ボーン・・・ボーン・・・ボーン・・・
古めかしい柱時計の音が鳴り響く間、みんな黙っていた。
今日が終わった。
・・・なんて長い一日だったんだろう。そう思わずにいられない。
しかし、まだ夜は終わっていない。
初音ちゃんと崩れ落ちるヨークから脱出し、そしてその帰りに輝く光の船――新たなヨークを見たこの夜は、いまだこの屋敷を深く閉ざしている。
今朝見た悪夢の中で、俺は朝を待っていた。朝が来れば、目覚められるから・・・。
今は永遠に思えるこの夜も、朝が来れば終わる。
でも、いま俺達の上に降りかかってきた悪夢のような現実は、朝がきても終わらないのだ。
――いっそ夢なら、今夜の全てが夢ならどんなにいいだろう。
鬼の血も、掟も、エルクゥも次郎衛門も何もかも無い、普通の従兄弟として目覚められたらどんなにいいだろう。
・・・でも、それこそ夢だ。
洞窟の中で感じた恐怖、怒り。初音ちゃんを愛する気持ち、交わした約束。目を灼いたあの光。
その全てが、これが現実だと俺に教えている。そして俺はそれから逃げようとは思わない。
千鶴さんはいま、俺の忘れていた過去の事実を教えてくれている。
それを知ることが、柏木の掟を知ることになるという。
俺は親父の死の真相を聞き、親父の遺志を継ぐ事を決めた。
親父が掟に従って生き、掟に従って死んだのであれば、俺もまたその掟を知りたいと思う。
その掟を、俺は親父から教えられることなく育った。千鶴さんは、それは俺を護るためだったという。
親父は俺を何から護ったんだろう。親父が体現した柏木の掟とは何だろう。それは俺に何を命じるのだろう。
親父と俺を引き離した八年の空白を、いま千鶴さんの言葉が埋めてゆく。
「・・・みんなが水門に遊びに行っているとき私は部活で学校に行っていて、帰ってきたのは丁度、耕一さんがみんなを連れてこの家に帰ってきた直後でした」
真夜中を告げる時計の音が最後の余韻を消した頃、千鶴さんはおもむろに話し出した。
「お布団に寝かされて苦しそうな呼吸をしている耕一さんを取り囲むように、叔父様はじめみんなが座っていました。何があったのかを聞きだそうと父達が梓達に質問していましたが、泣く梓は興奮して耕一さんの名前を繰り返すばかりでなかなか説明してくれませんでした。・・・それでも、父達は時間を掛けて聞き出してようやく何が起きたのかを知ったようです。しかし父達はすぐにはそのことを話しませんでした。私もまた、耕一さんの看病や母達の手伝い、加えて夕方には梓までが発熱して寝込んだので、気になりながらも用事に追われその日は床につきました」
千鶴さんはそこに過去が映し出されているかのようにテーブルにおいた掌を見つめていたが、その実その視線はどこにも焦点はあっていなかった。
千鶴さんはいま、八年前の景色を見ている。
千鶴さんの中に、見ることができるほどに焼き付けられた過去とは何なのだろうか。
俺は千鶴さんの言葉に耳を澄ませた。その言葉が、俺の中に映し出されるように目を閉じて・・・
「翌朝、私は母に起こされました。父が奥の部屋で待っていると母は言いました。大事な話がある、と・・・」
奥の部屋とはつまり、今俺が使っている部屋のことだろう。
「・・・部屋には、父と叔父様、そして叔母様の姿がありました。母の姿はありませんでした。父と叔父様は、顎を引いて腕を組んだまま呼吸すら忘れたように何かを考えているようでした。叔母様は真っ赤な目をしきりに拭っておられました。朝とはいえ強い夏の光が射し込んでいるのに、その部屋はとても暗く感じました」
見えるようだった。
肌を焼く強い夏の光の射し込む部屋に集まり、押し黙る男達。声もなく泣く女。立ちすくむ少女・・・
きっと今日のように騒がしい蝉の鳴き声が、沈黙を痛いほど際だたせていたことだろう。
「・・・悪い予感がした、と言ったら出来過ぎだとおっしゃいますか? でも、その時本当に、私は悪い予感がしたんです。なにかとても良くない事がおきたんだ、楽しい平和な毎日は終わったんだ・・・と言うことが、何故か前もって教え込まれていたかのように腑に落ちました。だから、父がこう言ったとき、それほどショックを受けはしませんでした――『耕一君が鬼になった』。・・・叔母様が、低く泣き出されました」
お袋が・・・
一瞬、お袋の姿を思い出して胸が痛んだ。
・・・しかし、ここである重要なことに気が付いた。
お袋は、柏木の鬼の血のことを知っていたのだ。
それはつまり俺の中に眠る鬼の存在をも知っていたということだろう
親父が隆山に移ってから、時折一人で泣いていたお袋。
それは親父のせいで泣いているのだと思って居たけれど・・・もしかすると・・・
「父の言葉を継いで、叔父様が耕一さんの身に起こった事を詳しく説明して下さいました。溺れそうになった耕一さんが鬼の力を目覚めさせて脱出したこと、足に怪我をしたこと、鬼の本能のままに行動しそうになって、それを辛くも抑えている現在の状態について・・・。鬼の事については少しは教えられていましたが、実際に柏木の男子が鬼になるということの意味を知ったのはこのときでした。
やがて叔父様の説明が終わると、父は私にこう言いました。――柏木家の長女として、お前に話しておかなければならないことがある。これから話すことは、梓達にはしばらく黙っていて欲しい・・・そんな前置きで、父の話は始まりました。」
梓が顔をあげて千鶴さんの方を見た。
楓ちゃんも千鶴さんを見つめていた。
それに気が付いたのか、千鶴さんはふいと目をあげ、手を膝の上で重ねた。
「父の話はその夏のさらに二年前、私達のおじいさまが亡くなられたときの事から始まりました。おじいさまは鬼を制御できた数少ない男子の一人で、自分がこの歳まで鬼の覚醒を抑えてこられたのはおじいさまの存在が大きかったと父は言いました。そのおじいさまが亡くなられた頃から少しずつ自分の鬼が不安定になりつつあったが、それでもその変化は緩やかなものであったと・・・」
ふいに千鶴さんの言葉が過去形になる。
上げたその視線の先で、千鶴さんの唇は静かに言葉を刻んだ。
「・・・父はその時、自分の鬼の覚醒を告白しました。昨日まで眠っていた鬼が突然目覚め、抑えようもなく動きだしたことを私に告げました」
むしろ淡々した口調で打ち出された言葉は、しかし俺の心の深いところを貫いていった。
俺が倒れて寝込んだ翌朝に、叔父さんの鬼が・・・
おれはふと、先に考えた八年前を貫く現象「鬼の連続覚醒」の事を思い出した。
胸騒ぎがした。最悪の予感がした。
「・・・父は、夢を見たのです。本能の解放を求め、狩猟と殺戮を賛美する・・・そう、耕一さんが今朝見たのと同じ様な夢を。父はその突然の覚醒の原因が、耕一さんであると言いました」
・・・吐き気がした。
なんてことだ。
「耕一さんは水門で覚醒した鬼を押さえ込むことには成功しましたが、それは完全なものではありませんでした。耕一さんはその幼い体から激しく鬼の気を放出しており、それがあの高熱の原因であったようです。おじいさまが亡くなり不安定になっていた父の鬼は、その鬼の気に共振し・・・父にはそれを抑える力はありませんでした」
そして一呼吸ほどの間を置いてから、千鶴さんは次の言葉を静かに紡いだ。
「・・・そしてそれは、叔父様も同じでした。鬼に対する耐性の違いゆえに自覚こそ遅れましたが、叔父様の鬼は間違いなくこのときに覚醒したのです」
声を震わせるでも泣くでもなく、ただ淡々と無表情な声のままそういった。
それが一層、俺をすくませた。声を荒げ、泣きわめき、ののしってくれた方がまだしも楽に思えた。
酷く気分が悪かった。のどの奥がせり上がり、嘔吐寸前の気分が俺の頭を垂れさせた。
八年前の俺の「覚醒」が、その後に続く連続覚醒の引き金になったのではないかとは考えないでもなかった。
しかし、それが可能性のひとつとしてではなく厳格な事実として千鶴さんの口から伝えられると、それはまるで被告に有罪を言い渡す判決の響きをもって俺をしたたかに打った。
有罪・・・いや、本当にそうなのだ。
俺は千鶴さんの両親を殺したのも同じなのだから。
そして――親父を死に至らしめたのも、俺と言うことになる。
不意に誰かが動く気配がした。目を上げてみると梓が立ち上がっていた。
深くうつむいたその表情はどこか虚ろで、心や感情が体の一番奥に引っ込んでしまったかの様に見えた。
「・・・・・・」
梓は黙ったまま部屋を出ていった。
蛇口をひねる鋭い音がして、激しい水流の響きがすぐその後を覆った。
「・・・すいません。ちょっと見てきます」
す・・・と音もなく立ち上がった千鶴さんが、再びドアの向こうに消える。
部屋には俺と楓ちゃんだけが残された。
俺は楓ちゃんの方を見やったが、うつむいた楓ちゃんは夜そのもののように静かで、何も応えてはくれなかった。
梓は親父の真相を知らなかった。叔父さん・・・つまり自分の父親が鬼をもっていたことも、死因がその鬼のせいであったことも今日知ったばかりだ。
それが今その上に、その鬼が目覚めた原因が俺であることを知らされたのだ。
有罪――俺は自分の罪のことを思った。
そしてそれはおそらく、遙か昔の自分・・・次郎衛門の罪でもあるのだ。
流しを叩く水の音に紛れて、梓の声がとぎれとぎれに聞こえる。
吐いているのか、慟哭なのか。獣のように低く絞り出されるその声は、俺の心をかき乱した。
激しい水流に水道管が立てる細い悲鳴まで俺と次郎衛門の罪を糾弾しているようで、俺をいたたまれない気持ちにさせた。
消えてしまいたかった。それで罪が消えるとは思わないけれど、梓や千鶴さんの顔を見る勇気がなかった。
従姉妹たちは俺のことを許してくれるだろうか。
千鶴さんは、梓は、楓ちゃんは、そして――初音ちゃんは・・・。
――その時、ふと初音ちゃんの声が耳の中によみがえった。。
あの光の船を見たとき、初音ちゃんは昔の自分――リネットの犯した罪のゆえにおびえていた。
次郎衛門にエルクゥの武器を渡し、結果的に同族を滅ぼすことになってしまった裏切りの罪。
そしてその罪が、新たなヨークを招く結果になったと思っていた。
俺はそんな初音ちゃんに、悪いのは次郎衛門だ、といった。
そして約束した。必ず護る、と。 その気持ちは、今も変わらない。
俺の中によみがえった初音ちゃんの声は、洞窟の中での事を思い出させた。
鬼たちの支配から抜け出した後、昔のことを思い出したと言った初音ちゃん。
その時、初音ちゃんはリネットの罪を思い出したのだ。そして俺はそんな初音ちゃんの姿を見て、次郎衛門の記憶をよみがえらせた。
次郎衛門は、悲しむリネットの姿をみて激しく悔いていた。
そして自分のしたことが、リネットにまで罪を背負わせることになった事を知った次郎衛門は決意する。
一生かけても、この罪を償おう、と・・・。
そんなリネットと次郎衛門の姿が、今の俺と初音ちゃんの関係にオーバーラップした。
リネットと次郎衛門。二人の罪人の子孫が俺達柏木の一族。
原罪、という言葉を思い出す。
初めの二人が犯した罪のゆえに、柏木の血を引く者達ははじめから罪人なのだ。
鬼の血を引くことは、その罪を背負うこと。由来五百年、柏木の者達はその鬼の血ゆえに苦しんできた。
しかし、また一方で、その罪――鬼の血を掟によって護ってきたと千鶴さんは言う。
『きっと、いつか必要になる時が来るのだろう』 と親父はいったという。
全ての苦しみは、全ての悲しみは、その時までの「贄」なのだと・・・。
鬼の血は、貪欲に贄を求める罪であるとともに、その罪を贖うための唯一の手段、希望だったのだ。
そして今、俺はこのことを知っている。
次郎衛門とリネットの記憶を持つ者が同じ時代に転生した今が。
古いヨークが滅び、新しいヨークが到来した今が。
役者がそろい、舞台が整った今が――今が「その時」であることを。
五百年前の過ちを、やり直すのだ。
目が覚めたような気分だった。
俺はうなだれていた頭を上げ、目を見開いた。
そして決意した。
俺はみんなを護る。力を尽くして、命の限り。
たとえみんなが俺を許してくれないとしても、俺はみんなを護り通そう。
そして五百年前の次郎衛門の罪を完済し、罪ゆえに生まれた贄の悲しい歴史を終わらせるのだ。
それが、今この時に柏木耕一として存在する俺の、存在意義なのだ。
決意は力を与えてくれた。
静かな、でも揺るぎ無い力の源が俺の中に現れた。
そして俺はその中に、初音ちゃんの姿を見た―――
しばらくして、梓を連れて千鶴さんが帰ってきた。
梓は、やはり泣いたのだろう。真っ赤な目と顔をしていた。
梓のそんな顔を見ると、深い罪悪感が俺の胸を締め付けた。
でも、俺はあえてそれを見つめた。罪から、その結果から、目を背けるのはもう止めたのだ。
「おまたせしました、耕一さん。――梓、もう少しだから座って聞いていて」
幼児に言い含めるような優しい千鶴さんの言葉に、梓は黙って頷いて元の席に座った。
千鶴さんも自分の席に座り、そして髪に手をやりながら言った。
「・・・それで、どこまでお話ししてましたっけ――」
「俺の鬼のために、叔父さんと親父の鬼が覚醒したというとこまでだよ。千鶴さん」
俺はすぐに答えた。
目を上げて、まっすぐに千鶴さんの目を見てそう言った。
俺の反応に千鶴さんは少し驚いた顔をした。そして目を細めて俺を見つめた。
「・・・少し・・・変わられましたね。耕一さん・・・」
目を細めた千鶴さんは、何故か微笑んでいるように見えた。
「うん・・・ちょっと、いろいろ考えて・・・」
俺は言葉を濁した。
俺が変わったとしたら、それは俺の決意の為だ。そしてその決意によって現れた力のせいだ。
でもいまはその事については黙っておきたかった。言わなければいけないことだけど、いまはその時じゃない。
今は千鶴さんの話を聞いて、親父の贄の事を知ることが先だ。
親父の贄、それもまた、俺の罪。
俺はそれを聞いて、それを心に刻み込ま無ければならない。
「そうですか・・・」
俺の答えに千鶴さんは頷いて、深く追求してこなかった。
もしかしたら千鶴さんは全てを理解しているのではないかと一瞬思った。
でもそれは違う。俺の中の力の事に気が付いているのなら、もっと別の反応があるはずだ。
千鶴さんはきっと、その明晰な洞察力で俺の表面的な変化から「何かが変わった」事を悟ったに過ぎないのだろう。
「――では、続きをお話しましょう」
短い沈黙の後、千鶴さんはそう言って話の続きを語り始めた。
「・・・父は鬼を目覚めさせたので、耕一さんの中の鬼の状態を見ることができました。一夜明けた耕一さんの鬼はすっかり落ち着いており、しばらく目覚めることはないだろう、と父は言いました。しかし、一刻も早くこの隆山から離れることを叔父様に勧めていました。目覚め、うごめき始めた自分の鬼が今度は逆に耕一さんの鬼を刺激してしまうことの無いように・・・。叔父様はそうするつもりだ、と言われました。そしてその翌日、回復した耕一さんを連れ、叔父様と叔母様は帰って行かれました」
覚えている。
熱が引いた朝、俺はみんなによくお別れも言えないまま、親父に引っ張られるようにタクシーに乗り込んだ。
隆山で過ごす予定だった期間はまだ数日残っていたのに、どうしてこんなにあわただしく帰らなきゃ行けないのかと詰め寄ると、お袋は「耕ちゃんお熱出したからね」などと言ったきり、黙ってしまった。俺が両手を振り回し、もうすっかり大丈夫だとアピールすると、お袋は哀しそうな顔をして俺の頭を抱いた。
お袋にそんな風にされたら、俺はもう何も言えなかった。
「隆山から帰られたその頃、叔父様は最初の夢を見たようです。そしてすぐに悟られたそうです。自分はこの鬼を抑えきれないだろう事を・・・。叔父様は自分の鬼の気が耕一さんを刺激することがないように、できるだけ接触を持たないようにされました」
元から親父は忙しい仕事をしていたけれど、隆山から帰った頃から異様に家を空けることが多くなった。
夜に家に帰ってくることが滅多になくなった。
出張だ、とお袋は俺に言っていたがそれが嘘であることぐらい子供でも分かった。
隆山の叔父さんが亡くなったとき、親父は俺を連れていかなかった。
だからそれから数ヶ月後、親父が隆山に住むことにしたときも、俺とお袋は隆山には行かないことがわかったときも、気持ちは冷めていた。黙って何も言わないお袋に、俺も何も聞かなかった。
俺達は親父に捨てられたんだ、とそう思っていたから・・・。
でも、今。
俺は理解した。
隆山から帰ったときから、親父の贄は始まっていたのだ。
八年前に目覚めた俺の鬼のために・・・
「・・・隆山から帰ってから、私達の両親が死に叔父様が移ってこられるまでの間に叔父様の身に起きたこと、そして叔父様がなさったことを良く思い出して、そして考えて下さい。それは、叔父様が鬼を覚醒させた柏木の男子として耕一さんと一緒に過ごされた、つまり掟を耕一さんに伝えることのできた、あまりにも短い、でもこの上なく重要な時間だからです」
親父が隆山に移ってからの空白にではなく、移る前の空白にこそ親父の贄――掟が見えてくる。
千鶴さんは、柏木の掟とは、それを体現する者と共に暮らすことによって伝えられるものだと言った。
でも、俺は故意にその為の時間を与えられなかった。
一緒に居られたはずの短い期間を、親父は空白で埋め尽くした。
親父はそんな不器用なやり方で護ったのだ。俺と、そして俺の中の鬼を。
そのあとの八年間はその延長線なのだ。
「やがて叔父様はこの隆山に移ってこられました。それは表向きは鶴来屋の会長であった父のあとを継ぐためと言うことになっていましたが、それは本当の理由ではありません。それでは叔父様が耕一さんや叔母様と別れて暮らさなければならない理由がありません。叔父様が一人で隆山に来られた本当の理由は耕一さんを護るため・・・耕一さんの鬼を護るためだったのです」
鬼を護るための親父の行動。
一緒に暮らせた短い日々の最後に親父がしたこと。
それが、別れることだった。
掟。
鬼の血を護る、柏木の掟。
――ああ、こういうことだったのか・・・
「・・・それが、八年前の真実・・・なんだね」
千鶴さんはこくりと頷いた。
千鶴さんが伝えてくれた親父の生き様が、ひとつの見事な結晶になって俺の心を震わせる。
俺は熱くなった目頭を押さえ、しばし瞑目した。
そして親父が自分の鬼と俺の鬼のために払った贄の大きさを思う。
「千鶴さん・・・俺、分かったよ。柏木の掟・・・」
「耕一さん・・・」
親父は俺に何も言わなかった。
俺の顔を見ようともしなかった。
電話さえ掛けてこなかった。
そんな、これまで親父を恨む原因でしかなかったこと全てが、親父の贄だったことに気が付いた。
一人息子から恨まれ、憎まれることを知りながら、黙って隆山へ去った親父。
会って誤解を解くことさえできず、自らの鬼と壮絶な戦いの果てに自殺した親父。
鬼を目覚めさせてからの親父の人生は、贄そのものなのだ。
そして、贄をささげる姿――それが掟なのだ。
親父はそれに従い、そして死んだ・・・。俺はその事実を深く心に刻み込んだ。
そして改めて思う。自分が無数の贄の上に生きていることを。
そしてその全てが、今この時の為にあったことを。
そして俺はもう一つのことにも気が付いた。
何故、今夜。千鶴さんは俺に柏木の掟を伝えたのか。
千鶴さんだって、いまが非常事態であることは分かっているはずだ。
なのになぜ、こんなにも時間を割いてまで俺に掟を伝えようとしているのか。
――答えはすぐに分かった。千鶴さん自身が、答えをすでに言っていた。
でも、それでも・・・
「・・・千鶴さん」
俺は目を上げて、千鶴さんの目を正面から見据えた。
「――俺は、掟には従えない」