10.
 
  「社長お疲れ様です。お二人は奥の部屋にいらっしゃいます」

俺は鶴来屋別館にある料亭に来た。彼らとここで待ち合わせるのはもう両手では数え切れない。女将が私を案内してくれる。

「遅れまして申し訳ありません」
「あっ、賢治さんお邪魔してます」
「お疲れ様です。柏木さん」

「今年は春が遅いですな。はっはっはっ」
この上機嫌で酔っ払っている男は平田という。かっては鶴来屋の支配人を勤めた事もある男だ。今は系列の旅館の社長で、代議士花村義幸の後援会会長だ。

今の鶴来屋は義姉さんをトップに置き、私と支配人の足立が支えるという体制になっている。乱暴な言い方をすれば経営を足立が、渉外を私が担当している。

「柏木さん、一杯どうぞ。女将さん、料理運んでもらえますか」
ビールを薦めるのは花村の秘書で野塚という。 平野とは対照的にしっかりした口調だ。

平田は商売が上手く交渉にも長けている。だから親父はこの男を花村につけた。しかしi今の状況を見ただけでも平田が彼等をコントロール出来るとは思えない。

俺達は鍋をつつきながら来たる市会議員選挙の話をした。普通代議士は週末には地元に帰るが花村は東京で活動する事が多い。それは花村の名を新聞で目にする事も珍しくなくなったことでもわかるが、それだけ野塚が信頼されているということでもある。

誰は当選確実で、誰はボーダーライン上。誰々の事務所を何処に置くか。選挙はものすごく複雑なゲームだ。野塚も平田もこういう事に慣れている。まとめられた情報を淡々と私に告げる。

「もともとここは保守王国ですし、今回は懸念材料もなく、風向きは上々。これほど楽な選挙は久しぶりですよ」
そう言って平田が締めくくった。なにか落ち着かない様子だ。
「ところで申し訳ないんですが私は少し用事があるので、すいません、後はお二人でお願いします」平田の顔は真っ赤だが足元はまだしっかりしている。

平田が帰ると私は野塚と二人きりになった。早いうちに切り上げて帰ろう。
「平田さんは恐妻家のようですね」
私はだまって頷く。それは有名な話だ。
「今日は結婚記念日だそうですよ。ロマンチックですね」
これは私も知らなかった。わざわざそんな日に会合を持ったのだ。野塚は私になにか用があるのだろうか。

もともと花村の父親がかっての後援者に見放された時、彼に賭けたのが私の親父だ。
その次男で自治省のキャリアだった義幸が跡を継ぐようにしたのも親父だ。柏木と花村は2代にわたって互いの力を利用しあってきた。 

「一度ね。柏木さんと個人的に話をしたかったんです」
彼は初めてあった時私を「社長」と呼んだ。私がそれを嫌がっているという事を瞬時に察しして呼び方を変えた男だ。表情を読む達人と言っていいだろう。

しかたがない。先に頭を下げといた方がいいだろう。
「そういえばきちんとお礼をしてませんでしたマスコミも最近は好意的な記事を書いてくれます」
「いえ。憶測で記事を書かないように示唆しただけですよ。」
そう言って野塚は今日初めてグラスに口をつけた。

礼を言うのは一回だけでいい。警察のこととかは触れなくていいだろう。だいたい本当に花村の力が効いたのかどうかもあやしい。
 
「今度の週末なんですが、うちの”オヤジ”が帰ってくるんですよ。選挙のことでね」
平田がいる時は花村の事を”花村”と呼んでいた。
「それは是非お会いしたいですね」
もちろん俺は親父、兄貴の合同葬式以後にも何度か花村に会った事がある。その時は常に平田と野塚が同席していた。
「柏木さんからそのようにおっしゃられると嬉しいですね。もちろんオヤジもそのつもりです。御一緒にゴルフでも行きたいと言ってました」

その後、俺達は新幹線、道路、橋の話になった。

「ところで柏木さん、柳川裕也という名前に心当たりはありますか」
「やながわ・・いえ聞き覚えのない名前です」
「そうですか、いや私も最近柏木さん関係で耳にした名前なのです」
「私の?」
「ええ、柏木さんにお聞きしたらわかると思ったのです。少し気になるのでこちらでも調べたんですが、わかりませんでした。柏木さんのほうも少し心に留めておいてください」
不安だ。どうでもいいことなら野塚は話さない。

「申し訳ないんですが、その名前はどこから出てきたのですか?」
「こっちです」
彼は自分の頬を人差し指でこすった。

「もう一つおたくの弁護士の事ですけど、彼にも気を付けたほうがいいですよ。まあもう既になにかしようと思っても遅すぎますが、これからの事もありますからね」
これは私も知っていた事だ。私は黙って頷いた。

「色々とお手数おかけしてますね。申し訳ないです」
「いやだなあ、私達は一蓮托生じゃないですか」
 

週末、俺は花村とその息子とゴルフに行った。
 

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