チッ・・・チッ・・・チッ・・・
柱時計の秒針が刻む時の足音が、梓の言葉に重なって異様な緊迫感を俺に押しつけてくる。
(死にかけたんだよ――)
耳の奥で梓の声がリフレインする。
肺の中の空気が膨張して呼吸が止まるような、そんな得体の知れない恐怖と混乱の影が意識の隅をちりちりと灼く。
「死にかけたって・・・」
記憶にない、と言いそうになって俺は口をつぐむ。
そうだった。それは当然なのだ。
これは俺が覚えていないということを前提に、梓が話しているのだから。
「川の底で、水門工事の時に捨てられてたワイヤーロープに足が絡まったんだ」
「・・・」
「今朝見せたあんたの足の古い痕は、その時のものなんだ」
俺は言われて、思わずふくらはぎをなでた。そこにある、自分でもいつのものか覚えていない痕。
「これが・・・」
「そう、さびたワイヤーロープがささった痕・・・。普通なら、そこで溺れてしまうんだろうけど、耕一は死ななかった。
――どうしてだと思う?」
膝に手をまっすぐついて少し上目遣いに俺を見ながら問いかけた梓は、追憶に浸るように目を落とした。
そして俺の答えを待たずに続けた。
「その時のことは良く覚えてる・・・忘れられない。あんたがあんまり長い間浮かんでこないから、あたし達は人を呼びに行こうかと思ってたんだ」
――不意に、水の音が耳の奥でよみがえった。
コポン・・・ゴポン・・・
それは一瞬で消えたが、俺の記憶の深い水面に波紋を起こすには十分だった。
「・・・その時、あんたは水からあがってきた。水柱をあげて、水面から躍り出てきたあんたは・・・」
梓は、口元にくっと力を込めた。
俺は何かを思いだそうとしていた。
「――あんたは、鬼になってた」
・・・音がよみがえってきた。
そして同時に、映像もよみがえってきた。
記憶の中の俺は、水の中にいた。
――青のグラデーション。
コンクリートブロックや岩の落とす深い影。
昇ってゆく水泡のきらめき。
足下から立ち上る、紅い水煙・・・
記憶の中で俺はもがいていた。
喘ぐ自分の声が、水と流れのために歪んでいる。ごぼごぼとあぶくの音だけが大きい。
足の痛みよりも苦しさが強くて、天国みたいに遠い水面に手を伸ばしては背を反らし、口から漏れ出て行く泡を掴もうとしている――。
「・・・鬼に、なった・・・。あのときに・・・」
「なにか思い出されましたか」
千鶴さんが俺の目を、いや、目の奥を覗きこんできた。
俺は、目を見開いたまま額に手を当てて肘をテーブルについた。
そして千鶴さんに応えずに、梓に続きを促した。
「・・・梓・・・続けてくれ」
梓はちらと千鶴さんの方をうかがった。
千鶴さんは俺の方を見たまま、黙って頷いた。それで梓は、言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
「水からあがってきたあんたは・・・怖かった。姿は耕一なのに、耕一じゃないと思った。あたしたちは近寄ることも声をかけることも出来無かった・・・。あんたの手には、あたしの靴と、ちぎれた太いワイヤーが握られていて――」
梓はそこで、腕にぎゅっと力を入れた。
「・・・あたし達を見つけると、飛びかかってきたんだ・・・」
――あッ・・・
俺は声を出しそうになった。
稲妻のように衝撃を伴って、俺のなかに痛いほど鮮烈にその時の記憶がよみがえってきた。
・・・俺の口から大きな気泡がごぼりと出て、必死にもがいていた四肢が糸の切れた人形のように力を失う。
――僕は死ぬのかな・・・
足を鋼鉄の縄で捉えられたまま身体を流れに漂わせながら、不思議なほど静かにそんなことを考えた。
その時・・・。
――どくん
・・・心臓が、異質な脈動をした。
それは次第に早くなってゆき、力の抜けた四肢に真紅の電流を流し込んでくる。
失いかけていた意識が、澄みわたって行く。全身に力がみなぎってゆく。
――どくん、どくん、どくんどくんどくんどくんどくんどくん!!!
身体を曲げ、手を伸ばす。
足に絡まり、水の中に俺を引き留める鋼鉄の縄を掴む。
力を入れると、それはまるで紙かなにかでできていたかのようにあっけなくちぎれた。
戒めを解かれた俺は、水底の岩から大きく跳躍する・・・。
川縁に降り立った俺の目に映ったのは、身体を寄せ合い俺を見つめる三人の少女の姿だった。
「ああ・・・」
俺の口からついにうめきが漏れた。
思い出さなければ良かった。
思い出したくなかった。
・・・俺はその時、おびえてすくむ三人の従姉妹たちを見て激しく興奮したのだ。
それは言葉ではなかった。
明確な意志でもなかった。
ただマグマのように流れ俺を突き動かす、衝動的な本能が俺を支配した。
その本能が命じる欲求は――狩ることだった。
記憶の中で俺は絶叫していた。
身体が別の何かに乗っ取られ、俺の意識が真っ暗な闇の中に落ちて行くような絶望感に・・・
従姉妹達を獲物として捉え、激しい欲望を燃やした自分の罪深さに・・・
――俺は叫んでいた。
「耕一・・・」
梓の声で、俺は忌まわしい記憶から引き戻された。
俺はいつしか頭を右手で抱え込むような体勢を取っていた。後ろ髪を掴んだ指がこわばっている。
「耕一さん・・・」
千鶴さんの声もした。
俺は手から力をそっと抜いた。動作のひとつひとつがひどくゆっくりになってしまう。
自分のこの身体が俺の制御の元にあるのかおぼつかない。記憶の中の力がまだこの手に宿っている様な、そんな不安が染みのように広がる。
「思い・・・出した」
俺は右手を目の前に挙げた。
わずかに震える掌を見つめながら、俺は言った。
「俺は鬼に・・・なった・・・」
「そう、耕一はあのとき鬼になったんだ。・・・でも、それだけじゃない。耕一はあのとき・・・」
梓は俺の目を真正面から見つめていた。
「・・・あたしを・・・あたし達を・・・護ってくれたんだよ」
「護った・・・?」
胡乱そうに聞き返す俺に、梓は、うんと頷いて応えた。
「鬼になったあんたは私たちに飛びかかってきた。・・・凄い殺気だった。あたしはあんたの目を見て、殺されるって思った。あたしを見返したその目は、耕一の目じゃなかった。――いまでも覚えてる。鬼の目としかいいようのない、恐ろしい目だったよ。・・・でもその時、あんたは私達の目の前で突然苦しみだして・・・」
梓はまるで、それがいま目の前で起きているかのように目を大きく開いた。
「目が、急に元に戻ったんだ。・・・そして苦しそうな息をしながら私の前に腰を下ろして・・・」
梓は、シャツの胸元を握った。その中にある大切なものの形を確かめるように。
「――そしてこう言ったんだ。 『靴、見つけたぞ』 って・・・」
目の前の梓の顔が、八年前の子供の時の顔と重なる。
あのときも梓はこんな目をしていた。
おびえたような、哀しいような、何かを強く願うような・・・張りつめた瞳の形は昔と変わらない。
振り上げた鬼の手を留めたのは、もしかすると梓のその目のためだったかも知れない。
俺は戦っていた。
俺の身体を乗っ取って従姉妹達に危害を加えようとする俺の中の鬼と、身体の主導権を奪い合っていた。
戦いは俺に不利だった。叫び続ける俺の意識は膨れ上がる鬼の本能に押されて消えてしまいそうだった。
振り上げた腕に力が伝わり、振り下ろされんとしたその時――。
――梓が俺を見ていた。
楓ちゃんが悲しみを浮かべた目で俺を見ていた。
初音ちゃんが無垢な瞳で俺を見ていた。
三人の瞳にうつる俺の姿を、俺は見た。
・・・その時、俺の中の鬼に何が起こったのかわからない。
鬼がためらったのか、俺が止めたのか。
暴れ回る自我と暴走する本能が、一瞬凍り付いた。
膨張が停滞したその瞬間に、俺は身体の主導権を取り戻していた。
俺は自分を取り戻したのだ。
「耕一は・・・あのときあたしを護ってくれたんだよ。――鬼から、あたしを・・・」
梓は言葉を詰まらせた。しかし、見上げた顔には涙は見えなかった。
ひとつ大きく息を吸うと、梓は気持ちを落ち着けさせるようにゆっくりと息を吐いた。
「・・・その後、あんたは私をおぶって家まで帰ったんだ。情けないけど、あたし立てなくてさ。それで家についた途端、あんたは高熱を出して倒れて・・・」
覚えている。
いや、この言い方は正しくない。
そう・・・思い出した。
・・・鬼が鎮まってから、俺は手の中にあった靴を梓に渡した。水を出るときにもう片方の手に握っていたさびたワイヤーロープは、いつの間にかどこかに捨ててしまっていた。
梓は、俺が声を掛けると急に泣き出した。
しゃくり上げて鼻をすすりながら大声をあげて泣く梓が、その時の俺には不可解だった。
楓ちゃんが俺の肩に手を載せてきた。見上げたその目はやはりどこか哀しそうだった。
初音ちゃんが梓につられて泣き出した。俺の腕につかまって泣く初音ちゃんに、濡れるよとかなんとか言った事を覚えている。
ぐすぐすと泣き続ける梓をどうやって背負ったのかよく思い出せない。
梓を背負って、楓ちゃんと初音ちゃんを連れて山道をゆっくりと歩いて降りた。
そのあたりから記憶は白いもやに覆われてしまう。
これは思い出せないんじゃない。本当に覚えていないのだろう。
「・・・あたしも、そのあと風邪ひいちゃってさ・・・。あんたほどじゃなかったけど熱が出て、それからのことは良く覚えてないんだ」
弁解するように鼻の頭を掻きながら梓は言った。
「あたしの熱が下がって、起きあがれる頃になった時にはもうあんたは帰るところだった。だから・・・だから、あたしがあんたに話してあげられるのはここまでなんだ」
梓はきゅっと口元をひいて目を落とした。
そして幾分聞き取りにくい声で、つぶやくように梓は言った。
「・・・耕一・・・思い出した? 水門のこと・・・」
俺は頷いた。
梓は、そっか、と言うと目を伏せた。
そして少しの間を挟んで、決心したように話し始めた。
「・・・耕一にこの話をするときは、あたしがしてやりたかった。千鶴姉はするなっていってたけど、その理由も知ってたけど、あたしはあんたにあのときのことを覚えていていて欲しかった。だって・・・」
梓の唇が震えるのを俺はただ呆然と見ていた。
必死で何かを堪えたその表情は、なんだか怒ってるみたいだった。
「・・・あたしの・・・大切な・・・思い出だから・・・」
消え入りそうな声でそういうと、梓は深く顔を伏せてしまった。
「梓・・・」
千鶴さんが梓の肩に手を載せようとして、ふと手を止めた。
そして視線を俺に向けてきた。
俺は、首を横に振った。俺にも、わからなかった。
梓に、なんと応えればいいかなんて・・・。
「・・・水門での事は、梓が話してくれたとうりです」
千鶴さんはそんな俺の心の内を悟ってくれたのだろう、しばらく間を置いて冷静な声で話し始めた。
「耕一さんも、思い出されたようですね」
「うん・・・」
俺はちょっと梓の方を見て、すぐに目をそらした。
今はもっと重要な問題が俺の前にある。そう念じて、そのことに集中しようと思った。
なぜ水門の話が、「触れてはいけない」ことだったのか。
水門での話題をタブーにしていた理由を、その背景を俺は知った。
でも、この話はこれだけではないはずだった。
これだけではただ単に、俺に覚醒の記憶が戻ったと言うだけだ。千鶴さん達には既知の事実をようやく俺が受け入れただけの話だ。
八年前の出来事はまだ終わっていない。いや、むしろ始まったばかりなのだ。
俺の覚醒と、親父が俺を護ってくれたという千鶴さんの言葉とのつながりが、まだ明らかになっていない。
親父の「贄」・・・自分を犠牲にしてまで、俺を何から護ろうとしたのだろう。
護る・・・?
俺はその言葉をついさっき耳にした気がする。
ついさっき、そう・・・梓が言ったのだ。
梓を、俺が・・・
俺はそこで暴走しそうになる思考を止めるため、頭を振った。
俺と親父の事情を一緒に考えてはいけない。
無関係とは思えない。しかし先入観は危険だと理性が訴える。
千鶴さんは俺に全てを教えてくれるのだ。自分の考えを出すのは話を全部聞いてからでも遅くはない。
「では、そこから先は私からお話します」
千鶴さんが、俺の思考を読みとったようなタイミングで話し出した。
「水門での事故の後、あなたがこの家に帰ってきてから、何が起こったか・・・」
カチリ
語尾に重なるように微かな音がした。
そしてすこし遅れて、となりの部屋の古めかしい時計が時を知らせる音を響かせてきた。
ボーン・・・ボーン・・・ボーン・・・
振り向いて俺は後ろの壁に掛かっている時計を見上げた。二つの針は真上をさして重なっていた。