柏木耕一の事件簿・其の二 初冬───柏木鬼狩事件編
 
 
 
 

 第三章 咎の影・来訪者
 
 

「じゃあ、初音。あたしはひとっ走り行ってくるから……お昼の調達、頼んだよ」
「うん、わかった……梓お姉ちゃん、気をつけてね」
「了解っ。それじゃ、あとで病院でね」
 繁華街を過ぎた所で梓お姉ちゃんとわかれ、わたしは買い物に出た。
 真冬の隆山……気温は低く、陽射しも弱々しい。
 だけど、わたしの心の中には、それよりも更に冷たく重たい氷の塊があるみたいだった。
「楓、お姉ちゃん……」
 あの怪我。お姉ちゃんを瀕死の重傷にまで追い込んだ、痕。
 わたしには、わかる。
「あれは……<鬼>の爪……」
 間違いないと思う。あれはおぼろげな<私>の記憶の中にあるものと全く同じ、刀剣よりも硬く鋭い爪の痕。
 つまり、楓お姉ちゃんにあの傷を負わせたのは……
 ──<鬼>──
 鬼が……また、出たの……?
 でも、楓お姉ちゃんがあそこまで酷い目に遭わされる程の鬼なんて……
 それに、わたし……
「なにも、感じなかった……」
 そんな強力な鬼が出たんなら、わたしにだって感じ取れるはず。でも、あの時はなにも感じ取れなかった。
「わからないよ、お姉ちゃん……」
 涙が出そうになって、すんと鼻を鳴らす。
 楓お姉ちゃんの危機に気付けなかった自分が、悔しくて情けなくって。
 なにが起こっているのか、わからない自分が歯痒い。
「わたしが出来る事、なにがあるんだろ……」
 呟いた言葉は、ちらつき始めた雪混じりの風の中に、飛んで消えた。


 だんだん、雪の勢いが激しくなってきたみたい。かざした傘の上にはもううっすらと雪帽子。人通りも次第に少なくなってきて、遠くに片手で数えられるくら いの人影しか見えない。
 買い物袋を幾つか腕に下げて、わたしは病院への道を歩む。
 もうすぐ、公園。ここを抜けても、もうしばらくは歩く事になるはず。……雪国育ちのわたしでも、ちょっと寒さが身に染みるかも。
「ううっ、寒いよぅ……いそいで行こっ」
 ちょっとだけ早足になりながら、わたしはぽすぽすと足音が音を立てる雪の中を進んだ。
 ニーソックス越しの冷気が、すっごく冷たい。
 そうして公園の入口まで来た頃には、辺りに人影なんて欠片もなかった。
「中央公園の近くでも、こんなに人がいないんだ……楓お姉ちゃんの事件のせいかな」
 わたしがそう呟いた、その時に。
 ──どくん──
「!?」
 頭の中に、覚えのあるノイズが走った。
「これっ……鬼の気!?」
 感じ取れた波動は、わたしの知っている五つの鬼気の一つ。その持ち主は──
 この気は……柳川叔父ちゃんの──!
 そんな遠くじゃない……ううん、それどころかむしろ……
「近いの!? すぐ近くにいるの、叔父ちゃん!?」
 中央公園の、中──!
 感じ取った鬼気の解放。全力の何分の一以下とは言っても、間違い無く『戦う』為の鬼の発動。
 叔父ちゃんが戦う為の準備をしている──?
 そう思った時、心中に思い浮かんだのは、傷だらけの楓お姉ちゃんの姿。
「まさかっ!?」
 差していた傘を放り投げ、買い物袋をその場に落として、わたしは公園の中に駆け込んだ。真っ直ぐに、柳川叔父ちゃんの気配目指して。
 何が起きてるの……?
 疑問が頭をもたげ、わたしはその原因を探る為、自身のちからの扉を押し開いた。
 き、ん……!
 たちまち、研ぎ澄まされた知覚にざらつく鬼の気配が引っかかる。
 真っ先に感じ取れた鬼気は一つ。これはわたしも良く知ってる、柳川叔父ちゃんの気。
 それから、そのまわりに──
「……!? 小さい、けど──鬼の気配!? うそっ!?」
 複数の、弱い鬼気の反応がよぎった。
 だけど──
「この気配、どこかで感じたような……わたし、知ってる?」
 以前にも察知した覚えがあるような気がするんだけど……。いつ? どこで?
 疑問は一瞬だけ。すぐに、現実が目の前に広がって、わたしの思考は中断された。
「叔父ちゃん!」
「! 初音か……」
 噴水近くの雪畳の只中。コートを翻して立つのは柳川叔父ちゃん。その周り、対峙するようにして七、八人ほどの影があった。
「!? もう一人……!」
「ちっ」
 わたしと同じか少し年上の、男女の集団。統一性は何もない。唯一の共通点は──
「こ、この人達……弱いけど、鬼……?」
 感じ取れた、小さな鬼の気。隆山に根付いた、薄まった血を持つ鬼の末裔の人達よりかは大きな、それでもわたし達柏木と比べれば格段に微弱な鬼気。
 わたしには──<私>には分かった。この人達は、確かに<鬼>。だけど、この地に流れる鬼の血筋じゃあない。ここの、ヨークの影響下にいない──別の、 <鬼>だと。
「そ、そんな……」
 隆山以外の、鬼の血脈。あの東京での事件の時から、まさかとは思っていたけど──
「本当に、存在していたの……?」
 愕然としていたのは、ほんの僅かな間だけだった。わたしを庇うように、すぐ前に立ったコート姿の男性が、目の前の現実を知らしめたから。
「初音、下がっていろ」
「あ……」
 叔父ちゃんが、左腕を軽く振ってわたしを促す。
 その腕が、滲み出した赤い液体に染まり、袖ごと荒々しく引き裂かれていた。引っ掻き傷みたいな裂傷が、手の甲から肘近くにまで走っている。
「お、叔父ちゃん、その腕……」
「……かすり傷だ。そこの梓に激怒のドーピングかましたような小娘に、挨拶もなくいきなり引っ掻かれてな」
 面白くもなさそうに表情を歪めて、視線を飛ばしつつ叔父ちゃんは一人ごちる。
「げ、激怒のどーぴんぐ……?」
 お、叔父ちゃん。それはいったい、どんな例えなの……?
 あんまりと言えばあんまりな表現に汗を垂らしつつ見てみると、彼等の真ん中に立っていた女の子が、ぎらぎらした目でこちらを睨みつけてくるのとばっちり 視線が合ってしまったりして。
 あぅ……こ、怖い。
 確かに、千鶴お姉ちゃんの台所破壊に癇癪起こして暴れる寸前の梓お姉ちゃんの怒りを取り出して、パワーアップさせたような覇気を纏っているみたいな気が するよぉ。なんて言うのか、暴走寸前の野生の獣を前にしている感じが……
「ふん……本命が網にかかってくれるなんて、上出来じゃない」
 暗い光を──憎悪を湛えた瞳でこっちを睨んでくる、その人。口から零れる言葉も、わたし達への憎しみに彩られていた。
「ハヅキ……このちっちゃい子が、そうなのか?」
「間違いないの?」
「間違いないと思うよ……写真で見た通りだ。ねえ、ハヅキ」
 ハヅキ……たぶん、葉月。それが、この人の名前だと思うけど……
 口々に、彼女にまわりの人達が声を掛け、そして彼女は無言でそれを肯定し──
「こんなに簡単に次のターゲットが見つかるなんて、ね──ちょうど良い。そこの男ともども、纏めてやるわよ!」

 その叫びが、合図だった。
 ざざあっ!
 半包囲するように、わたしと叔父ちゃんを囲んで彼等が動く。小さな鬼気が幾つも幾つも、彼等の中で膨れ上がる。
 この人達……戦う気、ううん……
 感じているのは、そんな生易しいものじゃなかった。わたしは知ってる、この場を覆う気配の正体を。微かな記憶の彼方、狩猟者と、<鬼>と呼ばれたかつて の自分が。
 殺す気……殺し合いを始める、つもりだ──

「さて……この人数差、観念したほうがいいわよ、お嬢ちゃん達」
「…………」
 わたしは、無言でその人──葉月、さんを睨み付ける。目を合わせた瞬間から、言葉では引いてもらえないだろう事がすぐに理解出来ていたから。
「やっぱり、待ち伏せしていた甲斐はあったわね……仲間が傷付けられれば、慌てて動きを見せると思ってたわ。襲撃現場の回りをチェックしていれば、必ず他 の連中が現れるはずだって」
「!!」
 仲間、を──傷、付ける……!?
 その言葉から連想されるのは、たったひとつだけ。
 自分自身の表情が険しくなるのが、わかった。
「……あなた、達……?」
「?」
「……昨日、わたしのお姉ちゃんに酷い事したのは……お姉ちゃんをあんな目に遭わせたのは……あなた、達……?」
 彼女はわたしの言葉に、ひどく歪んだ笑いを見せた。
「ああ……あの、おかっぱ頭の女の子、ね……へえ、あんた、昨夜のあの子の妹? 姉妹だったの」
 一呼吸、間が開く。
 返された答えは、想像通りの──
「あたし達よ」

「…………!!」
「随分とてこずらせてくれたけど、所詮一人じゃあたし達には勝てないわ。最後は、無残に地面に転がることになったからね」
 かえで、おねえちゃん……
「あんた、彼女の妹だったの。なら、感謝するのね。すぐに、姉妹一緒の処に送ってあげるから──」
「……ちゃ……」
「え?」
「……えでお姉ちゃんを……」
 わたしは、視界が赤く染まるのを、初めて体験した。
 楓お姉ちゃん……
 いつも静かに傍にいて。
 いつでも黙って見守っててくれて。
 昔も、今も、自分の信じた道を貫き通す、わたし達の為なら、どんなつらい事でも耐えて受け止める……
 綺麗で優しい、わたしのお姉ちゃん……
 楓お姉ちゃんが、こんな人達にやられるはずがない。本気を出したお姉ちゃんは、こんな人達なんて相手にならない。
 きっと、お姉ちゃんは手加減したんだ……
 この人達を、傷つけないようにって……
 この人達に、酷い怪我をさせないようにって……
 それを……
 それを──それを、よくも──
「──許さないっ!」
 ぎんっと睨んだわたしの言葉に、幾人かがびくっと身体を震わせた。
 わたしの眼が、炎の色に染まっていたから。
 心臓がひとつ跳ねてわたしの頭に血が昇り、彼女を睨みつける双眸が険しさを増し。普段は表に浮かぶ気配すら見せないわたしの<鬼>が、身体の奥底で身を 震わす。
 だけど、彼女だけは──そんな鋭い視線を受け止めたあの人だけは、たじろがずに逆にわたしを睨み返し、大きな声量でわたしの言葉を跳ね除けた。
「──許さない、ですって!? ……ふざけるなっ!!」
「!?」
 その声に含まれた憎悪に、びくっとしてしまったわたしに、彼女は更に言葉を叩き付けてきた。
「それはこっちの台詞よ! あんた達こそ……よくも、よくも……!」
 殺意すら入り混じった瞳に見据えられ、気が逸れる。その途端、より一層高くなった彼女の言葉が、今度こそわたしを硬直させた。
「あんた達が、何をしたと思ってる!? 姉貴を傷付けられて怒ったんなら、あたしだって同じことよ! あんた達が……東京で何をした!? あたしの兄さん を殺したのは……」
 その言葉は、血を吐くような怨嗟の響きに満ちていて。
「あたしから兄さんを奪ったのは──あんた達でしょうがぁっ!!!!」
「えっ……!?」
「なんだと……!?」
 なん、て……言ったの……?
 この人、今、なんて言ったの?
 お兄さんを、奪った……? 東京……?
 まさ、か──
「まさか──」
「あの狩猟者は……」
 愕然としたわたしを、叔父ちゃんを見て、彼女は嘲るような言葉と共に罵りを続ける。
「ふん……心当たりがある、ってな顔ね。そうよ、その通り。あんたが考えてる通りよ」
 鋭い視線は、憎悪と嘆きに研ぎ澄まされて、より冷たくより鋭く。
「これは、復讐よ……あたし達はあんた達を許さないっ! だからあんたも、姉の後を追ってさっさと地獄に堕ちるがいいわ!」

「来なさい、シオン!」
「!?」
 響き渡った声音に誘われでもしたかのように、白い狼みたいな獣が葉月と呼ばれた少女の前に降り立つ。肉食獣に似通いつつも地球上の生き物では有り得ない その姿は、まるで異形の──
「なんだ、あれは……?」
「……! え、エルクゥの武器!?」
「何っ!?」
 柳川叔父ちゃんの訝しげな声を掻き消し、わたしの叫びが空を薙いだ。冗談では済まされないその言葉に、叔父ちゃんが目を剥く。
「間違い、ないよ。あれはエルクゥの……」
「では、やはりこいつらは……<鬼>なのか? 柏木と起源を同じくする……?」
 いるはずがないって、こんな事態になっても思ってた。そんな事あるはずないって。だけど、あれは紛う事無き<エルクゥ>の保有していた武器の一つ。
 だとすると、この人達もエルクゥの──
「ごちゃごちゃ喋ってんじゃないわよっ!」
「ぬっ……!」
 怒号一閃。その叫びと同時に物凄い勢いで飛び出した白狼が、一直線に柳川叔父ちゃんに突撃する。叔父ちゃんはそれをかろうじて受け止め──
 ドガアッ!
「ぐおっ!?」
「! 叔父ちゃ……!」
 は、跳ね飛ばされた!? 激突してくる勢いが強すぎて、柳川叔父ちゃんの力でも受け止めきれないの!?
「ちぃっ!」
 弾き飛ばされた叔父ちゃんが、身体を捻って体勢を立て直す。二の腕の辺りの上着の布地が、すっぱりと切れていた。腕自体も浅く切り裂かれているけれど、 傷は浅そう。
「ち……素早いな。捕まえるのは無理か」
 叔父ちゃんは腕を一瞥。大した事がないと判断すると、舌打ちを一つ。
 白狼は空中を大きく旋回。再び叔父ちゃんに向かって来ている。
「ならば……」
 ぐん、と握り締めた拳に鬼気が満ちた。
「カウンターで吹き飛ばすまでだっ!」
 突っ込んでくる白狼の顔面に、すれ違いざまに鬼の爪が叩き込まれる。次の瞬間、ぼっと弾けるような音がして、獣の身体が塵になって吹き飛ぶ!
 だけど、確かあれはっ──!
「ふん……いくら素早くとも、この程度ではな。脆すぎる、こんなもので俺を倒せるとでも思ったか?」
「……そっちこそ、それで終わりだとでも思ってるの?」
「強がりはよせ。その武器とやらは既に粉微塵にして……」
「叔父ちゃん! まだだよっ!」
「なに? ……っ!?」
 眉を寄せた叔父ちゃんの顔が、驚愕で歪む。散り散りに吹き飛ばしたはずの白狼が、目の前でビデオテープを巻き戻したように再生してゆく、その様を目の当 たりにして。
「その獣、ちゃんとした実体がないの! ばらばらになってもすぐに元通りになって……」
「物理攻撃が効かないという事かっ!」
 哄笑は、わたし達に投げかけられた。口々に嘲る彼らの顔に浮かぶのは、まるで獲物をいたぶるかのような──
「あははははっ! その通りよ、この鬼の武器……<シヴォン・ギ・ゼィラウ>には、あんた達の攻撃なんて効かないわ!」
「観念しとけよ。この葉月のとっておきを相手にしちゃ、お終いだ!」
「君の姉さんは妙な力でふっ飛ばしてたみたいだけど……結局は無駄だったしね」
 狂喜の、笑み。
「あ、あなた達はっ……!」
 そう、か……楓お姉ちゃんは、これにやられて──
 わたしの脳裏に浮かんだのは、お姉ちゃんの肩に残っていた大きな傷跡だった。大型の獣に噛み切られたようなあれはきっと、この武器の仕業に違いない。
 ぎりっ……
「厄介な……」
 叔父ちゃんが歯を噛み締める音が聞こえた。
 そして、再生を終えた獣の姿がぼっと霧状に変化し始め、風に吹き流されるように視界から消え失せてゆく。
 ……姿を、消すつもりだ。
「叔父ちゃん、気をつけて……たぶん、あれは擬態だよ。姿を消して、わたし達の隙を突こうとしてる」
「そして、それと同時に他の連中の攻撃、だろうな……この程度の連中だけなら、手加減してもまず負けはないが……初音、身を守るぐらいは出来るな?」
「うん、たぶん……あの人達だけなら、今のわたしでもなんとか」
 小声で、叔父ちゃんと手早くやり取りを行う。その言葉尻にあわせるように、白狼の姿が完全に消え──
 それが、戦闘開始を告げる狼煙になった。
「さあっ、覚悟しなさい!」
「よっしゃあ!」
「おおぅりゃあ!」
 ざん、と雪を踏み飛ばし、幾つもの影が殺到する。手に手に鬼の爪構え、怒りに染まった顔を見せて。
「ち……」
「きゃ……!」
 大柄な少年の突撃をやり過ごし様、コマのように鋭く回転した脚が後頭部を蹴り飛ばす。
 咄嗟に竦めた頭の上を、ボブカットの女の子の腕が通り過ぎる。
 大振りの一撃の手首を掴み、遠心力に任せて放り投げる。
 スカートを捲り上げるようにして放たれた踵落としを、本能だけで飛び退き躱す。
 殴りかかって来た小柄な一人に、無造作にカウンターの手刀を入れる。
 髪の毛に掴みかかって来た年下の男の子の手を、リボンを犠牲にして振り解く。
 手近にいた少女の襟首をひっ掴んでぶら下げた瞬間──
 子供が見たら泣きそうな形相で飛びかかってきた少年の腕を、引きつりながらも掻い潜った瞬間──
 姿を消していた魔獣武器──シオンが、足元の雪を噴き上げるようにして襲いかかってきた!
「うおおっ!?」
「叔父ちゃん!」
 シオンの牙を腕に食い込ませながら、柳川叔父ちゃんが爆発的に噴き上がった雪と一緒に宙を舞った。数メートルは吹き飛んで、噴水脇のモニュメントに激突 する!
「ぐっ……!」
「叔父ちゃ……」
「余所見してんじゃないっ!」
「っ!」
 わたしの気が逸れた刹那、接近していた彼女の蹴りがまともに入った。ぎりぎりで腕を交差させたそこに、渾身の勢いで鬼気を帯びた長い足が叩き込まれる。
 み、しっ……
「あ、ぐ……っ!」
 骨の軋む音。それを置き去りにして、わたしも吹き飛ばされた。
 だんっ!
「うあっ!」
 別のモニュメントに叩き付けられて、わたしは悲鳴をあげた。
 い、いたた……
 石で出来た構造物にぶつかって、背中がずきずきする。なんとか鬼気を集中させてガードした両腕も、びりびりと痺れが走っていた。
「あれを防御するって言うの? ……思ったよりも反射神経いいじゃない」
 涙が滲む視界を上げると、驚いたような顔で彼女──葉月、さんがこちらを見ていた。
「さすがは、あの昨日の女の子の仲間だぜ。あれだけ強え子と一緒にいるんだ。こんなちっちゃい子でも、随分と手こずらせてくれる」
「そっちのおじさんも、かなりやるみたいね……シオンが奇襲しなければ、苦も無くあしらわれるところだったわ」
 襟首を掴まれていた女の子が、ぼやきと共に視線を流す。そこには……未だ白狼に噛みつかれたままの柳川叔父ちゃん。
「ぐ、ぐくっ……こい、つ……!」
 打ち所が悪かったのか……叔父ちゃんが頭から血を流しているのが見えた。気絶とかはしていないみたいだけれど、モニュメントに手をついて立ち上がろうと するその動きに、少しだけ精彩が無い。おまけに、半身を霧状に変化させた白狼に片腕を噛まれたまま……
 手足を拘束されていた。
「しかも、そんな状態にされても立ちあがれるかよ……しぶてえな」
「僕達より、全体的に能力が高いみたいだね。数で押さなきゃ厳しいとこだよ」
 す、好き勝手に言って……
 わたしは、きっと軽口を叩く人達を睨み付けた。
「お? なんだい、お嬢ちゃん。まだ俺達と喧嘩する気か?」
「見かけによらずタフな子みたいね……葉月の必殺の一撃を受け流した上で、まだ立ちあがる事が出来るなんて」
「やめておきなよ。そんなちっちゃい身体で、僕達に敵うとでも思っているの? おふざけは通じないよ?」
 やめておけ……?
 やめておけ、なんて、そんな言葉を言えるのは、どっちだと思ってるの?
 お姉ちゃん達はわたしの事を、優しい子だと思ってるけれど……
 誰にでも優しくって、絶対に人を傷つけないって言うけれど……
 わたしだって……
 わたしだって、お姉ちゃんを傷つけるような人は──!
 そんな人は、絶対に許さない!!
「う、くっ……!」
 なんとかわたしが身を起こし、鬼気を集中しようとした時──

 どくん、と。

 灼けつく感覚が、魂を震わせた。

【──ちからが、欲しいですか?】

 世界が暗くなる。回りの情報全てがシャットアウトされて、その内なる声だけがわたしに届く。鏡写しの内面世界だけが、今のわたしの眼に映る。
 その、中で。
 『わたし』は『彼女』の、声を聴いた。

【──助けは、要りますか……? 柏木、初音さん】

 理解した。
 わかってしまった。
 今聞こえるこの呼びかけ。わたしの魂の奥の奥。その更に遥か彼方にある、『ソコ』からの問い掛けの意味。それが為す事、引き起こす事。得るだろう物。そ れに賭けるべき、全てが。

(それ、な、ら──)

 わたしは、お兄ちゃんやお姉ちゃん達ほど、ちからが上手く使えない。精神的なちからは不安定でもかなり扱えるのに、運動神経や反射神経の強化とかが、鬼 を解放していなくても無意識のうちに出来ているお姉ちゃん達とは違って、鬼を解放した状態ですらまだ満足に出来ない。
 せいぜいが、多少の肉体の強化ぐらい。それすらも、お姉ちゃん達ほどじゃない。だから、あの威力の攻撃でも防御し切れない。
 わたし以外は、みんな鬼を無意識にでも使えるのに、わたしは意識的にすらロクに操れない──
 だけど。
 わたしが知っている、鬼のちからを完全に操れる方法。たった一つの、危うい賭け。今、伝えられた賭け。
 心を賭けて、力を手に入れる術──
 それだけの意味があるから。そして、『自分』がまだ、『戻って来れる』自信があるから……
(立ち向かうだけの覚悟がある。一緒に歩きたいと願う意思がある。だから絶対に大丈夫、『彼女』は『わたし』に、応じてくれる──)
 だから、わたしは──<ちから>が欲しい!
「──お願い! 今だけ、この一時だけでいい……わたしに、ちからを貸してっ!」
 声に出して叫ぶ。だけど呼びかけるのは、他の誰でもない『私自身』。わたしの中と、あの闇の底にいる、もう一人の『私』。
【──了──】
 呼びかけは、刹那の余韻を持って応えを返した。
 ず、ぐん……!
「────!」
 ごそり、と、身体の奥でナニかが蠢いた。
 灼熱が全身に行き渡る。身体全部が、今までとは決定的に違うものへと変化してゆく。
 細胞の一つ一つが、息が出来ない程に活発な活動を始める。
 何処か遠く別の場所で、眠りに就いていたもう一人の自分が、目を覚ました。遠く近い半身が、『そこ』から『こちら』へと手を伸ばして……
 ぎし、ん!
 躯が跳ね上がった。苦痛と、心地良さと、そして泣き出しそうなくらいの悲しみと──
 繋がる……魂が、繋がりを辿る──
 透明な水底に、意識が沈み込み。底知れぬ深淵から、意識が浮き上がった。わたしが、私に混ざり合い──
《転生継承者ヨリノ共振発生、並ビニ共鳴現象ヲ確認。四姫霊魂『地』封印解除……覚醒。時間限定融合開始……》
 幾星霜もの果て、遥か彼方の何時か何処かで、懐かしい誰かの声が、響いた。
《──『共振融魂』──頑張レ、初音》

 覚醒する。
 一瞬で組み替えられた遺伝子が、『私』の全身を駆け巡る。ばらばらにほどけていた栗色の髪が、風とは違う何かに押されて浮き上がった。増大した鬼気に押 し潰されて、『私』の足下の雪が、鳴き声をあげて潰される。
 解放された躯が歓喜を呼び、傷付けられた姉を想う心が哭いた。だけど『私』の魂は、再度の後悔を拒む為に、古き力を手繰り──引き寄せた。
 ざわりと、雪景色の底奥深くからさざめきが噴き出した。足を降ろす大地から圧倒的な力が噴出し、それが『私』に絡みつく。桁違いの鬼気を纏って、エル クゥを持たない子供達を射竦めるように、押し留めるように。
 そして、『私』はいつしか閉じていた双眼を……押し、開いた。
 その眼光は、穏やかな中に揺るがぬ意思を秘めた、真紅。縦に裂けた瞳孔持つ龍眼は、気高き魂と譲れぬ誇りを纏う、深き焔。
 そは、銀河に誉れも高き戦闘種族、<エルクゥ>の至宝たる皇女が一人……星船の巫女の、似姿。
 その、名は──


 誰にも気づかれぬ程に微かな吐息が、唇から洩れ出でた。
 賭けには、勝った。『私』は、私を受け入れる事が出来た。これで、一時的にせよ『私』はちからを存分に奮えるはず。
(【せいぜいが、数分。それ以上は器が持たない。でも、それだけあれば充分……】)
 ゆっくりと、『私』は立ちあがった。
【──もう、やめましょう。異なる鬼の子供達よ】
 突如として雰囲気が変わった『私』に気圧されたように、彼等は一歩、二歩と後退る。
 目の前にいるのは年齢以上に幼い容姿の少女だというのに、その冒しがたい鬼気の奔流にぴくりとも動けない。
 まるで、獅子を前にした仔兎のように──
「な……なによ、あんた……」
 震える唇で、葉月と呼ばれていた少女が気圧されながらも言葉を零す。
【これ以上の戦いを望むようならば、私も貴女達に対して容赦をしません。……ですが、無闇に人を傷付けたくはないのです。ですから、大人しくこの場を去っ ては──】
「っ……ふ、ふざけないでよっ!」
【──くれません、か。やはり……】
 遮られた言葉に、溜息一つ。想像通り、やはり無理。
「引きなさい、ですって? 兄さんを殺したあんた達が、あたし達にそんな言葉を吐けるっての!? そんなの……受け入れられるわけがないわよっ!」
 轟風。
「ぐっ……!」
 拘束されていた叔父が弾かれ、膝をついた。その間に、彼の獣は葉月の前に、既にある。
 彼女の意思に過剰反応を示したか、<ギ・ゼィラウ>の体躯がふた回り以上肥大化し、全身に鋭い突起を纏い始めた。その姿、まさに鋼の鎧に覆われた狼の如 く。
 その姿は、『私』の記憶の中にもあった。
【完全戦闘形態……狩猟補佐用ではなく、殺戮戦闘用の武装、ですか】
「死ねえええっ!!」
 殺意に応えて、鋼の獣が大地を蹴った。
 ──ぎ、いいぃぃぃ……っ!
 凶獣は身を震わせる動作と同時に跳躍。そして背中の突起物が耳障りな音を発して総毛立つ。
(危ない──)
【!】
 ががががががんっ!
 脳裏に届いた警鐘に、『私』は咄嗟に飛び退った。その直後、雪畳とその下のコンクリートブロックに、何本もの長い煌きが突き刺さる!
【……く!】
 連続して穿たれる刺突音。『私』の後を追い掛けるように、次々と炸裂する鋭角的な光の攻撃。それは徐々に距離を詰めて──
【っ!】
 ぢぃいいんっ!
 明確な危険を察知し鋭く振るった鬼の爪に、銀光が砕かれた。『私』の腕の中、掴み取られた光の正体は──三十センチを越える長さの、針。
「飛針の散弾……ニードルか!」
 ようやっと意識をはっきりさせた叔父が、離れた所から叫ぶ。
 ……音の正体は、凄まじい勢いで打ち出された針弾による攻撃。この威力ならば、強化されたエルクゥの肉体にでもダメージを与えられる。無論、『私』の身 体など貫き通せる。
 ならば──
 ──ヴヴヴヴんっ!
 再び、音が飛ぶ。
【──当たらなければいいだけの事です】
 言い放つと同時に、『私』はちからを解放した。

 ……い、ぃぃいぃぃ……ん。
 突き刺さる寸前。『私』の眼前一メートルの所で、何十もの鋼の煌きが停止していた。
 あたかも時を停められたかのように。
「なっ……!?」
【もう、それは『私』に届くことはありません】
 託宣を告げる巫女の如く、厳かに『私』は呟いた。絶対の事実を、『私』が定め手を加えた法則に従って。
 重力制御。
 今の『私』の知識に照らし合わせるならば、そう呼ぶのが正しいのだろう。『私』は、限られた空間の内部においてのみとはいえ、大地より伸びる重き束縛の 力を自在に支配出来るのだ。
 その力を持って我が周囲に張り巡らせた球状結界──その名も、
【──グラビティ・ゼロ】
 質量の如何に関わらず、周囲三百六十度、半径数メートル、その全てに対して侵入してくるあらゆる物体の運動エネルギーを打ち消すこの力場障壁を破れるも のは、存在しない。
「楓と……同じ、ちからか」
 叔父の呟きを肯定するように、微かに頤(おとがい)を頷かせる。
 そう……大地は全て、『私』に従う。
 何故ならこの『私』こそは、大地の力を統べる者。風を操る下の姉のように、自然事象を司るちからの行使を得意とするエルクゥの姫──純血種皇族、<ギ オ・エルク>が一人、星船の巫女……<リネット>、なのだから。

 頼みの綱であろう武器、<シヴォン・ギ・ゼィラウ>の攻撃を封じられた為か、驚愕に顔を固まらせる鬼の子ら。
 その隙を見逃す気は、『私』にはない。
 鬼気を集中、ちからを解放。無意識下の領域から、<属性>に呼びかける。
【『縛鎖』──】
 その呟きが響いた時には、もうちからは発動している。
 指し示した指の先、白き凶獣にプレッシャーが襲いかかる。重力の束縛は、苦もなく獣の全身を絡め取り、大地に叩き伏せた。
「ああっ……!」
 葉月が、今までにない甲高い悲鳴を洩らす。無敵だと思っていただろう自分の武器を、簡単に押さえられたのが信じられぬと言わんばかりに。
「そんな……実体がないに等しいシオンを、どうやって……」
【ソレは、極小分子単位の群体生物が寄り集まった結合体……物理攻撃で倒せないのならば、それ以外の力で動けなくしてしまえばいいだけの事です】
 いかにナノマシンの寄り集まった集合体といえど、その周囲ごと重力結界で包んでしまえば動けなくなる。動かなければ、なんら脅威には成り得ない。
 一歩、踏み出す。
【そして……その武器がない貴女方では、『私』には敵いません】
 断言。それは既に決まった事をなぞらえたような、断定の言葉。自惚れでもなんでもない事実であり、現実──
 ふわり……と、羽根のように軽く、『私』は進み出る。降り掛かる火の粉は、払うのみ。

 繰り出される鬼の爪を流れるように躱し、首筋に手刀を叩き込んで気絶に追い込む。腕を取り別の相手へと放り投げ、仲間を受け止める寸前に二人纏めて慣性 の法則をキャンセルしてやり、弾き飛ばす。
【『地よ、穿て』】
「ぐはっ!」
 無造作に差し伸べた『私』の指の先、死角から攻撃を仕掛けようとしてじりじり近付いていた少年が突然、地面から噴き上がった無形の衝撃に打ち据えられ、 後方に吹っ飛ぶ。
「こっ……このやろお!」
「よくも!」
 あっさりと仲間の半数が戦闘不能に追い込まれたのを見て、弾かれたように連続して動き出す残りの子供達。殺到する彼等には眼もくれず、やはり無造作に両 の掌を左右に突き出し、ちからを解放。
 ──全包囲攻撃!
 ずどんっ! と、何かを打ち据えたような激しい破裂音。
「ぎゃっ!」
「あうっ!?」
「げふっ……!」
 膨れ上がった衝撃波に、全員があらぬ方へ弾かれ、雪の上に転がり落ちた。
 間髪いれず、大地の気脈を結集・掌握。白狼に使ったのと同様の『縛鎖』の音と共に振り下ろした両腕の動きに合わせ、雪の上にぼんやりと淡く、金色の網目 が蜘蛛の巣の如く走り抜けた。
 ──ズ、ンッ!!
「がっ!?」
「きゃああっ!」
 彼等は全身に普段感じている重みの数倍近い重量を加算され、為す術無く雪中に叩き伏せられる。
「ぎ、ぎぎぎっ……!」
「な、んだ、よっ……これ、はぁっ!?」
 這いつくばったまま少年達の一人が怒鳴る。だが、彼等の拘束が緩む事は無い。
「ぐっ……あ、ああぁっ!」
 重圧の中でなんとか手を伸ばし、這い進もうとする葉月。その執念には眼を見張るものがあるけれど、『私』とて姉を害した者に対して、これ以上の慈悲をか ける謂れは無い。
【──もう一度だけ言います。……去りなさい】
 去ると言うのなら、拘束を解いてあげます。
 そう続けた、最後通告も……
「だ、誰、が……っ!」
 聞き入れる気は、無いようだった。
【仕方ありません、ね……】
 とりあえず、相手の気力と体力が尽きるまでこうしていようかと考え……自分の意識が限界に近い事に、ふと気付く。となれば、一気にプレッシャーを倍化さ せて気絶に追い込み、後の事は叔父にでも任せようかと判断した、その時。
【……?】
 『私』の知覚領域に触れる、新たな鬼の反応。
 そして……
「申し訳ありませんが……そこまでにしていただけないでしょうか?」
 虚空から音もなく降り立った新たな人影は、静かな懇願で『私』の行動を押し留めた。

「……お願いです、矛先を納めて下さい」
 その人は、穏やかな口調の中に強い意思を篭めて言い募る。
 背中で結わえ束ねた長い黒髪と、やや切れ長の鋭い瞳。白いロングコートをはためかせて立つその姿。整った面立ちに浮かぶのは、断固とした意思。おそらく は二十代半ば程に見える、まだ年若い女性。
 隙のない立ち居振舞い、丁寧な中にも芯の通った物言い、なによりも纏う雰囲気……
 その人は──『私』の、一番上の姉に、よく似ていた。
 いつのまにか『私』の傍らに歩み寄っていた叔父が、警戒を解かずに詰問する。
「……誰だ?」
「この子達の身内です。ですが、そちらに危害を加えるつもりなどありません。この場を納めに来ただけです」
「信用出来ると思うのか?」
「……いきなり出て来て、信用されるなどとは思っていません。ですが、どうかこの通りです。事情はほぼ察しています。せめて一時、私があの子達をおとなし くさせるまで、刃を納めていただけないでしょうか?」
 この子達は私が押さえますから。
 そう続けて、深く腰を折って頭を下げる女性のその姿。その様も、『姉』に重なる。
【──わかりました】
 どのみち、もうそろそろ限界だ。これ以上の<共振融魂>は、『私』の中の『初音』にも悪影響しか及ぼさない。
 鬼気を押さえ込む。漣(さざなみ)立っていた髪の毛がふわっと戻り、四肢に満ちていたちからが、潮騒が引くように消えていった。瞳から魔の色が抜け、虹 彩も復元する。
 それから、意識をしゅるりとほどく。剥離する二つの『私』から、私だけが闇の淵へと降りてゆき、わたしだけがここに残る。遠くから、私の意思が終わりを 告げるのを聞き届け──
 そして、柏木初音は個としての意識を取り戻した。
 同時に、重力の束縛が解かれる。
「くっ……よ、よくも……!」
「やめなさいっ!」
「!!」
 怒号。
 ばっと立ちあがった彼等が、わたしに飛びかかろうと脚に力を篭め……ようとした所を、女性が鋭く一喝した。びくんと、葉月、さんを始めそれに習おうとし ていた少年少女達が雷鳴に打たれたかのように硬直する。
 ……叱咤の声まで千鶴お姉ちゃんみたいだった。
「皆……こんな真似をして、どうなるかわかっている……?」
「や、弥生姉さん……」
 地の底から涌き上がるような重たい、怒り心頭の声音。思わず背筋が寒くなる。それは彼女達も同じみたいで、一人残らず震えていた。
 女性は無言であの女の子──葉月、さんに歩み寄ると、彼女が腕に嵌めていた奇妙な腕輪を奪い取った。途端、待機状態にあった<ギ・ゼィラウ>が、霞のよ うに消失する。
 あれは、制御用の腕輪……
 そして、女性の唇から零れるのは、低く冷たい音程の言葉。
「葉月、貴女……何を考えているの? 勝手に家を飛び出した挙句、こちらの方々にとんでもないご迷惑までかけて……しかも、自分一人の暴走では飽き足ら ず、他の皆までこんな的外れの復讐劇に付き合わせるなんて!」
「だって! こいつらが……こいつらが兄さんを!」
「葉月っ、筋違いの言いがかりもいい加減にしなさいっ!!」
 ぱぁーん!
『!!!!』
 甲高い音が、辺りに響いた。
 女性は平手を振り抜いた姿勢のまま、頬を赤くして呆然と立ち竦む彼女を叱責する。
「……この人達は、永月を殺したわけじゃない。むしろ、救ってくれたのよ? あの子の心は、もう既に鬼に食い潰されていた。ただ操られるだけの骸と化して いた……。この人達は、本来なら私達がやらねばならない事を、代わりに自分達の手を汚してまでやってくれたの」
「だ、だからって……!」
「あの子は、既に何人もの人間を嬲り殺した悪鬼と化していたのよ? 鬼に食われた一族の者がどうなるか……貴女達にも教えたはずでしょう? そして、それ を止めるにはどうすべきか、何をせねばならないか……その覚悟、も……」
 絶句。葉月さんの背後にいた何人かが、息を呑む音が聞こえた。
「それに……泣いて、くれたわ。私は見ていた、この人達は、その手で葬り去った永月の為に涙を流してくれた。助けられなくて済まなかったって、謝ってい た! それだけじゃなく、命を奪ったあの子の亡骸を丁重に埋葬までしてくれたのよ……。葉月……貴女や、他の皆も……この方達に、恩を仇で返すつもりな の!?」
「そ、そんな……」
 なにやら、わたし達も聞き逃せない単語が、言葉の端々にあったような気がする。
 愕然とした様子の彼等は揃って項垂れていた。弥生というらしい女性がさっと振り返り、わたしと叔父ちゃんに向かって再び深く、それこそ積もった雪に頭が ぶつかるんじゃないかというくらいに深く頭を垂れた。
「……申し訳、ありません。今回の事は全て、この子達の暴走した結果なんです。貴女方が、私の弟……この子の兄を惨殺したのだと、勝手な思い違いをしたん です。私と長老の話を、盗み聞きしていたらしくて……それで、そちらの事情を知りもせず、短絡的に話の断片を組み合わせて、貴女方の事を仇だと……」
「…………」
 沈黙しか、返せなかった。
 この人達の話の断片を統合すると、浮かんで来るのは一つの可能性だけ。そして、その予想通りなら、彼等の──葉月さんの主張も、ある意味当然の事だった のだから。
 それに、なんとなく向こう側の事情は理解できた。たぶん、葉月さんを始めとする子供達は、『柏木という一族が兄を殺した』という部分だけを耳に入れてし まったのだろう。
 その人が既に戻れない悪鬼と化していた事などは知らなくて、わたし達がお兄さんを殺したという事実のみを知って、勘違いをした、と……
「非礼は、幾重にもお詫び致します。今回の事は、完全にこちらに非がありますから。……ですが、それでもこの子達のように暴走する者もおりまして……本当 に、なんとお詫びしていいのか……」
「いえ、いいです。……わたしも、わからない訳じゃないから……」
 繋がっていた影響か、いつもよりも鮮明に思い浮かべられる『彼女』の気持ち。あの頃の、憎悪と悲哀と諦観に満ちた感情の揺れ動き。
 それは、たぶん、今のこの人達にも共通したもの──
 わたしの表情からなにがしかを感じ取ったのだろう、弥生さんは何かを言いかけ……そして、
「……そう言っていただけると、救われます」
 と、微かに表情を緩めて囁いた。
 それから彼女は、何かを決意したように顔を引き締め──
「ですが、この子達が取り返しようのない真似をしでかしたのも事実……必ず、償いは致します。本来ならば、首を差し出すところですが……」
 何を思ったのか、弥生さんはさっと結わえられた自身の黒髪に手を添え……
 ざっ──……
「弥生姉さんっ!?」
「弥生姉っ!?」
 驚愕の叫びが、子供達から発せられた。
 かくいうわたしも、思わず絶句する。
 彼女は──弥生さんは、その長く豊かな髪の毛を躊躇なくばっさりと、首の所から切り落としてしまったのだ。
 固まるわたし達を余所に、彼女はその綺麗な髪をすっと差し出し、雪に膝を着く。そして、指をついて……土下座した。
「あ、あのっ……!」
「──こんなもので申し訳ないのですが、お納めください。私なりの謝意と誠意のつもりです」
「そ、そんなっ……」
 深々と、今度は完全に雪に額をつけて謝る弥生さん。妹の代わりとして、そこまでして謝るその姿と、その前に捧げられている束ねられた漆黒の流れに、わた しは激しく動揺して、まともに言葉が出てこない。
 ──女の髪は命。そんな言葉があるけれど、これはまさしくそれだと思う。
 千鶴お姉ちゃんとも共通する、長く綺麗な、豊かな髪。お姉ちゃんが、その流れる黒髪を大事にしているのも、耕一お兄ちゃんに誉められて心底嬉しそうにし ていたのも知っている。
 弥生さんは言葉だけではなく、形としての謝意を示そうとしたのだろう。文字通り、自身の命を差し出す意味を篭めて、逡巡すら見せずに髪を差し出した。
 ……それなら、これを受け取らない事は、余りにこの人に失礼過ぎる。
 わたしはごくりと喉を鳴らすと、足を踏み出した。跪いて屈み込み、未だに頭(こうべ)を垂れたままの弥生さんの背中に手を伸ばす。
「あのっ……顔をあげて下さい。そちらの謝罪、受け取りましたからっ」
 ようやっと頭をあげた彼女の前で、その黒髪を丁寧に取り上げる。託されたその髪は、その中に凛とした彼女の意思を宿しているように感じられた。
「……これは、確かに受け取りました。お気持ちはしっかりと……だから、もう良いです」
 きちんと目を合わせて、丁寧にその意思を汲んだ事を伝える。謝意を受け取ってもらえた事に安堵したのか、弥生さんはほっと息を吐き、微笑と共にそっと立 ちあがった。
 そして、改めて向き直ると、言葉を続ける。
「では……詳しい事情は、全て後程に……この子達の処置を他の者に任せたら、貴女のお姉さんが入院している病院の方に私が直接出向いて、他のご家族の方に も謝罪致しますので、その時一緒に、という事で……」
「……わかりました。信用します」
 この人は、信じてもいいと思った。勘みたいなものだけど、この人は嘘を言わないし、信じるに足る人だと、わたしはそう判断した。なによりも、あんな真似 までする人を、わたしは疑えはしない。……千鶴お姉ちゃんに似た雰囲気を持っている事も関係してるかもしれないけど。
 同意したわたしに、静観を決め込んでいた──基本的に、鬼の血関係の事になると、その決定を耕一お兄ちゃんやわたし達に委ねようとする──柳川叔父ちゃ んが、小声で聞いてくる。
「……初音、それでいいのか?」
「うん。この人からは、敵意や害意が感じられないし……それに、嘘とかも言わない人だと思えるから。……ごめんね叔父ちゃん、勝手に決めて」
「いや、構わんさ。お前がそれでいいなら、な」
 ぽんぽん、と頭に手を乗せてくる叔父ちゃん。どうやら、わたしの判断に不安を感じたとかじゃないみたい。ただ単に、確認の意味を込めて口を挟んだんだろ う。
「このお姉さんは、信じてもいいと思うよ。あんなに必死に謝ってくれたんだし、髪を切り落としてまで誠意を見せてくれたから……」
 そうかと頷き、叔父ちゃんは僅かに苦笑を浮かべた。
「俺にはなにやら彼女の姿が、耕一や梓が迷惑をかけた時に、相手に平謝りに行く千鶴に見えたような気もするが、な」
 あ。叔父ちゃんも同じ事を考えたんだ。ちょっとおかしくなって、口元が緩む。
 確かに、この人は千鶴お姉ちゃんにタイプが似ているらしい。
 こちらに一礼した後、携帯電話を取り出して何処かに矢継ぎ早に指示を出すその人──弥生さんを見て、わたしはそんな事を考えていた。

 しばらくして。
 駆け付けて来た何人かの大人に引っ張られるようにして、わたし達を襲った子供達は連れて行かれた。
 たぶん、わたしに取っての千鶴お姉ちゃん達のような関係だと思われるあの人に激しく怒られたのと、自分達がとんでもない勘違いをして、ただ人を傷つけて いただけだったのだと糾弾されたのが堪えたのだろう。全員俯いて顔を蒼褪めさせ肩を落とし、気まずそうにこちらから目を逸らして、覚束ない足取りだった。 彼等を連れていった大人の人達が、わたしに目を合わせると全員、心底済まなさそうに目礼を返したり、わざわざ進み出てまで謝罪を連ねて行ったのとは対照的 だった。
「それでは……ぁ」
「?」
 最後に立ち去ろうとして女性が、ふと何かを思い出したように振り返り、
「申し遅れました、私は高宮弥生。子供達を煽っていたあの子は、妹の葉月です……貴女のお名前は?」
 ……そう言えば、名乗り合ってもいなかったかも。
「あ……か、柏木初音です。こちらは叔父の、柳川裕也さん」
「良い名前ですね」
 弥生さんは、そう言って微笑む。綺麗な笑みだった。
「では、後程……出来る限り早くお伺いします。失礼致しました」
 そうして踵を返し、彼女は雪景色の向こうに消えて行った。

 彼等の姿が消えるのを見送って、しばらく。雪が降り積もる中、無言のままの、重たい静寂。
 それを破って、わたしは呟く。
「……叔父ちゃん、病院に戻ろう」
「む?」
「手当て、しなくちゃ。回復力が高いとは言っても、噛みつかれた腕の傷だけは簡単に完治まではいかないでしょ? それに、あの弥生さんって人……律儀みた いだから、すぐに病院に来ると思うの」
 それに……正直言って、<リネット>を降ろすのはひどく疲れた。平然と痩せ我慢してるけど、わたしも実は、もうへろへろだったりする。
「そうだな……鬼の血筋である一個人の立場としても、警察である今回の事件絡みの立場からしても……俺もその場で話を聞いておく必要がありそうだ」
「それも、『全員で』ね」
 この話の席に欠席者がいてはならない。そのニュアンスを篭めて言った言葉を、叔父ちゃんは正確に理解したらしい。重々しい頷きが返ってきた。
「しかし、また厄介な事になりそうだな。鬼の血絡みとなれば、迂闊に外に洩らすわけにはいかなくなった。また、迷宮入りにしなければならん事件が増えると は……一体この一年で幾つ目だ?」
 そうぶつぶつと続ける叔父ちゃんは、気を取り直す為か、軽く頭を振った。
「まあ、いい。向こうから話があるという事は、少なくとも事情は知る事が出来るはずだ。後の判断はそれからにするか。重要な事だろうしな」
「うん。わたし達柏木の鬼に取って、絶対聞き逃すわけにはいかない話だよ、きっと……」
 ぎゅっと握った弥生さんの黒髪が、凄く重たく感じられた。この髪に篭められたのは、きっととても重い、鬼の血を引く者達の背負う『何か』。
 隆山中央病院へ戻ろう。お姉ちゃんお兄ちゃん達に、この事を伝えないといけないから。
 柏木以外の鬼の一族。
 楓お姉ちゃんを襲ったあの人達の事情。
 鬼に飲み込まれてしまった人を殺した、その罪。
 わたし達の預かり知らぬ幾つもの実情。それを知る糸口になるのは、たぶんあの女性。
 弥生さんが語るだろう話。彼女は間違い無く、色々な事を知っているはず。
 あの人達の会話でわかった事、そこから分かり得る事も、彼女が来るまでに考えなくちゃならない。これは、みんなで考えなきゃいけない問題でもある。
 そう、それはあの時、東京で鬼を斃したその時から突きつけられた、わたし達が避けては通れない、茨の道であるはずだから……




 
 
 

第2章

第4章

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