第三章 柏木家の朝
「ふ〜んふふ〜ん……♪」
ジャッジャッという音と共に、フライパンの上の炒飯が宙を舞う。頃合いを見計らって一旦火を止め、味見をしてみる。
「ふっ……上出来だね」
あたしはにやりと勝利の笑みを浮かべた。
朝から炒飯というのもどうかと思ったが、昨夜のご飯が残っていたから手軽に処理しようと思ってやってみたけど、いい出来じゃないか。
満足げな表情で皿にフライパンの中身を移しはじめた時、
「ん? 電話か?」
廊下の向こうから、音が届いた。
「はーい……」
すぐに、ぱたぱたとスリッパが軽いリズムをつけて遠ざかる。居間で食器を並べていた初音だ。
しかし、廊下の途中辺りでぴたっとそれが止まるのが、あたしの耳で確認できた。
どうしたんだろう……?
すぐに疑問は解ける。
「楓お姉ちゃん、誰から?」
なんだ、楓が先に取ったのか。
納得してフライパンをコンロに戻しかけたあたしの耳に、初音のえらくはしゃいだ声が届く──
「え? 耕一お兄ちゃん!?」
「なにぃっ!?」
ガチャン!
力加減を間違えて、派手な騒音と共にフライパンがコンロとぶつかる。
しかしあたしはそんな事には構わずに、一気に廊下に飛び出した。
「楓、初音! 耕一からかっ!?」
廊下の端で振り向いた初音が、すぐに満面の笑顔で頷く。あたしが駆け寄ろうとすると、機先を制するように楓が電話器を持ち上げ、コードを引っ張って居間に歩いてくる。
ああ、そうか。寒いもんな……
楓はまだパジャマ姿だった。多分、顔を洗いに行く所だったんだろう。あれじゃ、この時期の隆山の朝はつらいはずだ。
「はい……ええ……はい……!」
嬉しそうに頬を緩めて、楓が相づちを打つ。この妹がこんな笑顔を浮かべるようになったのも、夏の事件が過ぎてからだ。
見ているこっちまで嬉しくなってしまうような、昔の楓だけが持っていた、あの微笑み。
また、見れるようになったんだな……耕一のお陰で。
「楓お姉ちゃぁん……」
少しして、くいくいと初音が楓の袖を引っ張る。
代わって欲しいんだろうな。誰が見たって一目瞭然だ。
あたしはと言えば、確かにあたしも代わって欲しいけど、ここは我慢だ。姉貴なんだからな。
すぐに楓が、わかっていると言うように初音に受話器を渡す。
ぱっと明るくなった初音が、ぺたんと座り込んで喋り出す。
「もしもし、耕一お兄ちゃん? うん、わたし! うん……うん、元気だよ!」
初音、本当に嬉しそうだな。
ちらっと楓を見ると、目を細めて初音を見ている。優しい眼差し。千鶴姉みたいだ。
「……? 梓姉さん?」
しばらく見つめていると、ふと顔をあげた楓が、不思議そうにあたしを見る。
「ん? なに、楓?」
「梓姉さん……なんだか、千鶴姉さんみたい」
「へっ?」
「優しそうな眼、してた」
くすっと楓が笑う。
あたしが? 千鶴姉みたいな優しい眼を?
意識してなかったけど、どうやら楓が初音を見ていたような眼で、あたしは楓を見ていたらしい。
なんだか、ちょっと嬉しいな。
「千鶴姉みたい、って言ってもなぁ……怖い時の眼まで真似したくないぞ、あたしゃ」
でも、口の端に昇るのはこんな軽口なんだよなー、本人がいたら、絶対拗ねるけど。
楓もわかっているのか、微かに笑っているだけだ。そんなくすくす笑いも、なんだか懐かしい。
「うん……うん……え? あ、わかったよ。じゃあ、梓お姉ちゃんがいるから、代わるね」
「あ、初音、いいの?」
「うん! もういいよ」
ぱっと受話器を差し出す初音。
あたしはそれを耳に運ぶと、元気よく声を出した。そんなあたしを、妹達が楽しそうに眺めている。
「よう、耕一! こんな朝早くに、ご苦労さん!」
『おう、梓か。お前も、元気そうな声だな』
「ははっ、そりゃあたしの取り柄の一つだろ?」
『ははは、そうだったな。なによりなにより!』
それから少し話をして、あたしはふと質問した。
「それにしても耕一、ずいぶんと早起きだね。こっちにいた頃は、この時間はまだ夢ん中じゃないか?」
『そうか? そうだよな……』
あれ?
耕一の声が、僅かに陰ったように小さくなる。
あたしは、不審に思いながらも言葉を続けた。
「そうだよ。今日は土曜だし、仕事が休みだから千鶴姉もまだ寝てるくらいなんだからね」
『千鶴さん、寝てるのか? う〜む……』
「どしたの? 千鶴姉に用でもあるの?」
『ああ、いや……誰に用かと言うと、誰にってわけじゃないが……』
「? わけわかんないよ、耕一」
耕一の奴、なんだか、やっぱり少し変だ。
『まあ、とにかく千鶴さんに代わってもらえないかな?』
「ああ……ちょっと待ってくれる? 初音、楓……あれ?」
ひょいと見ると、いつのまにか楓がいない。初音に視線を移すと、にっこり笑って頷いた。
「楓お姉ちゃんなら、千鶴お姉ちゃん起こしに行ったよ」
「…………」
呆気に取られて、あたしは口をぽかんと開けてしまった。
さすがに行動が早いな、楓は。普段ぼけっとしてるように見えるけど、こういう時にはほんとに素早い。
『梓? どうした?』
「あ、ああ。なんでもないよ。今、楓が千鶴姉呼びに行ったから」
『そうか』
ちょっと初音と交代交代に話していると、二組のスリッパが近付く音がした。
「耕一、千鶴姉来たみたいだ」
『おう』
耕一の返事が聞こえるのと同時、すっと障子が動いた。
「千鶴姉さん、こっち」
「……ふわ……んぅ……はいはい……」
寝ぼけ眼で楓に右手を引かれ、我が姉が入って来た。なんだか、千鶴姉の方が子供みたいだ。
う〜む……昔から朝に弱いのは仕方がないとはいえ……
「ふみ……それで、誰からの……あふぅ……」
口元に手をやって、小さく欠伸をする千鶴姉。仕草がまるで小さな女の子だ。
せっかくの休みなのに、悪い事したかな? いやいや、これで後で耕一から電話があった、なんて言ったら、
『どうして起こしてくれなかったの〜?』
なんて言って、いやいやするに決まってるか。
苦笑しつつも、初音が電話の相手を千鶴姉に告げる。
「千鶴お姉ちゃん、耕一お兄ちゃんからの電話だよ」
「んに……耕ちゃん……?」
まだ寝ぼけてる。
「耕ちゃんじゃな〜い! 耕一だ、こ・う・い・ち!!」
呆れてあたしが怒鳴った瞬間、
「……こうい……ち……って、ええええええええええええええっ!!??」
千鶴姉の眼がぱっちりと開かれた。
電光石火、あたしの差し出していた受話器をもぎ取ると、乱れていた髪を掻き上げ、すとんとその場に腰を落とす。
す、素早い。
「は、はい、千鶴です! 耕一さん? ええ、ええ……!」
『千鶴さん、寝てたんだって? 悪いね、起きて来たばっかりだろ?』
「い、いえ、そんな……ごめんなさい、お時間かけました……。あの、私、まだパジャマで……」
『ははは……。やっぱりそうか。なんだか可愛らしい欠伸が聞こえたからさ、そうじゃないかって思ってたよ』
「や、やだ! 聞こえてたんですか!?」
『鬼の聴覚だからね。随分懐かしい呼び方で俺を呼んでたし、絶対寝ぼけてるな……ってね』
「も、もう……!」
あたしの耳には、電話回線の向こうの耕一の声までがはっきり捉えられる。
ちらりと楓に視線を向けると、こっちも聞こえているんだろう、所々で苦笑を浮かべていた。初音は……ただにこにこしてるだけだから、わかんないな。
「あの、それで、耕一さん? こんな朝早くに、何か御用ですか?」
ひとしきり言葉が交わされた後、千鶴姉が聞く。
そう、それはあたしも気になっていたんだ。千鶴姉以上に朝は苦手なあの耕一が、こんな時間に電話なんて……
『……ん……それなんだけど……』
突然耕一の声が小さく、潜めた感じのものになる。あたしでもちょっと聞き取れない。
ただ、断片がちらほらと漏れて……
「はい……? はい、ええ……えっ!?」
千鶴姉の口調が、跳ね上がった。あたし達妹でもあまり聞いた事のない、真剣な声音だ。
なんだ……? 何があった?
「はい……はい、そうなんですか? ええっ!? ……それ……は……」
千鶴姉の表情が、固まっている。普段のとぼけた姉の顔を完全に消した、厳格な柏木家当主の顔。あの夏に見た、冷たく凍った漆黒の瞳。
千鶴姉、なんだかわかんないけど、マジだ……
ちらりと見ると、楓も真面目な表情になって千鶴姉の顔を見つめている。初音はどことなく不安そうな感じだ。
『……が、だか……猟者……そ……えでちゃ……川が……』
「え? 一緒なんですか? ……はあ……はい、はい……」
なんだ? よく聞き取れなかったけど、なんか今、気になる単語が幾つかあったような……
楓にすぐに視線を走らせる。あたしの問いに気付いたんだろう、すぐ下の妹がふるふると首を振る。
楓も聞き取りきれなかったのか……
「はい……はい、わかりました。ええ、すぐに……」
『ごめん……』
「いえ、気にしないで下さいな……いいえ、むしろ、こうやって教えて下さって……感謝します」
ふっ……と、千鶴姉が微笑んだ。
優しそうな瞳の光、包み込むような笑い。さっきあたしが楓に見たあれの、本家のやつだ。やっぱり、本物にはあたし達じゃあまだ叶わないな。
「私達は……貴方と一緒にいる事が、どんな事よりも嬉しいんですから……」
『……ありがとう……』
「いえ、どういたしまして。では、出来る限り急ぎますので、時間は……」
そして、電話が切れる。
「千鶴姉さん……今のは?」
楓がおずおずと話し出した。
初音もあたしも、千鶴姉の只ならぬ雰囲気にじっと食い入るように姉を見つめた。
「……みんな、すぐに仕度をなさい。東京に行くわよ」
『えっ!?』
「耕一さんから、助けて欲しいとの連絡よ。……東京に、<狩猟者>が出たらしいわ」
どうやらあたし達四姉妹は、時ならぬ臨時休暇をとる必要が出て来たらしい。
二章
四章
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