なんというささやかな奇跡なんだろう
もしも翼があったなら
−第ニ章−
ささやかすぎる奇跡
『うわーん……おかぁさーん』
『あらあら、どうしたの祐一』
『たかしくんがね、ひっく、ぼくのことぶったの』
『あらら、ケンカしちゃったのね』
『うわーん』
『よしよし、かわいそうね』
『うっ、ひっく』
『でもね祐一、男の子は簡単に泣いちゃダメなのよ』
『ひっく、どうして?』
『いい? 男の子はね、女の子を守らなくちゃいけないの』
『まもる?』
『そうよ、女の子が泣いていたらなぐさめてあげなくちゃいけないし、もう泣かないように守ってあげなくちゃいけないの』
『うん』
『それなのに自分が泣いていたんじゃ守ってあげられないでしょ?』
『うん、ぼくもうなかないよ』
『偉いわね、祐一は』
『えへへ』
『いい? 祐一。女の子を守ってあげられるような、強い男の子になりなさい……』
「母さん……」
途中から、それが夢だと気がついていた。
子供の頃の、記憶の断片。
自分でももう忘れてしまったと思っていた、遠き日の思い出。
俺は今、飛行機の機内に居る。
行き先はスウェーデンの首都、ストックホルム。
俺の両親がいる街だった。
「母さん……」
再度口に出して呟いてみる。
ストックホルムの空港までの所要時間は約12時間。
何か考えていないと焦燥で気が狂いそうだった。
俺は両親の元へと向かう事になった一本の電話のことを思い出していた。
久しぶりの三人での食事も終わり、名雪のいれてくれたお茶を飲む。
食事はとてもおいしかった、少し食べ過ぎてしまったくらいだ。
「だけどお茶のいれ方はまだまだだな」
「うー、そんなこと言うならもういれてあげない」
「なにをー、俺はお前がいつ嫁に行っても恥ずかしく無いようにだなぁ……」
「そんなこと祐一に心配してもらわなくてもいいもん!」
「あーあ、そんな事じゃどこへも嫁に行けないぞ」
「うー」
「その時は祐一さんがお嫁にもらって下さいね」
「あ、秋子さん……」(真っ赤)
「お、お母さん……」(真っ赤)
「あらあら」
冗談なのか、それとも本気でそう思っているのか…… 秋子さんは相変わらず秋子さんだった。
「あ、お母さん、洗物はわたしがするよ」
「そう? じゃあお願いしようかしら」
「俺も手伝いますから、秋子さんは部屋で休んでいて下さいよ」
「ありがとう祐一さん、じゃあそうさせて貰うわね」
プルルルル
丁度秋子さんが席を立ち部屋に向かおうとしたとき、その電話は鳴り出した。
「私が出るわ。 はい、水瀬です」
電話の近くにいた秋子さんが出てくれた。
俺は茶碗を流しへと運び、名雪がそれを洗い始める。
「あ、ダメだよ祐一、油のついたお皿を他のお皿と重ねたら」
「何でだ?」
「上にしたお皿まで油でべとべとになっちゃうよ、洗うの大変なんだから」
「そういうもんか……」
「祐一さん!」
洗い場でそんなやり取りをしていた俺に、秋子さんが声をかけてきた。
珍しく緊迫したその声に、俺と名雪はびっくりしながら何事かと電話に向かう。
「祐一さん、お父様からです」
「え? あ、はい」
普段からは考えられないほど厳しい表情の秋子さん。
そんな秋子さんの様子に戸惑いながらも、受話器を受け取った。
「もしもし?」
『祐一か? 突然で悪いがすぐにこっちに来てほしい』
「はぁ? こっちって…… スウェーデンか?」
『そうだ』
「何言ってんだよ、俺明日も学校あるんだぜ? 無茶言うなよ」
『祐一、落ちついて聞け』
「え……?」
『母さんが倒れた』
倒れた?
誰が?
母さん?
だってさっき電話で話をしたばかりじゃないか……
『おい祐一、聞いてるか』
「あ、ああ……」
『秋子さんには話をしておいた、今日はもう飛行機が無いから、明日の朝一番に成田発の飛行機に乗るんだ』
「え? あ、ああ……」
『今日の夜行列車に乗れば間に合う。いいな』
親父の声が耳を通り抜けて行く。
倒れた?
母さんが倒れたって?
「母さんは……」
『ん?』
「母さんは大丈夫なのか?」
『……危険な状態だそうだ』
「そんな……」
『秋子さんに全てお願いしてあるから言う通りにするんだ。いいな?』
「あ、ああ。わかった……」
『それじゃあ切るぞ』
「ああ……」
ガチャ
ツー、ツー、ツー……
電話が切れてからもしばらくは混乱して動けなかった。
何がなんだか分からない。
「祐一! 早く用意しないと!」
俺が電話している間に秋子さんから事情を聞いたのだろう、名雪が俺を急かした。
「あ、ああ、そうだな。じゃあ用意してくるよ」
「祐一さんはパスポートは持っていたわね。じゃあそれとお財布と、必要最低限だけでいいと思います、今タクシーを呼びますから」
「お願いします、秋子さん」
「それから祐一さん、これを」
そう言って秋子さんはやや厚めの封筒を渡してくれた。
「50万円入ってます。これだけあれば航空券が買えます。ノーマルなら予約なしでも、まず乗れると思いますから」
50万と言えば結構な大金だ。恐らくこれからしばらくは仕事ができなくなるであろう秋子さんが、当座の生活資金として確保しておいたものだろう。
俺は咄嗟に断ろうとしたが、どちらにしろ金が無ければ飛行機には乗れないのだ。素直に受け取ることにした。
「ありがとうございます」
「いいんです、さ、早く!」
それから俺はタクシーで駅に向かい、東京までの夜行列車に乗り込んだのだった。
国際線のチェックインは2時間前。俺はそのギリギリの時間にチェックインを済ませた。
出国審査さえもどかしく、俺は機上の人となったのだった。
夜行列車で一睡も出来なかった為、飛行機に乗ってからウトウトしてしまったのだろう。
俺はぼんやりする頭を一振りして眠気を払い、腕時計で時間を確認する。
だいぶ時間が経ったような気がしていたが、まだ10分も経ってはいなかった。
時間の経つのが遅く感じられる、のろのろとまるで亀の歩みのようだ。
電話を受けた時よりもだいぶ事態が飲み込めたが、その分焦燥感は募るばかりだった。
携帯電話など持っていない俺には、現在の母さんの容態を知る術が無い。その事が余計に焦燥を煽る。
落ち着け。
俺がここで焦っても何の解決にもならない。
そう自分に言い聞かせて、深呼吸する。
そうだ、焦っても仕方が無い。
母さんはきっと大丈夫だ。
だから少し眠ろう。眠っておかないと体がもたない。
俺はリクライニングを倒し、逸る心を押さえ込む。
精神的な疲れもあったのだろう、俺はそのまま深い眠りの淵に落ちて行った。
ストックホルム時間 13:00 (日本時間 21:00)
9:00成田発の飛行機に乗り、12時間の空路の末ストックホルムのアーランダ国際空港に着いたのは13:00だった。
時間が合わないのは8時間の時差の影響だ。
スウェーデンの首都、ストックホルム。
日本から遠く離れたこの地を、俺は初めて訪れた。
石畳の道、石造りの教会、右側を走るタクシー、街を行き交う背の高い白い人たち、どれをとっても、ここが日本を遠く離れた異国の地であることを感じさせてくれる。
普段であれば観光気分にもなろうかというものだったが、俺はすぐさまタクシー乗り場と思われる場所に直行し、片言の英語で教えられた病院名を告げる。
恐らく大きな病院なのだろう。病院名を聞いただけで運転手は了解した旨をジェスチャーで伝えると、すぐに車を発進させた。
右側を走る車に若干の違和感を感じながらも、俺は焦燥を押さえ込むように窓からぼんやりと町並みを眺める。
当たり前の事だが、日本とは全く違う雰囲気に目を奪われる。
そこかしこに流れる運河が印象的だった。
40分ほど走ると、目的地に着いたようだ。
そこで俺は自分が日本円しか持っていないことに気がついた。間の抜けた話だ。
悩んだ末、親父を呼んでくることにして、またも片言の英語でしばらくここで待っていてくれるよう頼む。
「えーと、ぷりーずうぇいと、OK?」
「OK」
不慣れな日本人を乗せる事も多いのかもしれない、運転手は了解してくれたようだ。
北欧に住む人は寡黙で、アメリカ人のような陽気さを表に出さないと聞いたことがあるが、まさにその通りだな。
こんな時なのに、そんなどうでもいい感想を抱いた。
「さんきゅー」
俺はそう言い残して病院内に入る。
受付まで来て、またも病室すら聞いていなかった事に気がついた。
「えーと、あいざわ、あいざわ……」
病室って英語ではなんと言っただろうか?
普段の勉強不足と焦りが重なり、単語が出てこない。
くそっ、急いでいるのに……
「祐一!」
往生する俺に、日本語でそう呼びかける声があった。
親父だ。
「あっ、親父! 母さんは、母さんは!?」
「落ち着け祐一、ここまではタクシーで来たんだな? 料金はどうした」
「あ、ああ、表に待ってもらってる」
「分かった、父さんが払ってくるからお前はそこで待ってろ」
親父は妙に落ち着いていた。
母さんの容態は大したことはなかったのだろうか?
だが、不安感は大きくなるばかりだ。
親父は落ち着いているというよりも、何と言うか…… 全てをあきらめているような雰囲気を感じた。
「親父! 母さんはどうなったんだよ!!」
その様子に不安になった俺は、ここが病院だという事も忘れ大声で親父に詰め寄った。
そんな俺を、親父は何とも形容しがたい瞳でしばらく見つめた。
「すぐに…… 母さんに会わせてやる。だからそこで少し待っていてくれ……」
「あ、ああ」
親父のその瞳に気圧されるように、俺は素直にうなずいた。
そんな俺をしばらく見つめ、親父は表に止まっているタクシーまで歩いて行った。
会わせてやる?
どういうことだ?
しばらくして、親父が戻ってくる。
「じゃあ行こうか、祐一」
「ああ……」
親父に連れられて病院の廊下を歩く。
時折廊下に案内の札がかかっている。だがそれは英語とアルファベット自体は同じなのだが、綴りが違う為にさっぱりわからない。恐らくはスウェーデン語なのだろう。
親父はどこに向かっているのだろうか。
なんとなく、病室とは違う気がする。
急速に膨れ上がる不安。
だが俺は親父の後について歩を進める事しかできない。
「ここだよ」
そう言って示された部屋は、明らかに病室とは異なっていた。
ロビーでは大勢の人が診察を待っており、廊下でも看護婦や入院患者などとすれ違ったのだが、この部屋の回りは不自然なくらい静まり返っていた。
俺は震える手でドアを開ける。
暗い。
そして寒かった。
寒さの厳しい北欧とはいえ、今は日本と同じく夏の終わり。事実ここまで歩いてくるのに少し汗ばむくらいだった。
にもかかわらず、この部屋は妙に寒い。
部屋にはベッドが4つ。
その一つには誰かが寝ているようだ。
母さんだろうか?
「母さん……?」
これは誰の声だろう。
醜くひび割れ、震える子供のような声。
ベッドに横たわるその人影には
その顔には
白い布がかけられていた
「何だよ…… なんでこんな布がかけてあるんだよ…… これじゃまるで……」
死んだ人みたいじゃないか
最後の台詞は言葉にならなかった。
状況が全く理解できなかった。
だって昨日
そう、昨日電話で話したばかりじゃないか。
いつもみたいに冗談を言って、いつもみたいに俺をからかって
いつもみたいに笑ってたじゃないか。
「母さんな、お前が来る少し前まで頑張ってたんだ」
後ろからの親父の声にビクリと体が震える。
ぜんまい仕掛けの壊れた人形のように、ゆっくりと親父に向かって顔を動かす。
「最期まで意識は戻らなかったが…… お前に一目会いたかったんだろうな」
親父はじっと俯いたまま、言葉を紡ぐ。
「医者の話では、あの状態で一晩もったのは奇跡に近かったそうだ。だが、今朝早くに……」
奇跡?
奇跡だって?
一晩もった事が。
たった一晩だけ生き長らえた事が奇跡だって?
思わず笑い出しそうになる。
ショックで俺はおかしくなってしまったのかもしれない。
親父の発したその言葉が可笑しくて仕方が無かった。
なんというささやかな奇跡なんだろう!
そんな事が奇跡か!
たったそれだけの奇跡しか起きなかったのか!
「は、はは、ははははっ!」
狂ったような耳障りな笑い声が部屋に響く。
誰の笑い声なのだろう、うるさくてかなわない。
「祐一! しっかりしろ!」
親父に強く肩を掴まれる。
同時に耳障りだった笑い声もぴたりとやんだ。
「母さんの顔を見てやれ」
親父のその言葉に、また体がビクリと震えた。
ゆっくりと母さんに向き直り、震える手を布に寄せ、そして取り払う。
母さんの顔は
穏やかだった。
「母さん……」
ドラマとかだとここで縋りついて泣き出す場面なんだよな。
麻痺した頭の隅で、そんなバカなことを考える。
だが実際には涙は出なかった。
というよりも何が何だかわからなかった。
そっと母さんの頬に手を触れてみる。
ビクリ
その冷たさに思わず手を引っ込めてしまう。
冷たかった。
本当に冷たかった。
俺はまだ手に布を持ったまま、ずっとそこに立っていた。
親父が静かに部屋から出て行った事にも気付くことなく。
ずっとずっと立ちつくしていた。
日本時間 7:30
祐一が家を出てから一晩が経った。
もうそろそろ東京に着く頃だろう。
いつになく目覚めがよかったが、爽快な気分とは程遠かった。
「おはよう、名雪」
お母さんが朝食の用意をしてくれている。
杖を突きながら片手でトーストの乗ったお皿を運んできてくれる。
朝食の用意はわたしがするべきだった。
「ごめんねお母さん、朝食の用意、わたしがするべきだったね……」
「いいのよ、そんなに気を遣ってくれなくても」
「だって……」
「名雪。気遣ってくれるのは嬉しいけど、いつも通りでいいのよ。私もその方が嬉しいから」
お母さんは少し真剣な表情になってそう言った。
確かにあまり気遣うのはかえって窮屈かもしれない。
「うん、わかった」
それだけ言って、トーストにジャムを塗る。
たったこれだけの会話でも、互いの思いは分かってる。
17年間一緒にいるのだから。
「あ、そうだ。今日学校で調理実習があるんだった」
「あらそうなの?」
「うん、だから今日はお弁当いらないよ」
「あらあら、そういうことは昨日の内に言ってくれないと」
「ごめんね、お母さん」
「いいわ、私がお昼に食べるから」
「……」
「……」
そこで会話が途切れる。
わたしも、そして多分お母さんも。
わざと話題に出さないようにしている。
わざと普段と同じような会話をしようとしている。
「祐一のお母さま…… 大丈夫かな……」
わたしの口からついにその言葉が漏れた。
それはあたかも今までの平穏を打ち破る魔法のよう。
「大丈夫…… きっと大丈夫よ……」
「そうだよね、大丈夫だよね」
なんの根拠も無い、でも切実な願い。
わたしはお母さんの事故で自分を閉ざした。
祐一がいてくれなければ立ち直れないほどに。
だから祐一の今の不安な思いもよく分かる。
祐一にあんな思いはしてほしくなかった。
「名雪、そろそろ学校に行かないと」
「あっ、もうこんな時間。じゃあ行ってきます」
「いってらっしゃい、気をつけてね」
「はーい、いってきまーす!」
わたしは努めて元気よくそう言うと、学校へと走った。
別に走らなくても間に合う時間帯だったが、不安を振り払うように走った。
祐一のお母さまが亡くなったことを知ったのは、夕方帰宅してからだった。