32.
 

私に事件のことを教えてくれたのは出掛ける前の妹達だ。32歳のサラリーマン、19歳の大学生、26歳と27歳の二人組み。これらの人が犠牲になったのだという。この子達はこのような刺激的な話をしていても食欲は落ちないのかしら?私は朝はコーヒーだけだ。

鶴来屋に行ってもその話で持ちきりだった。
「またここのイメージダウンにならなければいいんですがね」
また?

ここ数年、隆山温泉、鶴来屋、柏木家、の名前が新聞を何度か賑わせた。それらには同情的な記事も多かったけれど、観光産業としてはマイナスだろう。この連続殺人もまた大々的に報道されるにきまってる。昨日受けた女性誌のインタビューも、あおりを受けてお蔵入りになってしまうかもしれない。

無差別殺人、人間の力ではありえない、特殊な凶器、大型の獣。

私はどうしても耕一さんのことを思い出してしまう。妹達もそうなのだと思う。だからあの楓でさえ今朝はめずらしく饒舌だった。耕一さん・・・

お母様の言葉が今も私の耳に残っている。
『殺されたって言った方がいいわね、耕ちゃんに』
本当に耕一さんがお父様や叔父さまを殺したのだろうか。そしてお母様は・・・
 
お父様の時も叔父様の時も耕一さんが人ならぬ力を振るったのだろうか。

私は小学校に上がる前から鬼について教えられた。ある夜おじい様が私を山へ連れて行き、そこで力を私に見せたのだ。それをきっかけに私は鬼のことを教え込まれた。しかしそれ以上のこと、おじい様も知らないであろうことも私は知っていた。リズエルとしての記憶が私に囁きかける。

中学三年の時私は初めて”鬼”を見た。血と暴力への衝動。おじい様のような秩序だった力ではない。かってのエルクゥが持っていた感覚をより純化したものと言えばいいだろうか。ただエルクゥ達は正気だったが”鬼”は狂気に彩られている。

お父様は苦しんでいた。そしてお母様も。耕一さんも今苦しんでいるのかもしれない。

いつものように梓がつくってくれた御飯を食べ、お風呂に入り床に就く。

私は仕事を終えた後、街を歩いてみようと思った。しかし仕事が立て込んだことや、夜になると危険だからと周囲に止められた。もし今夜も犠牲者が出たら明日は誰が止めても鬼を捜す必要がある。

それにしても・・・・
今回の事件は本当に鬼の仕業なのか?
もし鬼の仕業だとしても、その鬼は耕一さんなのか?
もし耕一さんだとしたら、何故なのだろう?
耕一さんも狂気の領域に足を踏み込んでしまったのだろうか。

耕一さん。耕一さんは今何処で何をしているのですか?

横になっても私はなかなか眠れなかった。

・・・・・・・・・・

私は声になるかならないかのつぶやきをもらしていた。聞こえるというよりも、口の動きで詩を感じる。

満月を少し行き過ぎた月の光。
月光に照らされた夜の墓場。
風が雨の匂いを運んでくる。
私は一歩一歩坂道を登っていく。

かすかに耳に聞こえる悲しい詩。この声は耕一さんの声だ。
耕一さん・・・・
私が見ているのは耕一さんの夢? 私は背中にリュックを背負っているみたいだ。右手に棒のようなものを握っている。
耕一さん。
耕一さんに会いたいと思う気持ちがこの夢を見せているのかしら。
それとも耕一さんが本当にこの隆山にいるのかしら? 私は柏木家の墓を通り過ぎる。詩はもう口の動きだけ、聞こえるのは優しい虫の声と私の足音。誰もいない夜の墓場。墓場が持つ恐怖が何処かへ行って、普段は隠されている幻想が空間に満ちている。 不意に辺りが暗くなった。黒い雲が月の光を遮ったのだ。それと共に虫達も声を潜める。墓場ががいきなり本来の恐怖を取り戻す。 墓場の終点には大きな岩がある。私達の遠い祖である次郎衛門の墓だという。次郎衛門が耕一さんであることを、私は楓に聞いて知っていた。

木々に囲まれた小さな広場には闇が満ちている。巨大な岩は、その闇の中でさえ広場全体の空間を支配していた。

私はその岩の横のさらなるぐらがりに回り込む。本来ならば決して視線を通さない暗闇の中で、私は周囲の動きを見ることができた。ずっと握っていた棒を岩にもたれさせる。岩陰にリュック下ろし、そして中からスーパーの袋を取り出した。全国展開している有名なスーパーだ。その袋が飛ばないように近くの石で押さえる。リュックも置いたまま。もたれさせていた棒だけを再び握り締めて、また広場に出た。

その棒が視界に入る。刀。日本刀だ。私は日本刀を左の腰に結わえる。

私は少し身構える。ゆっくりゆっくりと何かが私の身体から這い出してくる。身体が燃え上がるように熱くなっていく。尋常ではない力が私の体中に満ち溢れていく。古くから柏木の血に染み付いた鬼の力。

ドクン、ドクン、ドクン。

私は天に向かって吼えた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんんんん」

静寂だけでなく闇までも払うような咆哮が空気を激震させた。

私はその咆哮を正確に理解した。
群からはぐれた獣が仲間を呼んでいる。

その時私は体が浮かびあがるような感覚を感じた。
私自身が咆哮に反応し目覚めようとしているかのようだ。
しかしすぐに感覚がもどる。私自身は再び深い眠りに落ちる。

咆哮はすでに八方に散っていったが、空気の震えは未だにここを去っていないようだ。
私は岩にもたれかける。
あれから月は姿を現さず隠れたままだ。

私は目を閉じた。
そして開く。

その時巨大な物体が天から降ってきて広場の入り口をふさぐ。

そこにいたのは異形の怪物。
鬼だ。

凶々しい目、不気味な唸り声、荒々しい息遣い。
昔両親の寝室を覗いた時の記憶がよみがえってくる。
でもこんなに大きかったなんて。
私は、耕一さんは、呆然としたのか動くことができない。

逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、お願い。

私の思いとはうらはらに、私の口が開く。
「柳川裕也さんですね。柏木耕一です。あなたの・・・」
耕一さんの声も突然なら、それが途切れたのも突然だった。

鬼は大きく天に向かって跳んだ。
”飛んだ”と表現した方が正確かもしれない。

私は軽いステップで位置を変える。
先程私がもたれていた岩の上に鬼が降り立った。その重量からは信じられない身軽さだ。

鬼がこの広場に降り立った時とほぼ逆の位置になった。や否や鬼は今度はそこから飛び降りる。私は大きなサイドステップで躱し、バランスを崩したかのように倒れる。

その瞬間突風が頭上を通りすぎた。 と、私の右足が大地を蹴る。低い体勢のまま鬼の足元を走り抜ける。その時両手に軽い衝撃があった。

「ぐ゛いヾああ゛ぁ゛゛えぇゞあぁええぃお゛うぅうぅぅぅ」

意志までもが欠落した本能の叫びが再び空間を揺るがす。
私の手には何時の間にか刀が握られていた。
叫びと同時にうずくまる鬼が視界に入る。
再び私の足が大地を蹴り低い軌道を描いて鬼に向かって飛ぶ。
白刃が稲妻となって鬼の太い首に振り下ろされた。

雷が鬼の首を突き抜ける瞬間、時間が停まった。そして、再び時が動き出す。

血管という枷を失った血液が、信じられないほどの勢いで吹き出す。
首から上を失った巨体が、それでもなお何かを求めるかのように動く。
急速に拡がっていく死から逃れようとするかのように。

生命が、炎のように真っ赤に燃え上がりそして散っていく。美しく哀しい炎。やがて肉体は静かにその動きを止めた。


私は息を整える。手にこびりついた刀から指を一本一本剥がしていく。
私が今耕一さんだということが、ようやく頭でも感覚でも理解することができるようになった。 血にぬれた白刃をシャツの端でぬぐう。その時私がこれが普通の刀でないことに気が付いた。 まず異様に軽い。そして刃こぼれ一つしていなかった。普通の刀であれば、鬼にかすり傷を与えただけで、もう使い物にならないことをリズエルとしての私は知っていた。

鞘を腰から外し、刀を収める。そして耕一さんは鬼の死体のところに戻った。少し離れたところに落ちていた首、そして足首を鬼のところに持ってきた。そうか、すれ違った時に、刀で抜きざまに足首を切り落としたのだ。そして鬼はその苦痛に耐えることができなかったのだろう。

いきなり耕一さんはシャツを脱いだ。靴、靴下、ズボン、トランクスを次々に脱いで全裸になった。こ、耕一さん、いったいこんなところで何を。
脱いだ衣類や靴を、スーパーの袋にまとめて詰める。

ドクン、どくん、ドクン、どくん、ドクン。

再び心臓がおおきく鼓動した。再び力が体の奥底から這い出してくる。
身体がさらに熱を帯びて熱い。汗が滝のように噴き出す。

体中の骨と筋肉が急速に膨張し音をたてて軋む。視点がどんどん高くなっていく。
あの巨大だった岩も眼下に見える。

そして鬼がその本当の力を解放した。この世の何者も阻めない力の塊。生物の限界を遥かにこえた力の奔流。

その時私は何故耕一さんがはじめからこの姿にならなかったのかがわかった。 凄い、凄すぎる。 先程の鬼など問題にならない、桁外れの力がそこにあった。もし最初からこの姿になっていたら、鬼は即座に逃げ出しただろう。

耕一さんはその大木のような腕を岩にまわし、ゆっくりと力を込める。巨大な岩がまるで天に捧げられるかのように、ゆっくりと持ち上げられた。岩が在ったところの中央には大きな穴がぽっかりと空いていた。穴の中には巨大な白骨が積み重なっている。見ると一番上の体にはまだ肉がついていた。

親父。

これは鬼の姿のまま息絶えた、柏木家の男達の墓なのだ。 一番上のものは行方不明になっていた叔父さまなのだ。 耕一さんは岩を肩に担ぎ上げると、自由になった左手で”鬼”のまだ暖かい死体を持った。そして穴の中の一番上、叔父さまの死体の上に重ねた。

胴体から離れた頭部や足首も穴の中にゆっくりと入れる。次に衣類をまとめたビニール袋を穴に投げ入れた。少し考えてから、先程の刀をも穴の中に入れる。

一連の作業が終わると再び上の二体の死体に視線を投げ、そしてまたゆっくりと岩を元々在った位置に慎重に下ろす。巨大な岩は音も立てずに地上にまい戻った。

雨の匂いはますます強くなってきた。もうそろそろ降り出すかもしれない。

岩を下ろすとそのまま裏手に向かう。そこには小さな池があった。ゆっくりと鬼は水の中に入る。身体に付いた血を洗い落とし、再び地上に立った時、視点は元の高さに戻っていた。

耕一さんは再びリュックの場所に戻り、中からバスタオルを取り出して全身を拭いた。

着替え終わった後、耕一さんは岩にもたれたままじっとしている。
腕を組んでしばらくたたずんだ。

伯父さん、親父、柳川さん。
血に抗い血に敗れた者達よ。
せめてその・・・・
せめて? 何を?  魂? 死んだら何もないんじゃなかったのか?

そうだ彼等が生きている間にもっと分かり合おうとしなければいけなかったんだ。
彼等が何を考え、どのように生き、そして何を遺そうとしたのか。もっと解かろうとしなければいけなかったんだ。

耕一さんは軽く首を振って、リュックを拾い、ゆっくりとした足取りで広場を出た。
 

とうとう泣き出した空の下を耕一さんが傘を差して歩いている。雨が降っているからわからないけれど、そろそろ夜明けが近いはずだ。このまま坂を下りていけばこの家だ。もしかしたら耕一さんが帰ってきてくれるのかもしれない。

耕一さんが柏木の家の前に来た。固く閉ざされている門を一瞥すると、そのまま駅の方に歩き続けた。

駄目だ。このままだと耕一さんはまた東京に帰ってしまう。止めなきゃ。今、私の目が覚めなければ耕一さんは二度と私の元に戻ってこないかもしれない。私は起きようとしたがどうしても夢から逃れることはできなかった。
 

耕一さんが駅に着いたのは始発が出る一時間ほど前のことだ。時計を確認すると駅のベンチに腰を下ろした。しとしとと降る雨。駅前には人や車の往来が少しづつ増えてきた。私の目はいっこうに覚めそうにない。

雨の日の朝。静かに時間が流れる。

いきなり耕一さんが振り向いた。誰かが雨の中を音を立てて走って来る。
パジャマの上に薄いセーター、ジャージのズボン、右手には閉じたままの傘。
梓だ。

梓が駅舎に飛び込んできた。荒い息遣いのまま耕一さんの前にやってきた。
どうして梓がここにいるの?

「よう梓、色っぽい格好だな」
梓は何も言わずハアハア息を整えようとしている。耕一さんはリュックのなかからバスタオルを出して梓に渡した。

「耕一は、耕一は、どうして帰っちゃうんだよ。あたしだって耕一に話したいことも、聞きたいことも山のようにあるんだ。どうして何も言わずに帰っちゃうんだよ」
梓は頭と顔をバスタオルで半分隠したまま、泣きそうな声を出す。

そうか、この子も夢を見たのだ。
『お姉ちゃん』

「あたし耕一のことをもっと解かりたい。そして耕一にあたしのことを解かって欲しい。もっともっと解かってほしいんだ」
『お姉ちゃんったらあ』

「梓・・」
「お母さんの時だって、どうして黙ったまま・・」

「千鶴お姉ちゃん、起きてよ」
私は初音の声で目が覚めた。 雨の駅舎から私の部屋へと感覚が一気に移動して少し気持ちが悪い。

「お姉ちゃん、お兄ちゃんがね、耕一お兄ちゃんがね」
初音がすごく焦った声で私に話し掛ける。
「お兄ちゃんが帰っちゃうよ、ねえどうしたらいいの」

初音。
あなたも耕一さんをずっと待っていたのね。
私は半泣きの初音を軽く抱きしめる。
「あのね、今梓が行ってくれてるの。あの子が耕一さんを連れて帰ってくれるのを待ちましょう」
初音はなぜ私がそのようなことを知っているのか聞かなかった。
 

私と初音は服を着替え居間でお茶を飲んでいる。
もう始発も出た頃だ。梓はなかなか帰ってこない。

もしかしたら耕一さんが梓を連れていったのかもしれない。
ふとそんな考えまでが頭に浮かぶ。

その時居間に楓がやってきた。
「おはよう」
楓は今まで見たことも無い表情をしている。

「楓、あなた今起きたの?」
コクン。
「あなたも夢をみたの?」
コクン。
「耕一さんは今どこにいるの?」

「耕一さんは今一人で列車に乗ってるわ」
そうか、やっぱり耕一さんは帰ってしまったのか。
初音の表情がみるみる崩れていく。

「でもね、また来るって」
楓が泣きそうな目で笑っている。
「どんなに遅くても、お正月にはみんなに逢いに来るって」

そうかまた来てくれるんだ。
「ホント? 耕一お兄ちゃんまた来るって言ってくれたの」
楓がまた頷く。
「そっか、そっか」

「私ね、梓お姉ちゃんが帰ってくるまでにお味噌汁暖めておくね」
初音がそう言って台所に姿を消す。顔を見られるのが恥ずかしかったのかもしれない。
私も朝の支度をしよう。そうだ、梓のためにお風呂をわかしておいてあげよう。
 

(注1)太字部分――中原中也「月の光」初出『在りし日の歌』  1937
(注2)急ぎすぎたし詰め込みすぎましたね。
 

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