贄(にえ)序章


  光無き道を 

   ・・・りーり・・・りーり・・・ 夜風にのって流れてきた虫の声が、俺を我に返らせた。
 何も変わったことのない様な裏山の風景を、訳もなく見渡す。

  「・・・耕一お兄ちゃん?」

 背中の初音ちゃんが、そんな俺を不審に思ったらしい。肩越しに首を伸ばし俺の横顔を見ようとしている。

  「なんでもないよ、ごめん、初音ちゃん」

 俺は努めて明るい口調を作った。この子に心配をかけたくなかった。
 
よっ、と声をかけて初音ちゃんをおんぶし直す。

 初音ちゃんは本当に軽い。ぴょん、と俺の背中の上で初音ちゃんの体は弾む。

  「急いで帰らなきゃ。初音ちゃん、今のことをみんなに知らせよう」
  「耕一お兄ちゃん・・」

 さっきより耳に近いところから、初音ちゃんが話しかけてきた。
 
何か言いたそうな声音だ。

  「うん?」
  「お兄ちゃん、あの光は・・・・ヨーク」

 うわごとのようにつぶやく声。

  「・・・・エルクゥの箱船・・」
  「・・初音ちゃん・・・!!」

 突然、初音ちゃんは俺の背中にしがみついてきた。
 
肩から回した細い腕に痛いほど力をこめて、初音ちゃんは急に俺を抱きしめて来た。

 そして、顔を俺の背中にうずめたまま、くぐもった声で初音ちゃんは言った。

  「・・・あの船は・・あの船がやってきたのは・・」
  「・・・・」
  「・・また、狩りが始まる・・どうしよう・・お兄ちゃん・・・」
  「初音ちゃん・・・」
  「どうしよう・・・また・・・リネットのせいで・・わたしのせいで・・!!」

 初音ちゃんは震えていた。
 輪郭が融け合うほどに俺にしがみつきながら、初音ちゃんは一人冬の山にいるかのように小さく震えていた。
 
初音ちゃんは、エルクゥ達が再びやってきた事が何を意味するのかを正確に理解したらしい。そして、その責任がリネット一人、つまり自分一人にあると考えたのだろう。すべてはリネットの裏切りのせいだ、と・・・・。

 ヨークの中で出会った、ダリエリ−実体を無くしたエルクゥの首領−の言葉が耳によみがえる。奴は、鬼達が「真なるレザム」と呼ぶ彼らの母星に、500年も前から呼びかけ続けていたと言った。自分達を救ってくれるように、と。そしておそらく、裏切り自分たちを滅ぼしたリネットと次郎右衛門に対する、復讐を求めて・・・・。

 優しい初音ちゃん。リネットの記憶を取り戻した、昔も今も俺の愛する女の子。

 急に、初音ちゃんへの想いがこみ上げてきて、俺は胸が痛くなった。
 俺の背中で震えている女の子を、なんでもいい、ただ力の限り抱きしめたかった。

  「初音ちゃん、俺の声をきいて」

 俺はわざと少し強い声を出した。初音ちゃんがはっと顔を上げるのがわかる。
 
俺は横を向いて、初音ちゃんの目を見つめた。それからゆっくりと、優しい声で初音ちゃんに言った。

  「初音ちゃんのせいじゃない。リネットのせいでもない。さっきヨークの中でも言っただろ?悪いのは次郎右衛門だ、って・・・」
  「でも・・」
  「初音ちゃん」

 初音ちゃんの声に、俺はかぶせるように強くいった。

  「大丈夫、初音ちゃんは俺が護る。こんどこそ・・約束を守るよ」

 そして俺は少し微笑んで、ポケットから青く光る例の「お守り」を取り出した。

  「・・・親父もついてくれてる・・心配いらないよ。初音ちゃん」
  「・・・・こういちおにいちゃん・・・・」

 初音ちゃんは、また俺の背中に抱きついてきた。
 
しかし・・・こんどは震えてはいなかった。そのかわり、俺の背中はどんどん熱く濡れていった・・・。

 初音ちゃんはいつしか、俺の背中で寝息をたてていた。
 俺のシャツの端を子供みたいにきゅっと握ったまま、俺の肩に頭を預け、遊び疲れた子供のように眠っている。

 無理もない。初音ちゃんにはひどい一日だったのだから。

  「こういちおにいちゃん・・・」

 寝言だろうか。耳のそばで名前を呼ばれ、少しくすぐったいが、俺は嬉しかった。
 初音ちゃんを起こさないように、ゆっくりと足下を確かめながら歩く。
 
歩きながら俺は、光の船が消えた後に脳裏によぎった予感を思い出していた。

 なぜそう思ったのか、わからない。
 ただ、すでに起きた事を思い出すかのように生々しく、説得力のある予感。
 それはこれからの俺達の生活から、平和とか落ち着きとか、そういった日常の生活を彩る幸福の要素が失われる事を告げていた。

  「・・鬼の力を受け継ぐ者の戦いの幕開け・・」

 小さく声を出して言ってみる。客観的に考えると、現実味のない言葉だ。まるでスランプの漫画家が締め切り直前に考え出しそうな妄想に近い話だと、自分でも思う。
 しかし、俺は知っている。その直感が正しいことを。

 これから先どんなことが起こるのか、俺達がどうなるのか、はっきりとした答えを得たんじゃない。
 ただ・・予感。そう、ひどく悪い予感がした。

 世界の光が反転したかと思うほどの船の光が俺に残したその予感のせいで、俺は少しの間、我を失ってしまったのだ。

 ・・・りーり、りーり・・・

 虫の声が木霊のように、遠く低く林の中から伝わってくる。
 
空には大きな真円の月が懸かり、俺の住んでいる街ではお目にかかれないこぼれんばかりの星々とともに遠くの山の峰を薄く照らし出している。
 
何も、変わったところのない世界。光の船など夢だったのではないかとさえ思える。背中の初音ちゃんがいてくれなかったら、俺はきっと自分の記憶を疑っただろう。俺は背中にかかるほんのわずかな重みを意識した。

 ――初音ちゃん・・・
 初音ちゃんを震わせていたのは、リネットの記憶とそれから来る罪悪感だけだったのだろうか?

 俺は、初音ちゃんを護る。いや、柏木四姉妹全員を護る。命の限り。
 そう誓うのは簡単だ。しかし、護りきれずに俺が死んだら、なんの意味もない。

 人を越えた鬼である「狩猟者」(初音ちゃんはそういった)たちに、次郎右衛門の記憶をもっているにすぎないただの大学生の俺が、どうして抗う事が出来るだろう。しかも俺には、次郎右衛門がもっていたというエルクゥの武器さえ無いのだ。

  「親父・・・俺はどうすればいいんだよ・・」

 俺の独り言に、ポケットの中の光は何も答えてはくれなかった。

 

 山道が終わり、アスファルトで舗装された道路に出た。
 柏木の屋敷まで、あと十分ほどで着く。俺は家で待つみんなになんと説明しようかと考えようとして、途中でやめた。わからないことを人に説明するのは、無理な事のような気がしたのだ。

 屋敷へ続くこの夜道は決して真っ暗ではない。 
 空には月があり、星が地面を銀に染めている。もう少し先に行けば、街灯が夏の終わりの羽虫達を焦がしているだろう。
 なのに、俺が歩もうとしているこの道は、なんという深い闇に覆われているのだろう。この光無き道を渡ることを決めたのは、しかしながら俺自身なのだ。
 逃げることは許されない。そう覚悟はしている。

 ――でも、親父。俺はあの光の船が運んできた闇の深さに気が遠くなりそうなんだ。

 

一章

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