八章 長い夜の終わり  
 

「俺は、掟には従えない」

 言葉は意図したよりも冷たく響いた。
 千鶴さん達の表情は驚きに凍っている。
 無理もない、俺は親父の死を否定するような事を言っているからだ。
 しかし、俺の言葉はそんなに単純な意味ではない。子供のわがままではないのだ。

「誤解しないで欲しい、俺は掟に逆らっている訳じゃないんだ。俺は、従えない。掟に従うことが出来ないんだ」
「意味が…分かりません。耕一さん、あなたは一体なにを…」
「それに答える前に、ひとつはっきりさせて置くべき事があると思う」

 困惑した表情を浮かべる千鶴さんの言葉を遮って、俺は口元を引き締めながら言った。

「千鶴さんははじめ、俺に聞きたいことが在ると言ったね。でも、それを俺に尋ねる前に俺に話しておきたいことがあると言った。それが、親父の贄…つまり柏木の掟だった。親父と別れて暮らしたため、掟を知ることなく育った俺に掟を伝え――そして、その上で何かを俺に問うつもりだった」

 俺の言葉に、千鶴さんはこくりと頷いた。
 いまや千鶴さんの顔にあるのは驚愕でも困惑でもない。
 恐るべき敵と対峙するときの戦士の顔だ。
 細められた目の奥ではすさまじい勢いで頭脳が回転している。

「その質問とはなにか、というのも後にしよう。その答えを出すためにはもう一つの疑問について考える必要がある。その疑問とは、どうして千鶴さんは今夜突然そんな話をしたのか、ということだ」

 千鶴さんの目がいよいよ鋭く引き締められ、ほとんど睨むかのように俺に向けられている。
 俺は敢えてそれを見つめ返した。

「…今夜は普通の夜じゃない。みんなも見たと思う。裏山に消えたあの光を。そして俺の鬼は今夜覚醒したんだ。親父の思い出話やただの単なる言い伝えを伝えるには、今夜は非常事態過ぎる。千鶴さんがわざわざ時間をとって俺に掟を伝え、その上で何事かを質問しようとしたその行動には、今、そうしなければいけない切羽詰まった何かの理由があるはずだ。そしてその理由とは千鶴さんが俺に尋ねる予定だった質問と、おそらくイコールで結ばれている……。そうでしょう? 千鶴さん」
「――はい」

 短く、斬るように鋭く千鶴さんは答えた。
 それはまるで居合いの一閃のようで、不思議な戦慄が俺を包んだ。

「初めは、耕一さんのなかに目覚めた鬼が、一体どっちの方向に目覚めたのか…そのことを聞こうと思っていました。良い目覚めだったのか、それとも叔父様のように悪い目覚めだったのか。その上でもう一つの質問をするつもりでした。より重要な…そうですね、耕一さんが言うとうり、切羽詰まった質問を。――しかし予定が狂いました。耕一さん、あなたは自分の鬼の覚醒を自覚しておられなかった。それでまず、あなたに自分の中の鬼の存在を自覚させなければいけませんでした」
「あのとき、千鶴さんは答えを言っていたんだね。『鬼を制御できなかったら自殺しろなんて事をいうために親父の死の真相を話した訳じゃない』 そして 『制御できないことが分かっていたら、殺している』……」

 すると千鶴さんはふふっと笑った。

「偽善ですね。結局は同じ事を言っているんですもの」
「じゃあ、やっぱり…」
「ええ、耕一さんの推測通り、私の最後の質問はこうなるはずでした。――『柏木の掟に従って、自らを贄として捧げますか』」

 ――つまり、死ぬ覚悟があるかと聞いているのだ。
 親父のように。いや、これまでの柏木の人間全てのように。

「――しかし、あなたの答えはNOでした。あなたは掟には従えないとおっしゃいました」
「従わないんじゃない。従うことが出来ないんだ」
「どう違うのですか?」
「従うことが出来るのにそうしないわけじゃない。初めからそんな選択肢はないんだ。…いや、もしかするとあるのかも知れない。でも、そうすることは何より卑劣で、愚かで、許されないことなんだ」
「掟に従うことが許されない…? 理解できません」
「――そのことを理解してもらうには、今がどういう時で、俺がどういう人間かということを理解してもらわなきゃいけない」

 今が贖罪の時であり、俺が全ての罪の源である次郎衛門の転生であることを。

「でもそのまえに、宙に浮いたまま答えが出ていない質問がひとつあるね。そっちの答えを先にだそうか」
「…あなたの鬼の事ですか?」

 その言葉に、梓と楓ちゃんがぴくりと反応した。
 俺は千鶴さんの明晰さに感嘆しながら、微笑みすら浮かべて言った。

「そう。俺の鬼が一体どちらに目覚めたのか。制御出来ているのか、それとも出来ていないのか…」
「耕一…さん…」
「耕一…」
「――耕一さん、まさかあなたは…」

 千鶴さんの目に驚愕が宿る。
 俺は頷いて言った。

「答えはもう出ている。俺は、鬼を制御できる」

 

「…気付いたのはついさっきなんだ。梓と千鶴さんが流しに行っている間、そのほんの数分間に俺はいろんな事を考え、そしてひとつの答えに行き着いたんだ」

 千鶴さん達は食い入るように俺を見つめ、俺の言葉に耳を澄ませている。
 楓ちゃんでさえ、もはや俺から目を逸らそうとはしていなかった。

「流しから帰ってきた時、千鶴さん俺に、俺が変わったといったよね。その通り、俺はその時変わった。その時得た理解、ひとつにして全ての答えが俺を変えたんだ。この鬼の力の事も、その時に…」

 体の奥に今も感じる、静かな、しかし揺るぎない力の事を思った。
 この力は柏木の罪と希望。そして俺にとっては運命だったのだ。
 制御出来る出来ないという問題ではなかった。この力は俺を待っていたのだ。

「…実際、答えはひとつなんだ。俺が掟に従えない理由も、鬼の力を制御できる理由も、同じただ一つの理由――『今がいつで、自分は何者なのか』という質問の答えによって説明できる。そしてその答えは、裏山に消えたあの光が一体何なのかということの答えでもある」
「全ての答え…」
「俺がこの答えを得ることが出来たのは、俺が――俺と初音ちゃんが裏山で起きた不思議な出来事を通して、あることを知ったからなんだ。…いや、思い出したというべきか…」

 そう言った途端、激しく身じろぎした影があった。楓ちゃんだった。
 信じられないものを見るかのように見開かれた瞳はかすかに震え、畳についた手も震えている。
 顔が真っ青だ。酷く辛そうだ。なのにまるで遠い昔に死んだ人を見たかのように俺を見つめ続けている。

「どうしたの楓、あなた顔色が…」
「姉さん」

 声を掛けた千鶴さんの方を振り向いた楓ちゃんは、ただその目を見て頷いただけだった。
 しかし千鶴さんはそれで何かを悟ったようで、息を呑んだ顔で俺の方を見た。
 そして目を伏せ表情を消し、そうなの…と低い声でつぶやいた。

 その時、俺は気が付いた。
 帰りしな初音ちゃんが俺に言いかけた言葉を思い出す。
 『リネットがこの世に生まれ変わったように、エディフェルもこの時代に生まれ変わっているの』
 初音ちゃんは不安そうな声でそう言った。
 『エディフェルは――』

 ――エディフェルは、楓ちゃんなのだ。 

「千鶴姉、楓……耕一…」

 その時、梓が俺達を呼んだ。わけがわからないといった顔をしている。
 それで俺ははっとした。今はこのことについて深く考えている時間は無い。
 そしてその時期でも無いだろう。俺はまだ次郎衛門としての記憶の覚醒が十分ではない。
 何より、俺が――柏木耕一が愛しているのは、初音ちゃんなのだから。

「――続けるよ」

 俺はわざと素っ気なく言った。
 千鶴さんははっと目を上げ、一瞬楓ちゃんを見やってから頷いた。
 楓ちゃんは俺の顔から視線を落とし、床の一点を見つめながら小さく頷くように首を動かした。
 俺はなにか声を掛けたくなるのをこらえて、努めて冷静に語り始めた。

「俺と初音ちゃんが裏山でどんなものを見てどんなことを知ったのか、全部を伝えるには今夜は短すぎる。だから大事なことだけを伝えたいと思う。それと千鶴さんが今夜教えてくれたことを合わせると、答えが浮かび上がってくると思う。今がどんなときで、俺が何者なのか…。みんなにその答えを知って欲しい。それは俺だけじゃない、鬼の血を受け継ぐもの全てにかかわることだから」

 言って、そして思い出した。
 裏山からの帰り、あの光が俺に与えた衝撃を伴った直感のことば。
 『鬼の血を受け継ぐものの戦いの幕開け』
 理解を得た今なら分かる。あの光は、確かに幕開けを告げる合図だったのだ。
 そして俺は知ったのだ。長い贄の時代が終わり、贖罪の時が来たことを。

 

 それから俺は語りだした。

 裏山で見た鬼の亡霊。よみがえった記憶。500年前の悲劇の顛末。
 俺が次郎衛門であり、初音ちゃんがリネットであること。柏木の鬼の血はこの二人から始まったこと。
 古いヨークが滅んだこと。そしてさっきのあの光が新しいヨークの到来であること。
 それら全てを俺は出来る限り簡明に話した。千鶴さん達も余計な口を挟まず真剣にきいてくれた。
 初音ちゃんとの関係についてはあえて触れなかった。無用に混乱と衝撃を与えるだけだと思ったからだ。
 いま、この夜の間に俺がしなければならないこと。
 それは、これから始まるであろう長く苦しい戦いにみんなを備えさせることだ。あの光が告げたのは俺だけの戦いの幕開けではない。『鬼の血を受け継ぐもの』全てに戦いが臨むということだった。そして鬼の血は、千鶴さん達にも流れている。

 この贖罪の戦いは、次郎衛門とリネットの子孫全てに降りかかる。
 ――そして今が、その時なのだ。

 

「……まるでアダムとイブですね」

 話を聞き終わった千鶴さんはそんなことを言った。

「アダムとイブって……旧約聖書の?」
「そうです。最初の人間アダムとイブが罪を犯したために、人は楽園から追放され罪と死を生まれながらに背負う事になった……それを、神学では原罪というのだそうです」
「さながら次郎衛門とリネット…と言う訳か」

 だとしたら、罪はどれほど重いのか。
 人がいくら死んでも、死は無くならない。原罪が償われない限り。そして、贄は償いではない。
 柏木の人間がどんなに鬼の血のために苦しんでも、それは鬼の血をなだめることは出来なかった。ゆえにそれは贄――報い無き犠牲と呼ばれるのだ。
 無数の贄は一見矛盾するただ一つの目的のために捧げられてきた。
 それは、いつの日かくる、鬼の血を必要とする時のために。
 可能性をバトンする。それが贄を捧げる理由であり、掟そのものなのだ。

「…今までの話で、もう大体分かってもらえたと思う。今がどういうときで、俺達が何者なのか」

 俺は、みんなの顔を見渡した。
 どの顔にも緊張がみなぎっている。

「だったら、最初の俺の答えの意味も分かってもらえると思う。俺が掟に従えないと言った理由…」
「私達が、鬼の血という原罪のバトンを終わらせるから…ですね」
「そうさ、親父や叔父さんやそのほかたくさんの鬼の血のために死んでいった人たちの犠牲を無駄にすることなんて許されないことなんだ。掟を、贄を…500年前の罪ゆえの全ての悲しい歴史を、終わらせなければいけない」

 罪を償い、鬼の血の呪いを終わらせる。
 俺達はそれが出来るゆえに贄ではないのだ。贄になってはならないのだ。
 俺達がただ無為に時を過ごし、または無駄に命を落とし、罪を償うことなく贄となるならば、それこそ全ての贄の価値を無にすることだ。
 俺達は贄ではない、古い掟のもとにはいない。しかし、俺達は全ての贄に報いるためにここに存在し、ただ一代限りの掟に縛られている。
 それが償いなのだ。そのために戦わなければならない。
 そしてその責をもっとも負うべきなのは、初めの罪人である次郎衛門…その転生である、俺なのだ。

「――いきなりの話で、信じられないかも知れない。でも、間違いないんだ。千鶴さんだって気が付いてるはずだよ。何かが始まったことを。あの光がそれを告げていることを。それは戦いだ。今俺達がしなければいけないことは贄になることじゃない、戦うことなんだ。戦って償うことなんだ。俺達に流れる鬼の血は…そのためにあるんだ」 

 いつしか俺は拳を固く握りしめていた。
 気を鎮めるように大きく呼吸をして、俺はその場に座り直した。
 短い沈黙の後、千鶴さんが言った。

「――耕一さん。あなたの言葉を信じます。あなたが戦うものと私も戦います。……きっと、皆も同じだと思います」

 梓と楓ちゃんがそれにあわせて頷いた。
 俺はなにも言わず、ただ目を見て頷き返し、みんなの意志を受け止めた。
 千鶴さんは続ける。

「『きっと、いつか必要になる時が来るのだろう』――叔父様は、やはり正しかったんですね」

 それは贄の意味について答えた親父の言葉だった。
 親父は、俺のように特殊な体験によってではなく、過去の記憶によるのでもなく、ただ乏しい資料と自らの体験を通しての思考だけで、この結論に到達していた。自らは鬼に蝕まれ死と狂気に迫られながら、なおも自らの理不尽な死をさえも冷静に見つめ、分析し、それを受け入れる――俺は親父がしたことの凄まじさに、戦慄に似た感覚を味わった。
 親父は、俺がそれであることを知っていたのだろうか。鬼の血が必要とされるときがもうすぐであることを知っていたのだろうか。ふと湧いた疑問を、俺は苦々しく否定する。
 ――知っていたら、俺達が別れて暮らす事もなかったのに。
 やはり八年前の俺の覚醒が、全てを狂わせている。あのとき俺が覚醒しなければ、親父も叔父さん達もあれほど急に覚醒することもなかっただろう。悲しみも苦しみも、もっと少なくて済んだだろうに。
 ……これは、どうあがこうと、俺の罪だ。俺だけが背負う罪なのだ。

 隣の部屋から響いてきた音が、時の移ろいを俺達に知らせた。振り向くと時計は一時を指していた。

「まだ一時だなんて……なんて長い夜……」

 遠い目で時計をみながら千鶴さんがそうつぶやいた。
 俺と同じ事を考えていたようだ。

「…今夜はいろんな事がありすぎた。とりあえず、大事なことだけは確認出来たから、今夜はこれで休んで、具体的なことはまた明日にでも話し合おう」

 俺がそう言うと、千鶴さんも頷いた。

「そうですね――…ですが、最後にもう一つだけ…」

 千鶴さんは俺を見つめて、言葉を押し出すようにゆっくりと言った。

「――耕一さん。あなたの鬼を見せて下さい」

 

「姉さん……っ!!」
「千鶴姉っ……!」

 呆然とした一瞬の後、楓ちゃんと梓が千鶴さんの方に向き直り顔を凝視する。
 妹たちの視線を千鶴さんは無視し、ただ俺だけを見つめたまま言葉を継いだ。

「お願いします、耕一さん。あなたの、制御されたというその鬼を、どうかこの目に見せて下さい」

 俺の目をみたまま、静かに千鶴さんはそう言った。
 俺が口を開く前に、梓が千鶴さんに詰め寄って言う。

「ち…千鶴姉ッ! 信じるって……耕一を信じるって言ったばっかりじゃないか!!」
「信じてるわ! 耕一さんは鬼を制御できると信じてる――疑ってる訳じゃないの」
「だったらなんでそんな……」
「――梓」

 俺が呼ぶと、梓は首だけで振り向いた。
 すっかり興奮したようすの梓に、俺は小さく首を振って見せた。

「そうじゃない、千鶴さんは俺を試すために鬼を見たいと言ってるわけじゃない。――そうでしょう、千鶴さん」

 俺が目で問うと、千鶴さんは小さく頷いて答えた。
 その、わずかにおびえるような、それでも俺から目を離さないひたむきな仕草を見て、俺は確信を強めた。
 千鶴さんが俺の鬼……制御された鬼を見たいと言った理由を俺は理解できた。
 それは、理性ではない。感情の問題なのだ。

 叔父さん、叔母さん、そして親父……千鶴さんの愛した人たちはみな鬼の血のせいで死んでいった。
 そしてつい今まで、千鶴さんの中では俺までも鬼の血のせいで死んでしまう人の中に数えられていたのだ。
 千鶴さんはさっき俺にこう言った。
 「鬼を制御できないことがわかっていたら殺しています」
 これはある意味、千鶴さんの願いだったのかも知れない。
 鬼の血を継ぐ柏木の長女としての、掟を伝えまた護る者としての、義務――。
 千鶴さんは、それにもう耐えられなくなっていたのかもしれない。そして、どんな形にせよ解放されたがっている。

 千鶴さんにとって苦しみと悲しみの象徴である鬼の血を俺が制御する所を見るのは、掟に苦しめられた長く辛い日々が終わることをしるしづけるものなのだ。
 いつかくる「その日」まで鬼の血を護るために定められた掟は、ここにその役目を終えた。
 その日はついに到来し、鬼の血を継いだ最後の男子が鬼を制御している。
 俺の鬼を見たいという千鶴さんの願いは、五百年もの間涙と血で書きつづられた柏木の掟の歴史に終止符を打つことと同義なのだ。
 いや、千鶴さんは掟からはすでに自由なのだ。
 だから、それは儀式。
 千鶴さんを苦しめた掟が終わり、新たな、ただ俺達一代限りの掟が生まれたことを象徴する儀式なのだ。
 それを見るときにようやく――千鶴さんの中で、何かが終わるのだろう。

「……いいよ。ちからを見せよう」

 息を深く吸って、気を整えながら言った。
 千鶴さんがお願いしますと頭を下げた。
 俺がテーブルに手をついて立ち上がると、梓と楓ちゃんがびくっとして俺を見つめてきた。

「耕一……」
「そんな不安そうな顔をするな、梓。信じてるんだろ」
「それは……そうだけど……」

 梓の不安もわかる。
 今、梓の脳裏にあるのは八年前の夏の出来事だろう。
 俺が始めて鬼になった、その時のことを。

「……耕一さん」

 楓ちゃんが張りつめた表情で、俺を見つめている。
 その目を見た途端、俺は胸の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。
 楓ちゃんの大きな瞳が不安に揺れている。今までずっと俺から逸らされてきたその視線が、今はためらいもなくまっすぐに俺に向けられている。胸の奥の深いところが泡立つように騒ぎ出す。

「……楓ちゃんも、心配しないで」

 俺は止めどもなく湧いてくる雑念を閉め出して強気に言った。
 それは誓いの言葉でもあった。

「みんな俺が護る」

 

 千鶴さんが跪いて障子を開けた。
 ふわり、と優しい夜風が頬をなぜる。
 障子と庇(ひさし)で切り取られた夜空に、銀の真円を描く月が見えた。
 ……俺と千鶴さんは、鬼の力を顕わす場所としてこの庭を暗黙の内に選んでいた。
 それはまた、千鶴さんの俺への信頼であるようにも思えた。

 庭に降りると、鈴虫の声がどこからか聞こえてきた。
 りーり、りーり、りーり……
 裏山からの帰り道でも聞いた音。
 一瞬、物思いに足が止まる。

 長い、長い、永遠のような一夜だった。
 つい何時間か前まで初音ちゃんと花火をして、何も知らず無邪気に笑っていたのだ。
 記憶を取り戻したのも、初音ちゃんを愛したのも、柏木の掟を知ったのも、今夜だった。
 ――全ては、この夜の出来事だったのだ。

 裏山からの帰り道、俺は光の船の与えた恐ろしい予感にただおびえていた。
 踏み入れた光なき道の幻にとらわれ自分を見失いそうになっていた。
 しかし、いま、俺の前には道があり、それを導く光がある。
 ただ一つの、小さな光ではあるけれど、それはこの道を行こうと決めた俺の決断が間違いでなかったことを確かに示してくれていた。そして、今はそれで十分だと思った。

 鬼のちからをこうしてみんなに見せるというのは、この長い夜の終わりにふさわしいことなのかも知れない。
 それは俺が贄ではなく、掟を終わらせる者であることを決定的に示すことなのだ。

 親父、叔父さん、名も知らぬ鬼の血に倒れし先祖たち……魂よ照覧あれ。
 柏木を苛み続けた鬼の血の呪いはここに終わる。長い夜が終わるように。
 それがたとい新しい闇の始まりであったとしても――…。

「――いくよ。これが……」

 俺は暗闇の中、みんなの方を向いて言った。

「……俺の、鬼だ……!!」

 

 どくり

 体中を震わせるような脈動と同時に、俺は静かに鬼のちからを解放した。
 爆発するように全身に行き巡る膨大なちからを感じながら、俺は……。

 ――俺は無意識に初音ちゃんの名を叫んでいた。
 

七章

贄 目次