一章 帰宅

 

「耕一さん・・?」

 角に差し掛かったとき、突然、懐中電灯の円い光が俺の目を灼いた。

「よかった・・探しに行くところだったんですよ」

 千鶴さんだ。 
 ごめん、と言いながら俺は目を細める。

「・・電灯、下に向けてくれないかな、千鶴さん・・」
「あ・・ご、ごめんなさい。ほっとしたものですから・・」

 すっ、と光が下を向き千鶴さんの焦った顔がぼんやりと見えた。

「あの・・初音は・・?」
「ああ、初音ちゃんはここにいるよ。眠っちゃったみたいだから、このまま俺が」

 体の向きを変えて、俺の背中で寝息をたてる初音ちゃんを千鶴さんに見えるようにする。
 千鶴さんは、俺の横に顔を寄せ初音ちゃんの寝顔をのぞき込んできた。

「よく眠ってますね・・すみません、耕一さん」

 お風呂上がりだからだろうか、千鶴さんの髪は少し濡れているように見えた。そして、いい匂いがする。

「どうってことないって。初音ちゃん軽いから」
「そうですか・・すいません」

 千鶴さんは少し微笑むと、うなずくように頭を下げた。

「千鶴さん、それよりも・・」

 大変なんだ、といいかけて俺は言葉を飲み込んだ。千鶴さんが、顔を伏せたまま立ちすくんでいる。

「・・耕一さん」

 一瞬、彼女は泣いているのだろうかと思った。
 千鶴さんは、ゆっくりと面をあげると、深い哀しみを宿した目で俺に言った。

「・・耕一さん。なにが・・あったのですか?」

 千鶴さんの顔は、俺にはまるでおびえているように見えた。聞きたくない答えを待っているような、あるいは信じたくない事実を確認するようなそんな相反する感情が、夜目にも白い千鶴さんの小さな面の上に揺れていた。

 ただ単に、俺達が遅くなった理由を聞いているだけなら、千鶴さんはこんな顔をしはしない。

 千鶴さんは、最初から知っていたのだろうか。

「あの光を、みたんだね?千鶴さんも」
「・・・はい」

 陰鬱な声に俺は確信した。千鶴さんはどうしてかは知らないが間違いなく、何が起きたかを理解している。千鶴さんは俺に、その原因を聞いているのだ。
 俺は、千鶴さんの瞳を直視出来なかった。逃げるように視線を逸らし、理由もなく高鳴ってきた胸の音を無理矢理無視して、こう言うのが精一杯だった。

「千鶴さん、話さなきゃいけないことがたくさんあるんだ。聞きたいこともたくさんある。でも・・・それはこんな所でしていい話じゃない」

 千鶴さんが再びうつむいた。

「屋敷に帰ろう、千鶴さん。話はそこで」

そのとき、俺の背中で初音ちゃんが寝返りをうつように、体を動かした。 千鶴さんは、初音ちゃんに目をやり、そしてこくりと頷いた。

「・・・はい」

 柏木の屋敷に着くまでの約5分。俺と千鶴さんは無言だった。

 少し前を歩く千鶴さんの姿と、その手に握られた懐中電灯の光は否応もなく俺につい先刻の不思議な洞窟での記憶を蘇らせた。

 実体を無くし、邪悪な怨念の影となり果てたエルクゥたちの呪詛の声。
深い井戸の底へ下ってゆくかのような、身も心も凍えさせんとするかのごとく、徐々に下がってゆく気温。そして、鬼たちが精神をどす黒く浸食して来たときの、あの叫ぶことすら出来ない絶望的なまでの恐怖・・。

 そう、思えばあれが入り口だったのだ。
 俺を今もその予感で震わせる、光無き道の。

「耕一」

 玄関をくぐった俺を迎えたのは、驚いたことに梓の声だった。
 花火の誘いを断ったときの、熱でもあるようなフワフワした感じが今はもうない。
 梓の横には、楓ちゃんがいた。しかし俺と初音ちゃんの姿を見たとたん顔を伏せ、奥にすっと姿を隠してしまった。まるで逃げるように。

「耕一、初音は・・」
「静かにしろ、梓。初音ちゃんは大丈夫だ。寝てるだけだ」
「大丈夫っておまえ・・」
「あずさ」

 何かを言いかけた梓を、千鶴さんが止めた。

「千鶴姉・・」
「楓と一緒に居間でまっていて頂戴。今は初音を部屋に」
「・・わかったよ」

 梓は思ったより素直に従った。初音ちゃんが無事だと聞いて安心したのだろうか。

 しかし、俺は梓の変貌ぶりが少し気になった。夕方後輩の日吉とか言う女の子が帰ってから、どこかぽうっとした表情をしていた梓が、いまはもういつもの梓に戻っている。そしてそれ以上に、楓ちゃんがちらりとのぞかせた表情が気にかかった。・・あれは、涙だろうか?

 初音ちゃんの部屋についた俺は電気をつけずに中に入った。

 手伝います、と言ってくれた千鶴さんに俺はタオルをもってきてほしいといって、外してもらう。寝かしつけるところまで俺がしなくてはならない訳があった。
 初音ちゃんは、鬼に操られていたとはいえ俺の手によって下着をちぎられ、今は何もつけていないのだ。思えばよく平常心でおんぶなど出来たものだ。
 なるべく下に目をやらないように気をつけながら、慎重に初音ちゃんをベッドの上に降ろす。シャツを握っている手を外すとき、初音ちゃんが起きそうになった。薄く目をあけ、唇をかすかに動かし俺を呼んだ。

「こういち・・おにい・・」

 しかし俺が、ゆっくりとタオルを掛けてやると無意識の笑みを浮かべて再びあどけない寝顔に戻った。見るとこんどは薄いタオルケットの端を握っている。初音ちゃんの癖なんだろうか。

額にかかる髪が、汗で少し乱れている。

「初音ちゃん・・」

 俺は消えゆく背中のぬくもりを残念に思いながら、初音ちゃんの寝顔を見つめていた。天使という奴を俺は見たことはないが、いるとすればそれはきっと初音ちゃんそっくりの顔をしているに違いない。
 この娘が辛い夢を見なくてすむのなら、俺はどんな悪夢にでも耐えよう。

そう、たとえば今朝のような・・・。

「初音は、寝付きましたか?」

 千鶴さんが、まるで幼児の母親のような事をいいながら部屋に入ってきた。
 手にはタオルが二枚掛けられている。

「一枚で良かったのに」
「もう一枚は、耕一さん。あなた用です」
「・・ありがとう」

 千鶴さんは俺にタオルを一枚渡すと、もう一枚で初音ちゃんの額や首の辺りを拭い始めた。優しく、優しく。壊れ物を拭うように。

 千鶴さんは時々こんな母親的な振る舞いをする。初音ちゃんに対しては特にそうだ。千鶴さんは叔父夫婦・・つまり千鶴さん達の両親が事故で亡くなったあと、長姉として妹たちの親代わりを努めなくてはならなかった。親父が来てからは、主に母親として。比較的年の近い梓はともかく、そのころまだ幼かった初音ちゃんは実際には千鶴さんを母に、俺の親父を父にして育った様なものなのだろう。 親父・・。洞窟の中で俺に話しかけてきた声を思いだす。そして、長年親父に対して抱いていた憎しみや恨みが、今は不思議なことに俺の中から消えてしまっていることに気付いた。まるであのお守りの光が、エルクゥの影と一緒に俺の中から浄化してしまったかのように。

 俺はポケットからお守りを取り出した。光はすでに消えていた。

「あら、そのペンダント・・」

 千鶴さんが俺の手の中のものをみて、驚いたような声を出した。
 そして不自然に目をそらしてしまう。俺は、気付かない振りをして言う。

「初音ちゃんは、お守りだっていってた」
「・・・・」
「千鶴さんは、これがなんなのかをしってる?」
「・・・・」

 千鶴さんの沈黙と、俺の沈黙。見えない砂時計がくるりと回った頃、千鶴さんはふいと俺を見ていった。

「居間に行きましょう。耕一さん。みんな、あなたを待っています」
「俺を?」

 千鶴さんは、覚悟を決めた笑みで頷いた。

「あなたと・・あなたの中の鬼を」

 

序章

二章

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