15.
 

水面から姿を現した”彼”は、水滴を滴らせながらゆっくりと三人の従姉妹に歩み寄った。瞳孔は縦に裂け、表情は失われている。低くまがまがしい唸り声が口から漏れる。

なかなか水中から浮き上がってこない彼の身を案じていた少女達は、初めは歓喜の、そして困惑から脅えの悲鳴をあげた。外見は人としての形を保っていたが、彼が既に”人”ではないことがわかったのだ。
 
恐怖に座り込んでしまった少女達にむかって、彼は一歩一歩足を進めていく。
 

あの時から私は夜毎夜毎に夢を見るようになった。甘く、そして悲しい夢を。

姉達が姉達で、妹が妹。私はそれを当たり前のように受け入れていた。
そして”あの人”が耕一さん・・・・。
 

「しかし、私もすっかりお客様になっちゃたわねえ」
休みの日、普段より遅い朝御飯。
「いえいえ、お義姉さんは我が家の大黒柱ですから」
お母さんは自嘲気味に笑う。
「それにしても賢治さんはタフね。休みを取ったと思ったらゴルフなんですもの」

お母さんが休日にいるのは久しぶりだ。めったにない休みも平日なのが当たり前だ。 一方の叔父さんにはここのところ姿をみかけることすらない。

「あの人はもともとから会社勤めですから。私なんか専業主婦に染まっちゃって、今からはパートにすら出る気がしないわ」

「そうそう、母さん仕事始めてから少し雰囲気変わったよ。ね、千鶴姉」
「そうねえ。無理が溜まってるんじゃないの、お母さん?」
千鶴姉さんも私同様、既に食べ終わっている。
「ええっ!?  私そんなにやつれたかしら」
お母さんは大袈裟に驚く。

「そんなことないよ。お母さん活き活きしてるよ」
我が家で真っ先にフォローを入れるのはいつも初音だ。

お母さんがそれに反応する前に耕一さんが口をはさむ。
「たぶん親父は既に手の抜き方を会得しているんだよ。伯母さんは真面目に親父に合わせようとしちゃうからワリを食うんだよ」

耕一さんは明るい口調だが私達は一瞬なんと言っていいのか分からなくなった。

「そうねえ宮仕えが長いからねえ」
叔母さんが相槌をうつが、その後会話がいったん途切れる。
 

私の中には一つの疑問がある。
耕一さんは本当に”あの人”なのだろうか。

顔も、表情も、声も違う。似ているけれど違う。
それに雰囲気が違う。誰も近づけないような猛々しさ、それでいて駆け寄って抱きしめて守ってあげたくなるような脆さ。

耕一さんにはそれがない。

千鶴姉さんに向けるはにかんだ笑顔。梓姉さんとじゃれる時の底抜けに明るい笑顔。初音への優しい笑顔。そして私にくれる慈しむような笑顔。

次郎衛門はあのような笑顔をもっていたのだろうか。
出会いと別れだけが鮮明に私の脳裏に焼き付いていて、普段の生活についてはまだまだ曖昧だ。

いや耕一さんはあの人だ。そうに決まってる。
なによりもエディフェルの、いや私の魂がそう告げている。

しかしもし、もし耕一さんがあの人でなかったとしたら。
それでも私の耕一さんへの想いは変わらないのだろうか。
 

皆が食べ終わっても誰も食卓から離れない。
「ところで、会社で映画の券が余ってるのよ」
「母さんついにそういう手口を覚えたんだ」
梓姉さんが嬉しそうに反応する。
「堕落したでしょ」お母さんがクスッ、と笑う。
「ねえねえ何の映画なの」
初音がチケットの1枚をお母さんから受け取る。そして私にも見せてくれる。
映画は今話題の学園コメディーだ。この街で一つしかない大きな映画館だ。

「それで5枚もらってきたんだけどみんなで行かない?」
ここでの『みんな』は子供たちということだ。
「うん、行こう。いつがいいかな」
 

その日のうちに私達は映画館に来た。
いい塩梅の込み具合だ。どうみても観光客の人も混じっている。

照明が消されたがスクリーンには宣伝が続く。周囲もまだまだ騒がしい。
「映画館に来たのは久しぶりだなあ。前に見たのは戦争ものだった」
「耕一はホラーとかは見るの?」
「ホラーは苦手だな。どちらかというと笑えるかアクションのほうがいい」

落ち着きの問題なのか活発さの問題なのか、こういう時の並びは梓姉さん、耕一さん、初音、私、千鶴姉さんの順に座ることが多いような気がする。

右手から千鶴姉さんが話し掛けてきた。
「楓、最近夢は見るの?」
「最近はあまり見ないの」
私がいつも同じ夢をみると言った時、お父さんもお母さんもあまり真剣に受け取らなかった。でも千鶴姉さんは私の話をゆっくり聞いてくれた。

千鶴姉さんも夢をみるという。星々を駆け巡る夢を。
それは私達が共有している記憶なのだと千鶴姉さんは言う。
私は姉さんにいろんな事を聞いてもらい、またいろいろ、特に力について教えてもらった。
私は次郎衛門がおそらく耕一さんだということも伝えた。

その姉さんにも最近ぽつぽつと見る次郎衛門のことを話さなくなった。
なにかずるいような気がする。話すべきなのだろうか・・・。

そういう事を考えているうちに映画が始まり私はそれに引き込まれていった。
 

私達は映画館の前にいる。日は既に傾いている。

「さて、まだ少し時間もあるしどうする?」
耕一さんはまだなにかやりたそうだ。
「申し訳ないんですが私は今日中にやっておきたいことが・・・」
「あたしもちょっとね」
「そっか。じゃあ楓ちゃん、初音ちゃん、3人で喫茶店でも入って、少ししてから帰ろう」

「耕一さんはこういう所によく来るんですか?」
私は喫茶店に入ることはめったになかった。初音もそうだろう。
なにか落着かない私達に比べて耕一さんは場慣れしている。
中学生だからだろうか。

「ここにはあんまり来ないよ。たまにね」
観光客も意識した和風の内装だ。カップルも多い。
誰とたまにここに来るのだろう。またここ以外のところにも。

「なかなかよかったよね。ほのぼのとした展開で」
うん、私もいつのまにか引き込まれていた。

映画でみるシーンはすべてドラマチックに見える。
それはそのすべてに意味が込められているからだ。
今、私と耕一さんと初音がここでコーヒーを飲んでいる。
このことに意味はあるのだろうか。
10年後、20年後にこの喫茶店のことを思い出すことがあるのかしら。
 

街灯に照らされながら家路につく。少し離れたところが騒がしい。
「すっかり遅くなっちゃったな。さすがに釣瓶落しだ」
「でも楽しかったよ。映画も喫茶店も」
映画の話、学校での話し。何時の間にか暗くなっていた。
「あんまり遅くなると心配されるし怒られる。すこし急ごう」

そのうちに駐車場の横を通りすぎた。
そこには何台かのオートバイが並んでいて恐そうなお兄さん達がたむろしている。
3人ともそちらの方を見ないようにして黙って通り過ぎる。

「おい」
荒い声が私達にかけられる。なんて運が悪い。
いかにも、という格好をしたお兄さんが耕一さんの方を見ている。
「確かお前柏木の・・」
耕一さんの知り合いなのだろうか?年齢はだいぶ上に見えるけれど。
「えっ。僕の知り合いですか?」
耕一さんも知らないみたいだ。
「とぼけんなよ。この前柏木と二人で歩いてたじゃねぇか」
柏木って、誰のこと。
声はますます大きくなる。彼の仲間らしき人たちが私達の周囲に群がる。
だれも彼もが似たような服装をして同じように笑っている。
「XyZ」と大きく殴り書きされた旗もみえる。
すごく嫌な雰囲気だ。私の心臓の鼓動が聞こえる。
気がつけば私も初音も耕一さんにしがみついていた。

「ああ、思い出した。"センパイ”だったよね。こんばんは」
耕一さんの声はまだ明るさを保っている。私達に安心しろといっているように。
「今日はまたちっちゃいお嬢ちゃんをつれてるじゃねぇか。ロリコンかてめぇ」
巻き舌で独特のアクセント。
ロリコンはテメーだろう。野次が周囲から飛ぶ。

「この子達は関係ないだろ。俺に用事があるんだろ」
言い方は多少乱暴になった。それでも声はまだまだ低い。
耕一さんはどうしてこの雰囲気のなかでこんな落着いた声がだせるのだろう。

「そんなことねぇよ。みんなでゆぅっくり話そうぜぇ」
周囲から下品な笑い声が飛ぶ。私達の方に手が伸びる。

「この子達は関係ないでしょ。俺に用事があるんでしょ。違うんですか」
耕一さんの声に雰囲気が一変した。声は相変わらず低い。話し方もむしろ丁寧だ。
それなのにものすごい力が込められている。周囲の誰もがそれを感じ戸惑っている。

耕一さん。

私はそのとき耕一さんの顔をみた。

この目、あの人の目だ。
あの人が時折見せていた厳しい目。生命に餓え、乾いている目。次郎衛門が持っていて耕一さんは持っていなかった目。

やっぱり次郎衛門なんだ。
やっぱり耕一さんなんだ。

私は力強く耕一さんを抱きしめる。耕一さんは私の背中に左手を回す。
耕一さんの温かさ。

悠然とあるいて人の間を抜ける、そこで私と初音の背中を押す。

「先に帰ってて。少し用事を済ませたら帰るから」
耕一さんは静かに笑うと踵を返した。

初音が走り出す。続いて私も走り出した。どうすればいいのかわからない。
とりあえず叔母さんに伝えなければ。
私と初音は必死で夜道を走り抜ける。
 
 

(注1)いろいろと言い訳はあるんだけど・・長くなるから略。
 
 

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