一羽が居なくなれば、もう一羽も飛べなくなる比翼の鳥

 

 

 


もしも翼があったなら

−第三章−

比翼連理

2000/10/31 久慈光樹


 

 

 

日本時間 19:00

 

「祐一……」

 

 わたしの呟きは、誰も居ない部屋に吸い込まれて消えた。

 学校から帰ってきて、祐一のお母さまの訃報を聞いたのが、午後6時。

 それから試しにストックホルムにあるご両親のお宅に国際電話を入れてみたが、誰もでなかった。

 

「祐一……」

 

 もう一度呟いてみる。

 祐一の気持を思うと、いてもたってもいられない気分になる。

 だけどわたしにはどうすることもできない。

 祐一がわたしにしてくれたように、側にいてあげる事ができない。

 

「祐一…… 会いたいよ…… 話がしたいよ……」

 

 わたしは。

 ダメだ。

 

 祐一に会いたい。

 それは本当の事。

 でも。

 でもわたしは祐一に依存しすぎている。

 今しなくちゃいけないのは、祐一の支えになってあげる事。

 祐一がわたしにそうしてくれたみたいに。

 でもわたしは寂しがっているだけ。

 祐一と会えなくなって寂しがっているだけ。

 わたしはこんなにも弱い人間だっただろうか?

 

 祐一がいなくて、お母さんと二人だけになって知った事。

 この家はもう二人だけでは広すぎる。

 もう祐一の居ない生活なんて考えられなくなっている。

 祐一に会いたい。

 会って話がしたい。

 抱きしめてもらいたい。

 

 ……

 ……

 

 わたしは…… ダメだ……。

 

 

 

ストックホルム時間 11:00 (日本時間 19:00)

 

 母さんの遺体はとりあえずの処置を済ませたまま、病院に在る。

 これからどうするのか。

 親父と話したかったが、事後処理に忙しいようでろくに話も出来ないままだ。

 病院のロビーに何時間も座りつづけた。

 その間、俺は奇妙に落ち着いていた。

 いや、未だに母さんが死んだという実感を持てないでいたと言った方が正確かもしれない。

 涙も出なかった。

 

「待たせたな、祐一」

「親父、これから……」

「ここじゃなんだ。家に行くか」

「家?」

「こっちにだって父さんたちの住んでいる家がある」

「そうか、そうだよな」

「今タクシーを呼んでくる、もう少しだけ待っていてくれ」

「ああ」

 

 おかしな話だが、俺は虚を突かれたような思いだった。

 まったくの異国の地であるこの土地に、親父と、そして母さんの住む家があるのだ。

 俺にとっての家とは、両親が引っ越す前に住んでいた日本の家であり、そして今は水瀬家だった。

 

 待つ事しばし、タクシーが到着したらしく親父に連れられて病院を後にする。

 病院を出るとき、ふと後ろを振りかえる。

 霊安室で見た、物言わぬ母さんの顔を思い出してみた。

 

「どうした祐一」

「……いや、なんでもない。行こうぜ」

 

 やはり涙は出なかった。

 俺はどこかおかしくなってしまったのだろうか。

 

 

 

 親父たちの家は少し郊外の寂しい場所にあった。

 

「なんだよ、一戸建てに住んでたのかよ」

「日本とは土地や建物の値段が違うからな」

「そういうもんか」

「さあ入れ」

「ああ」

 

 広い。

 それが第一印象だった。

 流石に日本の家とは違い、十分な広さを持っている。天井も高い。

 

「広いな」

「これくらいここいらでは普通だ」

「へえ」

「疲れただろう。コーヒーでも飲むか?」

「ああ」

 

 親父は俺のその返事を聞くと、戸棚からマグカップを出し、コーヒーメーカーでコーヒーを入れようとする。

 だがその手つきはぎこちなく、危なっかしい。

 はっきり言って見ちゃいられなかった。

 

「俺がやるよ」

「そうか、悪いな。どうにも慣れない事をするとダメだな」

 

 親父の愚痴を聞き流しつつコーヒーメーカーに水を入れる。

 

「いつもは」

「あん?」

「いつもは母さんがやってくれていたからな」

「……」

 

 親父はそこで口をつぐんだ。

 俺も黙々とコーヒーを入れる作業に専念する。

 

「ほら、出来たぜ」

「すまん」

 

 無言でコーヒーをすする。

 砂糖を入れたにもかかわらず、奇妙に苦かった。

 やがて俺の方から口を開く。

 

「どうするんだ? これから」

「母さんは日本の墓に眠らせてやろうと思う」

「……そうか、じゃあ一旦帰るんだな」

「ああ。だが色々と手続きが面倒でな、火葬はこちらで済ませることになるだろう」

「……」

「手続きにどのくらいかかるか分からんが、今月いっぱいはかかるかもしれん」

 

 今日が15日だから、後半月近くかかるという事か。

 

「祐一、お前どうする? 先に日本に帰国していてもいいんだぞ」

「……いや、いいさ。俺もしばらくここにいるよ」

「そうか」

「ああ」

 

 やがてコーヒーを飲み干して親父は立ち上がった。

 

「手続きをしてくる、お前はしばらく家にいてくれ」

「わかった。でももうすぐ昼飯だぜ?」

「父さんは外で食べてくる。冷蔵庫に何かあるだろう、適当に食べろ」

「何だよ、ひでえなぁ」

 

 親父は苦笑すると、そのまま家を出ていった。

 しばらくそこに座っていたが、せっかくなので少し家の中を見てみることにした。

 

 親父と母さんが生活していた家。

 俺の知らない両親の生活。

 平屋だったが、やはり1部屋1部屋が大きい分、広く感じられた。

 風呂、トイレ、居間、キッチン。

 順繰りに回る。

 試しに冷蔵庫を開けてみると、野菜や肉など一通りの材料が揃っていた。

 割合几帳面だった母さんらしく、家の中はよく掃除が行き届いている。

 共働きだったにもかかわらず、この広い家はしっかりと母さんの管理下にあったようだ。

 

「ここは寝室か」

 

 日本のベッドならセミダブル程度の広さのあるベッドが2つ並んで置かれている。

 遮光のカーテンが引かれているためだろう、昼間だというのに部屋の中は真っ暗だった。

 部屋を覗きこんだ俺の目に、ふと飛び込んできたものがあった。

 俺はそれを見る為に電気をつけようとする。電気のスイッチは廊下からの光ですぐに見つかった。

 

 カチリ

 

 部屋の中が一気に明るくなる。

 思った通りそれはフォトスタンドだった。ベッド横のサイドテーブルに置かれている。

 ゆっくりとサイドテーブルに歩み寄り、それを手にとって眺める。

 そこに写っていたのは……。

 

 俺と。

 親父と。

 そして母さん。

 

 俺の高校入学時に、校門前で撮った写真だった。

 そんなに昔の事ではないにもかかわらず、俺は懐かしさに目を細めた。

 この写真を撮った時のことは今でもよく覚えている。

 これは後で知ったことだが、このときにはもう両親ともスウェーデン行きがほぼ内定していたらしい。だから事情を知らない俺が嫌がるのを無視してでも入学式に参列したのだ。

 今の高校に転校する前に入学した高校、その校門の前で3人揃って写真を撮ろうと言い出したのはたしか母さんだった。

 高校生にもなって家族揃って人前で写真を撮るという行為に、俺は必死で抵抗した。

 だが結局押し切られて俺は少しむくれた顔をして写っている。

 親父はそんな俺に苦笑したような表情だ。

 

 そして

 

 写真の中の母さんは幸せそうな顔をして笑っていた。

 本当に幸せそうな笑顔だった。

 

「……」

 

 涙が、出た。

 母さんの死を知ってから、一度も出なかった涙が。

 今まで泣けなかったのが嘘のように俺の頬を伝った。

 

「うっ…… く…… ふぐっ」

 

 不意に。

 不意に俺は気がついたのだ。

 写真の中で幸せそうに微笑む母さんを見て。

 もう二度と母さんとは会えないことを。

 もう二度と母さんのこの笑顔を見る事ができないことを。

 母さんと呼べる人は、もう永遠に失われてしまったことを。

 

 最後に母さんの声を聞いたあの電話の事を思い出す。

 

『ねえ祐一、一度こっちに……』

 

 あのとき母さんは何を言おうとしたのか。

 

『一度こっちに来ない?』

 

 母さんはそう言いたかったのではないのか。

 もしかすると一緒に暮らそうと言いかけたのかもしれない。

 だが、その言葉は最後まで発せられる事は無かった。

 きっと俺の日本での生活を気遣って。

 最後まで俺の事を気遣って。

 

 俺は。

 俺はバカだ。

 どうしようもないバカだ。

 バカで…… そしてガキだ。

 見守っていてくれた人の存在を忘れて。

 自分の事しか考えていなくて。

 

 もう母さんはいない。

 どこにもいない。

 今になってやっとそんな事に気が付くなんて……。

 

 俺は…… バカだ……。

 

 

 

日本時間 21:00

 

「勉強…… しなきゃ……」

 

 口からそんな言葉が漏れて、自分で言った言葉なのにもかかわらず苦笑してしまう。

 こんなときに……。

 でもこんなときだからこそ、何でもない日常の行為を為すのがいいのかもしれない。

 わたしがここで沈みこんでいたとしても、祐一の助けになるようなことは何一つ無いのだから。

 そう、何一つ。

 

「今日は古典の宿題が出ていたっけ」

「古典は苦手だから、さっさとやっちゃおう」

「教科書、教科書っと」

「ええと、確か漢詩だったっけ」

 

 部屋で一人、ぶつぶつと呟きながら教科書を広げるわたしは、傍から見ればどんな風に見えるだろう。

 きっと気でも違ったと思われるんじゃないだろうか。

 

「うふふ」

 

 でも沈みこんでくらーい顔をしているなんて滑稽じゃない。

 どうせ祐一とは会えないんだから。

 

 ココロの奥に、酷く冷めたわたしと、子供のようにはしゃぐわたしがいて、お互いがお互いの行為をせせら笑う。

 バカみたいだと笑っている。

 

「さて、勉強しよ」

 

 自分の耳で聞いてもわざとらしかったが、構わず漢文に集中する。

 課題は『白氏文集』の『長恨歌』だった。

 

「ええと……」

 

 

  臨 別 殷 勤 重 寄 詞  別れ際 ことづけするに
  詞 中 有 誓 両 心 知  相方の 心のみ知る
  七 月 七 日 長 生 殿  七夕に 永遠の愛をと
  夜 半 無 人 私 語 時  ちかいあう 天の川にて

 

 

「うー、全然わからないよ……」

 

 教科書にある原文と意訳を読んでみるが、さっぱりわからない。

 構わず最後まで読み進めてみる。

 

 

  在 天 願 作 比 翼 鳥  天においては 比翼の鳥に
  在 地 願 為 連 理 枝  地においては 連理の枝に
  天 長 地 久 有 時 尽  いつの日か 天地尽きても
  此 恨 綿 綿 無 絶 期  この心 尽きることなし

 

 

「比翼の鳥……?」

 

 聞き覚えのある単語に、わたしの手は止まった。

 比翼の鳥という単語、どこかで聞いた事がある。

 

「ええと…… 国語辞典、国語辞典」

 

 

 比翼の鳥

  伝説上の鳥で、雌雄各一目・一翼で常に一体となって飛ぶ鳥。

  男女の深い契りの例え。

  (比翼の鳥、連理の枝。比翼連理)

 

 

「比翼連理……」

 

 比翼の鳥とは、片目片翼しかない鳥が“つがい”になったことを言うのだという。

 一羽が居なくなれば、もう一羽も飛べなくなる比翼の鳥。

 まさしくわたしと祐一のようだ。

 

 ……違う。

 片翼しかなくて飛べないのはわたしだ。

 祐一は…… 祐一はどうなんだろう。

 祐一は空を飛ぶ為にわたしの助けを必要としているのだろうか。

 祐一にとって、わたしは必要な人間なんだろうか……。

 

 プルルルル……

 

 電話が鳴っている。

 

 ル……

 

 お母さんが出たみたいだ。

 

 ぼんやりと考える。

 とても勉強どころではなかった。

 

 

祐一は果たしてわたしを必要としているのか?

 

 

 

 それはある意味、恐怖を伴う問いかけだった。

 わたしは祐一を必要としている。でも祐一も果たしてそうだと言えるのか。

 祐一にとってわたしは枷にしかならないのではないか。

 もしそうならわたしは……。

 

「名雪ー 電話よー」

 

 でんわ……。

 わたしに…… でんわ……。

 

「名雪ー」

 

 よんでる。

 お母さんがよんでる。

 

「祐一さんからよー」

 

 祐一。

 祐一から…… 電話。

 

 祐一から電話!

 

 バタン!

 

 部屋を飛び出し、階段を駆け下り、電話に駆け寄る。

 

「あらあら」

「もしもしっ!? 祐一っ?」

『名雪……』

 

 祐一だ! 祐一の声だ!

 灰色だった世界が、急に色彩ある世界に変わる。

 ああ、わたしはこんなにも……。

 

『どうした?』

「ううん。何でもない」

『名雪、何してたんだ?』

「え? 勉強」

『なんだ、珍しい』

「うー、ひょっとしてヒドイ事言ってる?」

 

 いつも通りの会話。

 いつも通りのやりとり。

 だけどわたしは浮かれていたのかもしれない。

 祐一の様子が普段どおりではない事に、この時は気がつかなかったのだから。

 

『あのな、名雪』

「なーに?」

『しばらく…… そっちに戻れないことになった』

「え……」

『色々と手続きがあるみたいで、多分半月くらい戻れない』

「そう…… なんだ……」

『ああ』

「でも、半月なんてすぐだよね」

『ああ』

「すぐにまた、会えるよね」

『ああ』

「……」

『……』

「祐一…… 逢いたいよ……」

 

 わたしは何を言っているのだろう。

 祐一は今、それどころじゃないのに。

 そう思うが、わたしの口は意思に反して言葉を紡ぐ。

 

「あと半月も祐一に逢えないなんて、寂しいよ」

『名雪……?』

 

 祐一の困惑したような声で我に返る。

 わたしは一体何を……!

 

 祐一に嫌われる!

 

 そんな子供じみた強迫観念に捕らわれる。

 わたしは慌てて言葉を取り繕った。

 

「あ、あはは、わたし何言ってるんだろ。冗談、そう冗談だよ! ごめんね祐一、その、ヘンな事言って」

『名雪』

「ふ、不謹慎だよね、こんな時にこんな冗談言うなんて」

『おい、名雪』

「あ、あはは、ごめんね祐一、わたしったらどうかしてるね、どうかして……」

『名雪っ!』

 

 突然電話口の祐一が大声でわたしの名前を呼び、思わずビクリと体が震える。

 同時にわたしの意に反していた口も、ぴたりと言葉を吐き出すのを止める。

 

 嫌われる! 祐一に嫌われる!

 あのときのように……。

 

 

 わたしの手から叩き落とされ、地面に無惨な姿を晒した雪ウサギ。

 

 

 イヤだ! もうあんな思いをするのはイヤだ!

 

 

『名雪、ありがとう』

「え……?」

 

 だが電話口から聞こえてきたのは、思いもよらぬ感謝の言葉だった。

 

『名雪、名雪は俺を必要としてくれるんだな……』

「え?」

 

 わたしはここに至ってようやく、祐一の様子が普段通りではない事に気が付いた。

 不安げな口調。

 まるで不安に怯える子供のような口調。

 

『名雪は俺を必要としてくれるんだよな……?』

「あ、あたりまえだよ! わたしは…… わたしには祐一が必要なんだよ!」

 

 思わず叫んでしまう。

 そうだ。

 わたしには祐一が必要なんだ。

 祐一に側にいてほしいんだ。

 

『ありがとう、ありがとう名雪。俺の……事……俺の事……必要としてくれ……て』

「あ……」

 

 祐一は泣いていた。

 電話口から、途切れ途切れに祐一の嗚咽が伝わってくる。

 

 そうだ

 わたしもそうだった。

 わたしもお母さんが事故に遭ったとき、同じ思いをしたはずだ。

 もう自分は一人ぼっちになってしまったんだって。

 もう誰も自分を必要としてくれないんだって。

 きっと祐一も同じだったんだ。

 祐一も誰かに必要だと言ってほしかったんだ。

 

「祐一、わたしはやっぱり祐一がいないとダメみたい。祐一が側にいてくれないとダメみたい」

うっ…… くっ……

「たとえ世界中の人がいなくなっても、わたしだけは、わたしだけは祐一の側にいるから、だから泣かないで、自分を嫌いにならないで。わたしは、わたしは祐一のこと大好きだよ」

『名雪…… 名雪…… 名雪』

 

 それからしばらくの間、祐一はわたしの名前を呼んで泣きつづけた。

 祐一を抱きしめてやることすらできない今の自分を歯がゆく思いながら、わたしは「大丈夫だよ」と繰り返していた。

 

 

『ごめんな、名雪』

 

 やがて落ち着いたのだろう、祐一はちょっと照れくさいって感じの声で、そう言って笑った。

 

『俺、やっとわかったよ。名雪が俺を必要としてくれるように、俺にも名雪が必要だって事が』

「祐一……」

『必ず、必ず帰るから。半月なんてあっという間さ、必ず名雪の側に帰るから』

「うん、待ってる」

『ああ。待ってて、くれよな』

 

 それから少し世間話をして、わたしは電話を切った。

 電話に出る前の不安感は嘘のように消えていた。

 

「名雪」

 

 電話の脇にいたお母さんがわたしに声をかける。

 ちょっぴり照れくさくなって、顔を伏せて笑う。

 

「えへへ、我ながらヘンな事言っちゃったね」

 

 するとお母さんはわたしをそっと抱きしめてくれた。

 子供の頃のように。

 

「名雪、大人になったわね」

「そんなこと、ないよ」

「いいえ、名雪は大人になったわ。私の小さな名雪は、いつのまにかこんなにも大きくなったのね」

「お母さん……」

「祐一さんのこと、お願いね。今、祐一さんの支えになってあげられるのは、あなただけなのだから」

「うん」

 

 

 祐一。

 

 やはりわたしと祐一は比翼の鳥だ。

 お互いがお互いを必要とし。

 お互いがお互いを支え合う。

 どちらか一方が居なくては、空を飛ぶ事ができない比翼の鳥。

 だったらずっと一緒にいればいい。

 ずっと一緒にいれば、大空を自由に飛ぶ事ができるのだから。

 

 

 わたしと祐一はそんな……。

 そんな比翼の鳥なんだ。

 

 

 

 

<つづく>
 

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