「俺の中の・・・鬼」
千鶴さんの口からこの言葉が出たのはこれで何度目だろう。
初音ちゃんのお守りを見た時にも千鶴さんはそんなことを言ったと思う。
千鶴さんが言う俺の中の鬼というのが何を指すのかはじめはわからなかったけれども、今ならわかる気がする。
「親父と同じ鬼が俺の中にもいる・・・そういうことなんだね」
「はい」
千鶴さんはうなずいた。
遺伝。そういうことなのだ。
鬼の血は遺伝する。そして鬼の血とは宿命の名なのだ。
俺もまた親父と同じく鬼の血と対決する時が来る。
千鶴さんはそのことを伝えようとして俺に親父の死の真相を語ってくれたのだろう。
俺はそう考え、だからこう言った。
「・・・千鶴さん。あとどのくらい時間があるか解るかな」
「時間・・・ですか？」
意外なことに千鶴さんは俺の質問が解らないようだった。
「・・・俺の鬼が、目覚めるまで」
――突然、俺の千鶴さんの瞳が大きく揺れた。
「！！」
千鶴さんが息を呑む。
ぎょっとした表情になり、一瞬とてつもない苦しみの表情がその面を曇らせる。
混乱、驚き、迷い、そして・・・恐怖。
千鶴さんの冷たい仮面は今や砕け、内心の動揺を浮き彫りにしていた。
見るとずっとうつむいて黙っていた楓ちゃんまでが顔をあげ、信じられないものを見るような表情で俺を覗き込んできている。
何故かはわからない、でも狂おしいほどに乱れた感情がその瞳に揺れ、俺をたまらなく不安にさせた。
なんなんだ。
どうして千鶴さんはこんな顔をするんだろう。
どうして楓ちゃんはこんな目で俺を見るんだろう。
俺は・・・何を言ったんだろう・・・。
千鶴さんの混乱は長く続かなかった。
心を押し込めるように深く長く閉じられた瞼が再び開かれたとき、そこにはもはや乱れも迷いもなかった。
覚悟と、意志。そして凍えるような殺気。
「耕一さん・・・」
千鶴さんが、やけにゆっくり俺を呼んだ。
俺は返事をしなかった。否、できなかった。
千鶴さんの放つ殺気が、何故か先刻の光を思い出させる。
ざわり・・・と心の中で何かが蠢く。
「・・・時間を気にする必要はありません。あなたの中の鬼は・・・」
千鶴さんは刻み込むように言った。
「・・・すでに目覚めています」
今度は俺が呆然とする番だった。頭の後ろから血の気が引いていくのが解る。
俺の鬼は目覚めている？ 麻痺寸前の思考回路の中で千鶴さんの台詞だけがぐるぐると回っている。
すでに目覚めている・・・？ 俺はもう鬼になっているのか？
「私もうかつでした。あなたと初音が花火をしにゆくと言いに来たときに、止めるべきでした」
声もない俺に、千鶴さんはかまわず続ける。
「今夜は満月、しかもこの辺で花火ができそうな所と言えば裏山の水門の河原だとわかっていたのに・・・」
千鶴さんがなんのことを言っているのかわからない。
満月？ 水門の河原がどうしたって？
俺の鬼とそれがどう関係するんだ？
「千鶴さんちょっと待って」
パニックになりそうな頭をかきながら、ようやく俺は声を出した。
「俺の中の鬼はもう目覚めているって・・・いまそういったの？」
「ええ・・・。私が何を言っているか分かりませんか？」
千鶴さんは注意深く俺を観察しながらそういった。
おれはひとつうなずき
「わからない。俺には自分の鬼が目覚めた覚えがないんだ」
「・・・楓」
千鶴さんは楓ちゃんを呼んだ。
「あなたも感じているでしょう？ 耕一さんの・・・鬼を」
こくり。声もなくうなずく楓ちゃん。
そのとき、俺の中に急にある疑問がわき上がった。
「・・・楓ちゃん？・・・鬼を感じるって千鶴さん・・・どういうことなんだ？」
「耕一さん・・・」
驚いたことに、おれの言葉に反応したのは楓ちゃんだった。
「耕一さん・・・鬼の血は柏木の血。そして私たちは・・・柏木の娘です」
楓ちゃんはほとんど聞き取れないほど小さな声でそういった。
しかし俺は、その言葉が示すことに愕然とした。
単純で、当たり前の結論。とうにわかっているはずの事実。
それは・・・たぶん無意識に避けていた答えだった。
千鶴さんが楓ちゃんの言葉を継いでひとつ間を置いて、はっきりと言った。
「・・・私たちも鬼なんです。耕一さん。」
千鶴さんの言葉は、冷水を浴びせたような衝撃を俺に与えた。
・・・そうか。そうなのか。
俺は自分の鈍さに歯がみしたい気分だった。
まずはじめに考えつくべきだったのだ。
遺伝。 このキーワードが閃いた瞬間に。
鬼の血を引いているのは俺と親父だけじゃない。それはもっと昔からあったものだ。
もっともっと遠く。おそらく――「次郎衛門」と「リネット」の時代から・・・
「・・・鬼の一族・・」
俺の口からそんな言葉がこぼれた。
その言葉は、先刻俺を闇路に立ちすくませたあの直感の一節だった。
「そうです。耕一さん。柏木一族は鬼の力を受け継ぐ一族なのです」
俺の内心を見透かすように千鶴さんは俺の目を見ている。
「鬼の血は柏木の直系家系に生まれた男女双方に顕れます。柏木に生まれた者はみな遅かれ早かれ自分の中の鬼の目覚めを迎えることになります。・・・ですが、そこで大きく二つに人は分かれます。それは・・・」
千鶴さんは表情を変えずに言った。
「鬼を制御できる者と、できない者です」
千鶴さんがそう言った瞬間、楓ちゃんがぴくっと身を震わせた。
千鶴さんはそれを片目で見やって、しかしなにも言わずに続けた。
「不思議なことに私たち女は、はじめから鬼を制御することができます。おそらく鬼の力の差でもあるのでしょう。私たち女より遙かに強力な力を持つ男の鬼は、その主、つまり柏木の男子の精神を、そして肉体をも乗っ取ろうとし出します。それが叔父様の言われた『柏木の男子に生まれた者の宿命』である、鬼との戦いなのです」
そして、千鶴さんはそっと目を伏せた。
「戦いと言っても・・・がんばれば勝てるという物ではありません。制御できる人はできる、できない人はできない。鬼が目覚めた瞬間に決まってしまうもののようです」
「千鶴さん・・・ひとつ、聞いていい？」
俺は千鶴さんの言葉からあることに思い至った。
俺の脳裏にあるのは、親父の台詞と遺伝の事だった。
「鬼の血が、柏木に生まれた者の宿命ってことは・・・俺と親父以外の男にも鬼は発現してるんだね」
俺がそう言うと、梓ががばっと顔を上げた。
そして赤く腫れた目で千鶴さんを食い入るように見つめる。
梓の考えていることはきっと俺と同じだろう。
「・・・たとえば、叔父さん、つまり千鶴さん達の両親とか・・・」
「千鶴姉ッッ！」
梓が唇を震わせながら、千鶴さんを見つめていた。
梓はきっともう解っているのだろう。俺も確信している。
叔父さんが親父と同様鬼を抱いて生まれ、そしてその戦いに勝つことができなかったと言うことを。
千鶴さんは俺達の視線をゆっくりと受け止めて、やがて静かに頷いた。
「・・・ふっ・・・・・・」
途端、梓の目から再び大きな涙がこぼれ落ちた。
下唇を噛んで、声を殺して、畳をかきむしるようにそのまま梓は泣き崩れた。
「う・・・ふううっ・・・ううううっーーーーーーッッ！！」
「梓・・・」
俺は少なからず驚いて梓のほうに目をやった。
きっと親父の死の事も知らなかった梓のことだ。叔父さんの事も知らされてなかったのだろう。
叔父さんが死んでからもう８年。
梓は今ようやく実の父の死の真相を知ったのだ。
梓には泣く権利がある。
「そっと・・・して置いてあげましょう、耕一さん」
梓の涙に見とれていた俺に、千鶴さんが優しい声をかけてきた。
振り返りみた千鶴さんはなぜだかうらやましそうな表情で梓を見ていた。
「梓・・・ごめんなさい。このことを話すのもあなたには初めてだったわね」
千鶴さんはうなるような声をあげて泣く梓に言った。
「でもわかって。決してあなたをないがしろにしたわけではないの。叔父様の事と同じで、時が来ればちゃんと話すつもりだった。まさか、今日話すことになるとは思わなかったけれど、話せてよかった。それは信じて」
「・・・」
梓は千鶴さんの声が聞こえているのかいないのか、爪をたてて握りしめた畳に額を落とし泣いている。
千鶴さんはそんな梓をまぶしそうな目で見ながら小さくつぶやいた。
「・・・泣けるだけ、幸せね」
その声はあまりにも小さかったので、おそらく梓には聞こえていなかったと思う。
俺も一瞬空耳かと思った。しかし、千鶴さんの顔がその言葉を裏付けていた。
うらやむような、慈しむような、けれど虚無を見つめたようなその横顔が。
「千鶴さん・・・」
俺が何か言おうと口を開いた瞬間、千鶴さんが機先を制して言った。
「耕一さん、今はこの話をゆっくりしている暇はありません。大事なところだけを考えましょう」
「・・・うん」
俺は気圧されてしまい、結局言葉を飲み込んだ。
「鬼の話に戻ります・・・。そう、確かに私たちの父も柏木の男子の例に漏れず鬼を持っていました。結果は、もうお気づきのとうりです。父も叔父様と同じで鬼を制御することができなかった・・・。呪わしい事実ですがこれもまた柏木の歴史の中では珍しくないことです」
淡々と語る千鶴さんの口調に俺は声もなかった。
「ですが、まれに私達女のように鬼を制御できる男も生まれます。たとえば私達の祖父に当たる柏木耕平氏がそうでした」
「じいさんが・・・？」
俺は１０年も昔に死んだじいさんの名前が突然出てきたことに少し驚いた。
柏木耕平と言えば、今やこの隆山の経済を牛耳る巨大企業、鶴来屋グループの創設主であり、「耕」の字が示すように俺の名付け親でもある。
その昔、一度だけあったことがあるが、その時は千鶴さんが言うような鬼の気配などちっとも感じなかったと思う。
「ええ・・・。おじいさまは若い頃に鬼の目覚めを迎えられ、それを制御されたと聞きます。もっとも日頃は用心して鬼を押さえておられ、私も父も叔父様もおじいさまの鬼を見たことはありません。ただ足立さんはその昔一度だけご覧になったことがあると・・・」
足立さんというのは、かつて耕平じいさんの右腕であり、いまは鶴来屋の副社長である人物である。
俺は、じいさんの鬼というのが気になった。
制御された鬼とは、どんな物なのだろうか。
それを知ることは、俺の鬼を知ることになる気がした。
俺の中の鬼とは、柏木の鬼の力とは、いったいどんな物なのだろうか。
「・・・千鶴さん、じいさんの鬼の力ってどんな物だったの？」
俺がそう言うと、千鶴さんは惑うような表情を浮かべた。
しかしその表情は一瞬で消え、軽いためいきと共に千鶴さんは言った。
「・・・そうですね。耕一さんはまだ鬼を自覚しておられないから、鬼の力についてご存じなくても不思議では無かったんでした」
「・・・ごめん」
「耕一さんが謝られることはありません。私の説明が先走りすぎたようですね」
千鶴さんは心を抑えるように自分の手をきゅっと握った。
「・・・では耕一さん。逆に聞きますが、鬼と聞いてあなたはどういったイメージを持たれますか？」
突然尋ねられた俺は、少しびっくりしたが素直に応えることにした。
「体が大きくて、角が生えていて、力が強くて、残酷で・・・」
思いつくままを言ううちに、俺の目はゆっくりと大きく開かれていった。
鬼のイメージは、まるでそのまま・・・
驚愕の形に開かれる俺の目を見て、千鶴さんははっきりと言った。
「・・・それが、柏木の鬼の姿です」