20.


机の一番下の引き出しには一足の靴が入っている。

頼み込んで千鶴姉のイッチョウラを借りることができた。前から目を付けていた紺のワンピースだ。色は地味だが上品な作りで密かにあこがれていた。「汚さないでね」を5回、「破いちゃだめよ」と2回言われたが借りれた時にはもう頭になかった。

自分の部屋で着てみる。鏡を見るとどうもイメージが違う。千鶴姉や妹達、それに叔母さんにみせると似合っていると言ってくれた。もう一度部屋に戻って鏡を見た。やっぱり似合ってるかな。ポシェットとかは叔母さんのを借りた。これで明日は大丈夫のはずだ。

朝食の後、一旦部屋で支度を整えて居間に戻った。耕一はあたしの格好をみてどう思うだろう。無神経な奴だから似合わないとか言いそうな気もする。でも結構気に入ってくれるかもしれない。

「梓お姉ちゃん、よく似合ってるよ」
「そうね、見違えたわ」
昨晩一度見たはずの女性陣が今朝もまた誉めてくれる。
耕一は値踏みするようにじろじろ見てから、「いいんじゃない」とだけ言ってくれた。

『なによその気の抜けた言い方は』
そんな風に言い返せばよかったかもしれない。

耕一はあくびをしている。そういえば朝食のころから眠そうだった。
『なぜそんなつまらなさそうにしているのよ』
わたしはなにか意識しすぎているみたいだ。
平常心平常心。

耕一の湯飲みに楓がお茶を注ぐ。
これから出かけなければいけないのに、いやにまったりとした時間が流れる。

来るのはわかっていたはずなのに、それでも福島さんの来訪は唐突な感じがした。
「いや〜お二人さん今日はいい天気でよかったよね」
ノー天気な第一声。耕一が手を上げ、言葉にならない声で挨拶をする。

「梓ちゃん久しぶり。そういう服を着ているのを見るのは初めてだな〜」
けだるそうな耕一に対して福島さんは不自然なほど元気がいい。
近所だから見かけることはよくあったけど話したことはほとんどない。
「うん、これは千鶴姉さんのなんだ」
言葉づかいも少しよそ行き。

福島さんが一方的に話し掛ける。やはり耕一は行きたくないのかな。大塚さんとの待ち合わせは10時、30分あれば間に合うだろう。隆山はコンパクトな街だ。たいていの所には歩いて行ける。歩いているうちに福島さんまでもが次第に無口になる。


大塚さんも早目に現れた。
「おはようございます。今日は楽しみましょうね」
お得意の笑顔が大安売りだ。

耕一と福島さんが券を買いに行く。
「今日は有り難うね、梓ちゃん。それにしてもホントはイトコなんですって」
あたしは曖昧にうなずく。彼女は意味ありげに微笑む。
「まあでも一緒に住んでるし兄妹みたいなものだから」
「ふーん、でも楽しそうね」
曖昧な微笑み。

会話は時に忙しく時にぎこちなく、こまめにペースチェンジされた。耕一だけがコンスタントにぼそぼそしゃべっている。福島さんと大塚さんの関係の濃さがイマイチよくわからない。話を聞いていると(あたし達を含む)他人の話が中心で自分達の話はあまりされてないみたいだ。

耕一は二人の会話から少しずつ身を引き歩みを遅める。
「柏木、早くしろよ」
「先いけよ。俺はゆっくり自分のペースで見るからさ」

あたしも耕一のペースに合わせる。ごく自然な形で二人と離れていった。

「ねえ、離れちゃったじゃない」
あたしは耕一をせかす。
「これでいいの。いい雰囲気になってきたら別行動だって打ち合わせといたから」
「でも福島さん呼んでたよ」
「あれで結構心配性なんだ。和樹は」
耕一はのんびりしている。

「ねえ、あの二人うまくいくかな?」
あたしがきくと相変わらず耕一はだるそうに答える。
「さあ、でも今日のところはまあまあいい感じだと思う」
耕一はなんか投げやりだ。

「あたしね、こういうの初めてなんだ」
「ほお」
「だから結構緊張してる」
「そのうち慣れるよ」
「耕一は慣れてるの?」
「うんにゃ」

耕一はそこで言葉を切った。
そしてあたしの顔を見て謝る。
「悪かったな、なんか俺も今日テンション低かった。もっといろいろしゃべれば良かった。
もう気を遣うこともないんだから気楽に行こう」
そう言って笑う。

「うん」
あたしは口ではそう答えたが今みたいな雰囲気も嫌いじゃなかった。
耕一とあたしはいつもはしゃぎすぎているのかもしれない。
あたし達は次の水槽に向かう。ここの水族館は片田舎にしては気合が入っていて見ごたえがある。小さな頃に何度か来たことがあるが最近は御無沙汰だった。

「こうしてみると二人連ればっかりだね」
”カップル”とかそういう言葉は避けた。
「あんまり他に行くとこないしな。夏休みになればもっと混むだろう」

「耕一は誰かここに連れて来ようと思わないの?」
「今日来たからしばらくは来ないだろうなあ」
「耕一は誰か好きな人がいないの?」

「いっぱいいる。広い意味にとればもっといる」
聞いたあたしのほうがびっくりしているのに、耕一は驚いた様子もなく答える。
 
「あたしは・・・」
「うん」
「あたしはね・・・・・・・」
「うん」
言葉が続かない。さっきはあんなことをさらりと言えたのに。

あたしは小さな靴を思い出した。あれには今もあたしの大切な思い出が込められている。

あたしが力を振り絞って言葉を紡ぎだす前に耕一の声が聞こえる。
「梓、そんなに無理して言わなくてもいい。解ってるから」
えっ解ってるって、なにが?
あたしは耕一の方を振り向く。耕一は水槽の一点を力を入れて見つめている。

「解ってるって・・」
「うん、梓が何を言いたいのか解ってる」

『なによ、なにが解ってるって言うのよ!』
『ねぇ、ホントに、本当に解ってるの?』

耕一もあたしを見る。とても優しそうな目。
「俺梓のことを好きだけど、梓だけを好きじゃないんだ」

色が薄くなる。耳が遠くなる。地面が震えてる。
「あたし先に帰ってるから」
かろうじてそれだけを言ってあたしは歩き出す。ゆっくり歩こうと思ったけど足が勝手に速く動き出す。水族館を出るとあたしは何時の間にか走り出していた。

悲しかった。あたし自身が”言葉”にすることを避けていたことをあっさり見破られていたから。”あたしは耕一を好きなんだ”ということを心の中ですら言葉にできなかったのに。

耕一があたし”だけ”を好きではない、という事実よりもその事のほうが悲しかった。

あたしは何時の間にか走るのを止めている。
そろそろ家に着こうとする頃前から楓と初音が歩いてくるのが見えた。あたしは努力して笑顔を浮かべ二人に手を挙げて合図する。 初音につられて楓もこちらに駆けてきた。

「どうしたの?」
まだ距離があったけど少し大き目の声で先に話し掛ける。
「あのね叔母ちゃんがね、今日調子悪いらしいんだ。だから夕御飯は梓お姉ちゃんに作ってもらおうと思ったの。先に材料だけ楓お姉ちゃんと買いに行くことにしたの。お姉ちゃんに肉じゃが作ってもらうつもりだったんだ」
そういえば楓がもっている手さげ袋は叔母さんのものだ。
朝は叔母さんも元気そうに見えた。一人でこんな広い家の家事をまかなっているのだから大変だ。 すこし我慢していたのかもしれない。
「叔母さん大丈夫なの?」
「口ではそう言っていたけど・・・千鶴お姉ちゃんが寝てたほうがいいからって」

「耕一お兄ちゃんは?」
「福島さんと用事があるんだって」

当然あたしは二人に付き合う。その方が心が紛れるから。
スーパーはあたし達の学校のほうにある。3人で並んで歩道をてくてく歩いた。この道は年がたつ度にますます車が多く行き来するようになった。 国道の抜け道として地元の人がもともと使っていたのだが、「抜け道マップ」などの存在で観光客までが道の細さに関わらず飛ばすようになったからだ。これから夏が本格化するとますます拍車がかかるだろう。

あたしは初音のリクエストに答えるべく肉じゃがの材料をそろえる。たしかジャガイモや玉ねぎは家にまだまだあったはずだ。牛乳や卵は常に買い足さなくてはならない。

それぞれに買い物袋を持ってきた道を折り返す。
「ねえ、お姉ちゃん。水族館どうだった」
「どうだったって・・あの二人はまあまあいい雰囲気だったよ」
「よかったね。梓お姉ちゃんもいろいろ苦労したかいがあったよね」

その時脇道からサッカーボールが転がり出してきた。
「あっ」
初音がそれを止めようと車道に飛び出す。
「初音、だめ!」
楓が叫ぶ。
後ろから場違いなスピードで一台の乗用車が走ってくる。
初音が驚いて後ろを振り返る。

その瞬間あたしの右足が地面を蹴っていた。

初音は小さい頃にも事故にあいかけた。
悪く言えば注意が足りないのだろう。
優しい子だからつい自分のことを後回しに考えてしまうのかもしれない。

だから千鶴姉はしつこいぐらいこの子に「車に気を付けるように」と言っていた。
それを横で聞いていたあたしは「また言ってる」、とよく苦笑していたものだ。
この子はまだ小学生なんだ。千鶴姉がいないのだからあたしが気に懸けておかなければいかなかった。

そんな事を考えているのにまだあたしは宙に浮かんでいる。速く、速く動かなきゃいけないのにどうなってるのよ。車がきちゃうじゃない。

とても長い一歩でようやく初音のもとに来た。初音は硬直したように動かない。

それは妙な感覚だった。
時間の流れがばらばらにされて急にゆっくりになったみたいだった。
風景から色が失われまわりが灰色に見える。
猛スピードで走っていたはずの乗用車がさっきから動いていないように見える。

あたしは初音を捕まえる。初音の体はものすごく軽く片手で持ち上げることが出来た。
そのままあたしは再び地面を蹴る。その一歩であたしのからだは道路の向こうの端まで飛んだ。

気がつくと乗用車がけたたましいブレーキ音を鳴らしてあたしの背中を通り過ぎる。
初音の体が重さを取り戻しあたしの体を滑り降りる。

「初音、大丈夫、ねえ大丈夫なの?」
あたしの必至の問いかけに初音は泣きながら答える。
「大丈夫、大丈夫だよ。お姉ちゃんごめんね、ごめんね。あたしが注意してなかったから」

一度停まった自動車は、あたし達が無事だったのを確かめたのか、声もかけずに再び走り出す。サッカーボールの持ち主らしき少年が向こうからこちらをこわごわと見ている。

楓があたしが落とした買い物袋を拾ってこちらにやってきた。
「初音、どこも痛くないの?」
「うん平気だよ。梓お姉ちゃんのおかげだね」
初音は泣くのを押さえようとして無理に笑おうとする。初音が自分の袋を放さなかったことにようやく気づいた。

「姉さんはどうなの、体がおかしくない?」
「あたしは大丈夫だよ、それにしても危ない運転だったな。なんなんだよ」

「それにしてもお姉ちゃん、スゴいジャンプ力だね。これも陸上部で鍛えてるからなんだ」
泣き止んだ初音が驚いたように言う。
あたしは通りをみる。片道一車線とはいえ2歩で渡れる距離ではない。こんな事が簡単にできるならクラブで苦労しないって。

「これが噂に聞く火事場のクソ力という奴なのかな、ハハ」
あたしは息をつく。楓が心配そうにあたしを見ている。

その時あたしの小さな靴を思い出した。そしてあの時何が起きたのかを。
あの時あたし達は父さんに柏木の血について初めて教えられた。あたしにも鬼の血が流れているはずなんだ。これがそうなんだろうか。帰ったら千鶴姉に相談した方がいいかもしれない。

あたしが持っていた袋の卵が割れてしまっていた。これはボールにあけて卵焼きにしよう。

(注1)今回はわりかし早く仕上がっていたのだけど(ネタは前回につくってた)どうも文が気に入らないです。文章表現は難しいなあ。何日かかけて直そうとしたけど長くなっただけで大して改善されていない。不良品ですがとりあえず今のところは次に進ませていただきます。

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