるにはある。しかし、そうだとしたら、ああまで高いレベルの鬼気は出せない。力が、人の意識に押さえ込まれてしまうのだ。
 こいつはおそらく、二つの意識が完全にシンクロしている……いや、人の意識が、鬼の意識に取り込まれてしまっているのだろう。

「初音ちゃんは、気付いたかな?」
「多分……あの子も、気付いています」

 こくんと頷く楓ちゃん。

「よし」

 それなら、奴が動き出したら向こうも察知出来るな。柳川と梓も、すぐに駆けつけられるようにしているはずだ。

「出来る限り、絞り込んでみてくれるかい?」
「はい」

 楓ちゃんはもう一度頷き、再び眼を閉じた。

「……耕一さん、もし<狩猟者>だった時は……」
「わかってる」

 奴を楽にしてやるのは、俺の使命だろう。
 ぎっと握り締めた俺の拳を、千鶴さんがそっと握る。

「千鶴さん?」
「私達も一緒です。一人で、業も宿命も、何もかも抱え込まないで……」

 真摯な一対の瞳。千鶴さんの表情は、真剣だった。

「うん、わかってるよ……」
「忘れちゃだめですよ。あの夏の夜、私にそう言ってくれたのは、耕一さん……貴方なんですから」
「うん」

 俺は、いつのまにか固くなっていた拳をそっと開いた。それに合わせ、千鶴さんがゆっくりと指を引く。
 俺は、緊張していたらしい。じっとりと汗が手の平に滲んでいる。

「ありがとう、千鶴さん。おかげで、落ち着いたよ」
「ええ……」

 ベンチに座る楓ちゃんの肩をそっと抱き、千鶴さんは微笑んだ。
 時刻は、午前零時を少し回った処。
 これからが、勝負だ。
 
 

 
「耕一さん、動きましたっ!」

 突然眼を見開いた楓ちゃんが、鋭く叫ぶ。俺と千鶴さんの顔に、緊張が走った。

「どこだ、楓ちゃん!?」
「あっちです! どんどん鬼気が膨れ上がってくる……<鬼化>します!」

 いきなり変わるつもりか!?

「どうやら、鬼気を隠すつもりはないようです。もしかしたら、私達がいる事を察したのかも……」

 他の鬼がいる事に気付いたという事か? だが、だとすると……

「挑発か……?」
「でも、放っておけません。行きましょう、耕一さん!」

 そう言って千鶴さんが振り返った時──
 俺達の知覚が、あの鬼気を、捉えた。
 
 
 

「──いたっ!」

 初音がはっとあらぬ方を見、小さく叫ぶ。

「出たの!?」
「初音、どこだっ!?」

 初音の細い指が、しっかりと一点に向けられる。あたしと柳川、二人がその先に視線を走らせた。

「あっち! もうすぐ、鬼気が大きくなる……すぐにわかるよ!」
「耕一達の方が近いな……」

 柳川が、ちらっと少しずれた方へ視線を向ける。

「楓は?」
「楓お姉ちゃんも気付いたみたい。三人とも、ちからを出し始めてる……動き出してるよ」
「よっし!」

 あたしが一つ頷いた瞬間──
 爆発的に、意識の片隅を強大な鬼気が通り過ぎた。

「くっ……!」
「来たか!」

 こいつは──たしかにでっかい。耕一や柳川に匹敵してる。間違いなく<狩猟者>だ。
 しかし……
(これは……救えないかも)
 柳川の時みたいに、鬼気のどこからも微かな慟哭も悲鳴も届いてこない。完全に、鬼の意識が出張っている。

「初音──」
「まだだよ、近くまでいかないと、まだわからない!」

 あたしの表情から読み取ったらしい初音が、焦燥感と共に答える。心優しいこの末の妹は、まだ希望を捨てていないのだ。
 ……強いね、初音。

「俺は一足先に行く! 梓、お前は初音を連れて後から来い!」
「わかった! あたし達もすぐに行くから!」
「気を付けて、柳川おじちゃん!」

 辺りに人がいないのを確認してから、柳川が一気に跳躍する。一瞬であたし達の視界から消え失せ、強い鬼気が遠ざかって行く。
 それから、あたしは初音の手を取った。

「行こう、初音! 耕一達ももう行ってるはずだ!」
「うん!」
 
 
 

 摩天楼に、三体の鬼が舞う。下から吹き上げる突風に衣服の裾をはためかせ、弱々しい
都会の月光と様々に煌く地上の星明かりの中を駆け抜けて。

「耕一さん、柳川さんも動きました!」

 俺のすぐ後ろで、ビルの屋上を蹴った楓ちゃんが報告する。

「どれくらいでくる?」
「私達より、一、二分程度です。梓姉さんと初音も、五分くらいで来るでしょう」
「了解っ!」

 ふわっ……
 やや右手前を飛ぶ千鶴さんが、硬い声を漏らす。

「耕一さん、私達の接近──やはり、気付かれたようですね」
「……そう、みたいだな」

 たった今、膨れ上がった<狩猟者>の鬼気に、明らかな殺気と奇妙なまでの興奮が混じり始めたのがわかった。
 奴め、同族の接近を感じて、命の輝きに魅せられたか。
 俺は、左右に並んできた千鶴さんと楓ちゃんに、ちらっと視線を走らせた。
 夜の虚空を翔けるその姿は優雅かつしなやかで、気高き獣を連想させ、千鶴さんの闇を秘めた鴉の濡れ羽色の髪が、まるで羽根のように後ろに流れる。楓ちゃんのストールが翻り羽ばたき、天空より舞い降りた儚げな黒い翼の天使が、再度闇へと飛翔する。
 その漆黒のはずの暖かい光を浮かべる二対の瞳は、今や真紅に染まりきり、縦に裂けた瞳孔に禍禍しくも美しい輝きを宿していた。
 柏木家の──エルクゥの、鬼姫達。
 常人なら見据えられただけで容易く気絶する程の鬼気を秘めた双眸は、しかし、同時にとてつもない高貴な美をも内包している。身に纏うのは、強く気高き命の炎。
 これだけの輝きだ。奴が歓喜するのも当然か。
 俺自身、二人が放つその焔に魅せられる。純粋に、畏敬を込めて賞賛できる。
 だから、奴がこちらに釣られて来るであろう事も、簡単に予想できた。
 楓ちゃんが叫ぶ。

「耕一さん、こっちに向かってきます!」

 やはり来たか。
 と、すると──わざわざ鬼気を全開にしたのは、俺達を呼び込む為か。近くに同族がいるのに気付いて、戦いに来る者と戦おうと……
 まさに、戦闘種族の本能だな。

「どの辺りで接触する!? 多少暴れても平気な所は近くにあるか!?」

 出来る限り奴を人気のない所に誘導しようと、俺が戦地を探そうとした時、千鶴さんがすっと指をあげた。

「そこの公園! 人の気配、近くにはありません!」
「よし、誘い込むぞ! 二人とも援護してくれ!」
『はい!』

 張り詰めた面立ちの中に決意を込めて、千鶴さんが頷く。楓ちゃんも、こくんと首を縦に振った。
 たんっ!
 真っ先に俺が公園の真ん中に降り立つ。続いて千鶴さんと楓ちゃんも、体重がないかのように軽やかに舞い降りる。
 そして──

「来ます!」
「二人とも、下がれ!」

 ずぅぅん……!
 俺から十メートルあまりの距離を置き、その場に、鬼が──<狩猟者>が、顕現した。
 
 
 

 ゴルルルウゥゥゥゥ──…………
 低い蠕動じみた息遣いの中から、爛々と瞬く邪眼が俺達を見据える。二メートルを大きく越える巨体、鬼気に嬲られ乱れ舞うざんばら髪、張り詰めた全身の赤黒い筋肉。鋭角的な突起物が額に見え、口の端から連立する乱杭歯が覗く。

 <狩猟者>

「出やがったな……」

 俺は二人を庇うように仁王立ちになり、ぎらっと奴を睨み付けた。

「たしかに、<狩猟者>──エルクゥの血を引く、鬼ですね……」
「……でも、耕一さんの姿の方がかっこいいけど……」
「か、楓ちゃん……」

 ぼそっと呟いた楓ちゃんの言葉に、俺は脱力しかけた。
 それはなんだか、論点がずれてやしないか?
 がくっと気が抜けそうになるのを堪え、俺は足を踏み出す。

「……おい! お前!」

 無駄かもしれないが、可能性がある以上は見捨てては置けない。
 俺は鬼に呼びかけてみた。

「俺の声が聞こえるか!? もう、こんな事はやめろ!」

 グルルゥ──…………

「お前は、己の中の鬼の意識に身体を乗っ取られてるんだ。自分自身の意識があるなら、答えろ! 鬼なんざに負けて、へたばってるんじゃねえ!」

 奴はただじっとしているだけだ。果たして、俺の言葉を聞いて──聞こえているのかどうか、全くわからない。
 なんでこう、鬼って奴は表情がわかんないんだ……? 自分もそうだが、表情が読めないというのはまだるっこしい事この上ない。

「そんな奴に負けて、自分の身体いいように操られて、それでまだ黙ってんのか!? そんな根性なしでどうする!? 俺達が手助けしてやる! まだ意志があるなら、もう一度戦うんだ!」

 グ、グググガガゥゥ──…………

「!」

 反応ありか!?

「耕一さ……危ないっ!」
「ぬっ!?」

 がぎゃあああん!
 豪腕が振るわれ、一瞬前に立っていたタイルが砕け散る。
 刹那、楓ちゃんの声に引き戻されるように俺の身体が背後に跳んだ。半回転しつつ体勢を戻し、更に数メートルを後ろに下がる。

「くっ……駄目か!?」

 敵対衝動しか感じられない!
 鬼が、振り下ろした爪を大地から引き抜く。その魔眼が、再度俺を捉える。
 グガアアァァァァ──…………!
 突進。物理的な質量以上の圧迫感を伴い、迫り来る鬼。
 俺は逆にその悪夢の権化に向かって、常人離れした速度で肉薄した。

「ぅおらぁぁっ!」

 ぎゃんっ!
 足元を削る爪を掻い潜り、鬼気によって強化した拳を厚い胸板に叩き込む。
 続いて第二撃──は、出来ない!
 ガァァァ──…………!

「くっ!」

 飛びすさる俺の首に、奴の爪が──
 
 
 

「耕一さん!」

 がぁん!
 !?
 分厚い鉄板に金槌を打ち下ろしたような音と共に、鬼の腕が弾き飛ばされた。

「千鶴さん!?」
「ふううぅぅぅぅぅ……」

 鋭い呼気と月光の香りが鼻先を掠め、続いて裂迫の気合が解き放たれる。

「はぁぁぁぁぁぁあああっ!」

 どんっ!
 ギャィィィ──ッ…………!
 鬼が吹っ飛び、そこにあったベンチを粉砕する。
 俺と奴との間に割り込んできた千鶴さんが、奴の腕を薙ぎ払いざま、反動で勢いの付いた掌打を叩き付けたのだ。

「耕一さん、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……助かったよ、千鶴さん」

 すごい……絶妙のタイミングでやらなければ、鬼がああまで吹っ飛びはしない。千鶴さんの戦闘技術の高さが垣間見える一瞬だった。

「もうっ、無謀過ぎですよ!」

 ほっと息を吐くと、千鶴さんが長い髪を振り乱すようにしてこちらを見る。

「ごめん……っ!?」
「姉さん、まだっ!」

 楓ちゃんの警告の叫び。
 ガァァァァァァッ──…………!

「なっ……!?」

 なんだと!?
 奴が跳ぶ。獣の如き体勢から、得物に飛び掛かるかのように高く、鋭く。
 狙いは──千鶴さん!

「なっ!?」
「しまっ……!」
「姉さん!?」

 同時に放たれる三つの声。

「────甘いな」

 それに混ざった四番目の声は、遥か上空から……俺達の耳に届いた。
 
 
 

「柳川さん!」

 楓ちゃんが叫ぶ。
 瞬間、奴よりも高く、鋭く、そして猛々しく──鬼の背後に、餓狼が出現した。
 どがぁっ!
 踵が鬼の背にめり込む。そのまま全体中をかけ、奴を蹴り飛ばす。

「うおおおおおおっ!」

 ずずぅぅ……んん……!
 地雷のような響きを伴い、大地に蹴り落とされる鬼。
 そして柳川は、俺達の前に降り立つ。

「ふん……得物に気を取られて注意を怠るとは、所詮は獣か」

 ついっと伊達眼鏡を押し上げるその様が、あまりにも絵になっていた。

「柳川……」
「耕一、お前もまだまだだな。油断大敵だ」
「うっ……」

 返す言葉もない。

「……でも、助かりました……」

 千鶴さんがふうっとため息をつく。たたっと歩み寄った楓ちゃんが、安心したように姉を見る。

「その話は置いておけ。それより、注意を逸らすな」
「え?」
「あれくらいでは、大した打撃にもならん」

 はっと、全員の視線が集まった。
 視線の先──むっくりと、奴が身体を起こすところだった。

「効いていない?」

 楓ちゃんが、俺の背に隠れるようにして呟く。俺は奴の一挙動に注意を払いつつも、彼女を庇うように一歩前に出た。

「うん……だけど、タフなのは先刻承知しているさ。なにせ、鬼なんだからな」
「そうですね……」

 視線をはずさず奴を見据えながら、千鶴さんが妹に問う。

「楓、この鬼はどうなの? まだ人の意識は残ってるの?」
「……私じゃ、よくわからないわ……初音でないと……」
「そう……じゃあ、初音待ち、というわけね」

 千鶴さんの鬼眼が鋭く瞬いた。

「梓と初音も、じきに来るはずだ」
「なら……それまでは、なんとかこいつを引き付けとこうぜ!」

 俺はそう言い、再び地を蹴る。柳川が同時に動きを見せ、千鶴さんと楓ちゃんもそれぞれに動き出す。
 まだ、戦いは終わらない──
 
 
 

「初音、あそこだな!?」
「うん!」

 梓お姉ちゃんの問いに、そう答える。
 もう少し……あの公園で、お兄ちゃんやお姉ちゃん達が戦ってる……
 この距離がもどかしくって、でもわたしは必死に前に進むしかなくって。
 なんで、わたしのちからは完全に目覚めてないんだろう……その事が、悔しい。
 そう思って唇を噛んだ、その時──
 どぉぉ……ん……
 わたし達が目指す場所から、凄い音が聞こえてきた。

「!? 梓お姉ちゃん!」
「ああ……耕一や千鶴姉達──かなり派手に、戦ってるようだね」

 この辺りは、人もいないみたい。だから、それだけ激しくしてても見付からないとは思うけど……でも、おおきなちからがぶつかり合ってる衝撃が、こんなに届いてくるなんて……

「初音、急ごう!」
「うんっ!」

 急がなきゃ。お兄ちゃんやお姉ちゃん……皆が、呼んでる。声が、聞こえる。
 わたしは、両足によりいっそうの力を込めた。
 
 
 

「っらぁぁっ!」

 鬼化する寸前まで解放したちからを振り絞り、掴んだ左手を無理矢理引きずり回す。そのまま遠心力を利用して、鬼を強引にぶん投げる。

「やぁながわぁっ!」

 放り投げた先にいる叔父の名を呼ぶ。それに答え、空中を平行に飛ぶ奴に向けて柳川が大地を蹴った。

「おおおおおっ!」

 ごがぁっ!
 飛びぬけざまの膝が入り、そのまま逆に吹っ飛ぶ鬼。

「はあ……はあ……」
「……ちっ……」

 再度、奴が起き上がる。

「っ……なんつータフさだよ……」

 舌打ちして、俺は奴に向き直った。
 もう何度も、殺しはしないが昏倒しかねないレベルの打撃を奴に与えている。だが、奴は怯みもせずに、ゾンビのように起き上がってくる。
 さすがは鬼、と言いたい処だが、今だけは自慢にもなりゃしない。
 敵に回ると、こうまで厄介な相手とはな……

「いいかげんにしないと、今度はこっちがまずいぞ……」

 俺が一人ごちた時、 背後から鈴鳴る声が名を呼んだ。

「耕一お兄ちゃんっ……!」
「初音!?」

 初音ちゃん──来たのか!
 ちらっと視線を伸ばすと、肩で荒い息を吐いた初音ちゃんが、梓に連れられ立っていた。
 と、同時に初音ちゃんの穏やかな──鬼気にこんな表現は似合わないが、そうとしか言いようがない──鬼気が場を吹き抜け、俺達のささくれだっていた鬼気を落ち着かせてゆく。
 鬼同士の共感能力を用いて、彼女はそんな真似まで出来るのだ。
 そして──

 グ、グギギガガァァァァァ──……!?

「!」

 突然、鬼が苦しそうに身を捩じらせはじめた。

「初音ちゃんのちからに、影響を受けたのか……?」

 鬼の破壊衝動が、押さえ込まれ始めている。
 よし、これならこいつをなんとか出来るぞ!

「初音ちゃん! こいつの自我を──」

 初音ちゃんのちからで、鬼の中に沈むはずの人の意識を呼び覚まそうと考えたその時──
 グゥオオオオオォォォォォォオオォォォオオォォォ──────………………ンン!!!!

『!!』

 鬼気が、解き放たれた。
 大気が振動し、とてつもない勢いで鬼気が膨れ上がる。爆発的に生じた鬼の気が、もはや物理的な圧力となって大地をすら鳴動させる。
 咆哮。
 生きとし生ける者全てを震え上がらせる、羅刹の雄叫び。
 死を定める鬼神の宣告が、俺達に叩き付けられた。
 ひっと息を呑んだ初音ちゃん。立ち竦む梓。脅えと共に数歩後ずさる楓ちゃん。千鶴さんも、気圧されたように身体が揺れている。
 俺と柳川ですら、竦みあがりはしないものの先程までとは桁違いの殺気に驚愕した。

「──な……なんだ、一体!?」
「鬼気がいきなり膨れ上がるとは……押さえ込めそうではなかったのか?」

 高々と咆哮をあげ続ける奴の殺意の先は───

「まさか……」
「初音!?」
「え──……?」

 我に返った楓ちゃんが、妹に向かって叫ぶ。

「いけない初音、抵抗されているわ! 逃げてっ!」
「なっ──?」
「! 来るぞっ!」

 ごうっ!
 視線を初音ちゃんの上に止めた鬼が、一気に跳躍する。

「!」
「しまった!」

 俺や柳川の位置からでは、奴に追いつけない!
 初音ちゃんに、奴が空中から襲い掛かる。鋭く光る、鬼の爪。

「そうはいくかぁっ! かえでぇっ!」
「はいっ!」
「えっ……? きゃんっ!?」

 咄嗟に梓が初音ちゃんを横に放り出し、自分も即座に待避する。
 放り出された初音ちゃんを受け止め、楓ちゃんが素早く後ろに下がる。
 そして地面を穿った鬼に対して、千鶴さんと梓が死角から同時に攻撃を仕掛けた。

「はあぁっ!」
「でりゃあああっ!」

 ばきぃっ! ぼぎん!
 ギャャャャアアアァァァ──…………!?
 梓の手刀が角を折り、千鶴さんの一撃が鎖骨を砕く音を呼ぶ。
 しかし、奴は倒れない!

『!?』
「いかんっ!」
「二人とも下がれっ!」

 ぶん!

「あうっ!」
「うわぁっ!」

 力任せに振るわれた両腕が、二人の身体を弾き飛ばした。

「千鶴さん! 梓!」
「お姉ちゃん!」

 俺の声と、初音ちゃんの悲鳴が重なった。
 ガアアァァッ──…………!
 しかし鬼は、地面に叩き付けられた二人に目もくれず、楓ちゃんと初音ちゃん目掛けて突進する。

「こいつっ!?」
「──や、やっぱり、初音を狙ってる! 鬼気の押さえ込みが効かなかったんだ!」

 梓が片膝立ちになりながら叫んだのが、俺の耳にかろうじて届いた。

「楓、初音、下がれっ!」

 俺と同様に奴を追った柳川が注意を促すが──

「……く……っ!」

 楓ちゃんは、一歩も引かない!?

「楓ちゃん!?」
「楓お姉ちゃん!?」

 しっかりと両足を踏みしめ、妹を後ろに庇う楓ちゃん。その眼前に奴が肉迫し、鋭い爪を彼女達に向かって振りかざす!

「楓っ! 初音ぇっ!」

 千鶴さんの悲鳴が響き渡る公園に、一陣の冷気が舞った。
 
 
 

 ごうぁっ……!

 がっ!

「!?」
「何!?」

 なんだ!?

 唐突に、奴の動きが固まった。
 楓ちゃんが突き出した細腕のその先、わずかの所で凶器の切っ先が止まっている?
 いや、奴の爪が、楓ちゃんの前に現れた何かに阻まれている!?

「ふうぅぅぅ──……」

 彼女の、呼吸音。

 グゥオォォォォ──…………!?
 その不可解なちからに阻まれた鬼が戸惑いの声をあげたその時、

「うおおぉぉおおおお!!」

 俺は、既に奴の背後に迫っていた。
 どがあぁっ!
 手加減一切なし、鬼化寸前の全力の拳を頭頂部に打ち下ろす。両手を組み合わせて叩き付けるように放った一撃に、鬼の身体が盛大に地に激突した。そのまま頭部が土にめり込み、土埃が巻き上がる。

「楓ちゃん、初音ちゃん!」

 そのまま駆け抜けざまに二人の腰をかっ攫い、奴から距離を置いて振り返る。
 その頃には、千鶴さんも梓も多少ふらつきながらも立ち上がっていた。

「はあ……はあ……」

 息を切らしながらも二人をそっと下ろし、俺はじっと鬼を見据える。
 大丈夫だ。まだ、起き上がってこない。

 しかし、さっきの楓ちゃんのちからは……?

 楓ちゃんの足元から、鬼気を含んだ風が湧き上がっていた。
 あれは、たしか……

 遠い遠い記憶の中に、覚えがあった。

 風を、操るちから。
 エディフェルが持っていた、エルクゥ皇族の──……

 楓ちゃん、使えるのか……

 ふと過去に考えを巡らせていた俺の服が、そっと引っ張られた。
 初音ちゃんだ。

「耕一お兄ちゃん、大丈夫……?」
「ああ……これくらいは朝飯前だよ、初音ちゃん。……でも、どうして奴は初音ちゃんを……」
「……多分、初音のちからに干渉されて──」

 ぽつりと、楓ちゃんが呟く。

「え?」
「あの鬼は、初音のちからに破壊衝動を押さえ込まれかけて、恐れを抱いたんだと思います。自分の意識を押さえ込もうとしたその強力な干渉能力を本能的に察して、それを排除しようとして……」
「鬼が、恐れ──?」

 俺が首を捻ると、初音ちゃんが俺の服の裾をぎゅっと握ったまま、ぽつりと言った。

「お兄ちゃん……あの人、もう駄目だよ……」
「え?」
「もう、人の意識が完全に飲み込まれてしまってる……ううん、もうどこにも、人の心がなくなっちゃってるよ……<鬼>と<人>じゃなくって、<鬼人>になっちゃってるんだよ……」

 脅えた表情で、それでもどこか哀しげに寂しそうに、初音ちゃんは唇を噛んだ。

「だから、わたしのちからに気付いて怖くなったんだよ……自分の意識を、鬼の破壊衝動を押さえ込まれようとしたから、もしかしたらそのまま精神全てを封印されてしまうんじゃないかって……」
「…………」

 ……なるほど、そういう事か……

 奴は、自分を消される事に恐怖したのだ。
 初音ちゃんの潜在能力は、おそらく姉妹一だ。まだ完全に覚醒しておらず不安定な面もあるとはいえ、精神に関する能力の強さは桁が違う。
 そのちからで、自分の自我を押さえられたら……
 鬼は自分が閉じこめられることを恐れたのだ。

 初音ちゃんがそんな事をするはずがない。それは、俺達家族が一番よく知っている。
 だが、奴には分からなかったのだ。人としての心をもう持たず、ちからの大きさ、内に秘めるその強大さを『敵』としてしか判断できない奴には……

「耕一さん……もう、楽にしてやってください……」
「耕一お兄ちゃん……」

 楓ちゃんと初音ちゃんが、それぞれに俺を見る。その瞳には、哀しく苦しい、悲哀の色があった。

「二人とも……」

 見ると、千鶴さんや梓も俺を見ていた。視線を合わせると、それぞれに頷き、首を振る。
 柳川は、「お前がやれ」というように顎をしゃくる。
 全員が、少しずつ違った感情を面に浮かべて。
 鬼の血を引いた者にしか持ち得ない、宿命を背負った者の瞳で。

「……わかった……」

 俺は、決意を込めて一歩を踏み出した。
 視線の先、奴がゆっくりと立ち上がる。凄まじいまでの鬼気と殺気を放って。畏怖と恐怖を一人の少女に注いで。

「来いよ……もう、終わりにしようぜ……」

 俺はゆっくりと奴に向かって一歩を踏み出し、そのまま鬼気を解き放った。
 ぐぐぐぎぎりりりりりりり…………
 眼前で握り締めた右拳から、肉が弾けるような音が響き、双眸が真紅に染まり、虹彩が真っ二つに切り裂ける。体細胞が悲鳴をあげ、絶え間ない痛みが頭を揺るがす。
 右腕に鬼気を集中、そしてその腕だけに<鬼化>を辿らす。
 俺の<鬼気>を受け、奴の眼に脅えの色が浮かぶのが見て取れた。

「わかるか……これが本物の、鬼の名を冠した者のちからだ……」

 ガアアアアアアアアアァァァァァァァァッ──…………!!
 恐怖を振り払うように、三度鬼が夜空に跳んだ。月を背負った異形が、凄まじい勢いで俺目掛けて凶器を振るう。
 同時に俺の身体が滑るように一歩前に出た。無造作に振り仰ぎ、飛び込んできた奴の爪を頬に掠らせる。鬼化した右腕は吸い込まれるように奴の左胸に突き刺り……

 そして俺は、そのまま奴の心臓を握り潰した。
 
 
 
 

五章

七章

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