今にして思えば、それはある種の予感だったのかもしれない
もしも翼があったなら
−第一章−
それは、予感
2週間が経ち、秋子さんはついに退院する事になった。
右足は相変わらずだったが、これ以降はリハビリの為に通院することになるとのことだ。
確かに不安だったけれど、秋子さんが帰ってくるという事を俺も名雪も素直に喜ぶ。
名雪と二人っきりの生活も楽しかったけれど、やはり三人の生活を俺も名雪も望んでいたのかもしれない。
「お母さん、これで荷物は全部?」
「ええそうよ、ありがとう名雪」
秋子さんの荷物の整理は名雪が全部やってくれたので、俺は少し手持ち無沙汰でそんな二人のやり取りを眺めているだけだった。
ガチャ
病室に入ってきたのは、秋子さんの担当の折原先生だ。
「水瀬さん、ご退院おめでとうございます」
「折原先生にはお世話になりました」
「いえいえ、私も初めての担当で色々と不手際もあり、申し訳ございませんでした」
「そんな事はありません、いいお医者様になられると思いますわ」
「ありがとうございます」
そんな窮屈なやり取りを交わした後、先生は手持ち無沙汰な俺を見つけてニヤリと笑う。
「よう、どうした祐一、暇そうじゃないか? こんな時に男はやる事がなくて困るな」
「まったくです」
俺は苦笑しながら軽口に応じる。
この先生ともだいぶ親しくなった。
最初の内こそお互い他人行儀だったが、元々気さくな性格なのだろう、今では年の離れた弟に接するような態度で話しかけてくれる。
俺も先生のそんなところが嫌いではなかった。
「ここにいても名雪ちゃんの邪魔になるだけだろ。下に行かないか? コーヒーくらい奢るぜ?」
「うふふ、確かに邪魔だね、行ってきなよ祐一」
「邪魔なのかよ…… でも折原先生はいいんですか? サボって」
「たまにはいいさ。 じゃあ名雪ちゃん、水瀬さん、祐一を借りてきますね」
俺は折原先生に連れられて、一階に向かう。
喫茶コーナーにでも行くのかと思ったが、先生は缶コーヒーを2本買うと中庭に向かった。
休日の昼下がりの中庭は陽射しが心地よい。
「実はな、祐一。お前には話しておこうと思う」
一息ついた後、そう切り出した折原先生の顔は医師のそれだった。
「水瀬さん…… 秋子さんの右足の事だ」
多分そうではないかと思っていた。
俺と名雪の一番知りたかった事。
だが同時に一番知りたくなかった事でもある。
「単刀直入に言おう」
折原先生はそう前置きしてから続けた。
「秋子さんの右足は、この先も完治する見込みはほとんど無い」
ジジジジ……。
夏も終わりに近づいたが、相変わらずセミの鳴声がうるさいほど聞こえる。
カンチスルミコミハホトンドナイ……
俺はその言葉をしばらくは理解できなかった。
いや、理解したくなかったのかもしれない。
毎日のリハビリでも一向に回復の気配を見せない秋子さんの右足。俺自身、事前に十分そのことは予期していた。
予期していたつもりだったのに。
「そんな…… そんなことって……」
「事実だ」
断言する折原先生の声は、この時俺の耳には酷く冷徹に響いた。
「あんた医者だろ! どうにかならないのかよ!!」
瞬時に激昂し、コーヒーの缶を投げ捨てると折原先生の白衣の襟元を掴みあげる。
「医者だったら、医者だったら何とかしてくれよっ!!」
だが先生は抵抗する素振りを見せず、されるがままになっていた。
「こんなの…… こんなのありなのかよ…… これじゃ…… あまりにも秋子さんが不幸過ぎるじゃないか……」
俺はそのまま先生から手を離し、うなだれる。全身の力が抜けるようだった。
『障害を持つ事は不幸では無く、不便なだけである』
ものの本で聞いた事がある言葉だ。確か身体に障害を持つ人が実際に書いた手記か何かだったと思う。
五体満足な俺にはそんな事を言う権利は無いのかもしれないが、恐らくそれは正しいのだろう。実際にその立場にいる人の言葉だけに、説得力がある。
恐らく、あの手記を書いた人も、悩み、苦しみ、長い時間を掛けて出した結論なのだろう。
だが、俺はとてもそこまで達観する事はできなかった。
ほんの数ヶ月前までは、秋子さんは何の不自由もなく暮らせる体だったのだ。
「医者だって万能じゃないんだ。 俺も…… 最近知ったんだけどな」
そう呟く折原先生の声が耳に届いた。
先ほどの言葉、先生は「この先も完治する見込みはほとんど無い」と言った。
恐らく普通の医師であれば、患者の親族に対してそんな言い方はしないだろう、「完治は難しい」であるとか「厳しい状況である」といった言い回しを使うに違いない。
確かに医師としてはそれが正しい。患者や親族に無用の動揺をさせない為には、そういう言い方が相応しいのかもしれない。
だが、折原先生はそうは言わなかった。
それが逆に俺たちのことを本当に考えてくれているが故の言葉だと感じた。
義務感や同情からの言葉では無く、真に俺や秋子さんや名雪のことを気遣ってくれているのだと、感じた。
だから、あえて厳しい現実を隠さずに伝えたのだろう。
医師としてではなく、一人の人間として。
「済みませんでした」
「いいさ、気にするな」
折原先生は、特に気にした風も無くそう言って笑った。
「このこと、秋子さんは知っているんですか?」
「秋子さん自身には伝えてある。本人の希望だったからな」
「そう、ですか……」
「完全に元通りとはいかなくても、リハビリを続ける事で通常の生活には支障の無いくらいには回復するだろう」
秋子さんにはやはり知らされていたのだ、そして秋子さんはその事を知りつつリハビリを続けている。
「お前に話したのは俺の独断だ。いいか、これからはお前が名雪ちゃんと秋子さんを支えてやるんだ」
「俺が……」
「そうだ。お前が名雪ちゃん支えてくれたって事は秋子さんに聞いたよ。唯一の肉親を失うかも知れないという恐怖から救い出してやったって事をね。今度は秋子さんもお前が支えてあげなくちゃいけない」
「……」
「逆にお前が支えられる事もあるだろうさ。 互いに支え合って生きていく、家族ってそういうもんだ」
「……はい」
「この事は名雪ちゃんには伝えないでおく、どうするかはお前と秋子さんが決めることだ」
「わかりました」
名雪には、果たして伝えるべきなのだろうか。
俺の脳裏に、あの秋子さんが事故で入院した当初の、抜け殻のようになった名雪が浮かぶ。
嫌だ、もうあんな名雪を見るのは嫌だ。
しかし……
「祐一、一人ですぐに結論を出そうとはしないほうがいい。秋子さんとよく話してみるんだ」
そんな俺の内心を見透かしたように、折原先生はそう忠告してくれた。
俺はその忠告に従い、無限ループに陥りかけていた思考を無理やり振り払う。
「そうですね、そうします。ありがとうございました」
「礼を言われるようなことは何も無いさ、これが医者の仕事だと思っているよ。 万人を助けられないのであれば、少なくとも救える者だけは救いたい。 それにな……」
そこで一旦言葉を切り、噛み締めるようにこう続けた。
「体を病んで、救われないのは本人だけじゃないんだ、その家族だって身を引き裂かれるような痛みを味わう事になる。俺はもう、誰にもそんな想いはして欲しくないんだ」
その時の折原先生は、俺じゃない誰かに話し掛けているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
そして、少し照れたように付け加える。
「まぁ、まだ正式な医者じゃないんだけどな」
「秋子さんじゃないですけど、俺も折原先生ならいい医者になると思いますよ」
「おっ! 嬉しい事言ってくれるじゃないか」
ややオーバーアクションでそう言って、俺の肩をバシバシと叩く。
ちょっと痛い。
「でもな、その言葉は俺じゃなくてチーフに言ってやってくれよ」
「ははは」
俺の気をほぐそうとしてくれているのか、それとも元からの性格なのか。先生はそう言って天を仰ぐような仕草をして嘆いた。
やっぱりこの人は大人だ。
そう思う。
そしてふと、疑問に思った事を何気なく聞いてみた。
「折原先生は何がきっかけで医者を志したんですか?」
俺も深い意味があって聞いたわけでは無かった。ただ何となく疑問に思ったことをそのまま口に出しただけだ。
だがその言葉を聞いた彼は、一瞬動きを止めた。
それはほんの一瞬だった。
いつもの気さくさ、親しみ易さが霧散し、変わって全てを拒絶するような、それでいて寂しさに震える子供のような雰囲気が顔を覗かせたように感じた。
だが、すぐにいつも通りであろう笑顔を浮かべる。
「さぁねぇ、昔の事は忘れたよ。まぁ医者だったら食いっぱぐれる事も無いしな」
そう言っておどける折原先生は、いつもの先生だった。
俺の見間違いだったのだろうか?
「さ、そろそろ用意もできた頃だろう、戻るか。俺もあんまサボってるとチーフにお目玉食らうしな」
「はは、そうですね」
折原先生の様子は、もういつも通りだった。
俺は多少気にはなったが、詮索しない事にして病室へと戻ったのだった。
「それでは、本当にお世話になりました」
「先ほどもお話しました通り、月水金はリハビリの為にこの病院に通っていただきます」
「はい」
「大変ですが、頑張りましょう!」
「ええ、よろしくお願い致します」
「名雪ちゃんも祐一も、秋子さんの手助けしてやるんだよ?」
「はい、本当にありがとうございました」
「うん、じゃあまたな」
病院で呼んでくれたタクシーに乗り込み、俺は最後まで見送ってくれた折原先生に無言で頭を下げた。
先生も、そんな俺に笑顔を向けてくれる。
さっきのこと、よろしく頼むぞ。
そう目が語っていた。
俺は無言でうなずいてみせる。
タクシーが走り出し、見えなくなるまで先生は見送ってくれていた。
「ねえお母さん、ちょっとここで待っていてくれないかな」
名雪が突然そんな事を言い始めたのは、家に着き、玄関を開けようとした時だった。
「ね、いいでしょ、わたしがいいって言ったら入ってきてね」
「分かったわ」
「じゃあ祐一も一緒に来て」
「ああ」
名雪が何をしようとしているのか、大体分かる気がした。
最近はどうも名雪の考えそうな事が分かるようになってきた。まぁ名雪に言わせれば、俺の考えも大体分かるそうだが。
「あのね、祐一……」
「ああ、分かってる。いかにもお前が考えそうな事だよ」
「うふふ」
秋子さんを外に待たせて、二人で家の中に入る。
玄関で靴を脱ぎ、二人で並んで玄関に立った。
「お母さーん! もういいよー!」
ガチャ
「どうしたの? 一体……」
「お母さん、お帰り!」
「お帰りなさい! 秋子さん」
入ってきた秋子さんに二人でそう声を掛ける。
元気一杯の笑顔で。
秋子さんは最初、あっけに取られたような顔をしていた。
普段ポーカーフェイスの秋子さんがこんな顔をするのを見るのはなかなか貴重な経験だ。
だが、口元を押さえて涙をこらえる秋子さんを見るのは、もっと貴重な経験だった。
「……ただいま……ただいま、名雪、祐一さん……」
「お母さん…… お帰りなさいっ……」
互いに涙を流して抱き合う名雪と秋子さん。
俺も目頭が熱くなるのを必死に堪えてそんな二人を見ていた。
久しぶりの。
本当に久しぶりの三人での夕食。
名雪が腕を振るった料理は、普段よりもとてもおいしかった。
きっとそれは笑顔で食べる食事だから。
いつも通りの三人で食べる食事だから。
「名雪も料理が上手になったわね」
「えへへ、そう?」
「ええ、これならいつお嫁さんに行っても大丈夫よ。 ね、祐一さん?」
「え?! え、ええ、まぁ」
なぜ俺に振る……
「そうかなぁ、えへへ」
「うふふふ」
「えへへへ」
「は、ははは……」
プルルルル
「あ、わたしが出るよ」
電話に出る名雪。
「はい水瀬です…… あっ!」
「? どうしたんでしょうね、名雪のやつ。固まってますけど」
「あらあら」
「ハ、ハイ! な、名雪デス。お久しぶりデス!」
「? どうしたんでしょうね、名雪のやつ。声が裏返ってますけど」
「あらあら」
「ハ、ハイ! ええ、おかげさまでなんともかんとも、どうにかこうにか」
「? どうしたんでしょうね、名雪のやつ。表現がヘンですけど」
「あらあら」
「え? ハ、ハイ! います! います! ハイ! 今代わります」
「? どうしたんでしょうね、名雪のやつ。妙に声でかいですけど」
「あらあら」
滑稽な対応をする名雪を端から眺めていた俺たちに、当の名雪がギクシャクとした動きで近寄ってくる。
あ、手と足が同時に出てる。
「お、お母さん、代わってほしいって」
「どちらから?」
「ゆ、祐一のお母さまから」
「げっ!!」
母さんは親父と一緒に今は外国に居るはずだ、ってことは国際電話か?
大方、秋子さんの容態を心配して電話をよこしたのだろう。
「はいはい」
秋子さんはそう言うと、杖を突きながら電話まで歩いていく。
「はい、秋子です……」
「うー、すっごく緊張したよ」
「別にお前が緊張する事もないだろ」
「だってー、祐一のお母さまなんだよ」
そう言いながら、真っ赤になる名雪。
な、なぜそこで赤くなるんだ?
「はいはい、今代わるわね。祐一さん、お母さんが代わってほしいそうよ」
「あ、はい」
「もしもし?」
『あ、祐一?』
ドクン!
久しぶりに聞く母さんの声。
その声を聞いたとたん、俺の心臓が大きく一つ跳ねた。
「あ……?」
『? どうしたの祐一』
「あ、いや、別に……」
どうしたと言うのだろう。
別に懐かしいってほど音信不通だった訳じゃないのに。
秋子さんが事故に遭った時だって、両親とも一度帰国しているのだから。
それなのに。
それなのにどうしてこんなに不安な気持ちになるのだろう。
『はっはーん、さてはしばらく会ってないから母恋しくなったね?』
「なっ! バ、バカ言ってんじゃねーよ」
『ふふふ、相変わらず口の悪い子だねぇ』
「はは、親の教育の賜物さ」
他愛ないいつもの軽口。
だが、俺の感じた言いようの無い不安な気持ちは依然続いていた。
何が不安なのか聞かれても答えられないような。
そもそもそれが「不安」という感情なのかすら分からないような。
そんな些細な違和感。
だが、そんな状況でも俺の口はまるで別の生き物のように言葉を紡ぎ、しばらくは互いの近況報告など何でもない会話が続いた。
『……』
ふと、電話の向こうの母さんが黙り込む。
軽快な会話の流れの中で、その沈黙は酷く不自然に感じられた。
「? どうしたんだよ、急に黙り込んで」
『ねえ祐一、一度こっちに……』
「えっ?」
『……』
またしても不自然な沈黙。
母さんは一体何を言いかけたのだろうか。
『……いや、何でも無いわ』
「何だよ、言いかけてやめるなんて気持ち悪いな」
『いいの、こっちのこと。それより祐一、名雪ちゃんとの仲はちょっとは進展したかい?』
「ぶっ! な、な、な……」
『あはははっ! やっぱりそうなんだね、前々からあんた達は怪しいと思ってたよ』
「ぐっ……」
くっ! この不良中年が。
いい年こいて色恋沙汰となると、とたんに生き生きしやがって。
母さんは、電話口でしばらく声をあげて笑っていたが、やがて少し真面目な声で話し始めた。
『祐一、名雪ちゃんと秋子おばさんをしっかり支えてやるんだよ』
「な、何だよ突然」
『いいかい、お前は男の子なんだから、好きな娘とその母親くらい支えてあげなくちゃ駄目なんだよ』
「……ああ、分かってる」
『うん、いい返事だ。お前もいつのまにかそんな年になったんだねぇ』
「母さん……」
母さんの口からこんな事を聞くのは初めてだった。
そして同時に。
先ほど感じた漠然とした不安が、再び鎌首をもたげた。
「あ、あのさ!」
『ん? どうしたの?』
「あ、いや……」
思わず声を出してしまったが、二の句が継げず、黙りこんでしまう。
『ふふふ、ヘンな子だねえ』
「あ、あのさ、今度一度帰って来いよ、秋子さんも退院したしさ」
『そうだねぇ、仕事の都合がつけば一度帰りたいんだけどね』
「ああ、帰って来いって」
『分かったよ、今度なんとか都合つけて父さんと一緒に帰るわ』
「ああ」
『それじゃあもう切るよ、国際電話って高いからね』
「あ、ああ」
『それじゃあね、祐一。体に気をつけなさいよ』
「母さんこそ。親父にもあんまり無理するなって言っておいてよ」
『はいはい、じゃあね』
「それじゃ」
ガチャ
ツー、ツー、ツー
俺は電話が切れた後も、しばらくそのままの姿勢で動かなかった。
何か。
何か大事なものを置き忘れてきたしまった時のような。
何か取り返しのつかないことをしてしまった後のような。
そんな違和感を抱きながら、俺は立ちつくしていた。
今にして思えば。
それはある種の予感だったのかもしれない。
だがこの時の俺は。
そんな事は知る由も無く。
漠然とした不安を抱えたまま。
ただ立ちつくす事しかできなかった……