柏木耕一の事件簿・其の二 初冬───柏木鬼狩事件編
 
 
 
 

 第一章 闇の中の、紅い<雪>
 
 

 それは、クリスマスもそう遠くない冬の日の夕暮れ時。もうすっかり暗くなった、だけど、通い慣れた通学路での事──
 私は委員会の仕事で帰宅が遅れた事に溜め息を吐きつつ、家路を急いでいた。
 十二月の隆山の風は、身を切る位に寒い。おまけに今は、午前中のうちに降り積もった雪が、再びちらちらと空に舞い始めている。
 傘を差す程には雪は降っていない。けれど、この寒風は通学用のコートでは、少々つらい。

 はぁ……

 吐き出した霞が闇に白く映る。それに透けて見える街灯の光がきらきら綺麗で、思わず私は口元を綻ばせた。
 初音、こんな事するのが好きだったよね……
 楽しそうに息を吐いていた妹を思い出しながら、それを真似て、私も何度も吐息を吐いては光に透かす。

「ちょっと、遅くなっちゃったみたい……」

 腕時計を確認すると、もう六時。十二月の夜は早くて、もう辺りは真っ暗になっていた。
 ……早く帰らないと、梓姉さんや初音が心配しそう。きっと今頃は、楓が遅いって時計を見上げては呟く姉さんを、初音が不安そうに眉根を寄せて宥めているはず。それに、千鶴姉さんももうすぐに帰って来る。
 今夜はシチューだよ、と言っていた梓姉さんの言葉を思い出して、その暖かい湯気を思い浮かべて、私はお腹に手を当てた。
 そういえば、お腹もぺこぺこ……
 再び溜め息を吐くと、白い霧が目の前にかかる。その中に家族の顔が浮かび上がった気がして、私はくすっと微笑んだ。
 家に帰れば暖かい食事と、それよりももっと、私の心を暖めてくれる家族達が待っている……今はまだ一人、東京にいる人がいるけれど。
 私は、歩きながら夜空を仰いだ。

「耕一、さん……」

 耕一さん──クリスマスには、帰って来てくれるのかな? 教授に頼まれたレポートが忙しいって、この間の電話でぼやいていたような……
 ちょっと、心配。
 でも、なんとかするって言っていたし、耕一さんは、私達との約束は破らない。だから、きっと大丈夫。……そうでしょ、耕一さん?
 心の中で、呼びかけてみる。耕一さんがちょっと困ったように笑う笑顔が浮かんで来て、私の頬が自然に緩む。
 その頬を、北風が撫でた。

「ぅ……さ、寒いっ……」

 本当に、寒い。夜空の三日月と瞬く星と、それらに彩られた天蓋のあちこちにかかっている雲と。空気は澄んでいるけど、ぴんと冷たく張り詰めている。
 それに、雪がちらつき始めているからか、ますます気温が下がってきたみたい。舞い降りて来る白い精霊達も、次第にその数を増やしている。
 炬燵に入りたい……なんて考えても、仕方ないと思う。

 ひゅうぅ……

 言っている側から粉雪混じりの風が吹き付け、私は慌ててコートの前とスカートを押さえつけた。翳そうとして開いた傘が少し浮き、それから改めて手の中に収まる。
 隆山の冬は、冷たくて厳しい。ましてや日が落ちた今は、本格的に降り出しそうな雪の気配と相俟って、感じる寒さというのは実際よりもかなり強い。
 うぅっ、寒い……こんな事なら、生徒会の仕事なんて手伝うんじゃなかった……
 友達に頼まれて、生徒会の書類の片付けを手伝わされる羽目になった事自体は、別にいい。けれど、よく考えたら、図書委員の私が何故そっちに引っ張られる必要があったのだろう? それに、私に手伝いを頼んだ友達は途中で急用だからって帰っちゃうし、それなのに先生は私に仕事を押し付けるし、最も家が遠い私が一番遅くまで残されるなんて……
 ……ひょっとすると、はっきり『そろそろ帰ります』と言えなかった私が悪いのかも。

「……もう少し、自分の意見言えるようにならなくちゃね……」

 苦笑しつつ、私は近道を通ろうと道を曲がった。
 こっちの方が、少し早いはず。
 人がほとんど歩かず、故にそのまま残されている白い絨毯を踏み締め、私は新雪がか細く発する微かな鳴き声をお供にして、暗い道を歩み出す。自然と思い出した旧いメロディを口の中で転がして、冬の妖精達に聞かせるように、そっと夜空に歌を囁く。
 柏木楓の、夜想曲。小さな小さな、音楽会。
 家まで、まだまだ距離はあった……
 
 

「──……?」

 そして、その途中差し掛かった公園の中で──私はふと、足を止めた。
 周囲の芝生やベンチや木立の群れは、全てすっぽりと雪帽子を被って、白一色に染まりきっている。しんしんと、本格的に踊り始めた氷の妖精達が遊ぶ公園は、闇の中に厳かな静謐を湛えている──そう。湛えているはず、なんだけど……

 違和感。

 何か、私の感覚に引っかかる物があった。
 胸騒ぎを覚えて、私はその違和感を突き止めようと、知覚を鋭く研ぎ澄まし始める。
 ──その時だった。
 

 ────どくん────
 

「……え……?」

 なに、今の……?
 真っ先に感じたのは、奇妙な既知感。微かな、ちからの感触。
 この、気配は──

「<鬼>の、気配……?」

 それは、確かな波動だった。
 有り得ないはずの、姉さん達や初音、耕一さん達以外の鬼気の波動。
 薄まった血を持っているだけの地元の人達とは一線を画す、『ちから』を保持する鬼の反応。
 それがほんの一刹那の間、私の意識に触れた気がした。
 ──全く知らない、鬼の気配……?
 そんなはず、ない。知らない鬼の気配なんて、あるはずがない。
 一ヶ月程前に東京に現れた鬼も、耕一さんが斃している。
 だから鬼は、もう私達以外に存在しない──

「……気の、せい……?」

 私が、そう思った時──後から考えれば、それがそもそもの間違いだったのだけど──

「っ!?」

 強烈な殺気が、叩き付けられた。

 ──なに……!?

 頭の中で危険信号が明滅する。どこからか、唸る風が迫る気配。
 咄嗟に私は身体を沈ませ、横に飛んだ。
 ごうっ! と、慌てて飛び退いたその空間を、鋭利な『音』が薙いだ。刃物のような鋭いなにかが空気を切り裂き、渦巻いて雪片を散らし、通り過ぎる。

「──なっ……!?」

 今、のは……?
 雪に足を取られてたたらを踏みつつも、視線を周囲に投げかける私。
 ──と。

「へえ……いい勘、してるわね。今のを避けるなんて」
「!」

 私の視線の先、ちょうど街灯が光を投げかけるその少し向こうに、いつのまにか人影が現れていた。
 ちょっと高めのソプラノ。張りのある、だけれどどこかに冷たいものを含んだ、まだ若い女性の声。
 その人影は、ゆっくりと街灯の光の中に入ってくる。雪に反射された光が、その人影の顔を照らし出す。

「え……?」

 そこにいたのは、一人の少女だった。
 年はたぶん、私や初音と同じくらい。背中にかかるくらいのセミロングの黒髪、鋭く突き刺さるような光を湛えた、吊り目がちな両の瞳。背の高い肢体を包む、長い黒のコート。動作が何かしら野生の獣を連想させる。綺麗というより、凛々しいといった言葉が似合いそうな、そんな感じの女の子──
 彼女のその漆黒の双眸の中に、強い負の感情が見え隠れしているような気がして、私の鬼が妙にざわめきを発し始める。
 この少女は、危険だ──と……
 
 

「……誰……?」

 警戒心も露わに、私は誰何の声をあげた。
 つい先程まで、周囲に人影はなかった。この公園には、私しかいなかったはずだ。その証拠に、彼女の足の回りには、乱れた痕跡が全く見当たらない。
 なのに──
 諸々の疑問を含んだ訝しげな私の問いに対し、彼女はただ冷たい笑みを浮かべた。
 冷笑。ぞくっとするような、私を睨み付ける視線。雪の降る屋外にあって尚、その冷たさは群を抜いている。
 その中にちらつくものは……暗い、炎。

「どうやら……『当たり』のようね」
「当たり……? なんの事ですか?」

 ……誰かと勘違いしているのだろうか?
 この少女の顔は、私の記憶には……ない。少なくとも、知っている顔じゃない。初音なら出会った人の顔は忘れないんだけど、あいにくと私は、そんな特技は持っていないし。
 だから私は、そう彼女に問い掛けた。
 ──けれど、その答えは完全に私の予想を越えたものだった。

「貴女……<鬼>ね?」
「────!?」

 瞬間、私は硬直した。
 な……に!?
 今……なんて言ったの!?
 何を言われたのか理解出来なかった私の脳裏に、たった一つの単語が木霊する。やがてそれはじわじわと心に染み込み、それに連れて、私の表情も勝手に強張ってゆく。
 動揺がはっきりと顔に顕れたらしく、無表情に私を見ていた彼女の顔に、酷薄な笑みが浮かび上がった。凄惨な印象を受けるその笑みに、背筋に微かな震えが伝わる。
 そして……

「やっと、見付けたわよ……仇を」

 地の底から届くような昏い声で、そう、彼女は呟いた。
 
 

「え──……?」

 かた、き……?
 この人、何を言って……?
 私は、全く知らない少女から仇呼ばわりされるような理由を、すぐには思い付けなかった。全く思い付かない、と断言出来ないのは、知らない所で恨みを買っていた可能性を考えたから。
 そして、その言葉の意味に困惑して考えに沈んでしまったせいで、私はその接近に気付くのが遅れてしまった。
 私が口を開きかけた、その時──

「──みんな! ここに一人、いたわよ!」

 やおら彼女は、いずことも知れぬ何処かに向け、その冷たい声を張り上げた。
 それに答えるかのように──

 ざわあっ!

「なっ!?」

 突如として、周囲に無数の気配が生まれた。
 ついさっき、私が感じた気配。
 私がよく知っている、ちからの波動。
 こ、れは──!?

「そ、そんな……っ!?」
 

 ──<鬼>──
 

 悪寒が疾った。全身に鋭い無数の殺気が突き刺さる。
 だけど、私が戦慄したのは、その殺気そのものにではなく……
 ど、どういう事っ……!?
 気配が全て、<鬼>の気配──!?

「な、なんでこんなっ……!?」

 そんなはずが──!
 木々が揺れる。覆い被さった雪帽子が崩れ、次々と地面に墜落する。
 木立の合間から、幾つもの殺気が襲い掛かってきた。瞬時に闇に合わせられた私の眼に、複数の人影が揺れ動く。

 <鬼>──!?

「くっ!」

 避け切れる──!?
 半ば無意識のうちに最小限のちからを解き放ち、私は大きく後方へと跳び退った。足元の雪が乱れる。鬼の本能が、私を突き動かす。
 一瞬。
 私がいた場所を、幾つもの<鬼>の拳がえぐった。舞い上がる雪煙。
 でも、それで終わりじゃない。
 ──まだっ! まだ来る!
 初撃を躱した私の後を追って、尚も別の<鬼>が襲い掛かってくる。

「──っ……!!」

 集中する。意識全てを研ぎ澄まし、身体の隅々まで行き渡らせる。反射神経が人の域を大きく上回って、瞬間瞬間の時の流れが永きものへと姿を変えた。
 大丈夫、躱せる。私の身体は、私の思い通りに動く──!
 風が耳元で唸りをあげた。次々と空気の通り道が切り裂けて、私に迫り来るのは破壊の凶器。

 ふわっ……

 知覚を総動員し、私はその軌道全てを感知し、身を翻した。風のように素早く、舞い踊るように緩やかに、私の中のわたしが身体を突き動かす。
 その動きは、相手の予想を超えていた。
 私が最後に大きく跳躍したその背後、遅れて複数の声があがった。

「なにいぃっ!?」
「ちぃっ……! 速い!」
「──全部躱したですって!?」

 ちらりと振り返ってみる。
 その時、私の周囲を取り囲んだのは、皆私と同じくらいの──同年代の、少年少女達だった。
 私と年齢が変わらないだろう女の子がいる。ひょっとしたら、初音よりも幼いだろう男の子もいる。
 彼らに共通しているのは、私を睨み付ける憎悪の視線と──
 鬼の、気配。
 驚愕が、ゆっくりと頭の中に満ちて来る。
 そんな、はずは……!?
 ちからを持った同族なんて……
 柏木以外に鬼の系譜なんて、あるはずがない……!
 でも、彼らから感じる気配は、間違いなく──<鬼>。
 何故!? この人達はなに!? こんなに、鬼のちからを持っている人間がいるなんて、そんな事──!?

「ふん……貴女達だけが、鬼の血を引く者だとでも思っていたの……?」

 私の内心が顔に出ていたらしい。彼女が、嘲笑うかのように口元を歪めた。

「な、なにを……」
「貴女達の事は、知っているわ。お爺様の話だと、随分と強いらしいけれど──」

 そこで、一旦彼女の言葉が途切れる。

「そんな自分のちからに己惚れた連中が、犯した罪も知らずに……」

 ……罪……?
 その単語に気を取られた一瞬──

「のうのうと生きているんじゃないわよっ!」
「!」

 夜叉が、襲い掛かってきた。

「くぁっ……!」

 咄嗟に顔を庇った両の腕にごっ、と鋭い衝撃が走り、私はがくんとよろめいた。
 つっ……!
 な、並の人間の力じゃない──これは、やっぱり!?

「しゃああああっ!」
「くっ!」

 身体を捻って反転した途端、鼻先を研ぎ澄まされた爪がよぎる。鋭利な刃物が風を切る。その感触は、私もよく知る……<鬼の爪>!
 ──間違い、ない!
 鉄板すら容易に引き裂く、私達柏木の者しか持っていないはずの、武器──!

「なっ……なんなんですか、貴女達は!?」
「答える必要なんかない!」

 く……! 聞く耳持たない、という事!?
 ちらっと視線を辺りに投げかけると、他の者も動き始めていた。
 いけない……とにかく、逃げないと──
 先刻の鬼気の波動から察するに、彼ら一人一人はまず私が遅れをとる程のちからは持っていない……相手にならない。けれど、なにせ人数が多い。
 数に押されたら──まずい。数というのは、馬鹿に出来ない。
 そう判断して、彼らが一斉に攻撃してくるより先に、私は動いた。
 飛ぶ。先程とは比べ物にならぬ程高く、大きく。
 飛翔する──

 ざあっ……!

 視界を駆け抜ける白き木立が哭く。頬を撫で去る冬の妖精達がさざめく。風の意志の如く。彼女達が奏でる楽器の如く。この身に彩りを添える銀の煌きは、闇の中の白。暗黒の只中墜ちゆく精霊達は、冷気と共にある氷の結晶。その全てが、私に従う……
 今から追い掛けても、私には追い付けない。
 単純にスピードを比べるならば、私は誰にも負けはしない。姉妹達の誰にも、耕一さんにも。
 私は、誰よりも速い──かつて神速と謳われた、この、わたしは。
 だけど──

 ぞくぅっ……

「っ!?」

 悪寒──!?
 着地した瞬間、私は振り向きもせず前方に回転するように身体を投げ出した。
 びょうっ、と、何かが──得体の知れない『なにか』が、鋭い音を立てて頭上を通り過ぎる。それを確認しないまま、私は身を捻って手を地に付け半回転、なんとか転倒を回避した。ひやりとした冷たい感触は、この際無視。
 今のは、最初のと同じ攻撃……!

「そうはいかないからねっ……! そいつを逃がさないでっ、<シオン>!」

 声。憎々しげな、声。
 その叫びに──
 答えたモノが、いた。

 ゴルルルゥゥゥゥ……

 低い、空気を振動させる唸り声。
 夜の闇の中、それは虚空から滲み出るように、私の前に現れた。

「っ!?」

 な、に……!?
 それは、獣だった。濁った銀色の毛並みを持つ、獣。地球上のどこにもいない、星の彼方から来た獣。
 ……それを象った、獣の道具。
 私は──わたしは、『それ』がなんなのか知っていた。だけど、それはここにあってはならないはずのものだった。
 ──まさ、か……!

「ぎ……<ギ・ゼィラウ>!? エルクゥの武器が何故……!?」

 エルクゥの、この星の科学とは全く違う大系の元に形作られた技術の結晶。死殺戦具と呼ばれる兵器の一つ。持ち主の鬼気によって編み出される、幻視の凶獣。極小分子の群体生物の結合体。狩りをする際に、獲物を追い込む為に作られし猟犬……
 頭の中に、知識の断片が浮かぶ。
 でも、なんで!? なんでこんなものが、今ここに──!?

 ゴアアアァァァァァァァッ!

 !! 来る!
 刹那、獣の姿が掻き消えた。

「つっ!」

 再び、あの鋭い音──今度は、咄嗟に捻った頬をそれが掠めた。嬲られた髪の毛が幾筋か、はらりと闇の中に消え失せてゆく。
 再度、音が振るわれる。今度は、コートの前が切り裂けた。お腹に走った軽い痛みと共に制服も少し持って行かれて、夜気に素肌が鳥肌を立てる。

「く……! これ、は……」

 鎌鼬(かまいたち)──!!
 空気の断層によって生み出される、真空の刃!
 それが、次々と私を襲ってきた。咄嗟に躱しきれなかった一閃が、右頬を軽くよぎる。
 ──は、やいっ……!
 獣が、吼える。とてつもない速度で私の周りを飛び交い、直接攻撃ではなく、その動きによって発生する真空の牙を突き立てて来る。
 足止めのつもり……!? 躱し切れない、このままじゃ、やられる──!

「うぁ……!」

 肩に、鋭い痛みが走る。頬を生暖かい液体が伝わり、外気に冷やされて雫となる。どうやら、さっきので皮膚が裂けていたらしい。
 そして──

「ハヅキっ!」

 声と共に、彼女の背後に次々と彼女の仲間が──少年少女達が、降り立ってきた。
 はっとした時には、もう私は取り囲まれて──

「捕まえなさい、<シオン>!」

 次の一瞬には、私の身体に銀色の霧が絡みつき、ぐんっと、唐突に重みがかかっていた。

「!? しまっ──」

 ずしゃあっ!

「か、はっ……!」

 重、いっ……!
 倒れ込みこそしなかったものの、私はたまらずに膝を付いた。
 視界に、鈍い銀色の毛並み。実体化した銀の獣が、私の身体を取り巻くようにして四肢を拘束している。
 は、<半実体化>……!
 迂闊……! 確かこの類の武器は、姿があってないようなもの……それに思い至らなかったなんてっ……!

「よしっ! よくやったわ、<シオン>!」

 快哉を挙げそうな勢いで、少女が駆け寄って来た。その後ろには、彼女の仲間達。
 彼女は眼前で立ち止まり、鋭い視線で私を見下ろして来る。

「ぅ……」
「さて……今すぐにでも殺してやりたい処だけど……教えてもらわなくちゃならない事があるのよね」
「教、え……?」

 何を……?

「そうよ……貴女以外の連中は、どこにいるの?」
「!?」

 私、以外の?
 それって、まさか……

「貴女以外の鬼達は、どこにいるのよ!?」

 姉さんや初音……耕一さん達の事!?

「何故……そんな事を聞くんですか?」

 目の前の少女達は、私の声音が変わったのに、気付かなかった。ハヅキ、と呼ばれていたリーダーらしい彼女は私の襟元を強く掴み、頬に爪を走らせる。

「っ……」
「決まってるでしょ……全員、殺してやる……!」

 ……殺す……?
 伏せた私の表情から、戸惑いと困惑が消え去ってゆく。
 殺す、ですって……?
 代わりに浮き上がって来たのは、怜悧な意思と静かな衝動。
 ──鬼の意思。

「あんた達全員……血祭りにしてやるわ!」

 そう……
 それが、目的……
 熱い液体が流れる頬に、ゆっくりと新たな痕が刻まれる。
 そこから雪に混じって赤い飛沫が視界に散った時、私は覚悟を決めた。
 ……そんな事はさせないっ!!
 

 ギィンッ!

「あぐっ!?」

 突然弾き飛ばされた手を押さえて、彼女が慌てて後ろに下がった。私との間に、自然に距離が開く。
 私が爪を、打ち返したのだ。

「あ、あなた……っ!?」

 私の右腕が、獣の束縛から解放されている。そこを覆っていたはずの獣の一部は、既に塵の如く消え去っていた。

「な──!?」

 どくん!

「……ぁ、ぁああああっ!」

 私の心臓が、一際強く脈打つ。瞬間、圧倒的な勢いで爆発した鬼気が広がり、そこから派生した逆巻く風が、獣をズタズタに切り裂いてその巨体を吹き飛ばす!

「し、<シオン>……! や、やってくれるわねっ……!」
「それは、こっちの台詞です……」

 ゆらりと、立ち上がる。冬の精霊のように風を纏い、粉雪を舞い散らせ──
 私は心持ち顔を伏せ、ぽつりと言葉を風に乗せた。

「……あまり、無闇にちからを振るいたくはないのですけど──」

 さらさらした感触の前髪が表情を隠した。私の瞳が、ゆっくりと閉じられる。全身の鼓動が次第に高まってゆくのを感じながら、私は言葉の続きを心の中で呟く。
 初音ほどではないけれど、私も争い事などは好きじゃあない。
 けれど、私は初音とは違う部分がある。
 あの子はおそらく、人を傷つけるような行動は決して取ろうとしないだろう。だけど──
 だけど、私は違う。
 普段は荒事からは出来る限り遠ざかろうとしていても、一度こうと決めたら──
 戦うと、決めたら──
 私は、容赦しない……!
 

 ぎん!

 眼光鋭く、私は虚空を睨み据えた。
 瞳孔が縦に裂け、虹彩に深紅が散る。爆発的な勢いで、鬼気が溢れ出す。
 ……<鬼>の、解放!

 ず、ん……っ!

 全身から重く、圧倒的なちからが溢れ出した。それは私の中の鬼に呼応し、速やかに、そして荒々しく、私の意思を戦士のそれへと変貌させる。 
 ちからは、物理作用すら引き起こす。大地が軋み、大気が歪む。解き放たれた鬼気に弾かれ、雪混じりの戦風が足元から巻き起こる。 
 ――ぎしん、と、空間が鈍い唸りをあげた。
 戦慄する鬼気を纏って、私は面を向ける。
 ……この双眸に映るのは、狩り取るべき命の焔。
 紅の眼光に疾るのは、闇を見透かす魔眼の灯火。 
 そして、この掌に宿るは……全てを切り裂く、<鬼の爪>!! 
 

 ……鬼気が逆巻く。私の中の<鬼>が目覚める……眼前に立ち塞がる者全てを屠り、歯向かう『敵』を、排除せよ、と──

「なっ……!?」

 自分達とは比べ物にならない鬼気に──私の鬼のちからに、さすがの彼女達も驚愕を覚えたらしい。明らかに浮き足立ち、包囲が乱れ始めている。

「……一度だけ、聞きます……退くつもりは、ありませんか?」

 荒々しい戦風に髪とコートを靡かせたまま、深紅の鬼眼持て『敵』を睨み据えた私は、彼女らに最後通牒を宣告した。

「な、なにをっ……! この程度の事で!」
「そう、ですか……なら……容赦しませんが?」
「!! ふっ……ふざけてっ! みんな、かかりなさいっ!」
『お、おぉう!!』

 彼女の叫びに、半ばやけになったように、彼らは動いた。
 私は内心小さな溜め息を吐き、そして身体を軽く横にずらす。
 真っ先に突っかかってきた男の子がちょうど、的を見失ってつんのめる。私はその踏み留まろうとしている左足を、素早く薙ぎ払ってやった。

「う、うわっ……ぅだあああぁっ!?」

 悲鳴と共に、数秒前まで私が背にしていた植え込みに激突する男の子。
 その様子も最後まで見ないまま、私は鋭い呼気を継いで身を翻し──

「……──ふっ!」

 だんっという爆音と共に、根雪を弾き石畳を蹴り砕く勢いで、正面に飛び出した!

「がっ!」
「ぅくっ!?」

 雪煙と共に低い体勢から伸び上がり、跳ね上げる勢いで一人の肩口に肘を叩き込む。そのまま駆け上がるように彼を踏み台にして軽く跳躍し、背後にいた少女の肩に手が触れた一瞬、強烈な鬼気をその掌に込めて叩きつける。その重圧に彼女の身体が耐え切れず沈み込む寸前、そこを支点にしてその子も飛び越え着地。そして、私は閃光のように一際体格のいい少年の懐に潜り込み、密着しつつ腕を首に巻き付け、片足を支点に鋭く回転した。

「ぐげっ!」
「きゃあっ!?」
「うぎゃおぇぇぇっ!?」

 優に私の二倍以上の重量があるはずの少年の身体が、首を極められふわっと容易く宙に浮いた。引きずり倒されるように投げ飛ばされた彼は、今し方私が飛び越えてきた二人を道連れに派手に地面に激突する。三重の悲鳴。

 一番下の男の子、潰れてなければいいけど……

 ちらりとそんな場違いな心配を考え、けれどすぐに打ち消して、私は正面突破を続行した。一番包囲の厚い真ん中、リーダー格と思われる、ハヅキという名の少女のいる、その中心へ。
 包囲の薄い所から脱出してもいいけど、もしも撒ききれなかったら彼女達は柏木の家にまで来襲する恐れがある。先刻の話し振りからすると、私の名前や素性を知って襲ってきたわけではないようだし、だったら家族に被害が及ぶ可能性は回避したい。姉さん達や初音に、迷惑はかけたくない。
 多数の敵を相手にする時は……そして、確実に逃げを行う為には……
 頭を、潰す事。
 彼女を叩けば、他の者は動けなくなる──
 後は、隙を作るだけ。彼女を気絶でもさせて、向こうが対応できないうちにさっさと消えてしまえばいい。今のうちに幾人かを起きれなくしておけば、それも容易い。
 
 

 夜闇を渡る風のように、私は疾駆した。触れれば切り裂かれ、弾き飛ばされる黒い暴風。この身体の中に、いかなる人も勝ち得ぬ嵐が渦巻いている。
 彼らは、やはり私達程強くはない。この位の人数なら、大怪我をさせないように手加減する余裕さえある。
 裂帛の鬼気を叩きつけて道を開ける。割り込んで来た者を一撃の下に気絶させる。飛び掛かってくる影の懐に逆に飛び込み蹴り飛ばし、待ち構えていた別の相手にぶつけて躱す。最後の一人を掌圧一つで捻り伏せ、私は彼女の──ハヅキという少女の前に降り立った。

「くっ!」
「──はっ!」

 繰り出された爪を紙一重で空振りさせ、私はその首筋に手を伸ばした。ほぼ同時に彼女の足を引っかけバランスを崩し、勢いを殺して背後にあった大樹の幹に押し付ける。

「あぐっ……!」

 振動でぱらぱらと落ちてきた雪の欠片が、私の頭に少し積もる。そのひんやりとした感触が、火照った身体には心地良い。

「──ここまでです。全員、動かないで下さい!」

 喉元と両の手を押さえ込み、彼女の反撃を封じた直後、私は鬼気を込めた視線で背後を一瞥し、彼らの動きを牽制した。
 ──雪原の鬼女──真紅の魔眼が、見据えた者を凍り付かせる。

「うっ……」
「……っ!」

 駆け付けようとした幾人かが足を竦ませ、ひとまずの決着がついた事を私に知らせた。
 
 

 さて、と……
 ここまでは上手く行ったけど、後はどうしよう?
 本当なら、今この場でこの子を気絶させて、逃げを打つのが正しいのだろう。
 けれど──
 出来れば、幾つか聞きたい事もある。まずは、それを問いただすのが肝心。出来るだけ手短に……時間をかけて膠着状態になったら、逃げるのも難しくなるし。

「……聞かせて、欲しい事があります」
「な、なにを……よ……」

 そう。ここはやはり──

「先程貴女は、私の事を『仇』と言いましたね……何故、私が仇なんです? 一体、誰の仇だと言うんです? ……誰の為の、仇討ちなんですか?」
「…………!!」
「教えてください」
「……よ、よくも……そんな、事を……」
「…………」

 ……逆鱗に、触れたのかもしれない。
 低い声が、彼女の唇から洩れ出でた。私の背筋を、氷塊が滑り落ちる。
 暗く、淀んだ……声に含まれた、激情──
 憎悪に。

「……いさまを……したくせに……」

 声が、震えている──?

「──人殺しのくせにぃっ!」
「な──!?」

 声に込められた憎しみに、私の腕の力が微かに緩む。一瞬の、隙。
 その瞬間──
 私の腕を強引に振り解いた彼女は、突然背後の樹木にその拳を叩き付けた。

「なにを──……っきゃあっ!?」

 ──どどざざざぁぁっ!

 ──……これ、はっ……!?
 白く冷たい塊が、次々と滝のように雪崩れ落ちてきた。私はあっという間に、その中に呑み込まれてしまう。何もかも、周囲全てが白に染まる。

「しまっ──!」

 枝葉に積もった雪を落として、視界を──!
 私がそう気が付いた、その時──

「<シオン>!」

 一つの叫びが、それを呼び覚ました。

 ──ガアアアアアアアッ!

「!!」

 その咆哮で、瞬時に悟る。
 しまった……っ! <復元>!
 あの獣の本体は極小の群体生物……あれには、実体がない。つまり、操者の意思で再生出来る──!
 視界に広がった風花の中、突然虚空から鈍い銀色の塊が浮かび上がった。避ける間もなく鋭い牙が閃いて、激痛と共に私の右肩に喰い込み、それが──
 引き千切られる!

「あぐっ……!!」

 ふ……っと、風花の中に紅が混じった。私の肩から噴き出した紅い粉雪が、顔を、服を染め上げる。
 け、けれど……このぐらいでっ!

「……ぐ、っ……!」

 ──斬!

 横薙ぎに振り抜いた左の手刀に烈風が走り、鎌鼬が獣の頭を再び吹き飛ばす。私は荒い息をついて、血まみれの肩口を押さえ後ずさる。
 だけど、それを見計らったかのように──

 どががががっ!

「…………!! っ……っか、あっ……!!」

 瞬く間に再生した獣の背中から、何本もの細い『槍』が伸びた。

「ぐ……ぅっ……」

 た、倒しきれなかった……っ!
 右腕、脇腹、左の太腿、右の脹脛(ふくらはぎ)……
 計、四本。
 突き刺さった『槍』が、抉り込む。
 こ……のっ……!

「っ……ぁ、ぁあああああああああああああっ!!」

 ッ斬!!

 骨に痛みが達する寸前、ほとんど無意識のうちに左腕が動いた。『槍』を斬り飛ばし、返す刀で今引き出せる最大級の鬼気を集約し、風の槌と化して眼前の獣に『破壊』の意思を叩き付ける!
 爆裂音。
 収まりかけた雪霞(ゆきがすみ)が盛大に巻き上がる。獣の姿は、もうない。
 ……やった……?
 安堵のため息。緊張が解けた、刹那。

「だあぁっ!」
「!!」

 飛び散る雪飛沫を突き破り、白い全てを切り裂いて──真正面から、憎悪が襲ってきた。
 ──速い!
 けど……躱せる!?

「く……!」

 身体を沈めれば、なんとか──!

「にいさまのかたきぃっ!」
「えっ……!?」

 今、なんて──?
 にい、さま……?
 ……兄妹? 家族……?
 私の頭の中を、四つの顔が埋め尽くす。
 その瞬間──
 私は、胸に鋭い衝撃を感じた。
 
 

「え……?」

 な、に……?
 頭が、真っ白になった。脳裏に、警鐘のようなものが鳴り響く。
 ゆっくりと、視線を下げる。
 胸元を覆っていたはずの、制服とコート。何ヶ所も切り裂かれたそこに、じわりじわりと染みて来る、夜目に鮮やかな深紅の色。そして──服の中に突き入れられた、ほっそりとした、腕。
 突き、入れられた……?
 違う。
 これ、は──
 

 ず……るっ……
 

「──っ……!?」

 激痛。
 声も出ない程の、痛み。

「……っ、ぁぐっ……!!」

 胸の奥をかき乱されるような、凄まじく重い灼熱感を伴って、胸元から赤く染まった爪が引き抜かれた。

「が……っ……は、っ……!」

 喉の奥から、何か熱いものが込み上げてくる。それはすぐに口元まで昇り、抑えた掌に赤い雫が零れ落ちる。

「あ……く、ぅ……!」

 ──くる、し……
 がくがくと、傷だらけの足が揺れる。崩れ落ちそうなそれを無理に押さえ込んで、私はよろよろと数歩たたらを踏む。
 ──力が、入らない……
 胸元に手をやる。べっとりと、濃い液体がまとわり付く。
 わた、し……刺され、た──?
 躱し、切れなかった……?
 鬼の爪は、私の胸元から右胸の下を抉っていた。お世辞にも大きいなんて言えない膨らみの下側を、斜めに、鋭く。
 爪を、引き抜かれた後の痛みは、鈍い鈍痛だけ……大して痛く、ない。
 傷、浅い……?
 ……違う。多分、痛覚が麻痺しかけてる……
 ──ひゅう……ひゅうぅ……
 息が、苦しい……酸素、足りない……
 頭が、ぼんやりしてくる。思考が、まとまらない。
 こふ……ご、ほっ……
 ──私……吐血、してるの……?
 内臓を、やられた……?
 ……血が、呼吸器の方に、回っている?
 息苦しいのは、そのせい?
 だと、すると……
 ──肺──
 
 

「──しゃああっ!」
「……!?……」

 ぼんやりした思考に、飛び込んでくる──憎悪。
 どういうわけか、それがわかった。
 危険が、迫っている。

 ふ、っ……

 何故か、身体が動いた。
 ふらつくようにだけれど、横薙ぎに振るわれた一撃に空を切らせる。

「な!?」

 目の前で、避けられた事に驚愕を浮かべる少女。

 かのじょは──かのじょは、だれ……?
 ハヅ、キ……

 そんな名前が、ぽつんと思い浮かぶ。

「このっ!」

 次々と繰り出される爪を、私は幽鬼のように立ったまま避け続ける。その間、伏せた顔の奥では、微塵ほどもその行動に意識は割かれていなかった。

 はづき、って……?
 目の前の、この人……私を、殺そうとしている、相手……
 ころ、す……?
 この人に、刺されたの……このままだと、危ない……

 私の心は、もう正常ではなかった。
 意識が、千々に乱れている。冷静な部分と、そうではない部分が──まるで、『私』と『わたし』の如く、別々の思考を持って、私の中で交互に話し掛けてくる。

 あれ……わた、し、どうしようと、してたっけ……?
 逃げるの……そう、でしょ……?
 そう、だった……?
 逃げて、教えないと──
 おしえる……?
 みんなに……
 みんな、って……? だれ、のこと……?
 家族……
 かぞ、く……? だれ……?
 千鶴、姉さん……梓姉さ、ん……初音……
 おねえ、ちゃん……? ……いもう、と? しまい……?
 耕一、さん……
 こう、いち……さん……

 ドクン!

 鼓動が、一つ鳴った。
 ぼんやりと思い浮かべた四人の姿だけが、乱れた思考の中はっきりと浮き上がる。

 そう、だ……
 ──伝え、ないと……

 本当にそう考えたのか、どうなのか。もうはっきりしなかったけれど──
 白濁した思考の中、私の躯は雪を蹴って舞い上がった。
 
 

「──追うのよ!」
「逃がすかぁっ!」

 はぁっ、はぁっ……

 追い縋ってくる。今の私じゃあ、振り切れない……
 私の周囲、取り囲むようにして闇を駆ける影の群れ。
 その影が揺らめき、白い爪が闇を引き裂く度、私の身体のどこかに小さな衝撃が走る。
 頬、肩、腕、背中、お腹、太腿……
 痛みは、もうほとんどなかった。生理の時のような頭の重さ以外は、鈍痛とその痕に残る灼熱した液体、それが急速に冷やされていく、ただそれだけ。それらに比べれば少なくとも、今負わされている怪我は、大したものじゃない。
 けれど感覚が、怪我の深さに反比例して無くなってゆく……
 今や私に捉えられるのは、傷口に触れる心地良い白銀の冷たさしかない。
 それでも……私は、足を止めなかった。
 私を前に進ませているのは、たった一つの想い。
 知らせなきゃ……!
 姉さん達に……初音に……
 耕一さんに……!
 降り積もる雪に赤い涙が混じり落ち、それが白い大地を朱色に染め上げていく。時折視界の端に映る私の服は、夜目にも鮮やかな鮮血の紅。闇に舞い散るのは、紅い雪。

 はあ……はぁ……ふ……ぁ……
 息遣いが荒く、細くなってゆく。次第に、わたしの中の『私の意思』が薄弱として来ている。今わたしを動かそうと反応するのは、危険で強力な、荒ぶる本能。

「ええいっ! <シオン>、さっさとそいつを殺して!」

 ──なにか、来る。人じゃ、ない。
 わたしの前に、鈍い銀色の塊が現れた。伸びる牙が、わたしの頭を噛み砕こうと迫って来る。

 ──邪魔。

 わたしは、左手をそのまま、突き出した。ずん、という感触と共に、腕が口蓋に、飲み込まれる。
 激痛。
 だけど、致命傷、じゃない。それで、充分……

 ──『斬』!!

 そのまま無造作に、鬼気が迸る腕を、振り下ろした。途端、巨躯を二つに、割られるように、獣は一撃で弾け飛び、塵芥(ちりあくた)と化し、消え去った。

「なっ……!?」
「なんだぁ!?」
「こいつ、まだこんな力が……!」

 ……うる、さい。
 騒がしい。
 わたしは早く、戻らなきゃならない、のに……

 ずきん……

 そこでぱちんと、意思が弾ける音。新たに左腕に受けた痛みの影響か、薄皮が一枚剥けたように、意識全体にかかっていた靄が拭い去られる。
 ……あれ……? 私、今、何を、していたんだった……?
 ──いけない。意識が朦朧として来てる……こんな所で、倒れるわけには……
 私は再び雪を蹴ろうと足に力を込めて──

 ずきん。

 あ……
 今まで無理矢理に押さえ込んでいた両足に負わされた傷の疼きに、一瞬、身体がよろめいた。バランスを崩し、倒れ込みそうになる。
 その、間際に。

「このおぉっ、いいかげんにっ……!」

 ど、があっ!

「あぐっ……!!」

 衝撃。
 視界が真紅に染まった。お腹を蹴り上げられ、私の身体が宙に浮く。錆びた鉄のような味が喉の奥からせり上がり、それはすぐに口の端に昇ってきた。

 ごぼっ……!!

 吐血。
 それが零れ落ちるよりも先に──

 ずしゃああっ!

 私の身体は、雪の上に投げ出された。

「かはっ……ふ、ぅっ……ぐ……!!」

 ……ごほ、こほっ……!

 横向きに倒れたまま、私はお腹を抱えて身体を丸め込んだ。
 痛、い……!
 痛い、痛い、いたい、いたい、いたい、いたいいたいいたい、い、たい……い、た……!!
 転がって血を吐いた途端、今まで感じなかった痛みが一気に襲ってきた。極度の緊張から押さえ込まれていた激痛が、蓋を開けて這い出てきている。

「ようやく、動かなくなったか……手間かけさせやがってっ!」

 ぼやけた視界、涙で滲んだ目の端に立つ人影。その一つが私の側に歩み寄ってきた。

 がっ!

「〜〜〜〜っ……!!」

 また、衝撃。
 胸元、最も深い傷痕を蹴り飛ばされ、私は仰向けに転がって身体を痙攣させた。

 ご、ふっ……!!

「ぅ……ぁ……はっ……!!」

 傷口を抉られ、焼いた鉄の棒を押し込まれた様な痛み。全身から力が抜けてゆく。唇から血が溢れる。瞳がどんどん曇ってゆく。
 だ、め……も……動け、な……

「おい、ハヅキ。どうやらこれでおしまいみたいだぜ」
「そうね……これで、とりあえず一人目はやっつけたわ……」
「あと、四人……いや、五人だったっけ?」
「たしか、五人じゃなかったかしら? ねえ、ハヅキ」
「うん。おじい……長老達の話からすると、そうだと思うわ」

 私の回りを囲んだ影が、何か言っている。言葉は聞こえるんだけど、脳がそれを理解できない。まるで、知らない言葉で話しているみたいに……
 私はもはやなす術もなく、雪の中に倒れる人形と化していた。体力も精神力も、ほとんど限界に近い。鬼のちからだけで身体を酷使して動き回っていたのが、ちからが途切れて反動が全身を縛り上げている。
 息が、弱って……ゆ、く……
 くる、しい……

「それにしても……とんでもなく綺麗だよな、この子。なんか、もったいなくねぇか?」
「ああ、確かに。こんな美人の女の子なら、お近付きになりてーくらいだ」
「なに言ってんのよ……この子が、あんた達を投げ飛ばしたりしたんだから。迂闊に触れたら、怪我するのはこっちの方よ」
「うっ、そうだった……だ、だけどよ……」

 耳だけが、言葉を拾い上げている。
 私の身体は、全然動かない。力が抜けて、指一本動かせない。

「でも確かに、あの力は凄かったな……僕達の数倍はあったよ。なにせハヅキの<シオン>を、一撃で吹き飛ばしたんだから」
「……もしかして、この子なのかな? ナガツキさんを殺したのって」
「どうだか……やったのは、二人いたっていう男のどちらかじゃないの?」
「けれど、あれだけの力……この子が一番強いんじゃないかしら。あんな力を持った鬼の一族なんて、他にいないわよ。長老やヤヨイさんが『手を出すな、干渉するな』って言ったのも、わかる気がするわ」
「それでも、数に任せれば俺達の勝ちだろ。全員でかかれば、なんとかなるぜ……こいつのようにな」
「いざとなったら、ハヅキには<シオン>もあるしね。決して、僕達が敵わない程の相手じゃないよ」
「そうね……兄様を殺した奴ら、全員やっつけてやるわ……復讐の、始まりよ!」

 に、いさま……? ふくしゅ、う……?
 その、ために……?
 だ、だとした、ら……
 つたえ、ないと……
 み、みんなに……この、ことを……

 暗い……闇が迫ってくる……
 あれ……夜って……こんなに……暗かった……?

「さて……こいつ、どうする?」
「放っておいても死ぬと思うけど、一応とどめを……」
「待て。誰か来──」
「人数が──」
「ちっ。しょうがな──」

 耳が、遠、く……

 ちづる、ねえさん……
 あずさ、ねえ、さん……
 は、つね……
 こう、いち、さ……ん……

 闇に浮き上がった、四人の笑顔を最後に……
 私の意識は、混濁した闇の底に沈んで行った────
 
 
 

第2章

目次へ