柏木耕一の事件簿・其の二 初冬───柏木鬼狩事件編
 
 
 
 

 第二章 虫のシラセ
 
 

「ふぃ〜っ……疲れた疲れた……」

 ぐっと伸ばした背筋が痛い。こってるな、こりゃあ。
 まあ、無理もないか。さすがに何時間もパソコンの前に座ってれば、こうもなるだろ。ましてや、昨夜は日付変更線乗り越えてまでバイトしてたからな……
 大学構内を出て、帰宅途中の信号待ち。もう辺りは完全に夜に変わっている。大きく伸びをした拍子の肩こりが、今まで従事していた作業の度合いを教えていた。

「まったく、なんだってこんなにレポートが多いんだよ……」

 なんというか、今回のレポートはいつもの二倍はあったような気がする。冬休みの宿題代わりだ、とか言ってたが、あの量はいじめとしか思えない。
 はあ、とため息を吐き、俺はぶちぶちと文句を連ねた。

「しかも、俺のだけ特別課題付きときてるんだからな……なにが、『民間伝承におけるその解釈と観察』だよ。おかげで、仕上げるのに今日までかかってしまったぞ……」

 本当なら、も少し前に隆山に帰って、今頃千鶴さん達と炬燵囲んで団欒でもしてるはずだったのになぁ。

「……水無月教授、なんか俺に恨みでもあるんですか?」

 一見して人の良さそうな、しかしどこか食えない印象のある温和な老教授に、心の中で愚痴を零す。

「まあでも、これで全部終わったし、ようやく明日辺りからは柏木家に帰って、のんびりできるな……」

 従姉妹の四姉妹の顔を順々に思い浮かべ、俺は口元を綻ばせた。
 みんな、帰りを待っててくれてるからな……俺も、早く戻りたいし。
 今年は休みを多く取れるように頑張ったし、きっちり楓ちゃんや初音ちゃんの相手してあげられる時間もありそうだ。
 梓の料理も楽しみだし、千鶴さんとも話をしたい。

「あそこは、暖かいから……」

 そう。あそこは、暖かい。
 柏木家。
 鬼の子達が住まう家。
 柏木の、痕を負った者達が集う家。
 そして……俺が、還るべき場所。
 とてもとても優しい空気と、見ている方が微笑みたくなる笑顔と、他の誰よりも愛する人々がいる、安息の土地。
 深い痕を抱えながらも、それでも互いに支えあって生きる、なにものよりも強い絆で結ばれた、四人の姉妹達の在る場所。

「みんな、今頃何してるかなぁ……」

 寂しげに呟きつつ、俺はいつのまにか到着していたマンションの中に入って行った。
 階段を昇り、廊下を歩き、鍵を開けてドアの向こうへ──

「ううっ、家族のぬくもりが恋しいぜ……」

 暗く沈んだ部屋。外からの街灯の明かりだけがわずかに陰影を形作る、ほとんど調度品もない自室を見渡して、俺は溜め息をついた。

「半年前は、これが当たり前だったんだけどな……」

 俺はいつのまにか、この雰囲気に合わなくなってしまっていた──いや、本来の感覚を取り戻してしまった、というのが正解か。
 ここは、ぬくもりが無さ過ぎる。
 朝、布団の中でまどろむ俺を、優しく起こしてくれる声。
 夕方、出かけ先から戻った俺の、帰りを迎えてくれる声。
 夜、縁側で月を見上げている俺の背に、そっと投げかけられる声。
 ……そんな、大事な人達のいる、安らげる空気というものが、ここにはない。
 今年の夏前までは、それは気にならなかった。家族というものが、いなかったから。住む者が俺一人きりである以上、そんな声は期待するはずもなかったからだ。
 それは、寂しさを寂しさとも知らなかったからこそ、気にしなくていられたのだと、今ははっきりと分かる。
 だが……
 俺は、思い出してしまった。
 布団をそっと揺り動かし、優しく囁きかけてくれる人の匂いを。
 ぱたぱたと駆け寄ってきて、笑顔で出迎えてくれる人の暖かみを。
 自然な動作で隣に座り、触れ合った肩からぬくもりを伝えてくる人の笑顔を。
 もう、孤独で有り続ける事に耐えられるほど、俺は強くはなれない。

「……明日、朝一で出発するか」

 そう呟き、そっと溜め息を吐き──

「おや……?」

 足元に落とした視線が、一点に灯った光に吸い寄せられた。
 緑色の、点滅──何故か、奇妙に不吉に感じてしまった、その光。

「留守電、か……?」

 誰からだ……? この時期、俺に電話してくるような奴って、いたっけかな……?
 どうしてなのか、唐突に不安感が湧き上がってきた。ここに入っている録音を聞くのが、ひどく怖い事のように──

「……んなわけあるか。全く、何考えてんだ俺は……」

 苦笑して、俺は片膝をついた。やもすれば途中で止まりそうな腕を叱咤して、電話機に手を伸ばす。さっとメッセージを確認すると、件数は、一件。
 おそるおそる再生すると、途端に聞き覚えのある声が耳を打った。

『も、もしもし、耕一さん!?』

 あ……

「千鶴、さん……?」

 間違いない、この透き通るような美声は、俺の従姉の女性のものだ。
 だけど、普段のおっとりとした感じがないな? ひどく慌てたような……

『お、お留守なんですか? あ、あの……あの……!』

 ? やっぱり、いつもの落ち着きがない……どうしたんだ?

『……っこ、耕一さん……』

 声が、くぐもって……?
 これ、は……千鶴さんの、泣き声……!?

『……かっ……かえ、で……楓が……』

 楓……ちゃん?

『楓が……酷い、怪我を、して……』

 !?
 な、に──……!?

『今……隆山、中央病院で……』

 千鶴さんの声が、真っ白になった俺の頭の中を通り過ぎて行く。最後に、懇願するかのような言葉で、録音が途切れる。

『おねがい、です……は、早く……来て、下さい……お願い……』

 だん!

 俺はすぐに立ち上がった。振り返りざま、既に用意してあった荷物を担ぎ上げ、慌ただしくドアを押し開ける。
 鍵をかけるのももどかしくマンションから飛び出ると、俺は駅に向かって足を忙しなく動かしつつ、電車の時刻表を繰った。
 ええと、隆山行き、隆山まで行く最速の列車……! この時間でも大丈夫なのは……!
 ──あった! この新幹線だ!
 急げばぎりぎり間に合う!
 俺は鞄を担ぎ直すと、全速力で走り出した。
 
 
 
 

 千鶴さん、完全に取り乱していた……
 彼女が、あんなに動転するなんて……なんだかんだと常に沈着冷静なあの人が、我を忘れる程に心を乱すような事態は、自分の家族に──とりわけ大切な妹達に、何かあった時くらいだ。
 俺へ電話するのに気が動転して、言葉が詰まるくらいに狼狽してたって事は……
 楓ちゃん、何があった……!?
 脳裏に柏木家三女の姿が思い浮かぶ。
 さらさらした黒髪をなびかせて、俺の前を歩く彼女が……
 誕生日を祝ってもらって、真っ赤になってはにかんでいた彼女が……
 小猫を抱き上げて、嬉しそうに微笑んでいた彼女が……
 神秘的な月のような美貌持つ少女の様々な表情が、次々と浮かんでは消えてゆく。
 一体、どうしたって言うんだ……!?
 楓ちゃん…………楓ちゃん!!
 
 
 
 

「楓ちゃん!」

 深夜。闇に舞う雪降り積もる隆山。
 大迷惑にも、大きな音を立てて飛び込んだ隆山中央病院の玄関ホール。

「耕一! 来たか!」

 俺の声を聞きつけて、ホールのソファーから立ち上がりばたばたと走ってきたのは、次女の梓だった。

「留守電聞いて、すぐに飛んできた。楓ちゃん、どうしたんだ!?」
「……こっちだよ。来てくれ」

 梓は俺を見てぱっと顔を輝かせたものの、俺の言葉に眉根をぎゅっとよせ、顔を伏せた。
 そのまま踵を返して歩きはじめる梓の横に、俺は慌てて並んだ。
 行きがけに、当直らしい若い看護婦さんに騒音を詫びる梓に続いて頭を下げ、少し歩いてから従妹に質問を浴びせ掛ける。

「酷い怪我をしたって言ってたが、何があったんだ? 千鶴さんがあんなに取り乱すなんて……」
「ああ……電話、わかりにくかっただろ? 悪かったね。千鶴姉も初音も、完全に取り乱しててさ……いや、今もまだ落ち着いていないんだよ。だから……」
「……楓ちゃんは?」
「とりあえず……見ればわかる」

 ボソッと、梓が呟く。その顔は、今にも泣き出しそうに歪んでいた。
 それを見て、俺は続けようとした問いを引っ込める。

「…………」
「…………」

 無言。
 そのまま、俺達は口を閉ざして足を早めた。
 
 
 
 

 最上階に近い、おそらく重傷患者やVIP専用の個室が並んでいる区域の一室。プレートに『柏木楓』とある部屋の前まで来て、梓は中に声を掛けた。

「……千鶴姉、初音。耕一、来たよ」
「二人とも、俺だけど……入っていいかい?」
「……どうぞ、耕一さん……」

 一拍おいて、いつもの張りがない千鶴さんの声が聞こえてきた。
 扉をそっと開け、俺は中に入る。
 そこには……

「楓ちゃん……!!」

 部屋の中央に置かれた大きなベッド。
 衣服を抱えたまま振り返る初音ちゃん。
 枕元から俺を見上げる千鶴さん。
 捲り上げられた毛布。
 その中に、彼女──柏木楓は、横たわっていた。

「耕一お兄ちゃん……」

 初音ちゃんが手招きで俺を呼ぶ。それに従って、俺は楓ちゃんの枕元に回り込んだ。

「これは……」

 彼女は、酷い有り様だった。
 腕、脚、胸……
 全身数ヶ所に巻かれた包帯がその華奢な肢体を覆い隠し、無残な姿を晒している。吊るされた点滴から、ぽたぽたと注がれる赤い液体。本来、黒真珠のように輝いているはずの瞳は閉じられた瞼に隠され、血の気を失った唇は無骨な人工呼吸器に覆われていた。

「楓、ちゃん……?」

 そっと呼びかけても、彼女は眼を開きはしない。ただ、はだけられたパジャマから覗く包帯越しの胸元は、ゆっくりと、だけど確かに上下している。

「千鶴さん、一体何があったんだ?」
「あ……それが──」

 暗い表情で、千鶴さんが口を開きかけた時だった。

「──その話は、後回しにした方が良いと思いますよ」
『!?』

 突然割り込んだ第三者の声音に、俺達は慌てて振り返った。
 いつのまにか扉の所に、一人の人物が立っていた。
 ぱりっとした白衣を着込んだ、温和そうな雰囲気を纏った初老の女性。きっちりと結い上げられた白髪混じりの髪の下、眼鏡の奥から、理知的な黒い瞳が俺達を見つめている。
 あれ……? どこかで、会ったような……

「あ、河田先生……」

 梓の言葉で、俺の頭の中のもやが晴れた。

「あ……もしかして、昔、俺の足を看てくれた──?」
「そうです。大きくなりましたね、耕一君」

 俺の記憶にある穏やかな笑顔で、老婦人は言葉に応じた。
 そう……この人は、河田幹子。確か、この病院の、副院長を勤めている女性だ。
 昔俺が隆山に来て、あの水門の事件で足に大怪我をした時、その手当てを行ってくれたのが、この人だった。

「ど、どうも。お久しぶりです。あの時は──」

 慌てて俺が頭を下げようとすると、河田先生は穏やかにそれを遮った。

「まあまあ、そんな話は置いておきましょう。それよりも耕一君。大至急、手を貸してほしいのですけれど」
「え?」
「耕一君。貴方の血液型は確か、少々特殊なもの……でしたね?鬼の血が濃い者に対しては拒絶反応が無く、血液型を問わずに輸血可能な……そして、逆に鬼の血さえ濃ければ、どんな血液型でも自身に輸血できる……八年前に、確かめたはずです」
「は、はい……」

 確かに、俺の血液型はある意味、異常とも取れる特質を持っている、けれど……?

「楓ちゃんの、輸血用の血が足りないんですよ。献血していただけませんか?」
「え──?」

 ちらっと横を見ると、千鶴さん、梓、初音ちゃん。みんなが俺を見つめていた。
 あ……
 そうか……しまった。俺とした事が、こんな事を見落としていたなんて──
 柏木四姉妹は、みんな血液型がばらばらなんだった。つまり、姉妹同士での輸血は、出来ない。鬼の血を持った俺達柏木の者に対して、一般人の血は、ほとんど意味を成さない。
 楓ちゃんの血液は──B、型。
 俺の血しか、使えないんだ。

「どうですか?」
「は、はい。俺の血でよければ、いくらでも使って下さい!」
「助かります。今はなんとか持っていますけれど、柏木家の方には普通の人間の血液は使えませんからね。今、輸血している血液は、この街にいる薄まった血を持った人達の物ですが……それでは、効果が薄いので……」
「え!?」
「耕一さん……河田先生は、柏木の秘密をご存知なんです」

 千鶴さんの補足に目を見開いた俺に、河田先生は再び穏やかに微笑んだ。

「貴方のお爺様……耕平さんとは、昔馴染みでしてね。柏木家の病人や怪我人は、この何十年か私が看ているのですよ。貴方の怪我の時のように」
「そ、そうだったんですか……」

 なるほど……
 考えてみれば当然か。異星人──鬼の血が混じるが故、普通の医者にはかかれない、俺達柏木の一族だ。緊急時に備え、医療関係にパイプが……こちらの事情を知る者がいないというのはある意味非常にまずい。その役を、河田先生がやっているのか。
 俺の頭の中の考えを知ってか知らずか、河田先生は輸血作業を促す。

「では、さっそく取り掛かりましょうか。大丈夫です、血液が足りていさえすれば、柏木の直系である楓ちゃんなら、充分持ち直すはずですからね」

 その静かな口調には、確かに信頼するに足る、絶対の自信が満ち溢れていた。
 
 
 
 

 輸血は速やかに行われた。こう言ってはなんだけど、河田先生は名医だった。それも、とびきり上等の腕を持った。
 一見して穏やかな老婦人といった印象の強かったこの人だったが、てきぱきと作業を進めるその手並みは鮮やかで……さすがは柏木家の専属医師、といったところだろうか。
 後で聞いたが、ここに担ぎ込まれてきた楓ちゃんに迅速な処置を施し、ほとんど瀕死の容態だった彼女を絶対安静ながらもとりあえず死の危機がない所まで持ち直させたのも、河田先生の力だったらしい。
 先生には、感謝してもしきれないな。

「……さて、と。それじゃ、千鶴さん。詳しい事情を話してくれないかな?」

 輸血とひとまずの治療が終わった後、楓ちゃんのベッドの傍らに集まった三人の姉妹達に、俺は話を促した。
 ちなみに、河田先生は『何かあったら呼んでください』と言って、席を外している。

「そ、それが……」
「──あたし達にも、さっぱりなんだ……」

 口篭もる姉をフォローするように、梓。

「ただ、初音がさ……」
「初音ちゃん?」
「うん……」

 視線を向けると、初音ちゃんがきゅっと両手を固く握り締めて頷いた。

「──楓お姉ちゃんが、呼んでるような気がしたの。初音、みんな……って。普段のお姉ちゃんらしくない、凄く必死で切羽詰まった感じで……だから私、すぐに楓お姉ちゃんを見つけようと思って、お姉ちゃんの気配を探して……」

 一端、言葉が途切れる。

「そしたら、どこかで……隆山の、多分そう遠くない所で……鬼気が、膨れ上がったのが感じられたの。間違い無く……楓お姉ちゃんの、<鬼>の波動」
「楓ちゃんが……<鬼>を解放したのか?」
「うん、多分……」

 楓ちゃんが<鬼>を解放……?
 最近幾らか直っては来たものの、やたらと頭に血が昇りやすい梓とは違って、楓ちゃんは鬼のちからに関してはかなり慎重に扱っていたはずだ。
 その彼女が自らの<鬼>を解き放つなんて、生半可な事態ではない。

「……でも、その後すぐに……楓お姉ちゃんが、わからなくなっちゃって……」
「わからない……?」
「聞こえなく、なっちゃったの。お姉ちゃんの声が……お姉ちゃんの気配も、<鬼>も、同時に途絶えて……楓お姉ちゃんの存在が、どんどん薄くなって……そしたら、なんだか不安になって、凄く怖くなって、悲しくなって……心が、痛く、て……」

 初音ちゃんの瞳が、潤んでいた。まるで、自分が悪いかのように、責任を感じているかのように。

「で、あたしが『初音?』って声かけたら、突然ぽろぽろ泣き出して取り乱して、蒼褪めた表情で外に飛び出そうとするもんだからさ……『ど、どうしたの?』って追い掛けて宥めていたら、そこに河田先生から連絡があったんだよ」
「──楓が、酷い怪我を負って病院に担ぎ込まれた、という事だったので……私は梓から連絡を受けて、足立さんに頼んですぐに鶴来屋から病院に駆け付けたんです。後はそこで、耕一さんに電話を……」
「なるほど……それで、あんなに慌ててたのか……」
「はい……河田先生に、楓の怪我の具合を聞いて……このままだと、危険だって。血が、足りないって。でも、私達では、駄目で……耕一さんに、は、早く来てください、と……連絡、を……」

 千鶴さんが口元を押さえる。その表情は、今にも泣き出しそうな子供に見えた。
 ……普段の毅然とした彼女らしからぬ態度だが、この人は、家族を失うという事を、誰よりも一番恐れていた。無意識の記憶が残っているのか、家族の誰かが傷付くという事に、異常な程過敏に反応するのだ。……ずっと、姉として母として妹達を見守ってきただけに、楓ちゃんのこの大怪我は、千鶴さんにとってとてつもなく重く感じられたのだろう。

「……じゃあ、楓ちゃんは一体どうしてこんな怪我をする羽目になったんだ?」
「わかりません……河田先生の話だと、中央公園の、近くの……雪道で、血まみれになって倒れていたと、通りかかった近所のご家族の方が通報してきたそうです……」
「楓お姉ちゃん、ここに運び込まれた時には、もう意識がなくって……危険な、状態で……何か、鋭い刃物で切り付けられたような傷痕が、身体中にあったらしいの……それに、左手と右肩には動物に噛まれたみたいな、傷も……」
「普通なら、通り魔とかに襲われた、っていう線なんだろうけど、さ……楓が、そこらの暴漢なんかにこんな目に遭わされるはずがないし……人を襲う獣なんて言っても、熊や狼だって、あたし達相手にこんな真似できるわけもないはずだしさ……」
「確かに……」

 俺達、鬼の一族に──エルクゥの末裔に、普通の人間や獣が敵うわけがない。つまり、それらの可能性は極めて低い。

「そもそも……楓ちゃんが<鬼>を解放するなんて、よっぽどのことがなきゃ……」
「ええ……楓は、普段から自分の力を押さえ込んでいますから……」
「楓がちからを解き放つ程の大事……それに、そこまでの事をしておきながら、こんな大怪我を負わせられるほどの事態、か……」
「一体、どうなっている……? 鬼には、鬼以外に敵うものなど……っ!?」

 表情が、強張る。
 俺の言葉に反応した梓が、やはり顔を強張らせて、呟いた。

「まさか、また……」
「<狩猟者>……?」

 凍り付いた千鶴さんが、後を継ぐ。
 だが……

「ううん……それは、ない……」
「初音、ちゃん……?」

 俯いたまま、囁く初音ちゃん。

「……私だってまだ不安定とはいえ、鬼気の探知能力は持っているんだよ……あの時は、楓お姉ちゃんの気配に気を取られていたけれど、それでも、お姉ちゃんがあんな短時間で倒される程強力な<鬼>が出たのなら、その気配を感知できないはずがないよ……」
「初音…………」
「あの時は、大きな、楓お姉ちゃんの<鬼>しか感じられなかった。お姉ちゃんを圧倒するような……そんな強力な<鬼>の気配、全く感じられなかった……」
「それじゃあ、一体……?」
「わから、ない……わからないの……!」

 いやいやをするように、初音ちゃんは首を振る。
 彼女の瞳には、決壊寸前のダムのように、透明な雫が溜まっていた。その涙が数滴、初音ちゃんの動きにつられ、宙を舞う。
 俺は今にも声を上げて泣き出し兼ねない初音ちゃんの頭に、そっと手を置いた。

「耕一お兄ちゃん……?」
「初音ちゃん、落ちついて……もしかしたら、なにか俺達が見落とした要素が、どこかにあるのかもしれない……その見落としを、探すんだ。そうすれば、きっと……」
「う、ん……」

 自分一人で抱え込んじゃいけないと、そんな俺の気遣いを、察したのかもしれない。
 初音ちゃんは一瞬視線を下に落とし、それから、弱々しいながらも微かな笑顔を浮かべてみせた。
 
 
 
 

 カコン。

「…………」

 一晩経っても、楓ちゃんの意識は回復しなかった。河田先生の話だと、失血が多すぎて体力が相当落ちているのだそうだ。もしも鬼の体力でなかったら、とっくに命がない、と……そのくらい、危険な状態らしい。
 幸い、俺の輸血がぎりぎりで間に合ったおかげで、これ以上の悪化は避けられそうだが、未だ予断を許さない状態である事に代わりはない。
 俺は病院のロビーで缶ジュースを抱えながら、徹夜明けのぼんやりとした頭を覚まそうとしていた。
 結局昨晩は、俺や千鶴さん達はみんな揃って楓ちゃんの容体を見守りながら夜を明かした。交代交代で仮眠を取ったが、正直な話、ほとんど眠れはしなかった。
 朝になって、とりあえず梓と初音ちゃんは学校に連絡して休みを取り、千鶴さんもそれとなく察して気遣ってくれた足立さんに、数日間の休暇をもらっていた。
 で、今病院にいるのは俺と千鶴さん。
 梓は着替えなどを取りに柏木家に一旦帰り、初音ちゃんは食事の調達に街へと出ている。
 エレベーターで上階へ上がり、ノックをしてから楓ちゃんの病室に入る。

「千鶴さん、はい」
「ありがとうございます……」

 俺の差し出したコーヒーを受け取り、千鶴さんはさすがに疲労の見える顔で礼を言った。

「千鶴さん。少し、眠ったらどう?」
「いえ、大丈夫です……」
「そうは言っても、あんまり大丈夫そうには見えないんだけどな……」

 千鶴さんの顔には生気がなく、頬もやつれ気味だ。多少なりとも仮眠を取った俺とは違い、妹想いのこの人は昨晩一睡もしていない。

「千鶴さん、あんまり根を詰め過ぎると、今度は千鶴さんの方がまいっちゃうよ。楓ちゃんが起きてきた時、逆に心配されたりしたら、ちょっと情けないんじゃない?」
「で、でも……」

 しゅんとした表情で、千鶴さんは呟く。

「とにかく、少し休んで……」

 その時、ドアの向こうに人の気配を感じ、俺は言葉を遮った。

「?」

 誰だろう……?
 梓と初音ちゃんが帰ってくるには、まだ早すぎるような……
 俺が歩み寄ろうとしたその矢先で、扉が開いた。

「……どうも、失礼します……っと、おや、どうも……」
「あ……」
「あなたは……」

 そこにいたのは、だらしない格好をした中年のおっさん……いや……

「やあ、その節はどうも。柏木耕一さん、でしたな……」

 ふてぶてしい態度で俺に慇懃な挨拶をするその男は、県警隆山署の刑事、長瀬氏だった。
 
 
 
 

「……病室とはいえ、女の子のいる部屋にノックもなしに立ち入るのは、失礼じゃないですか?」

 俺が非難の目つきで長瀬を見ると、彼はぼりぼりと頭を掻いた。

「ありゃ……そういえばそうでしたな……こいつは失礼、どうも、昔からそういう事には鈍感でして……」

 嘘だな。
 直感的に俺はそう悟った。
 この人を食ったような態度、のんべんだらりとした喋り方、その行動の一つ一つまで、この刑事は計算ずくでやっているのだ。一見すると冴えない中年親父だが、その中身は超一流の敏腕刑事、とんでもない切れ者だと、俺は叔父から聞いている。

「……なにか、御用でしょうか……?」

 不審そうに、千鶴さんが長瀬刑事に向き直った。憔悴していた顔には相変わらず陰りが付きまとっているが、態度は完全に普段の千鶴さんに──家族以外の者に対して取る、企業家としての顔に戻っている。

「いえいえ、こちらのお嬢さんが……柏木楓さんが、昨夜暴漢に襲われたという件について、ちょっとお話したい事がありまして……」
「楓ちゃんを襲った連中について、何かわかったんですか?」

 俺は勢い込んで、硬い表情で長瀬刑事に詰め寄った。千鶴さんの顔も、険しくなっている。

「いえ、それはまだ……現場の状況からして何者かに襲われたというのは間違いないのですがね、遺留品やらなにやらがさっぱり見当たらなくて、調査は難航してるんですわ」

 言葉遣いは丁寧だが、その端々に不真面目さが漂っている。
 俺は思わず、真面目にやる気があるのかと怒鳴ってやりたくなったが、楓ちゃんが寝ている手前、それをじっと我慢した。
 それに、うっかりこの刑事のペースに乗せられてはいけない。
 夏の事件の全容は、未だ明らかにされてはいない。それを知っているのは俺達柏木の者だけだが、無論、警察などにそれを打ち明けるわけにはいかない。
 上層部からの圧力やら他の政治的、世間的な事情やらであの事件の調査は表向き停止し、俺の親父──柏木賢治の事故死も含めて、柏木に関する事件は迷宮入りになっているが、警察内部の一勢力が真相解明に躍起になっているという話を、柳川が教えてくれていた。
 そして、この長瀬という刑事は、独自に夏の事件を追い続けているらしいのだ。
 もしもなにか尻尾を掴みでもしたら、そこから真相を目指して柏木家に手を伸ばしてくる事は想像に難くないし、その長瀬にとって、どんな形であれ柏木の者……とりわけ、おそらく彼が事件の関係者──あるいは、容疑者として目を付けている千鶴さんに近付く絶好の機会である今回の事件は、渡りに船の出来事なのに違いない。
 その事がわかっているのだろう。千鶴さんの対応も素っ気無い。……口数が少ないのは、疲れているからだろうけど。
 ──と……? あれ……?

「……長瀬さん……そういえば、部下の人はどうしたんですか?」

 俺達の叔父でもある、柳川の姿が見えない。普段だったら長瀬刑事とコンビを組んでいるはずの彼の姿が、どこにも見当たらない。

「ああ、柳川ですか? 彼は今、別行動していますよ。お宅のお嬢さんが襲われた現場と、その周辺の目撃者の聞き込みとかに回っとります」

 俺達と柳川の繋がりを知らない長瀬刑事は、俺の言葉を素朴な疑問と取ったらしく、あっさりと彼の行動を教えてくれた。
 ……ふむ……つまり、警察関係の情報は後で柳川に聞けば、細かい調査結果を教えてもらえそうだって事だな……
 俺は考えが顔に出ないように注意しながら、楓ちゃんを襲った犯人に、なにがなんでもその報いを与えてやろうと決意した。
 
 
 
 

 その後、話を引き伸ばそうとした長瀬刑事を、千鶴さんの

「妹を着替えさせないといけませんので」

 の一言で追っ払うと、俺達二人は真剣な表情を見合わせた。

「柳川なら事情もわかってるだろうから、こっちに情報を教えてくれるよね?」
「ええ……楓の事は、柳川さんに背後関係を探ってもらった方がよさそうですね。ただでさえ、柏木家は……特に私は、長瀬さんを始めとして、警察関係者に睨まれていますから……」
「親父の件と……ひょっとして、夏の事件絡みでも……?」
「はい……」

 千鶴さんは表情を沈ませると、しゅんとしたように肩を落として溜め息をつく。

「やれやれ……毎度ながら、とんだ食わせ者だな、あの人は。こっちが尻尾を出すのを待ってるみたいだ」
「そう、ですね……疑われる根拠が、私にはありますから……」
「千鶴さん……」

 気弱げな声。どこか焦点が定まらない、虚ろな瞳。
 その姿は、今にも消えゆくかのように朧げで……

「……じゃあ、俺が柳川に連絡を取るからさ。千鶴さんは、とりあえず少し休んで……」

 俺が、そんな彼女を気遣った時だった。

「……ぅ……」
『!』

 微かな呻き声が、耳に飛び込んだ。
 瞬間、全く同時にベッドを振り返る俺達二人。

「楓!?」
「楓ちゃん!」

 身じろぎ。今までずっと昏睡状態に陥っていた彼女が、苦しそうに眉根を寄せている。
 瞼は、開いていない。まだ、意識は戻っていない。
 けれど、楓ちゃんの華奢な白魚のような手が、何かを求めるかのように虚空をさまよっていた。

「楓……!」
「楓ちゃん……」

 そっと、震えるその手を取る千鶴さん。妹の身を案じるように、どこかへ行ってしまいそうな心を繋ぎ止めるかのように──まるで、自分が縋り付くかのように。
 姉の声が届いたのか、握り締められた手に宿る心が感じ取れたのか──
 ふっ……と、楓ちゃんの表情が和らぎ、安心した、穏やかなものに変わった。
 その光景を見ていた俺の脳裏に、何故か幼い頃の楓ちゃんと千鶴さんの姿が浮かびあがった。
 風邪を引いて寝込む妹を、心配そうに見守る姉。彼女が布団から伸ばされた小さな手をきゅっと握って力付けると、安心したように幼い妹の顔が緩む。それを見て、また彼女も安堵したかのように微笑むのだ。
 八年前、夏風邪を引いて倒れてしまった楓ちゃんと、それを付きっきりで看病していた、まだ中学生だった頃の千鶴さんの、その絆を何よりも雄弁と物語る、そんな姉妹の姿だった。

『楓、大丈夫よ……お姉ちゃん、ここにいるからね……」

 記憶にリフレインするかのように、過去と現在と、全く同じ言葉が、同じ人物の唇から流れ出る。
 俺は不覚にも、その光景に魅入られてしまっていた。

「……ぇさ、ん……」

 未だ目覚めぬ楓ちゃん。その唇が、微かに揺れ動く。

「なに? かえで……」
「……みん、な……ぶな、ぃ……」

 消えゆくかのような、楓ちゃんの囁き。
 だがそれは、俺と千鶴さんにははっきりと聞こえた。
 なんだ? 楓ちゃん、何を言おうとしているんだ?
 意識がない彼女が、それでも闇の淵から伝えようとする言葉。それはつまり、楓ちゃんがそれだけ必死に、俺達に告げようとしている何かに他ならない。
 それは──

「……げて……はつ、ね……」

 そう、楓ちゃんの小さな唇が呟いた時──
 彼女が名を呼んだ妹の身に、今まさに、狂乱する鬼達の手が迫っていた──
 
 
 

第1章

第3章

目次へ