第六章 摩天楼の鬼達
午後、俺は四姉妹が泊まっているホテルに足を向けた。
「こーいちおにーちゃ〜ん!」
俺を呼ぶ声。
「やっ、初音ちゃん。お出迎えご苦労さん」
とてとてと駆け寄ってきた初音ちゃんは、嬉しそうに天使の微笑みで答えてくれた。 「朝はよく眠れましたか、お姫様? 昨夜は、わたくしめの背中でぐっすりお休みのようでしたが?」 悪戯半分でからかうと、 「えっ!? あっ……お、お兄ちゃん!」 予想に違わず、一瞬で初音ちゃんの頬に朱が差し掛かる。 「あははは……どうやら、よく眠れたみたいだね」
真っ赤な顔でぽすぽすと、俺の胸板を叩く初音ちゃん。どうやら、抗議しているらしいが……。当然の事ながら、初音ちゃんの力では全然痛くない。 「耕一さんも初音も、そのくらいで止めておいた方がいいですよ」 苦笑気味の声。
「やあ、楓ちゃん。おはよう」
俺がぱんっと両手を合わせて謝ると、初音ちゃんは上目遣いに俺に視線を向けた。そして、ぽつりと呟く。 「……もう、しない……?」
にぱっと、初音ちゃんが満面の笑顔になる。
「よ〜やく来たか。遅かったな、耕一」 楓ちゃんと初音ちゃんに連れられ部屋に行くと、入った矢先に梓が挨拶してきた。 「おう、梓……ん? 千鶴さんは?」
その時ちょうど続き部屋の扉が開き、千鶴さんが顔を出した。 「おはよう、千鶴さん」
千鶴さんは、なにやらくすりと笑った。 「どうしたの?」
俺もこれには苦笑するしかない。何せ、ここにいる全員が昨夜の件で睡眠時間がずれてしまっているのだから。 「……で、耕一?」
俺と梓のやりとりに、全員の顔が一変した。
「まず、鬼が出たら……どう、対処しましょうか?」
二人がしっかり頷くのを確認した俺は、続けて上の姉二人に視線を移した。 「千鶴さんや梓は、二人の護衛を頼むよ」
今夜も二組に分かれるから、奴が出た場合はどっちか奴に近い方がまず接触して、それからもう一方が追いつく事になるだろう。合流するまでは、戦力はあまり余裕がない。 「……奴がまだこちらに還ってこれるなら、全力でその手助けを果たすだけだ。だけど、もしも……」 もし、人としての心を完全に無くしていたら。 「その時は……」 俺達柏木の者は、そいつを……殺さなければならない。
「……俺達二人で、奴と直接ぶつかる。みんなは、危険のない範囲まで下がっててくれ」
千鶴さんの、いや、姉妹全員の言いたい事を察知した俺は、先手を打ってそう答えた。 「大丈夫。もう、過ちは犯さない。夏の時のような真似は……」 その一言に、全員が強張った顔付きを幾らか和らげた。 「そうです、耕一さん……私達だって、戦えるんですから。だから……もっと、頼って下さい。もっと、必要として下さい」
四姉妹それぞれ、みんなが瞳に優しい光を宿して俺を見つめる。言葉の端々に、彼女達の本音がある。
「わかった……でも、頼むからみんな、無理だけはしないでくれよ」
まぜっかえす梓の言葉に、他の三人もくすくすと笑い出す。俺は苦笑でそれに答えた。
柳川から電話があったのは、それから少ししての事だった。 『今夜はぎりぎりまで動けそうもない。午後十一時を回ったら、新宿駅の……』 時間と場所を伝えられる。 「ああ、わかったよ」
そして俺達は、不夜城の摩天楼へと歩み出す。
ざっ。
「どう? 楓ちゃん……」
千鶴さんが妹の顔を覗き込む。 「ううん、ちょっと難しい……気配はするんだけど、まだ弱くて……」
俺と千鶴さんがやりとりする間、楓ちゃんはぎゅっと眼を閉じていたが、やがて諦めたように瞳を開いた。 「やっぱり、無理です。なんだか、気配がぶれているみたい……」
鬼が複数? そんな、バカな。 「うん……でも、ふとした時に混じるだけで……気のせいだと思う……」 楓ちゃんは、自信なさそうだ。この子がこんな曖昧で煮え切らないのも、珍しい。 「多分、鬼気が弱すぎるんです。普通じゃ感じ取れないくらいにまで小さくて、押さえ込んでいます。こんなの、私や初音でもなければ、隣にいたって気付けるかどうか……」
普通、そんな芸当は余程力の差がある相手にしか出来ないものだ。しかし、あの時の鬼気の強さは、強力ではあったが俺や柳川を歯牙にも掛けぬ程強くもなかった。
「やっぱり、完全に<狩猟者>と化している可能性が高いですね……」 千鶴さんの形のいい眉が寄る。 「うん。完全に、肉体を制御しているんだ……鬼の意識が、ね」 救える確率は、極めて低くなった。
「初音ちゃんは、気付いたかな?」
こくんと頷く楓ちゃん。 「よし」 それなら、奴が動き出したら向こうも察知出来るな。柳川と梓も、すぐに駆けつけられるようにしているはずだ。 「出来る限り、絞り込んでみてくれるかい?」
楓ちゃんはもう一度頷き、再び眼を閉じた。 「……耕一さん、もし<狩猟者>だった時は……」
奴を楽にしてやるのは、俺の使命だろう。
「千鶴さん?」
真摯な一対の瞳。千鶴さんの表情は、真剣だった。 「うん、わかってるよ……」
俺は、いつのまにか固くなっていた拳をそっと開いた。それに合わせ、千鶴さんがゆっくりと指を引く。
「ありがとう、千鶴さん。おかげで、落ち着いたよ」
ベンチに座る楓ちゃんの肩をそっと抱き、千鶴さんは微笑んだ。
突然眼を見開いた楓ちゃんが、鋭く叫ぶ。俺と千鶴さんの顔に、緊張が走った。 「どこだ、楓ちゃん!?」
いきなり変わるつもりか!? 「どうやら、鬼気を隠すつもりはないようです。もしかしたら、私達がいる事を察したのかも……」 他の鬼がいる事に気付いたという事か? だが、だとすると…… 「挑発か……?」
そう言って千鶴さんが振り返った時──
「──いたっ!」 初音がはっとあらぬ方を見、小さく叫ぶ。 「出たの!?」
初音の細い指が、しっかりと一点に向けられる。あたしと柳川、二人がその先に視線を走らせた。 「あっち! もうすぐ、鬼気が大きくなる……すぐにわかるよ!」
柳川が、ちらっと少しずれた方へ視線を向ける。 「楓は?」
あたしが一つ頷いた瞬間──
「くっ……!」
こいつは──たしかにでっかい。耕一や柳川に匹敵してる。間違いなく<狩猟者>だ。
「初音──」
あたしの表情から読み取ったらしい初音が、焦燥感と共に答える。心優しいこの末の妹は、まだ希望を捨てていないのだ。
「俺は一足先に行く! 梓、お前は初音を連れて後から来い!」
辺りに人がいないのを確認してから、柳川が一気に跳躍する。一瞬であたし達の視界から消え失せ、強い鬼気が遠ざかって行く。
「行こう、初音! 耕一達ももう行ってるはずだ!」
摩天楼に、三体の鬼が舞う。下から吹き上げる突風に衣服の裾をはためかせ、弱々しい
「耕一さん、柳川さんも動きました!」 俺のすぐ後ろで、ビルの屋上を蹴った楓ちゃんが報告する。 「どれくらいでくる?」
ふわっ……
「耕一さん、私達の接近──やはり、気付かれたようですね」
たった今、膨れ上がった<狩猟者>の鬼気に、明らかな殺気と奇妙なまでの興奮が混じり始めたのがわかった。
「耕一さん、こっちに向かってきます!」 やはり来たか。
「どの辺りで接触する!? 多少暴れても平気な所は近くにあるか!?」 出来る限り奴を人気のない所に誘導しようと、俺が戦地を探そうとした時、千鶴さんがすっと指をあげた。 「そこの公園! 人の気配、近くにはありません!」
張り詰めた面立ちの中に決意を込めて、千鶴さんが頷く。楓ちゃんも、こくんと首を縦に振った。
「来ます!」
ずぅぅん……!
ゴルルルウゥゥゥゥ──…………
<狩猟者> 「出やがったな……」 俺は二人を庇うように仁王立ちになり、ぎらっと奴を睨み付けた。 「たしかに、<狩猟者>──エルクゥの血を引く、鬼ですね……」
ぼそっと呟いた楓ちゃんの言葉に、俺は脱力しかけた。
「……おい! お前!」 無駄かもしれないが、可能性がある以上は見捨てては置けない。
「俺の声が聞こえるか!? もう、こんな事はやめろ!」 グルルゥ──………… 「お前は、己の中の鬼の意識に身体を乗っ取られてるんだ。自分自身の意識があるなら、答えろ! 鬼なんざに負けて、へたばってるんじゃねえ!」 奴はただじっとしているだけだ。果たして、俺の言葉を聞いて──聞こえているのかどうか、全くわからない。
「そんな奴に負けて、自分の身体いいように操られて、それでまだ黙ってんのか!? そんな根性なしでどうする!? 俺達が手助けしてやる! まだ意志があるなら、もう一度戦うんだ!」 グ、グググガガゥゥ──………… 「!」 反応ありか!? 「耕一さ……危ないっ!」
がぎゃあああん!
「くっ……駄目か!?」 敵対衝動しか感じられない!
「ぅおらぁぁっ!」 ぎゃんっ!
「くっ!」 飛びすさる俺の首に、奴の爪が──
「耕一さん!」 がぁん!
「千鶴さん!?」
鋭い呼気と月光の香りが鼻先を掠め、続いて裂迫の気合が解き放たれる。 「はぁぁぁぁぁぁあああっ!」 どんっ!
「耕一さん、大丈夫ですか!?」
すごい……絶妙のタイミングでやらなければ、鬼がああまで吹っ飛びはしない。千鶴さんの戦闘技術の高さが垣間見える一瞬だった。 「もうっ、無謀過ぎですよ!」 ほっと息を吐くと、千鶴さんが長い髪を振り乱すようにしてこちらを見る。 「ごめん……っ!?」
楓ちゃんの警告の叫び。
「なっ……!?」 なんだと!?
「なっ!?」
同時に放たれる三つの声。 「────甘いな」 それに混ざった四番目の声は、遥か上空から……俺達の耳に届いた。
「柳川さん!」 楓ちゃんが叫ぶ。
「うおおおおおおっ!」 ずずぅぅ……んん……!
「ふん……得物に気を取られて注意を怠るとは、所詮は獣か」 ついっと伊達眼鏡を押し上げるその様が、あまりにも絵になっていた。 「柳川……」
返す言葉もない。 「……でも、助かりました……」 千鶴さんがふうっとため息をつく。たたっと歩み寄った楓ちゃんが、安心したように姉を見る。 「その話は置いておけ。それより、注意を逸らすな」
はっと、全員の視線が集まった。
「効いていない?」 楓ちゃんが、俺の背に隠れるようにして呟く。俺は奴の一挙動に注意を払いつつも、彼女を庇うように一歩前に出た。 「うん……だけど、タフなのは先刻承知しているさ。なにせ、鬼なんだからな」
視線をはずさず奴を見据えながら、千鶴さんが妹に問う。 「楓、この鬼はどうなの? まだ人の意識は残ってるの?」
千鶴さんの鬼眼が鋭く瞬いた。 「梓と初音も、じきに来るはずだ」
俺はそう言い、再び地を蹴る。柳川が同時に動きを見せ、千鶴さんと楓ちゃんもそれぞれに動き出す。
「初音、あそこだな!?」
梓お姉ちゃんの問いに、そう答える。
「!? 梓お姉ちゃん!」
この辺りは、人もいないみたい。だから、それだけ激しくしてても見付からないとは思うけど……でも、おおきなちからがぶつかり合ってる衝撃が、こんなに届いてくるなんて…… 「初音、急ごう!」
急がなきゃ。お兄ちゃんやお姉ちゃん……皆が、呼んでる。声が、聞こえる。
「っらぁぁっ!」 鬼化する寸前まで解放したちからを振り絞り、掴んだ左手を無理矢理引きずり回す。そのまま遠心力を利用して、鬼を強引にぶん投げる。 「やぁながわぁっ!」 放り投げた先にいる叔父の名を呼ぶ。それに答え、空中を平行に飛ぶ奴に向けて柳川が大地を蹴った。 「おおおおおっ!」 ごがぁっ!
「はあ……はあ……」
再度、奴が起き上がる。 「っ……なんつータフさだよ……」 舌打ちして、俺は奴に向き直った。
「いいかげんにしないと、今度はこっちがまずいぞ……」 俺が一人ごちた時、 背後から鈴鳴る声が名を呼んだ。 「耕一お兄ちゃんっ……!」
初音ちゃん──来たのか!
グ、グギギガガァァァァァ──……!? 「!」 突然、鬼が苦しそうに身を捩じらせはじめた。 「初音ちゃんのちからに、影響を受けたのか……?」 鬼の破壊衝動が、押さえ込まれ始めている。
「初音ちゃん! こいつの自我を──」 初音ちゃんのちからで、鬼の中に沈むはずの人の意識を呼び覚まそうと考えたその時──
『!!』 鬼気が、解き放たれた。
「──な……なんだ、一体!?」
高々と咆哮をあげ続ける奴の殺意の先は─── 「まさか……」
我に返った楓ちゃんが、妹に向かって叫ぶ。 「いけない初音、抵抗されているわ! 逃げてっ!」
ごうっ!
「!」
俺や柳川の位置からでは、奴に追いつけない!
「そうはいくかぁっ! かえでぇっ!」
咄嗟に梓が初音ちゃんを横に放り出し、自分も即座に待避する。
「はあぁっ!」
ばきぃっ! ぼぎん!
『!?』
ぶん! 「あうっ!」
力任せに振るわれた両腕が、二人の身体を弾き飛ばした。 「千鶴さん! 梓!」
俺の声と、初音ちゃんの悲鳴が重なった。
「こいつっ!?」
梓が片膝立ちになりながら叫んだのが、俺の耳にかろうじて届いた。 「楓、初音、下がれっ!」 俺と同様に奴を追った柳川が注意を促すが── 「……く……っ!」 楓ちゃんは、一歩も引かない!? 「楓ちゃん!?」
しっかりと両足を踏みしめ、妹を後ろに庇う楓ちゃん。その眼前に奴が肉迫し、鋭い爪を彼女達に向かって振りかざす! 「楓っ! 初音ぇっ!」 千鶴さんの悲鳴が響き渡る公園に、一陣の冷気が舞った。
ごうぁっ……! がっ! 「!?」
なんだ!? 唐突に、奴の動きが固まった。
「ふうぅぅぅ──……」 彼女の、呼吸音。 グゥオォォォォ──…………!?
「うおおぉぉおおおお!!」 俺は、既に奴の背後に迫っていた。
「楓ちゃん、初音ちゃん!」 そのまま駆け抜けざまに二人の腰をかっ攫い、奴から距離を置いて振り返る。
「はあ……はあ……」 息を切らしながらも二人をそっと下ろし、俺はじっと鬼を見据える。
しかし、さっきの楓ちゃんのちからは……? 楓ちゃんの足元から、鬼気を含んだ風が湧き上がっていた。
遠い遠い記憶の中に、覚えがあった。 風を、操るちから。
楓ちゃん、使えるのか…… ふと過去に考えを巡らせていた俺の服が、そっと引っ張られた。
「耕一お兄ちゃん、大丈夫……?」
ぽつりと、楓ちゃんが呟く。 「え?」
俺が首を捻ると、初音ちゃんが俺の服の裾をぎゅっと握ったまま、ぽつりと言った。 「お兄ちゃん……あの人、もう駄目だよ……」
脅えた表情で、それでもどこか哀しげに寂しそうに、初音ちゃんは唇を噛んだ。 「だから、わたしのちからに気付いて怖くなったんだよ……自分の意識を、鬼の破壊衝動を押さえ込まれようとしたから、もしかしたらそのまま精神全てを封印されてしまうんじゃないかって……」
……なるほど、そういう事か…… 奴は、自分を消される事に恐怖したのだ。
初音ちゃんがそんな事をするはずがない。それは、俺達家族が一番よく知っている。
「耕一さん……もう、楽にしてやってください……」
楓ちゃんと初音ちゃんが、それぞれに俺を見る。その瞳には、哀しく苦しい、悲哀の色があった。 「二人とも……」 見ると、千鶴さんや梓も俺を見ていた。視線を合わせると、それぞれに頷き、首を振る。
「……わかった……」 俺は、決意を込めて一歩を踏み出した。
「来いよ……もう、終わりにしようぜ……」 俺はゆっくりと奴に向かって一歩を踏み出し、そのまま鬼気を解き放った。
「わかるか……これが本物の、鬼の名を冠した者のちからだ……」 ガアアアアアアアアアァァァァァァァァッ──…………!!
そして俺は、そのまま奴の心臓を握り潰した。
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