柏木耕一の事件簿・其の二 初冬───柏木鬼狩事件編
 
 

 

  第四章 災いなるかな血の宿業・幸いなるかな血の絆





「初音! よかったっ!」

 ドアを開けて入ってきた初音を見るなり、私はその無事な姿に安堵の声をあげた。

「わ……ど、どうしたの千鶴お姉ちゃん?」

 縋り付くように抱きしめられて、初音が戸惑う。
 そのふわふわした栗色の髪を、耕一さんがそっと撫でる。

「いや、ほんとよかった。初音ちゃんに何事もなくて……」
「? 耕一お兄ちゃんまで?」

 唐突な私達の態度に、困惑しきった顔で私と耕一さんの顔を交互に見回す初音。どうしたの? とでも言いたそうに、首をことんと傾けるその仕草がどこか楓 に似ている。

「いや、今さっき、楓ちゃんがさ」
「楓お姉ちゃん、目が覚めたの!?」

 滅多にない事だけど、耕一さんの言葉を遮り、初音が慌ててベッドに駆け寄った。
 そこには、未だ昏睡状態をさ迷う初音のすぐ上の姉──私の、妹が眠っていた。

「違うのよ、初音。ただ、さっき楓が……」
「楓ちゃんがさ、眠ったまま呟いたんだ。『初音、逃げて』って」
「楓お姉ちゃんが……?」

 振り返った初音の表情が、心なしか曇ったように見えた。視線を落とし、再び眠り続ける姉を見つめ──

「そう、なんだ……」

 初音が、そっと楓の腕を取る。申し訳なさそうに、それでもどこか嬉しそうに。

「心配、してくれたんだね……ありがとう、楓お姉ちゃん……」

 その時、私の目には、
 楓が、微かに口元を綻ばせたように、見えた。




「それで、その様子からすると、何かあったのかい、初音ちゃん?」

 先程の初音の表情の変化を見逃してはいなかったのだろう、耕一さんはやや真剣な面持ちで妹分に問い掛ける。
 微かに眉を寄せると、初音はこの子には珍しい、力無い笑みを浮かべた。
 あら? よく見ると、顔色が悪かった。私や耕一さんに気付かれないよう振る舞ってはいるけれど、かなり疲れているように思える。

「ん……確かに、あったけど。柳川叔父ちゃんが一緒だったから」
「柳川が?」
「うん。今、下で河田先生に捕まって腕の手当てしてるよ」
「え? 手当てって、柳川さんが怪我をしたの? なんで?」

 雪道で滑りでもしたのだろうか? 私はその様子を想像してみて……すぐに打ち消した。
 似合わないというより、想像出来ない。
 到底そんなヘマをするような人には見えない──実際にしない──冷徹沈着かつ全く隙のない印象を誇る叔父の姿を思い浮かべ、私は首を傾げる。
 あの人ってなんとなく、何事にも完璧に立ち回る感じなのよね。滑って転んだりするような、そんなベタな怪我をする人ではないはず。
 同様のビジョンを思い描いたのか、耕一さんもきょとんとした顔になっていた。

「なんだ? なんかドジったのか、らしくないな」
「あ、あはは……叔父ちゃん、怪我は大したことないよ。ただ……わたし達中央公園で、ちょっと襲われちゃって」
「なんですってぇっ!?」

 初音の話を遮って、私の声音が跳ね上がった。狼狽して妹の肩を掴み、顔を寄せる。

「襲われたって、初音、どこの誰にっ!?」
「ち、千鶴お姉ちゃんっ、楓お姉ちゃんが眠ってるんだよ。静かにしてよぉ」
「あ……ご、ごめんなさい、初音」

 初音の困ったような声に、私は慌てて口元に手をやった。くすりと笑うと、末の妹は唇にそっと指を当て、呟く。

「病室は静かに、ね」
「え、ええ……そうね」

 私は苦笑するしかなかった。

「でも、初音ちゃん、大丈夫だったのか? どこか、怪我とかしてないかい?」

 真剣に話を聞いていた耕一さんが、やや口早に問い返す。心配しているのだろう。その眼には、心底初音の身を案ずる光が浮かび上がっている。
 私はと言うと、初音の言葉に見過ごせないものを思い出して、妹に詰め寄っていた。

「そうだわ、初音! 襲われたって、一体何があったの!? 柳川さんが手傷を負うなんて、まさか楓が襲われたのと関係が……」

 声音は抑えていたけれど、私はかなり強い調子で初音に問う。

「う、ん……それがね……」

 初音が、唇を開く。




「……と、こういう訳なんだけど、ね」
「…………」

 事のあらましを語り終えた初音が、ふぅとため息をつく。私と耕一さんは、背を走る言い様のない緊張感に、身を強張らせていた。
 喉が、からからに渇いている。

「兄を、殺した……」

 兄? 兄妹?
 かぞ、く……?
 初音の話は、私達にとって、他人事ではない話だった。いや、それどころか当事者と言い換えてもなんら間違いではない話だった。
 初音を襲ってきた相手は、初音の事を『鬼』と呼んだという。鬼の一族、と。
 そして、彼女の兄を殺した、と……

「千鶴、さん」
「ぇ、ええ……私にも、察しがつきました」

 張り詰めた緊張感を漂わせた耕一さんが、抜き身の刀を彷彿とさせる真剣な眼で私を見ている。私も、おそらく同じような──鋭く突き刺す刃のような瞳で、 耕一さんを見つめているはずだ。
 私達は寸分の狂いもなく、同時にその言葉を口の端に昇らせ──

「──一ヶ月前の、東京の狩猟者……」
『!!』

 だけど、その場に響いた声は、まだ幼さをはっきりと含んだ、末の妹から発されたものだった。

「は、初音ちゃん」

 耕一さんの呟きに、妹は無言で首を振った。最初は横に、そして、縦に。

「初音……」

 最初の否定は、耕一さんに一人で抱え込まないで、と。次の頷きは、自身の言葉に確信的な肯定の意味を篭めて。

「──うん。最初は動転してて、そこに思い至らなかったけれど。話を聞いてたら、すぐにわかったよ」

 姉である私ですら、見た事のない表情をしていた。普段の柔らかな雰囲気を一変させた、硬質の貌。記憶の片隅にふと浮かぶ懐かしさと、哀しみと。
 柏木、初音。私の知らない、妹の──姿。
 今は引き締められた愛らしい顔立ち。その中から、私と耕一さんをしっかと捉えて離さない双眸。悲哀と慟哭を秘めた深淵を思わせる、儚くも強い意志の結 晶。
 それは、まぎれもない、柏木の血の証。

「あの時の、鬼が……多分、あの人のお兄さん」

 初音の顔から感情の色が消え失せていた。ただ静かに、淡々と言葉だけを紡ぐ。
 私は、その顔を知っていた。
 半年も前ではない。他ならぬ、鏡の前でよく目にした──
 凍れる容貌。

「初、音……」

 私は震える声で再び妹の名を呼び──

「うん」

 それに応えるかのように、初音の表情は暖かみを取り戻した。

「わかってる。わかってるよ、千鶴お姉ちゃん」

 ゆっくりと左右に首を巡らす妹の、穏やかさの中に強さを含んだ、澄んだ微笑み。
 その笑顔をただじっと見入っていた耕一さんが、ふぅーっと長い溜め息を洩らすと、自分の掌に視線を落とした。

「……そう、か……」

 耕一さんが見つめていたのは、己が右手。
 大都会の摩天楼で。
 冬間近に迫る、人の目の届かぬ闇の中で。
 荒れ狂う鬼の心臓を握り潰した。
 羅刹の……剣。

「あの鬼にも。いや、『彼』にも……」

 ぽつりと、小さな呟き。

「護るべき家族が、いたんだ……な」

 それは、呟いた当人にさえ聞こえるかどうかわからない、微かな、本当に微かな掠れ声。
 だけど、その言葉は。
 確かに、私達の耳に届いた。




 コンコン……

「あ……」

 沈黙は、外界からの干渉によって終わりを告げた。

「はい……あっ」

 最初にノックに気付いてドアを開けた初音が、小さく声を上げる。

「初音、戻ってたんだ」
「ふむ、全員揃っているな」
「梓お姉ちゃん……に、柳川叔父ちゃんも」
「ああ、すぐそこで叔父貴とばったり出くわしてさ」

 柏木家から急いで戻ってきたのだろう。やや上気した顔の梓が、部屋に入りしな妹に笑いかける。抱えていた紙袋やスポーツバッグ──取りに行ってもらって いた楓の着替えなどだ──を部屋隅の椅子に置くその傍ら、続いて入ってきた柳川さんが初音に声をかけていた。

「耕一や千鶴に例の件は話したのか?」
「うん……」

 やや俯いて頷く初音の頭にぽんと手を置き、柳川さんがそうかと首肯した。

「話は聞いた通りだ。おそらく、小一時間もすれば件(くだん)の女性が尋ねてくるだろう。全員、いた方がいいな」
「ええ、そうですね」

 私は真剣な表情で同意する。それを確認した柳川さんは、つと耕一さんに意識を向けた。

「しかし、やはり鬼絡みの事件は、単独では終わらなかったか」
「ああ。あの時話してた、『何かが始まったのかも』ってやつか」
「そうだ。強い力は同種の力や、それに付随する様々なモノを引き寄せるという。夏の一件だけを見てもそういったモノが惹き合う性質を持っているのはわかる だろう?」

 二人とも、先の事件の際になにか思う所があったのだろう。そういえば、あの後に深刻な表情で話していたのを、私は見掛けている。
 だからか、柳川さんが何を言いたいのかもなんとなく理解出来た。初音もわかったのだろう。顔付きがまた、これも普段にはまず見せない、外見に似合わぬ大 人びたものに変わっていた。

「あまり言いたくはありませんが……運命、でしょうか」
「そんなので片付けたくはないけどね。なんか、俺達の理解を越えた所での事象の惹き合いってのは、実際にあるんだろうな」
「力には意味があり、意味には責務がついて回ります。それら全てに埋め込まれ、時として襲い来たりて私達を嵐の中の小船のように翻弄する、逃れようのない 事態。宿命と呼ばれるもの……」
「そんな運命に翻弄されてるだけの存在。それが、わたし達だったから……」
「五百年の過去より今尚伸びて血を縛る宿命、柏木の鬼──エルクゥの血統か」

 歴史というものは、重い。そこにはヒトという種が歩んで来た、証が刻み込まれている。ましてや、そこに過去から積み重ねられて来た盟約までが織り込まれ ているのならば。

「けれど、それをどう解釈し、どう動いてどんな結果を出すかは俺達個々の判断だ」
「うん。大丈夫、わかってるよ耕一お兄ちゃん」
「私もわかろうとしているつもりです。夏の事件以後の私達は、少なくともそれに抗おうとより良き未来をめざし、頑張っている、と」

 そう。私はもう一人で抱え込まない。なにもかもを己の力だけで片付けるなど、無謀な事を考えない。ただ、手を取り合って進んでゆく。
 全ては、皆が笑って過ごせる未来の為にと。

「ふっ。それが理解出来ているなら、お前達は問題あるまい」

 眼鏡に手をやった柳川さんが、口の端を吊り上げた。

「しかし、今回のように外部から舞い込んできた問題となると、最低限行動の判断基準となるだけの情報がなければどうしようもないな」
「そうだな。話を聞くまでは、下手にあちらさんをぶん殴る訳にもいかないか」
「わたし達にも、謝らなくちゃいけない事があるはずだものね……」
『…………』

 私達が揃って深刻な表情になり、黙り込んだ一瞬の隙間。そこに、小さな声がかかった。

「ねえ……」
「え?」

 梓?

「どうしたの、梓お姉ちゃん?」

 梓が、気まずそうに小さく手を上げている。
 どうかしたのかしら?

「なんだよ、梓?」
「あのさ……」
「梓?」

 頬を掻きつつ、上の妹は一言。

「みんな、何の話?」

 がたたたんっ!

 ……全員、脱力した。




 あー、そういえば、梓はさっきまで蚊帳の外だったわね。すっかり忘れてたわ。
 腰砕けの状態になった私達は──お陰で緊張も幾らかほぐれたから、悪い事ばかりではない──思い思いに座り直して来客を待つ事にした。
 幾分肩を落としたまま、私は楓のベッド脇に腰を落ち着ける。耕一さんもすぐ側に来た。
 梓はと言うと、柳川さんに楓から一番離れた部屋の隅まで引っ張っていかれて説明を受けている。初音が横で補足と宥め役を兼任しているらしく、時折大きく なりかけた梓の声がその度にしぼんでいた。
 それを尻目に、私は思索にふける。
 鬼の血と歴史、前世より転輪する魂、狩猟民族エルクゥ、狂気に飲まれし狩猟者、混血種柏木一族、レザムとヨーク……
 これらの単語のうち大半は、楓や初音から伝え聞いたものでしかなかった。私の過去の記憶とやらは未だ目覚めておらず、エルクゥやヨークの事についてはほ とんど知らないも同然だ。
 だけど、少なくとも、推測できる事はあった。
 最初は、まさかと思った。だけど、考えれば考える程にその可能性が確実なものとして浮かび上がってくる。
 全く異なる鬼の血脈が、存在している……エルクゥの血を持った、隆山一帯のものとは縁も所縁(ゆかり)もない『同族』が。


「千鶴さん?」
「あ、はい……?」

 呼ばれてふっと顔をあげた私を覗き込むように、耕一さんがじっと私を見つめていた。

「千鶴さん、大丈夫かい? 看病で疲れてるんじゃ……ちょっと休む?」
「いえ。じきにお客様も来るでしょうし、私が引っ込む訳にはいきません」
「そう? なんだか深刻そうに考え込んでいたし、顔色もあんまり良くないけど、本当に平気?」
「大丈夫ですよ、耕一さん」

 私は彼の眼を覗き込むようになりながら、そっと微笑んだ。

「自分の限界は知っていますから。もう、あの時みたいに無茶はしませんから」

 はっと、耕一さんが息を呑むのが聞こえた。二、三度の瞬きの後、耕一さんの顔から気遣うような色が消える。

「そうだったね。じゃあ、このくらいしかしてあげられないけど」
「あ」

 耕一さんの大きな手が私の頭に置かれ、ゆっくりと動く。時々、初音が耕一さんに頭を撫でられて嬉しそうにしているのを見るけれど、その気持ち良さそうな 表情が、私にもよくわかる。
 なんだか落ち着ける、不思議な感触……
 その暖かい感触に、しばしの間私が陶酔していた時、

「……ぅ……」
『!!』

 かすれた呻き声が、すぐ側で零れた。
 微かなそれを、だけれど私達が聞き逃す事は有り得ない。大切な……大切な家族の、声。

「楓!?」
「楓ちゃん!?」

 思わず呼びかけると、睫が揺れた。うっすらと瞼が見開かれ、霞がかった黒曜の瞳が姿を現わしてゆく。

「えっ、楓?」
「楓お姉ちゃん!」
「む。意識が戻ったか、楓」

 私達の様子に、梓達も反応した。すぐに駆け寄ってくる。
 楓……
 僅かに震える唇。そこから、掠れた囁きが漏れた。

「……こ、こは……?」
「楓っ!」
「意識が戻ったのか、楓ちゃん!」
「……? ね、さん……こぉいち、さ……?」

 ぼんやりと、不思議そうに、間近に覗き込んだ私と耕一さんの顔を見上げる楓は、薄く開いた瞼で幾度か瞬きを繰り返してから──はっと眼を見開き、表情を 強張らせた。

「わた、しっ……ぁぐっ!? ぅ、くっ……!」

 慌てて起き上がろうとする楓。一瞬だけ身を浮かせて、激痛に苛まれたのかすぐにベッドに身を沈める。

「楓、動いちゃダメよ!」
「ねぇさ……っう……はつ、ねは……っ」
「初音ちゃんなら無事だよ、楓ちゃん。……ほら」

 耕一さんが身体をずらし、楓の視界を空けてあげた。既に半泣きに近い表情でそこに入り込んできた末妹の姿が、黒い瞳に映り込む。

「楓お姉ちゃんっ」

 すぐ上の姉の頬に、自分はここにいると手をあてる初音。触れ合ったぬくもりを確認するかのように顔を擦り寄せた楓は、そこでようやく強張った全身から力 を抜いた。

「……よかっ、た……」

 ふぅーっ、と、安堵のため息をつく楓。
 自分より妹の方が心配、か。本当、誰に似たのかしら。
 思わず苦笑を浮かべると、ふと耕一さん、それに梓と視線があった。二人とも、私と似たような表情を見せている。
 と、思わせぶりに耕一さんの唇が動いた。

(千鶴さん、そっくりだよ)

「…………」

 梓もどこかほろ苦い笑みを見せ、ただこくんと首を振る。

「ふぅ……」

 やっぱり、そうなんでしょうね。
 私達は視線でやりとりすると、もう一度小さな笑みを交わしあった。




 しばし、間が空く。
 意識を取り戻した楓におおまかな現状を伝え、様子を見に来た河田先生が簡単な診察を行い、病室を去ってほんの数分。

「あっ……」
「初音? どうかしたの?」

 呟きが聞こえて振り向くと、初音が椅子から立ち上がっていた。

(なにかしら?)

 一瞬不審に思ったが、すぐに察する事が出来た。
 初音は、病室のドアの方に視線を向けていたのだ。いや、正確に言うならば、更にその向こうを透かし視るようにして遠くを見やっている。

 こつ、こつ、こつ……こつんっ。

 ゆっくりと近づいてきた足音が、扉の向かいで歩みを止めた。音が消えた後、その場に留まるは一人分の気配。
 女性、ね。たぶん、まだ若い……
 もう推測の必要はなかった。今ここを訪れる可能性がある若い女性と言えば、初音の話に出てきたその人ただひとりだけ。

 こん、こん。

 控えめなノックに、私はゆっくりと言葉を投じた。

「どうぞ……」




「失礼いたします」

 扉が開き、黒のタートルネックセーターに同色のタイトスカートを着込んだ女性が姿を現した。白いロングコートを掛けた手はきつく握り締められ、やや不揃 いのボブカットが揺れる面差しには、明らかな緊張感が滲んでいる。
 一部の隙も無い完璧な動作で病室に入って来たその女性は、まず視線をベッドに向けた。
 そこにいる楓が黒曜の双眸で彼女を見つめ返しているのを見て取り、微かに安堵の吐息。微かに強張っていた表情から、少しだけ力が抜ける。それから私達を 見、初音に一瞬目を止めて……たぶん、私達の表情から話が伝わっているのを確認したのだろう。名乗りと同時に、深く腰を折った。

「この度は、散々ご迷惑をおかけしました。高宮弥生と申します。隆山の……鬼の一族、柏木家の皆様方ですね」

 一瞬、奇妙な既視感を感じた。それを不思議に思いつつ、私は自己紹介をし、それから他のみんなも紹介してゆく。

「はい、そうです。私が現当主の柏木千鶴、こちらが妹達……初音は自己紹介したそうですから、こちらが梓で、楓です。それと従兄弟の柏木耕一さん、そして 叔父の」
「俺も先程名乗った。柳川裕也だ」
「はい。どうぞよろしく……」

 柳川さんだけは、私より先に口を出した。




 一通りの顔通しを済ませると、彼女……高宮弥生さんは楓が落ち着くベッドの傍らに歩み寄った。

「まず……柏木、楓さん?」
「……はぃ」

 身を起こす事が出来ない楓は、ややかすれた声で弥生さんに答える。

「真っ先に、貴女に謝罪しなければなりませんね。申し訳ありませんでした」
「…………」
「貴女を襲ったのは、私の妹達です。葉月は思い込みの激しい子で、しかもかなりの直情径行なんです。ろくに事情も知らず、勘違いをしたまま家を飛び出し て……謝っても謝りきれるものではありませんが、本当に……ごめんなさい」
「……平気、です……なんとか、生きてますし……」

 楓は微かに苦笑いを浮かべた。視線に、真摯な光が灯る。

「それに、初音から……話を、聞きました。妹さんが暴走した理由、私にも、わかります」
「それは……」
「大事な人が、生命を奪われたんです……たぶん、私達にも、裁かれなければ……ならない理由が、あります」

 楓の双眸は、深く澄み渡り遠くを……私にもわからない遠くを、見つめていた。
 考えたくはない。だけど、考えざるを得ない事。もしも楓が、初音や梓が、何者かに殺されたら。そのとき、私は一体、どうするのだろう?
 同じ事を考えたのだろうか、再び硬くなる弥生さんの表情。

「それでも。それでも、どうか謝罪させて下さい。妹達のしでかした事は、償わなければならない事です。本来なら、許されることでは……」
「……復讐は……」
「復讐は、悪い事とは限らない。殺された者が、その人達に取って本当に大事な者だったなら……それを奪った相手に牙を剥く事は、むしろ自然な行為かもしれ ない」
『!?』

 弥生さんの、そしてそれに何か言いかけた楓の言葉を遮ったのは、耕一さんだった。

「耕一、さん?」
「楓ちゃんは、そう言いたかったんだろ?」
「……はい。耕一さん、こそ……それは、本音です、ね?」
「俺は、人の事とやかく言えない立場だからね……」

 何故か寂しげに笑い、耕一さんは楓の髪に手を当てた。楓がそっと目元を伏せ、いつのまにか彼に寄り添っていた初音が、服の裾をくっと掴む。耕一さんが自 然な動作で初音の肩を抱くと、妹達は微かに潤んだ瞳で視線を交わし合った。

「弥生、さん。謝罪は……初音が既に、受け取りました。私はこうして……五体満足じゃ、ないですけど……無事ですから。だから、もういいん、です……」
「ですがっ」
「とりあえず……落ち着いたら、ちゃんと謝りに、来てくれれば……いいです。そう……あの人達に、伝えてください」

 大切なものを掲げるように、初音が束ねられた黒髪を手に乗せていた。それを受け取ろうと、楓は半ば無理に左手をベッドから引きずり出し、初音がそれを支 える。
 ロクに動かないはずの身を酷使して差し出された掌に、謝罪の証は確かに届けられた。

「確かに……受け取りました、から」

 柔らかさを取り戻した楓の声音、それと、何故か色々な感情が入り混じった深く静かな表情で見つめてくる耕一さんと初音。
 妹の不始末を詫びる為、どんな罵倒も受け入れる為にずっと緊張していたのだろう。部屋に入って来た当初からほとんど硬さがほぐれなかった面差しから、よ うやっと強張りが抜けようとしていた。

「……ぁ、ありがとう、ございます……」

 彼女はもう一度、深く深く腰を折り、震える声でその言葉を囁いた。




 どれほど長かったのか、それともほんの僅かな間だけだったのか──再び顔をあげた弥生さんは、じっと楓を見つめて口を開く。

「貴女が無事で、よかったです。最悪の事態にならなくて。もし、そうなっていたら私は……あの子達を切り捨てる覚悟を、決めなければならない所でした」

 ざわりと、にわかに室内に張り詰めた空気が立ち込めた。先程までとは違う、別種の緊張。
 私はその中に、さっきまで感じていた既視感が更に膨れ上がるのを感じ取った。そして同時に気付く。彼女と似ているのが、誰なのかを。

「それは、私達がどのような行動に出るのか、その可能性を認識した上で、ですか?」
「いえ。『私自身が手を下す可能性をも含めて』、です」

 覚悟というその言葉が指す意味、それを半ば理解しながら敢えて尋ねた私の問いに、やはり彼女は想像通りの返事を……鬼の血を引く者の責務ともいえる最悪 の答えを返してきた。

「鬼の、エルクゥの血脈を受け継ぐ者は、自己を律することが出来なければなりません。それが出来ず、人に危害を加える者は……他の同族に迷惑をかける前 に、同じ鬼の手によって闇に葬られるしか、ありません」

 凍りついた表情の奥から搾り出されたような、硬く冷たいその声。その声は、ひどく聞き覚えのある同質の声音。
 それは、私の、私自身の声。

「……とても重い、覚悟が必要ですよ?」
「承知しています」

 貴女も、そうでしょう? と、視線が私に語っていた。

「少なくとも、葉月には厳重な処罰が必要です。今度という今度は、本当に……」

 俯き、床を見つめて呟く弥生さん。それに一瞬、私は過去の自分を見ているような錯覚に囚われてしまう。
 弥生さんのその姿は、私に鏡を連想させた。そう、かつての、半年前までの、自身の鏡に。
 思わず、私は苦笑した。本当に苦いものが入り混じった、自嘲にも近い、苦笑いだった。
 本当に良く、似てる。

「お互い、苦労をしているようですね」
「はい?」
「うちにも、口より先に手が出やすい子がいるんですよ。考えるより、まず行動。大抵は下の子達が宥めてくれるので、なんとかなっていますが……先走る傾向 が強いから、苦労しています」
「ちょっと千鶴姉。それ、誰のこと言ってんの?」

 あ、梓が半眼になってる。けど、言わなくてもわかってるんじゃないかしら。ねえ?

「ばか。お前だ梓、お・ま・え」
「んぐっ……そ、そりゃ確かにあたしは話も聞かずに走り出しちゃうこと多いけどさ。それ言ったら、先走る傾向が強いってのはあたしよりも千鶴姉の方だ ろっ?」

 ぴくっ。

 どういう、意味かしら。

「むう、確かに。思い込みを正当化して突っ走ってしまうのは、梓よりも千鶴の方だな」
「あー。俺、前にそれでえらい目に遭った気がする。勘違いで殺されそうになった」
「俺もだ、耕一。早合点されて、危うく深刻な生命の危機に直面する所だった」
「なっ、耕一も叔父貴も、そう思うよな」
『ああ』

 こ、耕一さんに柳川さんまでっ!

 ぷつん

「あ・な・た・た・ちぃ〜」
「ち、千鶴お姉ちゃんダメだよっ。今は大事なお話の最中なんだから!」
「姉さん、初音の言う通り、今は、駄目。あとに、して……」
「……はっ?」

 ゆらりと向き直りかけた私の腕に、初音が必死に縋り付き、動けない楓も矛先を戻そうと眉間に皺を寄せて声音を高めて呼びかける。
 くっ、しょうがないわね。今は楓と初音に免じて勘弁してあげるわ。けど、覚えてなさい三人とも、後でお仕置きよ。
 と、そこで私はふと気付いた。今は来客中だということに。

「あ」

 弥生さんは目を丸くしていた。
 もしかしなくても、話の腰……折っちゃったかしら……

「ご、ごめんなさい……」

 私が楓達に止められてるなんて、これじゃ世話ないわ……はぁ。




 こほん。

「……で、弥生さん?」
「は、はい?」

 気まずい沈黙を打ち払ったのは、ひとつ咳き込み声をあげた耕一さん。
 まずは現状の確認と詳しい情報を得る為だろう、弥生さんに問い掛ける彼の言葉の内容は、想像通りのものだった。

「貴女の妹さん達が、なんで楓ちゃんを襲ったりしたのか。ほぼ予想はついてるけど、確認の為に聞かせて欲しい」
「わかりました。おそらく、そちらのご推測の通りでしょうが」

 ゆっくりと、彼女の唇が言葉を紡ぎ始めた。訥々と、感情少なく誰かを悼むかのように。
 それが誰なのか、おそらく私達は、知って、いる。

「あの子達の取った行動の源は、復讐です。貴女方に討ち取られた私の弟、高宮長月の、仇討ち」

 やはり。では、あれは

「先日の、東京で起きた狩猟者の事件。十名に及ぶ死者を出した、連続殺人事件」
「……っ……」
「あの時の『彼』が──貴女の弟さん、なんですね?」
「はい」

 それで、全ては通じた。事実が耳に染み渡り、罪悪感と苦い想いが心を満たしてゆく。
 梓が長く、重たいため息を吐いた。

「はぁ。まさか、<狩猟者>になり得る程の濃い血を残していた人間が、柏木本家以外にもまだ居たなんてね。叔父貴に続いて二匹目のドジョウってか?」
「梓。俺をドジョウ扱いするな」
「だって、そうだろ? 叔父貴の時も驚いたけど、それだけじゃないとはさぁ」
「いいえ。梓姉さん……たぶん、それは少し……違うわ」
「え?」

 口を挟んだ楓に、怪訝な表情になる梓。

「柏木、以外……鬼のちからを、操れる末裔は……隆山には、残ってないわ」
「血が薄まりすぎてるんだよ、梓お姉ちゃん。わたし達が例外中の例外なの。他に、鬼化可能な血の純度を保つ系譜は、もうないの」

 楓と初音。対外的な調査などではなく、直感と本能の領域で鬼を見分ける異能の持ち主。この二人が断言する以上、柏木の他に鬼は存在しない。
 そう、隆山のエルクゥの子孫の中には。

「じ、じゃあいったいどういうことさ?」
「梓、簡単な事よ」
「ここにはいなくとも、『他』のところにはいるのさ。そうだろう、高宮弥生?」

 私の後を引き継いで、腕を組み斜に構えて壁に寄りかかっていた柳川さんが問いかける。

「既に、お気付きでしたか」
「ふん。俺達より弱いがちからを使える鬼の集団、この地には現存していない鬼の武器。<エルクゥ>という単語を知っている人間。これだけ揃えばおのずと推 測は出来る」
「確かにな。解答が出なければ、前提条件を崩せばいい。『この星に降りたエルクゥは、隆山にしかいなかった』という前提を」
「! ま、待てよ耕一、じゃあ……!?」
「そうよ、梓。ここ以外にも、エルクゥが降り立った地があった、ということ」

 隆山以外にも鬼が、エルクゥの一族がいるなら、可能性は二つ。一つは、極めて初期にこの地から離れたエルクゥの子孫という可能性。もう一つは──

「エルクゥの、星船……<ヨーク>は、この世に一つじゃ……ありません」
「隆山のとは関係なく、別のヨークが何処かに降りていた。その可能性が、事実としても考えられ得るな」
「ん。日本各地に鬼の伝承は残っているよな。それらのほとんどは山賊、野盗の類だったと言われているが、なら、残りは? 少なくともここに一例、『本物の 鬼』がいたんだ。だったら、他にもいなかったとは言い切れないはずだ。そうだろう、弥生さん?」

 そう締めくくった耕一さんが、答えを求めるように弥生さんに水を向けた。

「おっしゃる通りです。私達は、貴女方隆山に降り立ちし鬼の血を引く者達とは、全く別の血脈に通ずる者……異なるエルクゥの系譜に連なりし一族です」

 その言葉は──表面上はともかくとして──私達の内心に大きな衝撃を与えた。
 だが、同時に心の何処かで、酷く納得している己もいて、

「やっぱり……そう、なんだ」

 初音の呟きが、皆の心情を代弁していた。

「他にも降りていたか。星を渡る狩人が」
「こう言ってはなんですが、おかしな話ではありませんね。先程耕一さんが話した通り、古来、この星、ことにこの島国における伝承の類には、数多くの鬼が出 て来ています。そのうち少なくとも幾つかは我々の祖先、エルクゥのものなのでしょう」
「おそらくね。今は知らないが、当時……五百年とか千年とか昔のこの星には、なにかがあったんだろうな。星を渡る鬼達を引き付ける、なにかが」

 狩猟民族、エルクゥ。その船ヨーク。この星には、おそらく複数の船が来ていたに違いない。楓や初音の話では、ここ隆山に降りたヨークはその後、飛び立つ 事叶わず今も眠っていると言う。ならば他にも、同じようなヨークがあるか、あるいはこの星に根付く事を選択した鬼がいたのかもしれない。
 その結果として──今、私達は宿命と戦っている。




「私達の住む街は、ここより更に北の地にあります」

 弥生さんの口からゆっくりと告げられてゆく、事件の発端。それは、やはり――

「祖のエルクゥ達は事故、というより──何がしかの戦闘行為の代償としてヨークが半壊し、この星に不時着を試みたそうです。その際にヨークは二度と飛べな くなり、やがては死を迎え……」
「ヨーク、が……」

 ? 初音の顔が、蒼褪めている気がする。どうかしたのかしら?

「結果として、その地に根付かざるを得なくなった祖達は、歴史の中で力ある者達に鬼として討伐され、僅かな生き残りが人と交わり、血を薄めながらも、現在 まで細々と末裔を残すことになりました。それが私達──『蝦夷の鬼(えみしのおに)』一族です」
「なるほど、な。『柏木』という器に一極集中する事で、高い血の純度を保つに至った俺達とは逆に、ある程度の血の濃さを保ったまま、その限界まで拡散した 結果がお前達か」
「あ。確かにそれなら、鬼のちからを持った人があれだけたくさんいてもおかしくないね」
「どういう仕組みを築いているのかは知らんが、町ぐるみで鬼の血という秘密を抱え込み、隠蔽しているのだろう。観光地などとは無縁の、閉鎖的な土地柄であ れば、それも可能かもしれんな」
「それで……微弱ながら、鬼のちからを奮える人が、多くいると……納得、です」

 実際に刃を交えて実感していたからか、柳川さんの指摘に楓と初音が頷きを返す。

「しかし、それだけ鬼がいるなら、彼等は今までどうやって血の暴走、<狩猟者>の意識侵食である<羅刹鬼化>から逃れてきたんだ?」
「それは、私も疑問です」

 耕一さんが口を濁したそれに、囁き声で私は返す。
 確かに、不思議なことだ。私達柏木は一つ所に限定して鬼の血を集める事で、その問題になんとか対処を行なってきた。広がり過ぎた血脈を持つ『蝦夷の鬼』 達は、一体どうやってその制御を行なってきたのだろう。

「そのことについてですが、私達の長老から貴女方に……お話がある、と」

 聞こえていたのか、弥生さんが言葉を挟んできた。

「えっ?」
「長老?」
「そう呼ばれている方です。実は、私がこの地に出向いて来たのは、直接貴女方に今回の件についての謝罪を申し上げる為と、あの子達を無理にでも連れ戻す 為。それに付随して、もう一つ。長老から伝言を頼まれたからでもあるのです」
「伝言、ですか? 私達に?」
「はい。長老から、皆様にどうしてもお話したい事があるとの事で、その旨を伝える為に」

 次の言葉に、衝撃が走った。

「用件は……『柏木に生まれいずる<狩猟者>。隆山に未だ残留する災い、死して尚残るエルクゥ達の怨嗟の叫び、<鬼哭>。それ等が顕現する原因と解決手段 を、知っているやもしれない』と」

『な……っ!?』

「私にはよくわかりませんが、貴女方にはこれだけで、おそらく話が通じるはずだと。『お詫びの意味も兼ねて、それら双方を繋ぐ糸と、全てを終わらせる事が 出来る可能性、それをお教えしたい』との事でした」
「それは……本当、なのか……?」

 流石の柳川さんも、声が涸れている。
 まさ、か……<狩猟者>発生の原因を、知り得る人が、いるなん、て……

「長老は、こちらへ出向く事叶いません。図々しいとは思いますが、ご足労願えるのでしたら、私達の町へ来てほしい、と。本来なら、無理をしてでもこちらが 出向かなければならないのですが……」

 弥生さんは眉を顰めた。

「なんでも、『隆山に近付けない訳がある』そうで。出来ますれば、皆様。後日、私どもの町へおいでいただけませんか?」
「隆山に根付く、柏木の血の宿業。それを解決する手掛かりだっていうなら、正に願ったり叶ったりだけど……長老さんは、それほどにエルクゥについて詳し い、と?」
「齢二百才以上。私達の町で最も長く生き、最も鬼の伝承を知っており……また、同時に──」

 一息。弥生さんは一気に、更なる衝撃の言葉を述べた。

「──ただ唯一、我々の祖である<エルクゥ>の、記憶そのものを持ち合わせておられるお人です」




 ────!?

「──な……っ。なんだっ、て……!?」

 誰もが、絶句していた。
 梓は大きく口を開き、楓と初音の目はいっぱいに見開かれている。耕一さんも掠れ声の後、二の句が告げない程で、柳川さんですら驚愕が表情に現われてい た。
 かくいう私も、皆と大差ない顔をしているのだろう。全く言葉が出せない。
 二百年以上の時を経、エルクゥの知識と記憶そのものを有している──それはもはや本物の、生粋の<エルクゥ>に等しい存在ではないのだろうか?
 そんなとんでもない人物が、現存しているなんて。

「更に長老は、鬼人の<力>を失った代わりに、既に死したる我等が<ヨーク>より、確かな知識と技術を譲られているそうです。ですから、出来れば、皇族の 方においでいただきたいと長老はおっしゃっていました」
「皇、族……長老さんは、私達の、事を……知ってるん、ですか?」

 楓の疑問。
 エルクゥ皇族――私達四姉妹は、かつてそう呼ばれていたと、妹は言っていた――それはつまり、相手が私達の事を知っている可能性があるという事。

「誰かはわからないが、いるはずだと。そう、言われております。話を完全に理解するには、エルクゥの知識を持った方が必要だとも。実際、私にも長老の話さ れる事は理解出来ない部分が多くて、とてもついていけませんでした。私を始めとして、幾人かの者はエルクゥについて多少の情報を長老から伝え聞いてはいま すが……おそらく、長老本人の口からでないと確かな説明は出来ないかと思います」




 夜の帳が、降りている。
 病室の窓から、ぼんやりと霞が覆う月を見上げていた私は、すっと振り返った。
 部屋の中には家族達。ベッドの上の楓、傍らで椅子に座る初音。寝台のパイプに腰掛ける梓、入り口脇の壁に腰掛ける柳川さん。そして……立ったまま、数枚 の紙片に目を落としている耕一さん。
 あの後、幾つかの説明をして弥生さんは病室を後にし、それからかなりの間、残された私達は口を聞かないまま、それぞれがそれぞれの考えに沈み込んでい た。
 今日は、色々ありすぎた。一両日中だけでも、楓が大怪我をして病院に担ぎ込まれ、東京から耕一さんが駆け付けて、初音と柳川さんも襲撃を受けたと思った ら、襲った当の本人達が身内に取り押さえられて、その姉が謝罪に来て……
 耕一さんに視線を移す。彼が見ているのは、長老さんからの手紙だ。心の篭った謝罪の文から始まり、東京での一件に関しての謝辞と重ね重ねの非礼への侘 び。そして、弥生さんの言葉を肯定する、私達柏木が抱え込んでいる鬼の問題に対して力になれる可能性についてが示唆されていた。
 私は自分の手元にある、弥生さんが手渡していった彼女達の町の所在とそこまでの交通手段、連絡先などが書かれた紙片を見やった。それから身を翻し、部屋 の真ん中にいる耕一さんへと歩み寄る。
 気配を感じて、耕一さんが顔を上げた。他の皆も、いつのまにか各々の面差しをこちらに向けていた。

「……みんな、どう思う?」

 静寂を破り、口を開いた耕一さんに真っ先に応えたのは、初音だった。

「信じても……いいと思うよ。きっと、本物だから」

 その声音に確信が篭められているのを感じ、私は不思議になって妹を呼んだ。

「初音……?」
「多分、長老さんっていうのは、過去にエルクゥの長老格だった人か、あるいはその<エルクゥ>を受け継いだ人なんじゃないかな。わたし達の所にはいなかっ たけど、ヨークの中には確か、語り部の役割を負った纏め役がいるはずなの」

 だから、信じてもいいと思うよ。初音はそう繰り返した。

「語り部だって?」
「うん。エルクゥって、文字とか絵とか……本みたいに、形として記録を残すって概念があまり発達してなかったの。記録……記憶は、<レザム>の有する輪廻 のサイクルに魂を預けていた彼等にとって、あまり意味のない物だから」

 初耳ね。私や梓は首を傾げるしかないけど、楓は……あの顔は、初音の言葉を理解しているわね。でも、若干訝しげなのは……

「転生しても前の記憶があるなら、わざわざ記録を形にして残す必要はないでしょう? 人の綴る記録って、過去の歴史が積み重ねてきた様々な出来事を、今の 自分達が知る為の物なんだから」
「ふむ。その過去の歴史そのものが自分の中に『前の記憶』として残っているなら、確かに意味はあまりないな。自身の記憶そのものが記録みたいなものだ」
「そう。だけど、それでも困る事ってあるから、武装変具とかの形で、少しは残ってるの。あとは、知識を記録する為の役割を与えられたエルクゥとかも」
「文字通りの記録係……語り部、ね」

 なるほど。なんとなくだけど理解出来た。でも、初音。随分と知ってるわね?
 私は楓と同じく、怪訝そうに眉を寄せた。その楓はますます訝しげな顔になり、妹の顔をじっと見つめている。

「うん。たぶんその長老さんは、彼等のヨークで語り部としての役割を負っていた人なんだと思うの。その人が今、この星に根付く事となった同胞であるわたし 達に対して、接触してきている。それならきっと、その話はわたし達にとっても重要な事だよ」
「へぇ。なんかやけに詳しくない、初音?」
「……初音? あなた、まさか……」

 梓の疑問に被さるように、楓が声を発した。緊張を帯びている。ちらと見ると、耕一さんの表情にも強張りがあった。
 末の妹は耕一さんを見、それからすぐ上の姉の顔を見つめて力無い笑みを浮かべた。

「あはは……公園で、ちからが<覚醒>したから。わたしの鬼の発現は、かなり特殊で……《リネット》が、わたしの中に降りて来てたの」

『っ!?』

 楓と耕一さんが驚愕に目を見開いた。

「その残滓が留まってるから。だから、わたしの中には今までの朧げなものじゃなくって、はっきりとしたリネットの記憶がかなり残ってるよ。エルクゥの知識 とか、技術とか……リネットはそういうの専門じゃなかったからあまりわからないけど、概要くらいなら色々知ってる」
「は、初音……」
「初音ちゃん……」

 二人の呼びかけ。初音はそれに、ただ静かな面差しで首を振り、今度は確かな、天使の微笑みを浮かべた。

「耕一お兄ちゃん、楓お姉ちゃん。色々お話もあるけど……今は、無しにしよ。先に、考えなくちゃならない事があるから……だから、それはまた今度ね」
「…………」
「……わかった」

 三人の間だけで交わされるやり取り。その中に、今の私が入り込んではいけない何かを感じて、私は黙っていた。柳川さんは最初から沈黙を守り、梓も同じよ うな空気を感じたのだろう、ちらりと私を見て、苦笑。そして目配せをしてきた。
 そうね、梓。三人とも、きっといつかは話してくれるはず。それを待ちましょう。
 私は微笑すると、梓に頷きを返した。




「話を戻そう」

 気持ちを切り替えるように、耕一さんが話し出した。

「その長老さんとやらが、今回の事件の発端。弥生さんの弟さんが、狩猟者と化してしまった一件の、大本の原因を理解しているなら」
「そして、それを解決する手段を知っているとしたら」

 私は耕一さんの言葉を引き取り、梓も続ける。

「もしかしたら、柏木を苦しめてきた鬼の血の呪縛。それを、解く事が出来るかもしれないね」

 そう。弥生さんの話を聞き、真っ先に私達が思い浮かべたのは、正にその事。
 半人半鬼たる鬼の混血児、柏木一族。その歴史の大半は、苦しみと悼み、涙と悲嘆に綴られている。その大本である血の暴走……狩猟者、もしくは<羅刹鬼 化>と呼称されるそれを防ぐ手段があるとしたら。
 それは、私達が追い求めてきた、希望の種に違いないのだ。

「年が明けるまでは待ちましょう。小正月が過ぎた辺りで、向こうに伺わせてもらう事にします」

 私の宣言に、全員が一斉に同意した。

「五百年の、悲願か」
「……長い歩みだな」

 呟き。耕一さんと柳川さんのそれは、全員の心情を物語っていた──




 舞台は飛ぶ、北の地へ。
 源を同じくする同胞達と、それを束ねる<エルクゥ>の語り部が住まう街。そこで私達を待っている人物は果たして、柏木の悲劇を終わらせる手掛かりを持っ ているのだろうか。

 全ては、これから──






『柏木耕一の事件簿』第二話、『柏木鬼狩り事件編』───────────────了。

 第三話、『鬼達の血脈編』へ続く。




    

第3章

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