四章 掟
 

 「・・・それが、柏木の鬼の姿です」

 

 ぶるっ・・・。
 突然俺の身体を貫いた悪寒に俺は身震いした。
 それはまるで俺の中にいる別の生き物が胎動したかのように薄気味悪い寒さで、震えはなかなか身体から去ろうとしなかった。

 「耕一さん・・・大丈夫ですか?」

 突然の俺の変調に気遣わしげな声をかける千鶴さんに、半分上の空で応える。
 俺の思考はいまやその震えの原因、つまり俺の中の鬼のことで占められていた。

 千鶴さんの導いた答えは、確かに俺を驚かせた。
 しかし俺を真に驚愕させ、今も俺を震わせているのは、その答えによってつながった今夜の出来事と記憶のせいだった。

 俺は思い出す。
 洞窟の中で俺と初音ちゃんを取り囲み、呪詛を吐き続けていたエルクゥ達の怨念の影を。
 ヨークの奥で俺達を待っていた、ダリエリと名乗るエルクゥの長の姿を。
 断片的によみがえった前世の記憶、すなわち次郎衛門の記憶を。
 遙か昔にこの地へ降り立ったエルクゥと人間の間に起きた悲劇の記憶を。
 次郎衛門は人間であったが、エディフェルにより鬼の血を授けられエルクゥの力を持っていたことを。
 初音ちゃんはリネットであり、リネットはエルクゥの娘であったことを。
 そして次郎衛門の妻となり子孫を成したことを。
 ・・・俺の思考は現代に戻る。
 朝の風景。俺の見る夢。千鶴さんは、それは俺の中の鬼が目覚める姿であると言った。
 俺はあの夢の内容が、先刻洞窟の中で俺にとりつき俺を操っていたエルクゥの亡霊が叫んでいたことに似ている事に気が付き、自分の中の鬼とはエルクゥの事なのではないかといったんは考えた。
 洞窟の中、追いかけてくる亡霊達を見て初音ちゃんは「雨月山の鬼」だろうか、と言った。今では知っている。その昔話が本当だったことを。鬼はエルクゥであり、雨月山はここにあることを。

 ・・・千鶴さんが導いてくれた答えは、こんなバラバラだった事象のピースを繋げてくれた。
 おとぎ話の鬼そのものの姿と力を持つ鬼。それが柏木の鬼。
 おとぎ話・・・それは500年前の悲劇であり、俺と初音ちゃんの記憶の中でそれはまだ生きている。
 次郎衛門が滅ぼした鬼たちはここにいた。この隆山に、この裏山に。
 リネットは鬼・・・エルクゥだった。次郎衛門も鬼の血を持っていた。
 鬼の子は鬼。その血は遺伝する。人にあらざる血は暗い呪いを紡ぎつつ時を越え・・・ 

 ――それが柏木の血なのだ。
 いまはっきりと俺は理解した。
 柏木の鬼とはエルクゥのことなのだ。俺が取り戻したのは記憶だけではなかった。
 かつてこの地で人を狩り、女を犯し村々を焼いた悪鬼エルクゥの力を。
 そしてそれを鬼の力によって滅ぼした次郎衛門の力を。
 ・・・俺は受け継いでいるのだ。

 「・・・耕一さん」

 千鶴さんの呼ぶ声で、俺の意識は現実へと呼び戻された。
 心配そうな顔で千鶴さんは俺を覗き込んでいる。

 「大丈夫・・・」

 千鶴さんのためにそう答えたが、震えは未だ去ってはいなかった。
 膝の上にゆっくりと出した右手が凍えるように震えている。
 ・・・俺の右手。俺の力。
 俺は血の気が無くなるほど強く拳を握りしめた。

 「・・・耕一さん、笑っているんですか?」

 千鶴さんが突然そんなことを言ったので、俺はびっくりした。
 え・・・? 笑う・・・?
 俺が笑ってるって? 何言ってるの千鶴さん・・・
 そう思ったとき、しかし同時に俺は自覚した。
 震えながら笑みを刻む唇を、機械仕掛けのようにぎこちなくこわばったまま歪む頬を。
 何よりも、高揚し歓喜した、わずかに混乱気味の自分の心を。

 ――俺は笑っていた。
 鬼の力がこの手に、この身体に宿っている事が嬉しくて、俺は我知らず笑んでいたのだ。
 光無き道に微かにさした一筋の光明。

 鬼の力があれば、鬼と戦える。
 初音ちゃんを、みんなを・・・・護れる!!

 「・・・なんでもない。大丈夫だから」

 俺はしかし、それを今千鶴さんやみんなに説明する気にはならなかった。
 それより先にしなければいけないことがある。
 確かめないといけないことがある。
 それは多分千鶴さんの知りたいことと同じなはずだ。

 俺の中の鬼のこと。
 俺はじいさんみたく鬼を制御できているのか。
 それとも親父や叔父さんみたいに鬼に蝕まれてしまうのか。
 一刻も早くそれを確かめなければ。
 ・・・でも、どうすれば・・・

 ――その瞬間、俺は愕然とした。
 高揚していた意識が果てしない闇の中に落ちてゆく感覚が俺の四肢から力を奪った。
 ・・・どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったんだろう。
 きっと、俺は浮かれていたのだ。一瞬の喜びに、幻の希望に、心奪われて。
 それでふと現実を見た今、俺は間抜けにもようやく気が付いたというわけだ。
 考えるまでもない、答えはそこにあったのに。
 親父の鬼とか、叔父さんの鬼とか、耕平爺さんの鬼とか、そんなのはただの寄り道だ。
 確かめるまでもない。なぜなら・・・ 

 「千鶴さん・・・」

 はい、と言う返事を待たずに、うつむいたまま俺は続けた。

 「・・・千鶴さんたちには見えるんだよね? 俺の中の・・・鬼が」

 千鶴さんはためいきをついたぐらいの間ののちに答えてくれた。

 「・・・はい」
 「それも、鬼の力なんだね」
 「ええ・・・でも、見えるという表現は少し違います。感じるんです、あなたの中の鬼の気を・・・」

 千鶴さんはそう言うと、テーブルの上で指を組んでわずかに目を落とした。

 「・・・鬼は互いを呼び合い、人間の感覚を越えた部分で互いを感じ合うことができます。私や楓は私達姉妹の中でも特に早く鬼の目覚めを迎えていたので、まだ目覚めていないあなたの中の鬼を観察することが・・・」
 「千鶴さん・・・!!」

 その時おれはうつむいたまま大きな声を出した。
 さっきまで喜びと希望で震えていた身体が、今は黒い染みのように広がる不安と恐れのために震え出す。

 「・・・俺には見えない」
 「えっ・・・?」

 千鶴さんが不思議そうな声を出し、こっちを覗き込んでいる。
 つぶやきながら俺はゆっくりと顔を上げた。そして千鶴さんの瞳に語りかけた。

 「千鶴さん・・・俺には千鶴さんの鬼さえも・・・感じることができない・・・」

 千鶴さんは俺の言いたいことに気が付いたらしい。
 みるみる表情がこわばってゆく。
 俺は目を閉じた。心を氷の仮面で閉じこめてゆく姿を、見ているのが辛かった。

 「千鶴さん・・・俺は鬼の力を使えないみたいだ。・・・千鶴さんの言うように俺の鬼が目覚めているとしたら、それなのに鬼の力が使えないってことは――」

 ・・・初音ちゃん、ごめん。
 言葉を続ける短い間に俺の中に浮かんだ想いは絶望でも悲しみでもなくむしろ――

 「・・・たぶん、俺は、鬼を制御できていない」

 ――俺はまた初音ちゃんとの約束を破ってしまうのか、という罪悪感と、そして自分自身へのやりきれない怒りだった。

 

 (どんなお化けが出てきても、初音ちゃんのこと護ってあげる)
 (心配しないで。怖くないよ。俺が一緒にいるから)
 (大丈夫、初音ちゃんは俺が護る)
 護る、護る、護る、護る、護る・・・

 ――嘘つきめ!!
 柏木耕一は最低の嘘つきだ。
 そんな力もないくせに大きな口ばかりたたいて、女の子一人護ってやれないなんて最低だ。
 こんな俺を信じて好いてくれている初音ちゃんに、俺はなんて言えばいいんだ!?

 (耕一お兄ちゃん・・・本当?)
 (耕一お兄ちゃん!!)
 (お兄ちゃんは約束を守ってくれたよ。初音のこと護ってくれたよ)

 初音ちゃんの優しさに、俺は甘えていた。
 護ってなんかない。エルクゥの亡者――つまり鬼だ――に身体を乗っ取られていたとはいえ、あんなにひどいことをしたんじゃないか。初音ちゃんが許してくれたから、罪は消えたと思っていはしなかったか?
 またエルクゥが来て、あの洞窟の中のとき以上の危険がやってこようとしているのに、俺はまた初音ちゃんを護ることもできずに鬼に振り回されてみんなを不幸にしようとしている。

 ――――最低だ!!

 

 「・・・耕一さん」

 千鶴さんが俺を呼んでいることに、俺はしばらく気がつかなかった。

 「・・・耕一さん。聞いてください・・・」
 「千鶴さん・・・この上何を聞く必要があるの?」

 俺はむしろ笑い出したい気分だった。
 自分があまりに情けなくて。あまりに無力で。

 「俺は親父と同じで、鬼を制御できなかったんだ。だから・・・親父や叔父さんがそうしたように俺も、自ら鬼と共に・・・不幸を呼ぶ前に――」
 「死のう・・・とでもおっしゃるんですか」

 俺のセリフを千鶴さんが遮った。

 「・・・そんなこと、許しません。鬼を制御できなかったら自殺しろなんてことを言うために、叔父様の死の真相をお話したわけではありません。叔父様が死なれたのは私達のためでしたが、あなたが今死ぬのは、ただの自己満足です」
 「・・・」
 「それに・・・それは推測に過ぎません。制御できるかできないかを見極めるのはまだ不可能です」

 今までに聞いたことのない、千鶴さんの声だった。
 千鶴さんが怒っている。そしてそれ以上に、冷たく凍っている。

 「先程も申し上げましたが鬼を制御できないのであれば、自殺すら出来ません。叔父様が何故自殺される前にお酒や睡眠薬を飲んだのか考えて下さい。それに――制御できていないことが判っていれば私は耕一さんをここには連れてきません」

 千鶴さんは一度言葉を切り、そして、

 「私が、あなたを殺しています。誰も見ていないところで」

 沈黙が、いっそう重くのしかかってきた。

 

 「ち・・・千鶴姉・・・」
 「千鶴姉さん・・・」

 千鶴さんの迷いのない凍った声に、梓と楓ちゃんが喘ぐような声を漏らす。
 しかし千鶴さんの表情に、説得の余地が無いことを見て取ったのか、二人うつむいて静かになる。

 俺は、一言もなかった。
 千鶴さんの一言一言は、一人で勝手に倒錯した自己憐憫に陥っていた俺を打ちのめした。
 そして、それ以上に、千鶴さんが言った言葉は俺に奇妙な落ち着きをもたらしていた。
 それは俺の鬼がどう目覚めているかはまだわからない、という事実からのものでもあったが、それ以上に
 (――千鶴さんが殺してくれる)
 という、安心感だった。

 千鶴さんはしばらく黙っていた。
 俺は目を上げて千鶴さんの顔をまっすぐに見た。
 仮面の顔。白くて固くて、もろい仮面。
 俺は千鶴さんに心の中で詫びた。
 ごめん、千鶴さん。俺のせいだよね。そんな仮面をつけなくちゃいけなくなったのは。

 窓の向こうの庭から鹿威しの音が遠く聞こえてきた頃、千鶴さんは静かに語りだした。

 「みんなを集めて、今日叔父様の話をしたのは、鬼を覚醒させたあなたに柏木の掟をお教えしたかったからです」
 「柏木の・・・掟」

 掟・・・とはまた古い。
 しかし千鶴さんが続けて言った言葉は、俺を唖然とさせた。

 「はい・・・鬼の血を引く者にだけ伝えられてきた、柏木を護るための、鬼の血を護るための掟です」

 ――俺は一瞬耳を疑った。
 千鶴さんは・・・いまなんて・・・?

 「鬼の血を・・・護る・・・!? どうして! なんで鬼の血なんて護らなきゃいけないんだ」
 「それは・・・わかりません。ですが、鬼の血が滅ぼされることなく現代にまで伝えられて来たのは、この掟のおかげであることは間違いありません」
 「わからないよ千鶴さん。鬼の血のせいで一体どれだけの人が不幸になったと思うんだ。なんでそんな呪われた血を掟まで作って護ったり・・・」
 「・・・贄」

 興奮してまくし立てていた俺の言葉は、千鶴さんがこぼした小さな声に途切れた。
 ――にえ。
 頭の中にその二つの言葉がよみがえる。
 意味が分からない。適当な漢字が思い浮かばない。
 俺が見つめる前で、千鶴さんは再び口を開いた。

 「・・・贄。柏木の掟の真意を考えておられた叔父様が、時折使われた言葉です」

 千鶴さんは親父と話しているときのことを思い出そうとしているのか、目を閉じて静かな表情で続けた。

 「生けにえの「にえ」、犠牲とかささげものという意味があるそうです」
 「それが・・・どうしたの」

 どうしてそれがいま出てくるのか、掟とやらにどう関わってくるのかさっぱり俺はわからなかった。
 千鶴さんはゆっくりと目を開けた。

 「叔父様は鬼の血のせいで死んだ人を、贄だとおっしゃっておられました。鬼の血を護るための、柏木を護るための、犠牲だと・・・」
 「そんな・・・」
 「私も、耕一さん、最初聞いたときは理解できませんでした。それで叔父様にどうしてそこまでして護る必要があるのか聞きました。すると叔父様はこうおっしゃいました。 『きっと、いつか必要になる時が来るのだろう』」

 俺は、はっと胸を突かれた。
 どくん、と心臓が一拍だけ大きく鳴った気がした。
 鬼の血が必要となる時・・・
 鬼の力が必要となる時・・・それは・・・・

 ――――今だ。

 俺は親父の声を聞いた気がした。

 

 「千鶴さん・・・」

 俺の声は震えていたかも知れない。
 もやが晴れるように俺の中にあった雑然とした想いが整ってゆく。
 俺がここにいる理由。
 柏木の男子として生まれた意味。
 鬼の血に捧げられた無数の贄――涙、血、悲しみ、時間、苦痛、そして命・・・それら全ては、今このときのためにあったのだ。
 柏木の掟とは、それを無駄にしないために作られたものに違いない。

 「柏木の掟を教えて欲しい。もう・・・死ぬなんて言わないから」

 俺がそう言うと、千鶴さんは俺を深い色の瞳でみつめ、そして頷いた。

 「・・・わかりました。耕一さん、あなたに柏木の掟をお教えします」

 

 「柏木の掟は永らく不文のものであり、鬼の血を引く当主の間で、親から子へ、子から孫へと伝えられて来たものです。この掟はそれを理解できるものにだけ伝わるもので、よって叔父様が亡くなられた今それを知るのは、先に鬼を覚醒させていた私、そして楓の二人きりです」

 俺は楓ちゃんの方を見やった。
 楓ちゃんはじっと机の上の一点を見つめていて、いま自分の名が呼ばれたことに気が付いているのかさえもわからなかった。

 「・・・叔父様はその掟を初めて言葉にし、形として後に残そうとされました。叔父様が多忙な仕事のなかで、だんだん熾烈になって行く鬼との戦いの中でそのような研究を続けられたのは・・・耕一さん、あなたのためなのです」
 「・・・俺の・・・ために?」

 俺がとまどいながらそう言うと、千鶴さんはこくんと頷いた。

 「この掟は本来、文字や言葉によらず、唯その掟を知りそれに従う親などの先達と共に暮らすうちに次第に身に付いてゆくものなんです。「教える」というより「感化する」と言った方が本来の姿に近いのかもしれません。・・・ですが叔父様には、それができなかった――」

 胸を突かれる思いだった。
 俺は、八年というこの長い空白のことを思った。

 「で・・・でもさ、それは親父が勝手に俺やお袋と別れて暮らしたからであって・・・」
 「耕一さん・・・それも、あなたのためなんです」

 俺がいいかけた言葉を、千鶴さんは哀しい目をして押さえ込んだ。

 「耕一さん・・・あなたは覚えておられない事でしょうけど、あなたの鬼は八年前に一度、目覚めているのです」

 
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