第二章 事件現場
 

 冬が近付き、そろそろ寒さがきつくなってきた東京の夜。
 俺は、自動販売機で買った缶コーヒーを飲み干すと、脇の屑籠に投げ入れた。夜空を見上げ、ちらりと左手首に視線を流す。腕時計の短針は、午前二時半を少し回っていた。
 警視庁の正面入り口から叔父が出てくるのを見た俺は、彼に向かって声をかけた。

「おーい」
「耕一か」
「おう、こっちだ」

 手を上げて合図すると、柳川がこちらへ歩み寄ってくる。

「すまんな。外出手続きに少々手間取った」
「いや、別に構わないさ。……で?」
「ああ……」

 具体的な言葉など出さなくても、柳川にはそれで通じる。眉をしかめ、苦々しい表情で口を開く。

「やはり、あったぞ。一件、ほぼ確実にそれと思われるものが」
「そうか……」

 やはり。
 予期してはいたが、実際にそう告げられると、胸中に暗澹たる気持ちが広がる。そんな俺の心境が表情に出たのか、柳川はため息をつくと、事務的な口調で話し出した。

「本日午前一時三十三分、緊急連絡。殺人事件発生。場所は池袋だ。人の悲鳴が聞こえた、と言う通報が複数あってな。警邏中の警官が向かったのだが、通報先近辺の公園で、ズタズタに引き裂かれた成人男性二人の遺体を発見した、との報告があった。現場に犯人の物と思われる痕跡は一切なし。ただし、何か巨大な生物の物と思われる足跡を確認している」
「それだけじゃ確定できないぞ。あれの仕業と考える根拠は?」
「遺体の状態だ。双方ともに、腹部に刃物で切り裂かれたような深い裂傷を受けている。そして、傷痕はまるで何かの生き物に襲われたような、鋭い爪痕になっているそうだ」
「……鬼の爪、か」
「ああ。該当する刃物はなし。大型の肉食獣にでも襲われんと、まずあんな傷は負わん」
「そうだな。まさかそんな場所に熊や虎がいるとも思えんし……」

 動物園から逃げだしたのでもない限り、それはない。そして、そんなニュースも流れてはいない。

「それに、片方の被害者は片腕、片足を失っている」
「腕と足?」
「身体から引き千切られ、側に転がっていたそうだ。……まるで、万力か何かで捻じ切られたように、な。生きているうちに腕と足を千切られたのだろう、被害者の顔は、正視に耐えないものだったらしい。……明らかに、人間の力ではない」

 珍しくも嫌悪感を露にした柳川の表情に、侮蔑の感情が入り交じっている。
 それはそうだろう。ただ非力な生き物を、玩具を扱うかのように弄んでいるのだ。そんな殺し方を行うような、それも人間の身体を引き千切れるような膂力を持った相手と言うと──
 ……やはり、<狩猟者>。

「それに、決定的な証拠がある」
「?」

 確信に満ちた声に、俺が疑問符を浮かべると、柳川は一言だけ呟いた。

「咆哮」
「何!?」
「事件前後、近くのビルで泊まり込みしていた会社員やコンビニの店員など、複数の人間が野獣の遠吠えのような、背筋が凍る叫び声を聞いたそうだ。人の悲鳴は、その直前に発せられている」

 そいつは……

「たしかに、ほぼ決定的だな……」
「ああ。それと、こいつはかなりまずい情報なんだが……」
「何だ?」
「現場に、女物のバッグが落ちていたらしい。確認されている被害者は、二人とも男だ」
「!」

 顔から血が引いた。
 それは、つまり……

「第三の被害者がいる可能性が高い。相手が狩猟者である事を考えると、早急に対処せんと取り返しがつかなくなるかもしれんぞ」

 そう告げる柳川の表情に、焦りの色が見えた。
 彼はかつて鬼に身体を乗っ取られていた際、あやうく女性に乱暴を働きそうになった経験がある。その時の記憶が、焦りを増長させているのだろう。

「……まずいな。しかし……」
「ああ。先刻の鬼の気、今は既に途絶えている。このままでは、至近距離にでもいない限り、俺達の力で奴の気配は感じ取れん」

 くそっ! どうすりゃいいんだっ!?
 苛立ちまぎれに頭をかきむしりながら、俺は嫌な予感を感じていた。このまま奴を放っておいては、次々と犠牲者が出てしまう。しかし、俺達では奴の居場所を特定できない以上、常に後手後手に回らざるを得ない。
 そんな俺の苛立ちを感じ取ったらしい柳川が、俺を促す。

「耕一。とりあえず、まずは現場に向かってみよう。何か、俺達にしかわからん手がかりがあるかもしれん。普通の人間では見落としてしまう何かが、な」
 
 
 

 深夜の公園。本来静寂に包まれるべきその場所は、喧騒と赤い回転灯に囲まれていた。
 しかし、停滞するように蠢く人垣は、ここで起きた事件がどんなに非現実的なものによて引き起こされたものなのか、知り得るはずもない。

「人が多いな……」

 俺はそんな人垣の中を歩きながら、内心この場に奴が再び姿を見せたらどうするか、という漠然とした不安感を感じていた。
 この状況でもし鬼が現れたら、とんでもない大惨事になり兼ねない。異形の化け物には、生身の人間がどう逆立ちしたって勝てるはずもないのだから。
 立ち向かえるのは、同じ鬼の力を持った者達だけ。
 しかし、そんな俺達にしたところで、これだけの人数を一人残らず守り切るなんて絶対に不可能だ。

「今は何も感じない。少なくとも、近くにはいないだろう」

 俺の考えがわかったのだろう。前を歩いていた柳川が、視線だけ振り返ってそう言った。
 雑多な群衆の海を柳川の先導によって抜け出すと、すぐ目の前に封鎖された公園の入り口が見えた。

「警察関係者だが……」

 封鎖線に使われているロープを乗り越えようとした俺達に、近くにいた警官が駆け寄ってきた。注意をされるより先に、柳川が警察手帳を取り出して説明を始める。
 俺はその間に、ぐるりと辺りを見回してみた。
 見える範囲には、なにもない。事件現場はもっと奥なのだろう。何人もの人間が歩き回っている気配を、公園の中から感じる。ほんの微かな血の臭いが、風に乗って鋭敏な鬼の嗅覚に届く。
 柳川の言った通り、近くに他の鬼の気配はない。
 その辺りは楓ちゃんや初音ちゃんに比べれば鈍いが、少なくとも近辺にいない事くらいはわかる。あれだけの殺気を放てる狩猟者だ。完全に気配を隠すような真似をしても、何がしかの痕跡は感じ取れるはずだ。

「耕一、行くぞ」

 と、交渉が終わったらしい柳川が俺を呼んだ。
 見ると、彼は既に封鎖線を乗り越えて歩き始めている。俺も慌てて後を追った。
 先ほど交渉をしていた警官に先導され、俺達は公園の中に向かう。柳川が何か説明しておいてくれたのか、俺も特になんの制止もなく、事件現場に通してもらえた。

「なあ、俺も入っちゃっていいのか?」

 気になって柳川に尋ねると、彼は一つ頷いた。

「問題ない。新米で、俺の後輩ということにしておいたからな。俺もお前も私服だが、このくらいなら手帳一つでどうとでもなる」
「そうか。じゃあ、それらしく振る舞わないとな」
「ああ。おとなしくしてろ」

 無言で頷き、俺は態度がおかしくならないように自分を戒めた。
 少し進むと、立ち込める血の臭いがぐっと強くなる。
 こいつは……。

「ここです。柳川刑事」
「……うっ……!」

 回転灯。
 サーチライト。
 弱々しい街灯の明かり。
 それら全てに照らされて、舗装された道路の上に、赤い絨毯が広がっていた。

「酷いな……」

 辺りを見回し、柳川が呟く。
 俺は、声もなかった。
 手足を千切られたという男性の物だろう、かなり広い範囲に赤い飛沫が飛び散っている。
まるで、スプレーを振り回して付けたような……。
 いや、違うな。
 ような、じゃない。
 おそらく、奴はそれと同じ事をしたのだ。絶命した人間の身体を振り回し、流れ出る液体を浴びていたに違いない。

「……ちくしょうめ……」

 呪詛の言葉とともに、石畳を蹴り付ける。

「柏木」

 柳川の声。

「何をやってる。いいから、こっちに来てみろ」

 いつのまにやら、柳川の姿は少し離れた場所に移っていた。何やら屈み込み、地面を指差している。

「どうした……んですか、柳川さん?」

 出かかったタメ口を、慌てて修正して敬語に直す。それでいい、と言うように、静かに柳川が頷く。

「これだ。見てみろ」
「! こいつぁ……」

 柳川が示していた先の地面、特徴ある形にくっきりと押されたそれは──

「足跡……か!」
「『奴』の、な」

 凄まじいまでの重圧によって地に刻まれたその足跡は、紛れもなく<狩猟者>のものだった。

「柳川!」
「ああ、これで確証が得られた。間違いないな」

 俺の潜めた声に、柳川はしっかりと頷いた。

「どうする? このまま、手をこまねいているわけにはいかないぜ」
「……しかし、我々では奴の気配を感じ取るのは難しいな。さすがは<狩猟者>といったところか、あれだけ凶悪な鬼気を発散していたくせに、今はその残滓すら微塵にも感じさせん」
「確かに……」

 どういうわけなのか、奴は完全に気配を殺す事ができているようだ。
 通常、鬼化しているのならば、常に強力な鬼気を発し続けているはずだ。どれだけ押さえ込もうと、同じ鬼の血を引く俺達にはそれが感じ取れる。
 なのに、この鬼にはその気配が全くない。俺を叩き起こし、柳川を警戒させたあの鬼気も、一瞬──ほんの一瞬放たれただけだった。
 この有り様を見れば、奴は確実にここにしばらくの間、留まっていたにも関わらず、だ。

「……もう、どこか遠くへ離れて行ってしまった、とか?」
「いや……そうだとしても、一瞬だけの鬼気というのは解せん。どうやら、奴は俺達の探知・知覚能力を上回るだけの技能を持っているようだな」
「気配を消す……野生動物が身に付けている生存本能、か……化け物め!」
「ああ……」

 事件現場をぐるりと見回す、ほんの二時間前は平穏だった、どこにでもある都会の風景。
今はどことなく刹那的な気配が漂う、命の炎が燃え上がった場所。
 現場を歩き、執拗なまでに犯人の痕跡を追い求める警察関係者達。
 封鎖された公園入り口から、様々な表情を浮かべてこちらを窺おうとする野次馬達。
 しかし、その誰もが知らない──この事件が、人ならざる異形の手によって為された事を。
 
 
 

 柳川が事件担当らしき同僚の刑事や検察官らしき人物達に話し掛け、詳しい証言や目撃例などがなかったかなどの情報を聞き集めている間、俺は鬼の視力を以って、周囲をつぶさに観察していた。
 なにか手がかりでも……と思っていたが、そんなものはどこにもない。
(くっ……)
 このままでは、狩猟者の跳梁を許す事になる……だが、俺や柳川では奴の居場所を特定できない。つまり、俺達では八方手塞がりという事になる。
 となると、それを打開する策は……
 俺の脳裏に、四人の女性の姿が浮かび上がってきた。
 鴉の濡れ羽色に艶めく美しい長い髪。おっとりした、優しげにこちらを見つめる眼差し。
すらりとした肢体を翻し、木漏れ日の中振り返り笑いかけるその姿……
 ──柏木、千鶴。
 男の子のように元気に走る、陸上で鍛えられた肉体。ショートカットの茶色い髪に、やんちゃそうなその視線。明け方の空気を纏い、呆れた顔で俺を見る……
 ──柏木、梓。
 雪のような白い肌と、肩口で切り揃えられた黒髪。日本人形のような端正な顔立ちの中から注がれる、一対の真摯な瞳。月夜の闇が、神秘的な笑みを彩り映える……
 ──柏木、楓。
 華奢な容姿に愛らしい面立ち。ふわふわの髪が風に揺れる。純粋無垢なその笑顔は、舞い降りた天使の微笑み。夕陽の中駆け寄って、俺に飛びつく小さな身体……
 ──柏木、初音。

『耕一さん……』
『耕一』
『……耕一さん』
『耕一お兄ちゃん』

 それぞれがそれぞれの声で、俺の名を呼ぶ。暖かく、明るく、儚げに、無邪気に。
 俺の大事な従姉妹達。無くしてしまったはずの家族達。
 俺の考えは、あの四人を巻き込む事になる──
 そう思うと、やはり彼女達に知らせる事は出来そうもなかった。
 
 
 

 ガコン、という音がして、コーヒーが出てくる。それを取り出し、柳川は俺に放り投げた。

「……サンキュ」

 なんなく空中でキャッチし、一挙動で開け、口を付ける。

「これから、どうする?」
「そうだな……」

 こちらも缶を傾けながら、柳川は考え込むような返答を漏らした。

「……夜明けまでまだ時間がある。とりあえずは、例の女物のバッグの持ち主……」
「あれか……。誰なのか、わかったのか?」
「ああ。既に一組向かっているようだが、別に問題はないだろう。俺達も行ってみるとしよう」
「よっし」

 ぐいっと一息に残りを飲み干すと、俺はスチール缶をくしゃりと握り潰した。

「じゃあ、さっそく行こうぜ」
「いや、待て」

 歩き出しかけた俺を、柳川が押し留める。

「ん?」
「その前に、考慮に入れねばならない事がある」
「なんだよ?」

 すっと視線をこちらに向ける柳川。表情は真剣だった。
 自然、俺も真面目な顔になる。

「……お前もわかっているんだろう?」
「なにがだよ」
「この件、あの四人を巻き込むかどうかを、だ」
「!!」

 変わらぬ調子で告げたその言葉は、だからこそ俺の頭を揺さぶった。
 考えてたのか、柳川も。

「少なくとも、楓は必要になるぞ。それだけの理由があるんだしな」
「し、しかし……」
「まあ、聞け」

 皆を巻き込みたくはないんだ。そう言おうと口を開きかけた俺を遮って、柳川は喋り出した。

「いいか。まず楓だ、あいつはどうしても必要になる。なにせ、俺達では奴の気配を捉え切れないんだからな。こういう事に優れているのは、なんといってもあの娘だ」

 人差し指を立てる柳川。
 続いて二本目、三本目の指を立て、話を続ける。

「次に上の姉二人──千鶴と、梓だ。それぞれの性格を考えてみろ。鬼が出た、などど聞いて、じっとしていられる奴等だと思うか?」
「た、確かに……」

 千鶴さんの事だ、柏木家現当主としての義務がある、なんて言い出すに決まっている。
 あの人は、自ら進んで課せられた重荷を果たそうとする人だ。鬼が起こす事件を放っておくはずがない。
 それに、梓。
 あいつは、頭に血が昇りやすいからな。

「あたしが助っ人に行ってやる!」

 なんて言って……。目に浮かぶようだ。
 ……まてよ、鬼が出た事を伝えなければ……楓ちゃんだけを呼んで……

「それと、事件を知らせずに楓だけこちらに呼ぶ事は、不可能だ」
「いっ!?」

 考えを読んだかのように、絶妙のタイミングで却下される。

「この時期は学校があるだろう。明日──いや、もう日は替わったな──今日は土曜日だからいいが、一日二日でそう簡単に決着がつくかどうか、正直言って判断がつかん。となると、楓が一人でこっちまで出てくる事は、まず無理と言っていいな。もしそうなれば、千鶴が保護者として来るだろうし、梓達も付いて来かねん。第一、どう言って楓だけこちらに呼び寄せる?」
「そ、それは……」
「そして、初音」

 そして、びっと四本目の指を立てる。

「これは、言わずもがなだ。あの姉達が、末っ子一人だけ留守番をさせると思うか?その事は、お前が一番よく知っているだろう?」
「う……」
「どのみち四人来るのなら、まとめて呼んだ方が手間がかからん。それに、初音も楓と同様に鬼の気配などに敏感だ。連れて来ても損はない」
「た、たしかにそうだけどな……」
「巻き込みたくない、か?」

 ふうっ、とため息を吐く柳川。

「そうさ……みんなに、あの時のような思いはもう、させたくない……みんな、また傷付いてしまう……」
「耕一、それは少し違うぞ」
「? なにがだ……?」
「あの四人の事だ。巻き込まなければ傷つかない……それは違う。むしろ、逆に近い」

 淡々とした口調で、柳川は言う。

「自分達の知らぬ所で、お前が一人戦っている……。それこそ、そちらの方があいつらに取ってはつらいだろう。自分達では頼りにならないのか、自分達ではお前を支えられないのか……と、な」
「う……っ……」
「それに、この事件が報道されれば、すぐに千鶴が気付くだろうよ。見る者が見れば、この事件が一体何者の仕業なのか、すぐに察しがつく。そして、なによりも……」
「…………」

 俺は言葉もなく、ただ、柳川の指摘した点をただ黙って聞いているしかなかった。

「なによりも、このまま手をこまねいていては、事件がどんどん拡大する。姉妹達にも手を貸してもらわねば、犠牲者が増えるだけだ……。俺達が出したくはない、鬼に殺される人々が……。止められるのは、俺達だけなのだからな」
「……わかったよ……」

 俺は、ため息をついた。
 そうだ。元から、そうするのが事件を解決する為には一番の手段だったはずだ。
 それを俺は……彼女達を巻き込みたくないばかりに、彼女達を事件からだけでなく、俺からも遠ざけようとしてしまっていたんだ……。

「夜が明けたら、隆山に連絡を取る。とりあえず、千鶴さんにでも相談して、話はそれからだ」
「ああ」
「そうと決まれば……夜明けまで時間がある。それまでに、出来るだけの事はしておこうぜ!」
「うむ。では、まずは行方不明の女性の住居に行ってみるか」

 そして、俺達は雑踏の中へと歩み始めた。鬼が待ち受ける、都会の暗闇の中へと……
 
 
 
 

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